多くの企業の中で、今新入社員との関わり方は大きく変わってきているそうです。保育の世界においても、新任の保育士が多く初年度にやめてしまうということが大きく問題になっています。武神健之氏の著書の中で紹介されている50~60代の聞き取りでは「昔は新入社員にガツンと言っても翌日会社を休むことはなかったが、今はすぐ来なくなる」ということが紹介されています。そして、その理由にはいくつかの問題があります。その一つ目が「社会の変化とそれに伴う価値観の変化」です。そして、そのなかには子ども時代の社会の変化があるのではないかと指摘しています。
今、新入社員と紹介されている世代は20~30代前半の世代ですが、その世代は一人っ子が多いということの影響はやはりあるのではないかと言います。きょうだい同士でもまれて育ってきたのと、一人っ子で親からも祖父母からもかわいがられ、けなされることなく育ったのとでは、やはりストレスに対する閾値がだいぶ違うのは間違いないと言っています。そのうえ、今の子どもたちは放課後に近所の子どもたちと遊ぶという場面が少なくなっているのも、打たれ強い人が少ないということに関係しているのです。つまり「争いごとや喧嘩になれていない」「コミュニケーションがあまり上手でなく、意見が通らなかった時の対処法がわからない」といった傾向は、やはり今の40~50代に比べて、20~30代に顕著になっていると指摘しています。
最近では一人っ子の子どもたちが多くなっているのは保育の仕事をしていると非常に身近に感じる問題ではありますし、先日園見学に来られた保護者と話をしていても、最近では同じ年の子どもと遊ぶことは多いですが、様々な世代の子どもたちと遊ぶというのは少なくなっていると思います。ということを言っていました。こういった乳幼児からの子ども同士の関わりは社会に出た時に非常に大きなハンディキャップを負いかねないというのは私も感じていました。実際、産業カウンセラーとして武神氏が感じている内容が保育においても、直結している話であるということはよく考えなければいけない内容であるということを感じます。
こういった社会の価値観の変化において、「偏差値教育」というのもあげています。産業医をやっている武神氏が新入社員に「なぜ、この会社に入ったのか」と聞いたところ「友達がみんなこれくらいのレベルの会社を目指すから」と返答が返ってきたそうです。それは今の偏差値教育の中で「これくらいのレベルならこのあたり」「周りが行くなら自分も」といった外的価値観によって自己判断が行われることであって、それをよりどころにしていては会社では長続きしないと言います。
今の人の特徴として「他と自分を比べる」という人は確かに多いように思います。その裏側には「自分はこれができる」といった自己肯定感よりも「他の人はこのくらいできるから」と否定的に自分の能力を見てしまいます。それは人と比べることが偏差値教育のなかで常に比べられているような形になっているからなのかもしれません。
他にも単身世帯の増加や朝の挨拶と飲みニケーションなど、上司との関係性の中で、世代間の摩擦やコミュニケーションの希薄化が社会の変化とともに価値観が変わってきているということが上司との関係においても影響が出ているのではないかと話しています。社会に出た時に起きる問題に乳幼児の環境は大きく影響があるということがいえるのですね。
また、最近では「○○ハラスメント」という言葉がいたるところで聞きます。なぜ、「ハラスメント」がこれまで以上にニュースにでるようになってきたのでしょうか。
2019年12月3日 5:00 PM |
カテゴリー:乳幼児教育, 社会の変化 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
2019年11月25日の日本経済新聞に「人間関係築く教育を」という記事が書かれていました。掲載したのは古賀正義中央大学教授であり、「将来の進路を模索し、多様な人間関係を築く場であった高校がその機能を失い、社会を支える「普通の市民」の育成が困難になっている」と指摘していました。
ではいったいどういうことが今の日本の高校で起きているのでしょうか。現在、日本の高校において大学進学率は60%に迫る勢いであり、人材養成は高学歴化しています。それ自体は悪いことではないのですが、その反面、高卒者の受け入れが減り、非正規雇用が拡大しています。大学を出たからと言って、正職員になる時代ではなくなってきているのです。これまでは進学と人材の高度化は同義語であり、そのために大学に行くことが重要だったのですが、現在では進路が決定できないという理由での進学が増えてきているのです。そのため、社会にでられないための教育機関の延長、「教育モラトリアム」という問題がうまれてきているようです。
