発達にはいくつかの特徴があり、留意点があると藤森氏は言います。というのも、発達は一生を通して、連続的に進行する変化の過程として見たときに、その進む速さは一定ではなく個人差がありますが、発達は一定の規則・型に従って進んでいきます。発達の進むスピードの差が生まれる原因としては、遺伝的な個人差や性差、発達過程の環境などがあります。しかし、どんなに個人差があっても、「発達の順序性」という規則は不変で、発達は一定の決まった順序で進行していきます。
例えば、シャーレイの研究では、人間の乳児期の発達で順序性を考えると「胎児姿勢→あごを上げる→肩を上げる→支えて座れる→膝に座って物をつかめる→椅子に座る→一人で座る→支えてもらって立つ→家具につかまって立つ→ハイハイする→手を引かれて歩く→階段をハイハイで上がる→ひとりで立つ→ひとりで歩く」というように発達を順番通りに経過していくことになります。この発達の順序性が乱れたり、飛躍したりする場合には、発達上の何らかの問題や異常が考えられるのです。
発現の速度には個人差がありますので、おおむね何歳がどんな発達過程にあるかと定めることはあまり意味がなく、かえってその年齢における目標になってしまったり、「その基準よりも我が子が早い」というように受け止められたりして、誤った早期教育の原因にもなりかねないと藤森氏は言います。こういった意識は今の時代多いように思います。発達段階というものが明確になればなるほど、子ども自身をその発達段階に当てはめてしまうことは気を付けなければいけません。そして、そのことがかえって親にとってもプレッシャーになることもあり、「子どもそのものを見る」ということから離れてしまうことも起きてしまっているように思います。あくまで、個人差があり、一定の規則・型でしかないということをより強く意識する必要があります。
また、このほか、発達の特性を示すものとして「発達の方向性」という概念もあります。発達には一定の方向性があるということです。方向というのは、体でいえば、どのような宝庫いうに向かって各部が発達していくかということです。例えば、身体発達だと「頭部→尾部勾配」と「中心部→周辺部勾配」と呼ばれる方向性があります。どういったことかというと、「頭部→尾部勾配」とは、身体発達が頭のほうから、足に向かって進行するということを表しています。また、「中心部→周辺部勾配」とは、体の中心部にある体幹から、その周りにある末梢の方向へと進行することを表しています。このように原則的に、発達はある方向へ向かっていくということが発見されていると藤森氏は紹介しています。
このように発達の時期は個人差があるが、その発達のプロセスは一定の型があるということが分かっています。そのため、環境はその時期にある発達に合わせた環境を用意することが求められます。
2019年11月8日 5:00 PM |
カテゴリー:乳幼児教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
保育をしていく中で「発達」という言葉がよく出てきます。そして、その「発達」は意識しながら保育をしていくことが重要になってくると言われることが多々ありますが、その「発達」というのはそもそもどう考えていけばいいのでしょうか。
藤森氏は「保育の起源」の中で、「人間の発達は非常に複雑であり、その複雑さを人間の力だけで解明できるはずがない」と言っています。古い時代において、発達は遺伝的要因にその大部分を依存すると考えられていました。そして、遺伝的に潜在している可能性が時間の経過にしたがって次々に開花してくることを発達と呼んでいたと紹介しています。いわば、いくら教育したって、生まれつきなので仕方ないという考え方が大部分を占めていたのです。しかし、現在では、遺伝的要因と同等に環境的要因が重視されており、機能的発達以外にも人格の成熟や知性の発達といった観点を合わせ、発達は生涯にわたる問題と認識されています。
また、発達は必ずしも成人期に至るまで右肩上がりでなされるものではなく、成人期のまでの変化の中で、一時的な発達の停滞や表層的な逆行が見られることがあるとされています。また、逆に成人期以降の変化でも生物学的な加齢と並行して発達の下降や衰退が必ずしも起こるかというと断言できない部分があることが分かったのです。そのため、発達は従来の「上昇・下降」といった価値判断を含まないものになり、一生の間の変化として考えられるようになってきたのです。つまり、小さい子どもが、最初は未発達で、次第に発達していき、いろいろなことができるようになるという考え方そのものが変わってきたというのです。
発達の起きる要因が環境と遺伝によるという考えはとても重要な視点を与えることになるのですね。こういった考えは結果として、人間は一生の間にいろいろな部分がどのように変化しているのかという「生涯発達」という観点が必要になってくるのです。この生涯発達という観点からすると、それぞれの年齢における行動、行為はそれぞれの段階で必要なものであり、生涯にわたって影響を及ぼすものであるということが分かります。そのため、赤ちゃんの時から、その時期ごとに振り分けられ、その時期にあらわれる行為を十分におこなうことができるようにすることが発達を援助することになると藤森氏は言います。
