本質を見る

ドラッカーは「企業=営利組織ではない」と言っています。そして、利潤動機には意味がないとすら言っています。そして、そこには「組織は社会に貢献する」という目的があるからで、利潤動機には、利益そのものの意義がまちがって神話化する危険があると言っています。もちろん、利益は企業にとっても、社会にとっても必要なものであるのですが、それは企業や企業活動にとって、目的ではなく条件であるのです。つまり、「利益」とは利益を得ることが目的となるのではなく、あくまでも社会に貢献するため、企業活動や企業の意志決定にとって、その妥当性の判定基準となるものが利益だというのです。そのため、利潤動機、利益を求めることが目的になってしまうのは、利益の本質に対する誤解と根深い敵意が生じると言います。そして、この誤解や敵意こそ、現在社会におけるもっとも危険な病原菌問いのです。最終的に利益と社会貢献は矛盾するとの通念さえ生まれてくる。しかし、本来企業は、高い利益を上げて、初めて社会貢献をすることができるのです。

 

このことを保育機関に当てはめるとどういったことになるのでしょうか。保育機関は基本的に補助金です。私立幼稚園などは親との直接契約です。もし、そういった機関が本来の教育という目的ではなく、利潤動機を持ち始めたらどうなるでしょうか。ある意味で企業よりももっと悲惨な社会への影響が出かねないですね。そのため、保育機関では理念をしっかりと共有する必要があるのかもしれません。また、利潤動機とは言わないまでも、本質となる目的を求めないで、惰性で保育をしているというのもあるかもしれません。つまり、毎年同じことを繰り返し保育をしているということも、ここに当てはまるのかもしれません。子どもたちは毎年違いますし、その発達も同じことはありえないのです。そういった意味では社会貢献の目的を持つということは企業においても、保育においても同じことが言えます。むしろ、保育のほうがより感じやすい環境であると言えます。

 

つぎに、ドラッカーは企業の目的に言及しています。そこには「企業は社会の機関であり、その目的は社会にある。」と言っています。そして、企業の定義は一つしかないと言い、それは「顧客を創造すること」と言っています。それはどういうことでしょうか。これも「企業は社会の機関」ということから入っていくと分かりやすいです。つまり、「企業とは何かを決めるのは顧客」ということです。いくら企業が求めても、顧客にニーズがなければいけないのです。そして、そこに価値を見出すのはあくまで顧客というのです。

 

保育においてはどうでしょうか。その「顧客」というのは子どもでしょうか。それとも保護者でしょうか。その主体はどこにあるのでしょうか。当然、それは子どもでなければいけません。その教育の対価を母親が払うということがあるのでしょう。つまり、保育機関において重要なのは、保護者受けということを目的にするよりも、「子どものため」のものではいけなく、その「子どものため」というものがどういったものなのか、そして、ドラッカーの言葉を借りるのであれば、それが「社会に貢献する」ものであるのかということを考えていかなければいけないのです。

 

また、ドラッカーは「企業の目的は顧客の創造である。」と言っていますが、企業は2つの基本的な機能を持つと言っています。そして、その機能だけが成果をもたらすと言っています。

マネジメントの役割

保育をしている中でも、「組織」というものを意識することがあります。管理者は現場をマネジメントしなければいけないですし、現場は子どもや保護者に対してニーズを読み取り、保育をする必要があります。また、最近では新しく入ってきた新人保育士が辞めていくという問題やそもそも保育士が不足しているといった社会的な問題も現在では多く起きています。そして、その大きな理由は保育者同士の人間関係が大きく影響しています。新人保育士が職場を選ぶときに注目することも「職場の人間関係」が選ぶ条件として大きな視点でもあると言われています。理想の組織というのを一つに定義するのは非常に難しいことではあるのですが、ひとつの理念に向かって、共有化され、目線がまとまっている会社や組織はやはり強いのではないかと思います。そして、そのためには管理者によるマネジメントというのは重要な要素となっているのも事実です。組織をまとめ、ひとつの方向性に向かせるためにマネジメントととはどういった役割があるのでしょうか。