また、最近において問題になっているのが、中退者の理由です。東京都内の都立高校中退者を対象に行ったアンケート調査(2013)でもっとも多い退学の理由は、教師への反発や問題行動ではなく「遅刻や欠席などが多く進級できそうになかった」ことが一番多く「友達とうまく関われなかった」「精神的に不安定だった」という理由です。多くは学則や学業勉学ではない理由で退学していくのです。しかも、中退者の2割は誰にも相談することなく退学を決めていたそうです。相談する相手がいても、それは教師や仲間ではなく、母親がほとんどでした。そのため、十分なケアができないまま、多くの生徒が1年生の初めに高校を去っていくという現状が今あるそうです。そして、こういったことは低ランクの高校だけではなく、どの高校でも、常にいじめや日々の中で起きか分からない教室から排除される不安と常に戦っているのです。そして、細やかに気を使い、場の空気に合わせて、いつも話せる安心な仲間を持つことが学校生活において非常に重要になってくるのです。そして、こういった対人関係はその後の人生にも強い影響を与えていくということが分かっているそうです。というのも、内閣府の2016年の若者の居場所調査において、20代後半になっても4割ほどの若者が同居家族以外では、高校・大学時代の友人か中学時代の地元の友だちとしか、日々語り合ったりメールのやりとりしていないということが分かったそうです。
つまり、職場や地域における日常の人付き合いは広がりを見せず、極めて狭い範囲の人間関係にある若者が多いようなのです。そして、限定された人間関係しか持たない若者ほど、他者に対する評価が厳しくなるそうです。そのため、閉鎖的に人間関係は閉塞的な対人ネットワークにますます期待し、そして失望するという悪循環を生むことがわかりました。古賀氏はこういった人間関係を構築する高校という場にこれまでの構想や選抜の論理から離れ社会参加のための窓口を構築し、自立を援助できる人間関係を形成しやすい環境を取り戻すことが必要だと言っています。
果たして、このことにおいて高校からこういった人間関係を形成する環境というものを用意していくべきなのでしょうか。本来こういった人間関係を作る環境というのはどの時期から作るべきなのでしょうか。こういった問題は何も高校で起きているだけではありません。小学校では「小1プロブレム」中学校では「中一ショック」と、どの時期においても結局は人間関係の形成という部分に今の子どもたちは問題を抱えているようです。そう考えていくと、社会に出る直前にその対策を行っていても、どれほどの効果があるのかわかりません。人のコミュニケーションというのは生まれたときから始まっているのです。ということは、そのころからしっかりと社会性を形成できる環境が重要なのは言うまでもないように思います。そして、こういった能力が土台になければ、学業勉学にも結局はつながらないのだと思います。改めて、今の日本の教育現場を見て起きている問題はその時期だけではなく、継続して連携していく必要が分かります。そして、そもそもの教育とはなんなのかそれを問われている時代に来ているように思うのです。
2019年12月2日 5:00 PM |
カテゴリー:教育, 社会 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
保育の仕事をしていると、様々な人と関わる必要が出てきます。それは先輩後輩、同僚、保護者、もちろん、子どもも例外ではありません。ちょっとした世代の違いだけでも関わり方が違っていたります。最近ではメンタルヘルスが注目され、労働環境にあって、ストレスがかかる中で、うつ病や自殺者といった社会問題に対応することが言われています。
