「きく」とは

武神氏が「みる技術」の次に紹介しているのが「きく技術」です。この「きく技術」には「認めること」と「気づかせる」ということが重要になってくるようです。特に私はこの「きく技術」というのはコミュニケーションおいて非常に重要なことであり、今の時代「相手に自分の思いを話すことは得意」といったディベートやプレゼンが得意な反面、相手とのやり取りといった「会話やディスカッション」が弱いということが言われています。そして、そこには「話し方」よりも「聞き方」に問題があるように思います。そこには「傾聴」をすることが重要になると考えているのですが、武神氏はどう考えているのでしょうか。

 

武神氏は「みる技術」のときと同様、「きく」にもいくつかの漢字が当てはめられると言います。まずは「音を感じるという意味での『聞く』」、そして、「傾聴、注意して耳に入れる、アクティブ・リスニングの『聴く』」、「尋ねて答えを求める『訊く』」、「調べて判定をする意味での『利く』」、最後に「効果が現れるという意味の『効く』」の5つの「きく」があります。そして、これらの「きく」の中で、受動的なものが1つ、あとの4つは能動的・積極的な行為だと言っています。また、違う目線で見ると3つの「きく」はその場で、残りの2つは後々にも「きいてくる(事件経過がある)」ものであるということも見えてきます。

 

では、それぞれどういったものであるのか見ていきます。

まず、最初の「聞く」です。これはなんとなく耳に入ってきて「聞こえた」と感じることをさします。たとえば、アナウンスなどが聞こえた時のことを思い出してください。「あぁ、なんか言っているな」と感じるように「耳に入ってきます」、こういったことを思い浮かべてもその行為は受動的なものになります。逆に、そのアナウンスが自分にとって意味のあること、例えば乗り換えの情報を知りたいと思っているときは、車内アナウンスに聞き耳をたてます。そして、注意して「聴きます」これが2つめの「聴く」です。これは聴こうとするので積極的な行為です。そのため、よくアクティブ・リスニングとも結びつけられます。

 

このアクティブ・リスニングですが、「聴」という文字から「耳と14の心」でしっかり心を込めて聞きましょうとか「耳+4の心」、つまり単に聴覚だけではなく、視覚、嗅覚、触覚、味覚、すべての知覚を働かせるつもりであいての話に耳を傾けるのが、アクティブ・リスニングです。知識や知覚を総動員して、相手が話しやすい環境を整えるということです。

 

3つめの「訊く」では、例えばはなかなか話し出せない人に対して、いきなり本題から入るのではなく、趣味やニュースなど、話の糸口になりそうな話題を相手に投げかけるというように、いろいろな角度、酒類の題材で相手の話しやすい内容を「訊ねる」という意味での「訊く」です。

 

最後に「利く」と「効く」ですが、これらは時間的な変化も含まれます。特に「効く」は上司に話を聞いてもらった人が翌日「きいてもらってよかった」「ああ言ってもらったから、がんばれそう」という効果として現れる「効く」です。

 

これらの「きく技術」もこの技術を持っている人はすべてを意識しているわけではないと言います。しかし、この「きく技術」を使っている人たちに共通するマインドは「きく」ことは「認める」ことと「気づかせる」ことだと分かっているのです。つまり、「気づき」を促すことであると定義されます。「きく」というと受動的なものを思い浮かべますが、こうやって見ていくと非常に積極的に「関わる」ということが求められているように思います。自分の中に情報を取り込む、相手を知ることに対しても「きく」という作業は非常に重要です。では、その「きく」ということをしていくために具体的にどういった行動につなげたらいいのでしょうか。武神氏はきくためには「場」を作ることが大切であると言います。

説明の要素

前回紹介した「説明できる」3つの要素 ①主観的判断が伝わる ②客観的事実を伝えられる ③個人全体の評価 といった三つの要素はどういったことを言うのでしょうか。

 

まず、1つ目の「主体的判断ができる」ということから説明していくと、これは「主体的判断は個人的な評価ではありますが、それを誰もが納得できるフレーム(基礎)で説明できるということが重要です。つまり、その評価の判断基準やフレーム・軸が誰にでも理解可能で説明可能なのかということです。具体的に言うと、例えばあるチームの集まりで社内運動会にリレーの選手を一人選出しなければいけない時、「あの人は学生時代駅伝に出ていた」や「あの人は大学時代陸上部だった」という主観的判断は、話している内容と判断基準が誰にでも理解が可能です。しかし、その時誰かが「いや、〇〇さんは囲碁大会で優勝したことがある」といったら、その主観的判断は他の人とはフレーム(内容)が違うので話になりません。誰にでもわかる内容だからこそ、説得力があり、全員が納得できるのです。逆に言えば、誰かについて話しているつもりでも相手にうまく伝わらない場合、本人には見えてるつもりでも、相手との判断基準やフレームがズレていることが少なくなく、どちらかがじつはちゃんと「みて」いないということになります。

 