 

これにおいてP.F.ドラッカーは「マネジメント」の中で、そもそも組織とはということを言っています。人は社会を作ることで生存してきたということをこれまでのブログでも書いてきましたが、人が組織を作るのは組織を作ることそのものが目的ではなく、それ自身は手段であり、それぞれが自らの機能を果たすことによって、社会やコミュニティ、個人のニーズを満たすためにあるとドラッカーは言っています。だからこそ、その「組織は何をすべきで、機能は何か」ということが重要なのです。そして、それらの中核となるのがマネジメントなのです。そして、マネジメントには自らの組織を社会に貢献させる三つの役割があると言います。

 

その一つ目が「自らの組織に特有の使命を果たす。」ということであり、組織にはそれぞれ特有の使命や目的を果たすためにあるというのです。そして、二つ目は「仕事を通じて働く人たちを生かす。」ということで、働く一人ひとりにとって、生計の糧や、社会的な地位、コミュニティとの絆を手にし、自己実現を図る手段としてあるということです。働く人、一人一人が社会に貢献しているという意識を持つようにするということです。三つ目は「自らが社会に与える影響を処理するとともに、社会の問題について貢献する」ということでした。

 

特に教育機関においては、こういった社会における使命ということを感じやすい組織であるように思います。しかし、よく言われるように「ただ子どもと遊んでいるだけ」という印象や「子どもにいろいろとさせる場所」といったお稽古のような意味合いを持たされているようにも思います。どれだけ、この乳幼児教育が社会にとって意味のあることなのかということを考えることやその方向性をしっかりと見つめることもマネジメントをする上でしっかりと捉えていかなければいけないところなのでしょう。そして、これらの3つの役割は非常に「理念」を考えるうえでも重要な視点でもあるように思います。特に教育はどこか社会と切り離されているようにも感じることがあるのですが、これからの社会に生かされる人材を作っていかなければいけない教育現場は本来はより社会への貢献度や影響力というものはかなり高いようにも思えます。そういった中で、マネジメントというのは教育現場においても無縁な話ではないですね。

発達から保育

環境的要因と遺伝的要因は現在、その発達要因は総合的なものだという結果に落ち着いています。そして、発達が表出するのは一定の閾値を超えるということで起きるということが言われています。そのため、何歳ではこんな行為は行われないと決めつけるのはおかしいということになりまし、発達過程がたとえ「おおむね」と付記されていても年齢でわけられるのはおかしいのではないかと藤森氏は言います。

 

では、子どもには何をしてあげればよいのでしょうか。まず、子どもの発達を見守る側は発達の特性を知る必要があると言います。というのも、子どもが発達するためには子どもからの欲求に適切にこたえることで達成できることが多いのですが、子ども特に赤ちゃんは自らの欲求を言葉で表すことはできないのです。子どもの発達は、均等に起きるものではなく、発達が起きる部位によって伸びる時期と、しばらく止まっている時期とが繰り返されているのです。これを「発達の異速性」と言われているものです。身体発達の場合、主に筋肉や脂肪などの組織細胞が充実して発達する時期を「充実期」といい、骨が伸びる時期を「伸長期」といいますが、それらは青年期になるまで交互に起きます。筋肉と脂肪の充実によって体重が増加し、骨の伸長によって身長が伸びるという発達が観察されています。

 

このような発達の知識を知らないと、発達過程におけるふさわしい育ちを間違って認識してしまい、無理な訓練をして正常な発達を妨げてしまったり、性成熟に支障をきたしたりしてしまいます。また、連続して起きる発達は個人差によってその時期やスピードが違うだけでなく、それぞれの発達への準備の過程があることも忘れてはいけないのです。そして、その準備における環境が、次の発達に影響していくのです。そのため、現在では発達段階という捉えかたをしなくなっています。というのも、発達は階段状に右肩上がりでなされるものではないからです。