では、こういったメンタルヘルスが必要な人が多くいる組織ではどういったことが問題になっているのでしょうか。なぜ、ストレスに対してメンタルヘルス不調になる人が多くなってきているのでしょうか。それは環境なのか、人材のほうに問題があるのでしょうか。このことに対して、一般社団法人 日本ストレスチェック協会 代表理事で医師・医学博士でもある、武神健之さんは産業医として働いてきた中で感じることがあったそうです。様々な環境の中で、同じような労働環境にあってもメンタルヘルス不調になる人もいれば、そうならない人がいます。一般的にはうつ病などメンタルヘルス不調の人ばかりが注目されますが、多くの場合、同じ環境にいても8~9割の型は元気で健康なのです。そこで武神氏は様々な環境の中でメンタルヘルス不調にならない人たち、つまり元気な人たちに共通することはどこにあるのかに注目します。
ここで初めに理解しておかなければいけないのは、メンタルヘルス不調というのは「病気」であるということです。つまり、100人いればそのうち何人かが、高血圧や高脂血症や糖尿病の人がいるのがふつうであるように、メンタルヘルス不調も病気なので、いくらケアをしていても一定の割合でみられるのは当然だというのです。そのため、メンタルヘルス不調者ゼロを目指す必要はないのです。
しかし、もし1つの部署で年に2人以上メンタルヘルス不調者が出たとすると、そういう部署には共通点があるそうです。その共通点とは①部門の業務が組織全体の仕事の流れの中で、何らかのひずみになっている。もしくは大きな負荷がかかっているということ。②その部署にメンタルヘルスに理解のない、あるいはコミュニケーションに難のある上司がいるということのどちらかに共通点がたいていあるそうです。
そのため、いいチームは「みる・きく・はなす」技術を自然に使っているそうです。つまり、コミュニケーションを取りやすく、風通しが良い組織関係があることはメンタルヘルスが不調にならないことにつながるのですね。そして、そういった組織ではマネジメントをするリーダーは「みる・きく・はなす」のうち何か1つはできていて、そのおかげでコミュニケーションが円滑に行われ、上司部下の関係やチームメンバー間の関係がうまくいっているという傾向があると武神氏は言います。
2019年12月1日 5:00 PM |
カテゴリー:社会 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
トップマネジメントには多元的な役割があるとドラッカーは言っています。これからマネジメントをしていくにあたって、その役割を意識するというのは大きな影響を与えそうです。そして、その役割とは6つに分けられます。
1つ目は事業の目的を考える役割。「我々の事業は何か。何であるべきか」といってことを考えることです。2つ目に基準を設定する役割。それは組織全体の規範を定める役割であって、目的と実績との違いに取り組まなければいけないのです。その主たる活動分野において、ビジョンと価値基準を設定しなければならない。3つ目は組織を作り上げ、それを維持する役割。明日のための人材。特に明日のトップマネジメントを育成し、組織の精神を作り上げなければいけません。そして、トップマネジメントの行動、価値観、信条は、組織にとっての基準となり、組織全体の精神を決めます。それに加えて、組織構造を設計しなければならない。4つ目はトップの座にある者だけの仕事として渉外の役割がある。様々な機関とのやり取りにおいて、それらの関係から様々な姿勢についての決定や行動の影響を受ける。5つ目の役割は行事や夕食会への出席など数限りない儀礼的な役割。こういった付き合いは逃れることができない時間のかかる仕事である。6つ目は重大な危機に際しては、自ら出動するという役割。著しく悪化した問題に取り組むという役割です。有事には最も経験があり、最も賢明で、もっとも傑出したものが出動しなければいけない。法的な責任もあり、放棄することのできない仕事である。
6つの役割を見ていくとそれは決して企業だけにいえることではなく、非営利の組織においても例外ではないように思います。どのような組織においてもマネジメントをするということは6つの役割が同じように求められます。
ドラッカーはあらゆる組織にとって、トップマネジメントの機能は不可欠であると言っています。もちろんトップマネジメントが行う具体的な機能は個々の組織によって特有ではあります。問題は「トップマネジメントは何かではなく、組織の成功と存続に致命的に重要な意味を持ち、かつトップマネジメントだけが行いうる仕事は何かである」とドラッカーは言います。