この視点を考えていくと私は保育とは「子どもを見る」ということですが、その「見る」は「発達を見る」ということなのだろうと思います。そして、それは「一般的な発達」に子どもを当てはめることでもなく、その時期にやりたい環境をいかにつくることができるのかということが保育士の大きな専門性でもあるのだと思います。そして、それは「やらせる」ことでもなければ、「やらなければいけない」ものでもなく、発達に近いものは「やりたいもの」になるのだと思います。そして、そういった環境の下で子どもたちは発達にとっていかに重要かということがよくわかります。
2019年11月7日 5:00 PM |
カテゴリー:乳幼児教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
藤森氏は教育心理学、発達心理学には見直されるべき理由が3つあると言っています。
まず、見直される最大の理由は過去の教育心理学や発達心理学が、子どもをまともに人間として見ていなかったことであると言っています。これまでの紹介にもあったように、ピアジェの認知発達の新しい知見からも見えるように、現在様々な研究によって、新生児の持つ能力は非常に高いということが明らかになっています。
2つ目の理由は心理学の中に「実験的にわかること」への過信があったことだといいます。それはどういったことかというと、実験において被験者の子どもは「なんでこの人はそういうことを聞くのかな」と気をまわしてしまうために、変な答えになってしまうのです。また、このことは実験内容によっても起こることがあります。というのも、実験は子どもにとって遊びとなっていることが多く、実験者は自分と親しく遊んでくれる存在として捉えることが多いのです。かつての(数的にもごく限られた)実験では正確さにおいて十分ではないものでもあるというのです。
3つ目は、乳児は「心の理論」を獲得していないと決めつけ的に思われていたことです。自分の相手の立場に置き、どうなるかを想像できるという「心の理論」は4歳までは分からないと思われてきましたが、1歳半の子どもでも、それがわかっているということが明らかになってきています。新生児室にいる生まれたばかりの赤ちゃんは、他の赤ちゃんが泣いているとつられて泣くと言われていましたが、「ただつられているのではない」ということが分かってきたのです。実験で、自分の泣き声を録音したものを赤ちゃんに聞かせても全然反応しないのに、他の赤ちゃん、しかも同じ月齢の赤ちゃんの泣き声を聞くと(もらい泣きのように)一緒に泣きはじめることが分かったのです。自分の泣き声と他の赤ちゃんの泣き声をきちんと区別して、他の赤ちゃんの泣き声を聞いても、自分も悲しいくなるということ、つまり赤ちゃんも他者の心がわかっているということが明らかになったのです。
実際に赤ちゃんのクラスを見て、赤ちゃんを観察していると、上記に見える赤ちゃんの様子を見ることも多くあります。しかし、どこかでこれまでの赤ちゃん研究の内容を鵜呑みにして、先入観をもって子どもを見ていることも起きているのかもしれません。本来はこういった研究を鵜呑みにするのではなく、いかしてなければいけなく、参考にしなければいけません。そのため、私たち子どもを見る職業においては、研究を子どもたちに当てはめるのではなく、子どもたちの様子を研究結果に当てはめていかなければいけなく、やはり子どもを見る目線を養っていかなければいけないのだろうと思います。藤森氏はこの章の最後に「旧弊な発達理論を鵜呑みにするのではなく、新しい研究成果に常に留意しながら、保育とのかかわりを考えていきたいと思います」と締めくくっています。
2019年11月6日 5:00 PM |
カテゴリー:乳幼児教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
ピアジェは乳児が数の認識について、論理的思考ができるようにならないと考えており、数の概念は十分に獲得することはできないと考えていました。しかし、乳児研究の発展により、この理論も覆ることになります。乳児が数の概念について理解しているだけではなく、わずかながら計数能力も持っていることが分かってきたのです。そして、この数の能力もコアノレッジの一つとしています。
ちなみに前回の話の中でも出てきたコアノレッジ(中核知識)というのは、乳児が(物体や数、他者との関係などのように)人が生存するうえで重要で最も基礎的かつ中核的な部分を、生得的(生まれながら)に持っている、もしくは、必要最低限の経験で獲得できるように生まれてくるという考え方で、このような基本的なコアノレッジに、2000年代半ばからは、新たに社会集団いついての領域も含まれてきており、米国の認知心理学者 エリザベス・スペルキがコアノレッジ理論として記したものです。
たとえば、生後3か月の乳児は自分と同じ人種の顔を好んで見つめたり、5カ月児は自分の母語のアクセントで話していた人の顔を、別の言語や別のアクセントで話す人の顔よりも好んだりするなどの傾向があると分かってきました。そのほかにも、最近の研究では、食物を新しい領域に含めるべきか、などという議論もされており、その幅はますます広くなっていく領域であると予想されています。