2つ目の「客観的事実を伝えられる」ということは、再現性があり、相手と同僚の他者を数字などで比べやすい点を特徴としています。たとえば、「性別」「年齢」や「資格」「家族構成」などいろいろとあります。会社なら「遅刻が何回」「欠席が何回」、不自然な言動とかヒヤリハットがあるなどの行動も客観的事実です。つまりはだあれが伝えても同じで、同じように受け止められるという点で大切です。救急医療の現場で見ると分かりやすいです。「名前」「性別」「年齢」「体温」「心拍数」「出血量」といったことは客観的事実が必要とされます。しかし、「この患者さん、ヤバいと思います」といった主観的判断の申し送りは必要ではありません。「みる技術」を持っている人はこういった客観的事実と主観的判断を分けて説明できるというのです。逆に説明するときにこのことがこんがらがる人は自分の中でも混乱していて、なかなか部下のこと、チームのことを把握できません。

 

上手に「みる」ことのできる人は、「~かもしれない」という考えで、「相手を知る」という思考回路を持っている人であって、そして、自分が把握できることについては、客観的事実と主観的判断を分けて考えらえる人です。

 

3つ目の「個人全体の評価」は何かできないところといった「部分」だけを見るのではなく、個人・相手のことを全人的に、つまり環境や人間関係、個性や個人的生活、行動や兆候なども含めてトータルに考えられるかどうかも大切だと言います。

 

これらの3つの点を含めて、考えることができることが「みる技術」の第2のマインド「説明できる」ということなのです。これは「知る」ということにもつながることです。メンタルヘルスをする以上、相手のことをしっかりと「みる」うえで対応を取らなければいけません。そして、その見方は「何気なく」していることでもあります。改めてこういった見方の技術を知ることで、ずいぶんと整理して、どう相手をみることが重要であり、コミュニケーションをとることにつながるのかということが理解できます。

説明できる

「みる技術」を持っている人は「知る」だけではなく、その先の「説明できる」というところまで相手のことを「知っている」というのですが、説明できるということはどういったことなのでしょうか。説明できるということはつまり「相手のことを評価して第三者にそれを伝えられる」ということです。自分が理解しているだけでは説明できるとは言えません。相手が何をやったら喜んで、何をやったら嫌がって、どういう風にすれば長く仲良く付き合えるのかをということを言えることが「説明できる」ということです。つまりは相手の取扱説明書を作ることができるかどうかということですね。

 

職場の相手の取扱説明書というのであれば、その相手が ①何を言われる・やられると、うれしい、楽しい、清々しい誇らしいなどのプラスの感情となり、その結果、仕事がはかどる・仕事をがんばる・積極的になるのか。②何を言われる・やられると、不快・不満・不安などのマイナスの感情となり、その結果、仕事が嫌になる・消極的になる・結果が出てこなくなるのか ③その相手が、得意なこと・やりたいこと・できること、やりたくないこと・不得意なこと・できあないことが何なのか こういったことが他人に伝えることができるくらい相手のことを理解していないと説明はできないのです。そして、「みる技術」を持っている上司は、部下の取扱説明書を書くことができるというのです。何をやったら部下は喜ぶのか、どういったら凹んで仕事がはかどらないか。なにについては大目に見ておこうか。こういった理解を持つ必要があると言います。

 

これらのことを見ていると相手のことを理解するだけではなく、こういった理解を通して、自分自身の動きも変えていかなければいけません。そのため、「大目に見る」といった行動などに移せるためには自分が納得できるかどうかや自分自身の自制心や気持ちのコントロールというもの同時にできるようになっておかなければいけないということが分かります。そして、そのためにはその後の行動においても、相手がどういうように出てくるのかといったように見通しが持てるかどうかにもかかってくるのだろうと思います。そのためには自己分析や自己評価も同時に行っていかなければいけないということが見えてくるのではないでしょうか。このことが単純なようで、難しいと感じることがよくあります。

 

つぎに、武神氏は「説明できる」の3つの要素を紹介しています。①「主観的判断が伝わる」②「客観的事実を伝えられる」③「個人全体の評価」 の3つです。これら3つのことはどういったことがいえるのでしょうか。どういった視点が求められるのでしょうか。見ていきたいと思います。

「知らない」大切さ

武神氏はアメリカで1967年に発表された「The Social Readjustment Rating Scale」において「社会的にどういったことがストレスになりうるか」という内容を紹介されています。これは過去6か月にどんな出来事があったかをチェックしていって、それぞれの点数を足してストレスの度合いを判定するというものなのですが、その一番点数が高いのが「配偶者の死」で、次に「離婚」というのはわかります。しかし、面白いのは「結婚」や「配偶者との和解」というのも高い点数が当てられています。そしてそれぞれの点数の合計が300点以上の場合は「メンタルヘルス不調になるリスクがかなり高い」と言えるといった一つの指標がつくられました。先ほども紹介しましたが、結婚や配偶者との和解においても、高いストレスがあるというのは驚きです。しかし、確かに「マリッジブルー」という言葉もありますし、環境の変化において人はストレスを感じることはありそうですね。この表を見ているとそういった環境の変化へのストレスはほかにも「妊娠」や「家族数の変化」もストレス要因として、点数が高く設定されています。