 

保育者はこういった発達の特性を見通して、環境を作る必要があるのですね。ニュージーランドでは「テファリキ」という乳幼児カリキュラムがあります。そこでは、カリキュラムは、子どもの包括的な発達を反映するべきであるとし、その具体的な内容として、まず、「エンパワーメント(権限)」をあげています。「子ども自ら学び、成長するための力と、権限を与える」というのです。次に「発達の全体性」をあげています。例えば、ひとつのことに熱中していたとしても、そこから世界を広げ、必要なことを身につけていっていると考えるのです。ここでは発達は階段状に上っていくものでも、らせん状に上っていくものでもなく、放射状に広がっていくものと捉えられています。

 

そして、その発達に影響されるものとして「家族と地域社会性」があげられています。家族、そして、地域社会などのより広い社会を、ともに保育するには不可欠な要素といえるのです。つまり、身の回りにある事物が、子どもに影響を及ぼす環境となるのです。しかし、そのためには子どもとその事物との「関係性」が重要になります。子どもは、人、場所、モノとの応答性、かつ対等な関係を通じて学んでいくからです。

 

このようにテファリキは考えられているのですが、発達に関しては様々な人によって、多様な提案が現在されており、脳科学によって証明されているものから、否定されているもの疑問視されているもの様々あります。そのため、最新のそれぞれの学術分野の考え方やその地域による特性を考慮して、発達にあった保育カリキュラムを日本でも作る必要があると藤森氏は言っています。

環境閾値説

発達は遺伝的要因の成熟と環境的要因による学習との相互作用によって起きる「環境閾値説(かんきょういきちせつ)」という相互作用説をジェンセンは提唱しました。遺伝的可能性が各特性で顕在化するにあたって、それに必要な環境条件の質や量は異なり、各特性はそれぞれに固有の「閾値」を持っているという説です。「閾値」というのは一定水準のことを表します。例えば、身長や体重は劣悪な環境でない限りはその可能性を実現していきますが、知能テストの成績ではやや環境から受ける影響が大きくなるというのです。

 

学校での学業成績では、遺伝と環境の影響が拮抗するようになってきて、環境の重要度が増していきます。絶対音感や外国語の発音など特殊な才能は、それを習得するのに最適な寛容条件を必要とする上に、一定の専門的な訓練を受けなければ、その才能を開花させることができないとされています。藤森氏は、このように、ある力について、生まれつきか/環境によって発達するものか、と考えた場合「人と関わる力」は人類が遺伝的に持っているもので、それが環境によって表出するのだと考えていると言います。遺伝的にもっている才能は環境というトリガーによって開花されていくというのです。

 

このことを考えていくと人が社会を構成し、遺伝子をつないでいきました。そのため、赤ちゃんは当然、社会を構成する才能を遺伝子にもっており、社会を構成するような発達をしていくはずなのです。そして、社会を構成する人材として生きていくために、様々な社会を体験し、社会とのかかわりを始めていくことでその才能を開花させていくはずなのです。それは赤ちゃんから始まっているのです。赤ちゃんを見ていると寝ながら隣でよちよち歩いている赤ちゃんを目で追います。そして、隣の赤ちゃんの体を触ろうとします。つまり、もうこの頃から社会を見ようとしているのです。そのため、こういった隣にいる別の赤ちゃんの存在が重要になってくるのです。しかし、現在の社会では母子だけの関係になりがちであり、その場合、こういった行為が現れるのはもう少し先になると言えるのです。

 