前回にも登場した心理学者T・G・バウアーは著書「賢い赤ちゃん」の中で、赤ちゃんは論理的であり、仮説を立て、その仮説から予測を演繹(えんえき)すると言っています。こうした研究により、乳幼児の力が次々と示されてきたのです。
また、米国の児童心理学者アリソン・ゴプニックの「哲学する赤ちゃん」ではそうした赤ちゃんに関する様々な発見が紹介され、幼児が(かつては理解できないと考えられていた)因果関係を理解し、(関心を持ち)、仮説をたて、未来を予測できることも示されています。そのうえ、乳幼児は物理学的、心理学的、生物学的な面でも、因果関係の知識を持っていると考えられています。これについては「素朴理論」という言葉で説明されています。
素朴論とは子どもの持つ知識が、断片の寄せ集めではなく、理論と呼べるほどに体系化されている様子のことを指すそうです。つまり、学校教育で教わったことではなく、素朴にもともとの子どもが持っている能力をゆうしており、「哲学する赤ちゃん」には「子どもの脳は、意識には上ることのない因果マップ、世界の仕組みを性格に捉えた地図を描ける」と説明しています。
このようにピアジェのそれまで行っていた数々の理論は覆っていくものが今の研究ではたくさんあるようです。しかし、このいくつを私たちは知っているでしょうか。今の保育環境がどれほどに生かされているのでしょうか。こういった研究内容を含め、新しい世界に向かっていく子どもたちに「生きる力」を育んでいくにはこういった研究をどう捉え、今に生かしていくことができるかが重要になってくるのだと思います。これまでの内容は藤森平司氏の「保育の起源」での内容から紹介しましたが、藤森氏は子どもの能力を過小評価しがちだと言っています。しかし、これまでの内容を見ていても乳児の持っている能力というのは
とても有能なものを持っていることが分かります。そのうえで藤森氏はこういった心理学の新しい知見から、「子ども観」の見直しを余儀なくされると言っています。
2019年11月5日 5:00 PM |
カテゴリー:乳幼児教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
ピアジェは感覚と感覚との関係、感覚間協応について、新生児や生後間もない乳児は視聴覚統合や視覚と触覚の統合はありえないと示していました。しかし、最近の実験的研究の手法が発展していく中で、視覚と把握行動の協応ができること、つまりピアジェが示した感覚間協応ができないといったことが、実は新生児でも起きているということが分かってきました。それは前回紹介したバウアーたちの研究だけではなく、他にもあります。
米国の心理学者アンドリュー・メルツォフらは、視覚と聴覚の間にも出生直後から協応関係があることを示しました。それが新生児模倣という、新生児が他者の顔の動きを模倣する行動です。この新生児模倣は現在「心の理論」などの社会的認知能力の発達の基礎にあると主張され、一層注目されています。このように乳幼児の実験的研究が進む中、認知的能力も研究されるようになってきました。
認知能力の研究では、1歳にも満たない乳児が成人と類似した知識や概念があることが示され、乳児の有能さが強調されています。ピアッジェは「乳児は隠されて見えなくなってしまったものを探すことができるのか」という実験から「対象が目の前から消えてしまうと、乳児はその対象がもはや存在しないと考える=物体の永続性が理解できない」と考えましたが、新しい時代の研究者たちは、それに対して疑問を呈しました。そして、乳児の注視に着目した新しい実験方法により、生まれて間もない乳児が物体の永続性の概念を持つことを示しました。
米国の認知心理学者エリザベス・スペルキは乳児が物体の永続性の概念をコアノレッジ(中核知識)の一つとし、それを「連続性(物体は連続的な軌跡を描いて移動し、2つの物体が同じ場所には存在できないという考え)」「凝集性(物体には境界線があり、その物体の構成要素はまとまっていて離れないという考え)」「接触(物体が別の物体を動かす際には接触しなければ動かないという考え)」の3つと定義しました。
また、発達心理学者レニー・ベイラージョンは乳児の物体が物体を支えること(=支持)の理解についての〈箱を台から落とす〉実験から、生後3か月では分からなかったことが、6か月半では(落ちるという)結果が予測できるようになることを示し、乳児の物体と物体の支持関係や重力のような物理的な知識が、生後急速に発達し、ごく早い段階で大人並みの理解力を持つようになることを明らかにしました。
研究方法の発展に応じて、赤ちゃんがすでに理解する力が高い状態で生まれてきているということが分かってきました。そのため、こういった結果を受けて、これまで赤ちゃんは鞭で生まれてくるという白紙論が否定されてくる根拠になってきたというのは分かります。さらに実験方法の深まりは認知的な思考だけではなく、論理的思考までも備えているということが分かってきました。
2019年11月4日 5:00 PM |
カテゴリー:教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
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