対処法

これまでは、メンタル不調者を出さないための対象の仕方が紹介されていました。では、実際、悩みや不安を抱えた人やメンタルヘルス不調の人と対話をするためにはどういったことを注意しておかなければいけないことなのでしょうか。それには5つの対処法があり、これらのことを意識する必要があると言います。

 

その一つ目が「⑴共感しても共鳴しない」ということで、これはベテランのカウンセラーでもなりうることだと言います。話している内容が深刻であった場合や相手が自分と似たような境遇であったり、生い立ちが似ていたりした場合、自分と相手を切り離して考えられないということがありえます。相手に感情移入しすぎてしまうということですね。あくまで「共感」することが大切です。共感とは相手の気持ちを受け止め、こちらから相手の感情を理解しようと積極的にすることです。しかし、「共鳴」となると、あちらが揺れればこちらも振動してしまう、相手に振り回されてしまうといった受動的なものになりよくありません。注意していても、そうなった場合、話を聞くのは1日に1人とか、リカバリーできるようになんらかの対応を考えておくとか、自分の無理のないコミュニケーションをとることが必要になってきます。

 

2つ目が「⑵拒否にも対処できるようにする」 ということです。時に、気になって声を掛けてみても「イヤ、いいです」と拒絶されることもあります。こういった場合、対処法はケース・バイ・ケースですが、1回拒否されたからと言って、それで引いてしまわないようにしなければいけないというのです。そして、何度も拒否する人に対しては個別に対策を何考える必要があるとも言っています。

 

「⑶つなぐ」 この場合は、たとえば、相手が拒否したとしても、「大変そう」と感じている時点で組織として何らかの対処をすべきであるとすることです。そういった意味では、医師やカウンセラーにつなぐということです。しかし、ここで注意しておかなければいけないことは、部下に何も言わずに産業医やカウンセラーのところに行って部下の相談をすると、産業医や健康管理士から部下に連絡が言った時に「誰が私のことを知らした」と、かえって殻に閉じこもって話をしてくれないようになりかねないことになります。ですから、「ちょっといいですか」と声を掛けた時に、拒否された場合でもきちんとカウンセラーや産業医に相談することを伝えたうえで、相談しにいく必要があります。そういったことを伝えておけば、たいていの人は上司から自分のことを伝えられるよりも、自分から面談に行こうとすることが多いようです。そのため、上司に必要なのは、まず最初に気づくことなのです。マネジメントする側やリーダーといった立場の人が察知し、適切な人、役職、場所、健康管理士やカウンセラーにつなぐことが大切なのです。

 

「⑷緊急性がある場合」 これは例えば「自殺の恐れ」などはまさにこれに該当します。「みる・きく・はなす」技術は相手を直接救うことが目的とされているわけではありません。必要なことは、話を聞いて必要に応じて専門家のところにつなぐことがコミュニケーションの目的なのです。しかし、手に負えないような自殺などのような緊急性のあるものは本人とのコミュニケーションを飛ばして、カウンセラーや産業医に連絡するなり、ご家族に連絡するなり、本人に「休め」というなり、素早い対処が求められます。

 

「⑸確信が持てない場合はどうするか」  部下についての変化を察知したとしても、自分の判断に自信が持てないことがあります。そういった場合はその部下の同僚など近い人に様子を聞くことも重要になります。しかし、ここで注意が必要なのが「様子を見てみよう」と放っておくうちに、深刻な事態になってしまうことです。だからこそ、積極的な行動は大切だというのです。

 

こういった対処法を行うような事態にならないような円滑なコミュニケーションがあることがそもそも必要なのであって、ここで言われることは最終的な関わりです。そして、その中心はやはり「きく」ということがもっとも重要な要素であるのですね。

新年

あけましておめでとうございます。

ブログをはじめてから最初の正月を迎えます。ほとんどが読んでいる本を通しての投稿が多いのですが、ここで自分なりに本の内容を解釈し、投稿していくことで様々な知識を得ることが多いです。まだまだ、つたない文章により読みにくいところもありますが、もしみられている方がいれば、ご容赦ください。