マネジメントする側に立った時に、では、自分の役割は何なのだろうかと悩んだ時期がありました。現場に入るわけではない、しかし、現場に対してのアプローチはしていかなければいけない。自分自身現場にいた経験もあるので、どういった話を聞きたくて、どういわれたら嫌なのかということはわかってはいたつもりなのですが、なかなかそれがうまくいかない時がありました。しかし、信念や理念をもったことや、自分から試行錯誤して行動していくことで見えてきたこともあり、なにより、自己評価をし続けることが一番大切であったことのように思います。そのうえで、「トップマネジメントだけが行いうる仕事は何か」と問い続けることは重要になってきます。そして、理念や信念は変わらなくとも、時代よみ、社会を知るためには柔軟でなければいけません。そこを見通すことの必要性、物事をマクロで見ながら、その反面、大局も見なければいけないのを感じます。ドラッカーはトップマネジメントの役割が、課題としては常に存在していながら仕事としては常に存在しているわけではないという事実と、トップマネジメントの役割が多様な能力と性格を要求しているという事実がトップマネジメントにはあると言っています。確かにこういったことを考えていくとなるほどなと考えさせられることが多くあります。
2019年11月30日 5:00 PM |
カテゴリー:社会の変化 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
自分自身が園という組織を運営していく中で、職員の先生と話していると、様々なことが見えてきます。その中で、理念の共有ができていないといくら話をしていても、こちらばかりが熱くなって話が響いてないように見えることがあります。組織における理念や目的意識は非常に重要なものであるというのはとても感じます。ドラッカーにおいても、目標管理こそコミュニケーションの前提となると言っています。
この目標管理において、部下は上司に向かい「企業もしくは自らの部門に対して、いかなる貢献を行うべきであると考えている」を明らかにしなければいけないと言っています。しかし、その部下の考えが、上司の期待通りであることはまれであると言っています。もちろん、上司と部下の知覚が違っていたとしても、それぞれにとっては、それが現実なのです。実はこうして同じ事実を違ったように見えていることをお互いに知ること自体がコミュニケーションであるとドラッカーは言います。コミュニケーションの受け手たる部下は、目標管理によって、他の方法ではできない経験を持つ。この経験から上司を理解するのです。意思決定というものの実体、優先順位の問題、なしたいこととなすべきこととの間の選択、そして、何よりも意思決定の責任など、上司の抱える問題に接することができるのです。それでも、部下は問題を上司と同じように見ないかもしれない。事実、ほとんどの場合同じようには意味ない。しかし、上司の立場の複雑さは理解する。そして、その複雑さこそマネージャーの立場に固有のものであり、なにも上司が好き好んで創り出しているものではないことを理解する。
部下の問題と上司の抱える問題はその性質や役割が違うので、当然違ってくるでしょうね。しかし、その問題から見えてくる上司側の景色というものがあります。受け止め方も違います。こういったことを受け手となる部下に伝わるような言い方を考えなければいけないでしょう。そして、こういったやり取りを通じて、理念と現場の実践とがつながり、今後の活動がより、理念とリンクしたものになるのではないかと思います。
ドラッカーは「コミュニケーションは組織において、単なる手段ではない。それは組織のあり方である」であると言っています。そして、そこには経験の共有が不可欠であるとも言っています。単にコミュニケーションをとればいいということではなく、それによって伝えられるものがあり、今後の活動に意味のあると思えるものを伝えなければいけない。それが結果として組織のためになるのですね。
コミュニケーションの定義というのはやはり組織運営にとって、非常に重要なものであり、その風通しのよさは組織の強みでもあるのでしょう。そして、目的意識の共有、経験の共有ができていくことで組織がまとまっていくプロセスになっていくのですね。
2019年11月29日 5:00 PM |
カテゴリー:社会 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
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