ほめる

「ほめる」というのは難しい行為だと思います。まず、「なにをほめたらいいのか」「どういったところをほめたほうがいいのか」自分の感覚に合った人ならば、良いところは見つけやすいです。しかし、人間すべての人が自分と相性がいいわけではないです。もちろん、相性がいいにこしたことはないのですが、なかなかそうもいきません。武神氏も管理職研修において「あの部下にはどうしてもほめるところがないのですが、どうやってほめればいいのですか?」と質問されることがあるそうです。そこで武神氏は「ほめどころピラミッド」というものを提唱しています。

 

このピラミッドの最下層は「環境をほめる」です。たとえば「机がいつもきれいだね」とか「おしゃれな服装だね」といったものを言います。そして、結果ではなくとりあえず行動したことをほめることです。たとえば、「粘り強く関わりに行っていたね。そういうのはあなたにしかできないよ」というような「行動をほめる」ことです。その次に「能力をほめる」これについても結果ではなく、その能力自体です。たとえば、「保護者の人の気がかわったのも、きみの忍耐力と人間関係構築力がすごいからだと思うよ」といったことです。それから「考え方をほめる」、「こういう考え方はなかった。それも子どもの成長を見るという姿勢と自分自身を成長させたいといった向上心があったからだと思うよ」といったことです。そして、最上段が「存在をほめる」というふうになります。たとえば、「君の存在はこの園にいい影響を与えてくれるね」といったことです。ピラミッドの上位にいくほど、ほめられるほうは嬉しいのですが、ほめるほうも特別な何かがないとほめるのが難しくなります。

 

こうやってほめることで、相手は自己肯定感が高まりやる気が上がるというのです。そして、ほめることで自分の行為も伝わります。そして、期待を示したときに相手がその期待に応えようと思ってくれます。だれでも尊敬している人や行為を持っている人に褒められれば、うれしくなり、もう少し頑張ってみようかと思うでしょう。そのため、こういった内容を実践してほしいと言っています。その中で、うまく伝わったと思うと、次にほめどころピラミッドの一段上のほめどころを探ってみてほしいと言っています。そうすることで相手は自発的に期待に応えようとしてくれるかもしれないのです。ここで大切なのはあくまで「かもしれない」ということですね。「なるだろう」と考えてしまうと、相手にイライラしてしまいます。「相手は基本的に変わらない。だから、自分の視点を変える」という視点を持っていなければいけませんね。

 

「頼らなければ、頼られない」これまでも同じようなことが言われていました。しかし、ずっとこのことが言われ続けているということを考えるとやはりなかなか簡単にはできることではないのであろうと思います。そして、なによりも相手に興味がなくてはそもそも意味がありません。一番大切なのは「相手とどう関係を作ろうか」と考える気持ち自体がそもそも必要なのだと思います。だからこそ、マネジメントは大きな目線でもって、視野を広く組織を見ていかなければいけないのではないかと思います。

「ほめる」とは

「はなす技術」を持つ人は相手に期待するのではなく、「期待を示す」ことで相手を主体的にすることができると言います。そして、相手との距離が離れてもポテンシャルを出せるようなポジティブな環境を作ることができるというのですが、そのためには相手との関係性が良好でなければいけません。では、そのように相手と良い関係性を築き、期待を示すことができるようにするにはどうしたらいいのでしょうか。それは「ほめること」が重要だと言います。

 

しかし、ここで間違ってはいけないのは「ほめる」のであって「おだてる」ということではないというのです。「ほめる」という行為は事実に対し好意をもって伝えることだと言います。それに対し、事実でないことを伝えた場合「おだてる」や「お世辞」になります。あくまで、好意をもって事実を伝えることが「ほめる」ことです。そこには下心は不要なのです。下心をもってほめたところで、それはすぐに分かってしまうと武神氏は言います。

 

ほめる技術として大切なのは「すぐほめる」ということが重要だと言います。このことは私も聞いたことがあります。人は行ったことに対して、「60秒以内にほめたほうが実感として受けやすいそうです」確かに、一年前のことをほめられても、遠い昔のことでピンとこなく、その場でほめられた方が実感としても感じやすいものになります。また、もう一つ大切なことは「具体的にほめる」ことだと言います。いつも「ありがとう」「すごい」「すばらしい」ばかりではどのことについて言っているのかわからないのです。「○○してくれたのがよかった」「○○をしてくれてうれしかった」と具体的な事柄をはっきりとすることが重要なのです。それができると、いろいろな言葉でほめるというポイントも押さえられます。具体的な事実を好意としてすぐに伝えるという「ほめる技術」が結局のところ相手との間にいい関係性を築き、示した期待に応えようという相手の態度につながってくるのです。

 

保育の中でもこの「ほめる」ということが取り上げられることが多いです。そして、「ほめる」ということと「おだてる」ということの境目で悩む人も多くいます。「ただ、ほめればいい」それだけで子どもは伸びる。ということを繰り返しているうちに、わがままになったり、「王様化」してしまうということもあります。これに対して、「ほめる」ということが「事実を好意を持って伝える」ということに変えて考えてみると、その主体は「ほめる側」ではなく、その良し悪しを考えるのは「ほめられる側」といったように主体が変わってきます。要は物事の主体を他責から自責に変えることが重要であり、自分の行動や責任をしっかりと自分自身で把握するという行為が今の時代必要なのだろうと思います。そして、もしかすると乳幼児期からこういった経験が今の人は少ないのにも原因があるのかもしれません。特にこういったメンタルヘルスが原因の問題はより教育や保育に大きく関わる内容でもあるように思います。