そして、こういった関わりの経験が、他の子を真似たり、他の子と取り合いをすることで、他の子との直接的な身体的触れ合いが始まります。その触れ合いが重なり、他の子との関って遊ぶようになってくるのです。このように関わる力も繰り返し連続して起きていくと言います。このとき、条件が非常に悪くて不適切な環境である場合は、その発達は疎外されます。しかし、その特性が顕在化するのに必要な一定基準(閾値)を超えると、発達は正常な範囲内で進行することになると言います。つまり、人と関わって生きていくことは人間の遺伝子に組み込まれているにしても、人と関わる環境がなければその特性は表れてこないのです。そして、次第に外に出るようになり、地域の人と接する機会が増え、公園で遊ぶ他の子を見ることが多くなると、関わる力が表れてくるのです。こういったように遺伝的要因と環境的要因は相互に影響を与え合って発達を支えるので、どちらかが一方的に有意というわけではなく、その程度に大小があるだけだと考えられているのです。

 

この環境閾値説というのはとても面白いですね。今自園に来ている子どもたちを見ていても、発達が遅れているように見えても、その遅れを取り戻していく子どもは多いように思います。そして、そもそも「遅れている」と思う感覚すら、本当はおかしいのかもしれません。年齢による発達への刷り込みが今の子どもの環境において、かなり強く根付いているようにすら思います。発達のことを知ることは重要ですが、その「発達の特性」を知ることはもっと重要なことなのだと思います。

発達の連続性

藤森氏は「遺伝子を受け継いだ赤ちゃんが持っている能力は、きっと将来生きていくうえで必要な能力であるような気がします。もし必要でない能力ならば、それは受け継がれたりせず、消えていっているでしょう。人類がある方向に向かって成長していくとき、それぞれの時期での発達は、その時期にだけ必要なのではなく、その後の生存に備えての発達であるはずです。」言っています。ある突然ものがつかめるようになるのではなく、それまでにものをつかむための様ざまな芽生えが見られるというのです。そして、それを「発達の連続性」と言います。

 

発達の連続性はある方向に向かって、絶えることなく生起する連続的な変化のことであり、表面的には発達が止まっているように見えたとしても、また、突然その発達が現れたとしても、体や精神はいつでも変化し続けているのです。そのため、その時期における行為を保障していくことが大切になるのです。つまり「今をより善く生きる」ことが「望ましい未来を培う力となる」ということなのです。このように考えていくと子どもたちが毎日過ごしている様子はすべて意味があるということですね。大人から見て意味のないようなことをしていたとしていたとしても、それは将来の発達にとって必要なことをしているに違いないのです。不用意に静止したり、怒ったり、イライラしたりする前に、少しそんなことを考えてみるといいかもしれないと藤森氏は言います。

 

この順序性、方向性、連続性を考えると、例えば2歳児に対して「子ども同士が関わり合って遊ぶ姿は見られない」という観察から「2歳児までは子ども同士の関わりは必要ない」という考えが導きだすのはおかしいことになるというのです。子ども同士が関わって遊んでいるかいないかという問題は、2歳児では見られず3歳児になると見られるというように、子どもの月齢によって生起することではないのです。また、その時に「関わって遊んでいなかった」ということが、「集団はいらない」ということにはならないはずなのです。

 

つい保育をしていく中で、子どもたちの発達を理解しようとする上で「○○歳児だから~~」というような見方をしてしまうことがあります。その先入観自体が目の前の子どもたちの姿や発達成長を見失わせているのかもしれません。今の発達を見て当てはめていくよりも、先の発達を参考にし、環境を作っていく意識を持つことが重要になってきます。常に子どもたちは新しい変化が起きていく中で、その環境を作っていくためには目の前の子どもたちをよく見ていかなければいけません。こういった発達の連続性はあくまで目安であり、その通りではないということは知っておかなければいけないことです。

 

また、発達は遺伝的要因による成熟と環境的要因による学習との相互作用によって起きるということも藤森氏は言っています。これまでも遺伝か環境かということは言われていましたが、それは発達にとってはどういったことが言えるのでしょうか。