 

さて、昨年もたくさんのニュースが取り上げられました。「あおり運転」やあいかわらずなくならない「いじめ」とくに昨年は子どものいじめだけではなく、大人のいじめも多くニュースになっていました。また、中年世代の引きこもりも大きな問題になっているというニュースもありました・こういったニュースを見るたびに、「なぜこういったことになるのか」と思うことがあります。

 

先日紹介した、武神氏の本の内容も、メンタルヘルスに悩む大人が多い現状があるからこそ、こういった内容の本が必要とされるようになっているのだろうと思います。またここで話されていた内容は保育に置き換えられるように思います。つまり、問題は大人社会ではなく、その根本的な原因は乳幼児期も遡って考えていかなければいけない内容なのかもしれないと考えられます。今の社会、社会自体は成熟しているにもかかわらず、人同士の関わりというのはもしかしたら後退しているのかもしれないと感じます。

 

ポールタフ氏は非認知能力は乳幼児期に得られる力ということを話していました。そして、その力は将来大人になってからも影響のあることと言っています。つまり、今行っている保育の仕事がいかに人の人生に意味があり、誇り高く、重要な仕事なのかと改めて感じます。これからより多様な社会になり、AIなどが発展し、ますます複雑な時代になっていきます。そんな時代に活躍できる子どもたちをどう育んでいくのか、よく考えていかなければいけないなと思います。

正しい叱り方

「怒る」から「叱る」ためには相手を承認することが必要になってくると言っています。そして、実際「怒る」というときは意外と少ないというのも前回紹介しました。では、次に「叱る」ときにはどうすればいいのでしょうか。武神氏は相手を承認したうえで怒るためには、次の「守ってほしい項目」、「し・か・り・ぐ・せ」を守っていただきたい言っています。

 

まず、「し」は身体的接触は絶対禁止。多くの会社でパワハラかどうかの認定するときに最初の基準となるのが、身体的接触があったかどうかだからです。もちろん、ペンでたたくということや物を投げるというのは分かりやすいのですが、単純に肩を軽くたたくのも普段は問題にならなくとも、関係が悪くなると「小突かれた」や「触れられた」などとなってしまう可能性があります。

 

つぎに「か」過去は責めずに、隔離し2人で。過去は責めても変えられないのです。それよりも大切なのは今後です。過去を変えることはできなくても、そこに与える意味づけを変えることはできます。過去を学びや教訓にすることに目を向けるのです。また、部下を叱るときは人前ではなく、2人でというは基本だと言われていますが、これができていない会社は少なくないと言います。というのも、こういったことが起きる裏側には「叱る時にはほかのみんなにも聞こえるように言うことで、周りにも何がいけないかを伝えるため」という理由があることがあります。しかし、相手にもメンツやプライドがあります。特に大人になればなるほど、こういった意識は外資系に比べ、日本企業はできていない現状があるそうです。

 

つぎは「り」理論的に。感情的にならないようにすることです。この「り」にならないためには、次の「ぐ」具体的に。を守ることで可能になると言います。その「ぐ」具体的にですが、これは「何に対して叱るのか、ほめるとき以上に叱るときは具体性大事」なのです。そうでなければ、何に対して叱られているのかわからないということになりかねないのです。そして、これはほめるとき同様できるだけ早くすることも大切だそうです。最後に「せ」性格を責めない。事実に対して叱るべきであって、性格を責めるのはNGなのです。

 

ここで武神氏は一つの例を紹介しています。これは30代半ばの女性管理職が20代後半の女性職員に対して起こった内容です。あるときこの女性職員は遅刻が多く、また、短いスカートに胸元の開いたトップスといった格好が多かったのですが、管理職の女性は職場のみんなのまえでこう怒りました。「いつも遅刻してきて、どういうつもり!やる気あるの?ないの?恰好からしてだらしないのよ、その性格から治しなさい!」と怒鳴ったそうです。