この指標はあくまで個人の自己評価によるものですが、武神氏はこの指標において、「では、このリストはあなたが想定した相手にして考えてみてほしい」と言っています。そして、当てはまるものには「〇」、当てはまらないものには「×」、わからないものには「△」をつけてチェックしてもらうとどうなるかを促してます。当然自分事であれば「〇」か「×」になります。そして、他人においては「『△』の数を数えてほしい」と言います。そうすると自分に親しい人や知っている人なら「△」が少なくなるでしょうし、そうでなければ「△」は多くなります。当然、そうなることは当たり前のことなのですが、ここから見えてくるのは「△」がある時点で「相手のことはわからない」ということです。つまり、相手を「~だろう」と考えることや「~に違ういない」と結論つけるのはよくないというのです。そして、「~かもしれない」と考える必要があるということです。それが相手を「知る」ことにつながるといことがわかるのではないかというのです。

 

「他人のことがわからない」と知っていることがとても重要になのですね。そして、“知らないことを知っている人”は「~だろう」という決めつけではなく、「~かもしれない」という思考回路を持っているのです。これが「みる技術」を持っている人が身につけているマインドの一つ「知る」ということなのです。そして、リーダーシップのある上司やメンタルヘルス不調者を出さない部門の上司は、そういう発想ができる人なのだろうと言えるのです。

 

最近、このことにつながることがたびたび働いている中でよくありました。たった一つ自分の目線を変えるだけで人の見方は変わるものであるということを実感しました。そして、その目線を持つためにはいくつかの条件があることにも気づきました。それは「自分に余裕があること」「相手の話を聞くこと」「相手に任せていること」「物事を大きく見ること」という自分の心に余裕があったときに違った目線で見れることができていたように思います。結局のところは「相手が何を言いたいのか」といったことを考えていくことから見えてきたように思います。そういった「思いやり」が根底にないとネガティブな思考に引っ張られていくのかもしれません。そして、そういった余裕を作るためには相手を信じることも重要なことですね。

みる技術②

「みる技術」というのは、まず、「見えてるつもりでも、見えていない」という子の前提を知っていることが大きな大前提であるということを前回紹介しました。では、そのことを踏まえて、武神氏は「みる技術」というのはどういったものであると言っているのでしょうか。

 

武神氏は「みる技術は 『知る×説明できる』であると定義しています」と言っています。前回も紹介したように人の目から入ってくる情報は、頭に入ってくる情報の75%と大きな部分を占めています。ただ漠然と見るだけではなく5つの漢字で示される「みる」ができれば「知る」ことにつながるのです。これは前回紹介した5つの「みる」「見る・視る・観る・看る・診る」ですね。しかし、これらの「みる」をしていても、残りの25%は同時に「みることができない」可能性があるのです。ここまでが前回の内容です。

 

実際、このことをコミュニケーションに当てはめると、あなたにとって相手は他人ですから、いくらよくみていても、やはり「見えていないこと=知らないこと」もたくさんあるのです。「みる技術」を持っている人は、“自分には知らないこともある、ということを知っている”ということが分かっているのです。当たり前のことといえば当たり前のことですが、人は「この人は○○なひとだ」と先入観やレッテルを貼ってみてしまいがちです。たとえばよく遅刻してくる部下に対して「だらしないからだろう」と決めつけるのではなく、「遅刻する日は体調が悪いのかもしれない」という発想を持てるかということです。つまり、「みる技術」を持っている上司は「部下のことをよく知らない」という自覚を持っているのです。この「かもしれない思考」これは「みる技術」をもっている人が共通してできることです。

 

そして、この「みる技術」がある人は、相手について知っているだけではなく、「説明できる」ところまでいっています。つまり、これはあいては何を言われたら、やられたら喜ぶのか、仕事がはかどるようになるのか、何をしたら嫌がるのか、仕事ははかどらなくなるのか。などなど相手の「取扱説明書」を書くことができるのです。このように「知る」ということと「説明できる」ということできることで「みる技術」ということにつながっているのです。

 

こういった違う視点から人をみるということは非常に大切なことであり、特に子どもに対しては、重要になってくる関わりであるように思います。そして、この根底には「共感力」というものが根底になくてはなりません。「相手がなぜそういうのか」「どういった意味があるのか」「本質的に何を言いたいのか」それを察していかなければいけないのです。それにはこちらもある程度の余裕がなければいけません。子どもにおいても、大人においても、人との関わりにおいてはそれほど大きな違いはないのではないかなと保育士になってとても感じます。「相手を思いやる気持ち」というのはなにも子どもだけにつけさせるものではないのです。大人同士の関わりにおいてもこの気持ちは忘れずに持っていなければ人はいい集団にはなれないのですね。