 

では、これまでの「し・か・り・ぐ・せ」からみて解説してみましょう。このとき身体的接触はなかったので、「し」はOKです。しかし、遅刻してきたその場ではなく、過去の積み重ねを問題し、隔離もしていないので「か」はできていません。感情的に叱り飛ばしているので「り」もできていません。「ぐ」は遅刻のことは具体的ですが、服装のことは言わずにそれも含めて「だらしがない」と決めつけているので、これもダメです。そして、「せ」は性格を治しなさいなどと言っても効き目があるはずがありません。

 

このことを見ても、「しかりぐせ」ができていない、よくない叱り方だというのがわかります。この事例をみると「叱る」というよりは感情的に「怒っている」ように見えます。実際、これに似た事例によって自殺事件があったようです。まずは、相手を承認している気持ちがあることを大切にしてほしいと武神氏は言います。

 

これは親子においてもいえることで感情的に怒っている親をよく見ます。子どもにおいても「承認」されることは非常に重要な意味を持ちます。そこに存在意義を持つことは安心基地を持つことにもつながるのです。大人においても、子どもにおいても、「承認される」という環境にいることは情緒の安定において必要なことなのだとわかります。

怒ると価値観

武神氏は自分自身に「怒る」という感情が向かうことは何の問題もないと言ってます。そして、大切なことは相手を「承認」し、「叱る」ということにつなげるかということが重要なことだと言っています。しかし、この「承認」というのはなかなか難しく、相手を見ていないと分かりません。なぜなら、怒りの基準、つまり「どの程度までを許容し、どの程度を超えたら怒るか」は人それぞれだからです。

 

自分の価値観に沿って考えて行動し、この一線を超えたら怒る。だからこの一線を周囲の人が超えないように「見える化」しておくことが有効なこともあります。しかし、重要なのはこの一線自体も自分の価値観であり、他人が納得しているとは限らないのです。そのためにも、お互いの「怒る基準や許容範囲=価値観」を普段からよく話し合っておくことが大切だと言っています。そして、自分の価値観だけではなく、相手(他人)の価値観も尊重することも重要なのです。大切なのは「正義は人の数だけある」ということを理解しておくことです。そして、価値観は人それぞれであり、本来変えることはできないのです。

 

その価値観は、文化圏や宗教からくるものかもしれません。会社が違えば文化も異なり、「正しい」の基準も異なります。もちろん、年齢や時代というものもあるでしょう。「正しい」と思われる「価値観」は立場の数だけあるのです。武神氏はカウンセリングをしていく中で、まだまだ自分の基準や許容範囲=価値観=正義を超えたから怒る人が多い。つまり、自分の価値基準だけで怒る人が多いと感じるそうです。

 

では、怒る時にはどういった基準で考えたほうがいいのでしょうか。認知科学者の苫米地英人さんは著者『「怒らない」選択法、「怒る」技術』のなかで「怒っていいときはほとんどない」と述べているそうです。怒っていいのは ①相手に過失があり②自分がそれによる不利益を被り③さらにその過失が想定外だった時 以上の3つを満たしたときに限るというのです。そう考えるなら、大概のことは想定内です。つまり、多くは怒るよりも自分のほうを変えることのほうが重要となります。苫米地氏の考えでいうと「怒っていいとき」の説というのは、他人のせいにしないで自己責任として、自己反省や自己成長につなげようという発想ではないかというのです。

 

自分の価値観と相手の価値観(正義)が異なっただけで、相手をいくら上手に叱っても、相手がこちらの怒る判断基準に納得していなければ、その怒ることに自己満足する人もいる一方で、怒られた方は不満、ストレスが溜まってしまうのです。

 

私はこのことをもう一つ付け加えるのなら、その相手が自分自身に過失があることを自覚しているのかといったところもあるのではないかと思います。相手が同じ価値基準にいる。つまり、同じ方向を向いているのであれば、その失敗は本人にとっても「だよね」と思うでしょうし、納得した上で「きく土俵」にのった状態になります。こういったやり取りができるために相手とのコミュニケーションやお互いの価値基準をすり合わせ、調整しておくことを日常からしておかなければいけないのでしょう。

 

また、このことを子どもに当てはめてみます。子どもは大人とは違い、しっかりと意志を泣いたり、怒ったりと行動として出してくれます。そういった意味では大人よりも分かりやすいかもしれません。そのときに、頭ごなしにこちらのやってほしいことに子どもに指示命令をしていくと、叱る前提となる『相手を「承認」している』ということにはつながらず、一方的な価値観を押し付け、最悪、ここでいうところのメンタルヘルス不調と同じような状況になります。親子関係の場合、愛着障害として形が出てくることがこれに近いのかもしれません。まずは関わりにおいて「子どもであっても一人の人間」という向き合い方をしなければいけないというのがここからも見えてきますね。

「怒る」と「叱る」

武神氏は「怒る」ということに目を向けます。同じ組織の中におり、一緒に仕事をしていく中で、「怒る」というコミュニケーションは当然でてきます。しかし、この「怒る」という行為は「叱る」という行為とは違います。いくら「怒る」という行為のテクニックを学んでも、その根底にあるマインドを学ばなければ、職場のハラスメントをはじめとする人間関係のストレスはなくならないのです。では、そもそも「怒る」と「叱る」というのはどういった違いがあるのでしょうか。

 

「自分の価値観と相手の価値観が異なったとき、それが譲れないとき、それは怒るべきときだから怒っていい」と考えている管理職は意外と多いと言います。しかし、こういった人がメンタルヘルス不調者の上司であったというパターンは多くあったそうです。この上司たちは「部下が間違えた」「部下はこうあるべきだった」と丁寧に説明してくれることがあり、決して感情に任せて起こったのではないことが伝わってくる人もいるのですが、結局はメンタルヘルス不調者を出すことになってしまいます。それは「価値観の相違にあるからだ」と武神氏は言います。いくら冷静に怒ったとしても、価値観の相違を理由として怒ることは、あくまで上司の価値観と部下の価値観の相違であるからであり、その場合、どちらが正しいのかが分からない場合もありえてしまいます。なぜなら、当事者はみんな自分の価値観でやっていますし、各々が自分が正しいと考えているからです。

 

では、リーダーシップのある上司やメンタルヘルス不調者を出さない上司、ハラスメント被害者を出さない上司は、滅多なことで起こらないと言います。というのも、こういった人たちは部下を「怒る」のではなく、「叱る」と言います。つまり、この違いに職場のあり方が見えてくるというのです。この違いはどういったことなのでしょうか。

 

武神氏は「怒る」と「叱る」の違いは、「怒る」は自分本位、「叱る」は相手がいるということだと言っています。「怒る」ということは自分で自分に「怒る」こともあります。その場合誰にも迷惑はかけません。しかし、「叱る」ことには相手がいます。そのため、相手を必要とする行為である「叱る」には、その分、他人に対する責任をしっかりと認識して行う必要があります。このことについて元プロテニスプレーヤーの松岡修造の話を武神氏は紹介していますが、松岡修造氏は「叱る」のなかには「期待」があるというメッセージを掲げ、「『怒る』とは自分の感情を相手にぶつけること。『叱る』とは相手のことを思い、注意することだ」と言っています。つまり、「怒る」ときに相手を“承認”すると、それは「叱る」になるのです。逆に相手を承認してない状態、つまり、相手に対して「期待」がない場合は一方的に怒りをぶつけているというようになってしまうでしょうね。

 

相手の価値観と自分の価値観をすり合わせるということが大切なのです。メンタルヘルス不調者を出す上司はこういったところにズレがあるのかもしれません。そのため、相手の価値観を受け入れるというよりも自分の価値観を相手に押し付けることによって相手は納得できないところが出てくることになりかねず、それが結果としてメンタルヘルス不調につながっていくのだろうと思います。