 

つぎに武神氏は「ほめるところがない」という管理職に対して、ほめるテクニックを紹介しています。

期待を示す

前回、「期待する」ことと「期待を示す」ということの違いにおいて、「期待する」ということは自分の考えを相手に委ねるといった他責な行為であるということを紹介しました。では、「期待を示す」ということはどういうことをいうのでしょうか。

 

「はなす技術」を持っている人は「期待を示す」のみを行っていると言います。この「期待を示す」というのは「期待する」ということと同じ自主的な行為ですが、あくまで「期待をしめす」だけです。そのため、相手の責任にするものはないのです。どういうことかというと、重要なことは自分が期待を示したときに、相手が「期待に応えるかどうか」ということは問題ではなく、相手が「その期待に応えたいと思うかどうか」ということです。人は期待されたとしても、知らない人や好きでもない人からでは煩わしいだけです。しかし、尊敬している上司から期待を示されたら人は自発的に期待に応えようと思うものです。つまり、示された期待に応えようとするかどうかは、自分と相手の関係性のなかで成り立っているのです。相手のことを尊敬していたり、大切に思っていれば相手は期待に応えようとしてくれるでしょうし、良好な関係性でなければ相手は期待に応えようと思いません。こういったことを捉えると、期待を示すということはあくまで自分と相手との関係性の積み重ねであり、それは自分の責任なのです。そのため、「自責」の行為と言えるのです。

 

「はなす技術」には期待するというだけではなく、その裏には相手との関係性も大切になってきます。そのため、もし、相手が自分の期待に応えてくらなかったとしても、責任は相手にはなく、自分と相手との関係性に問題があるのです。相手が期待に応えてくれなかった場合、相手との関係性を改めて構築していくことから始めていかなければいけないのです。期待を示して相手に主体性が生まれたところで任せて、小さな成功体験を積ませる、それによって相手の主体性がどんどん膨らんでいきます。そして、その成功体験は自分に自信を持たせることにつながり、結果として、メンタルヘルス不調には至らないだけではなく、人材としても育つことになるのです。「はなす技術」を持っている人はこういったことをしているのです。

 

人の生産性というは安心できる環境、安全でポジティブな環境の中で非常にのびると武神氏は言っています。反対にネガティブな感情が渦巻いているようなところでは人の生産性や能力は伸びません。「はなす技術」を持っている人はポジティブな環境を作ることができるというのです。

 

このことは職場のみならず、保育現場でも同じことが言えます。人はポジティブな環境の中で生きることがやはり心地よく、のびのびとできる環境なのでしょうね。そして、そういった空間にいることで自分のポテンシャルも生きてくるのだと思います。そして、ポジティブな環境の中だからこそ、自分を出すことも認められ、より益々の主体性が生まれる。環境とはそれほど大きな影響を人に与えるということが分かります。

 

子どもの保育環境や養育環境でも同じことが言われています。よく「安心基地」というものがあることで子どもの主体性は発揮されるということが言われます。そして、そのためには「見守る」といった子どもがある程度自由にできる距離感も必要だと言われています。それは個々で言われる「任せる」という関係性と似ています。保育で言うと「委ねる」は「放任」であり、「任せる」は「見守る」というのと同じではないかと感じました。職場にも環境構成といったものの重要性がいえるのですね。

「期待」の落とし穴

「はなす」という技術は決して「話をする」という意味だけではなく、部下に対して「任せる」という意味での「放す」や「離す」ということを前回紹介しました。できるリーダーほど、「はなす技術」というのが上手であり、それによって相手が主体的で自主的な動きをするようになるというのです。

 

他にも、メンタルヘルス不調者やハラスメント被害者を出さない上司、リーダーシップのある上司は、3つの「はなす」のほかに、もう一つの「はなす」ができていると紹介しています。その4つめの「はなす」は「花をもたせるという意味での華す」です。これは相手に任せて成功体験を積んでもらうことが、部下の成長につながるという意味です。しかし、これは「放す」と「離す」ができて初めて「華す」ということが可能になるのです。リーダーシップのある上司、ハラスメント被害者やメンタルヘルス不調者をださない部署のコミュニケーションが上手な上司というのは、部下に仕事をただ任せるだけではなく、小さいながらも成功体験を積ませるということを繰り返し経験させています。このように「はなす技術」がある人たちは共通して「はなす」ことによって「期待を示す」ことと「任せる」こと、すなわち主体性を持たせることができると分かっているのでしょう。このことから見えてくるのは「はなす技術」は「期待を示す×任せる(主体性を持たせる)」と定義できると武神氏は言っています。

 

この「期待を示す」ということはどういったことなのでしょうか。武神氏は「期待を示す」と「期待をすること」とは違うと言っています。武神氏は面談の中でメンタルヘルス不調で休職になった人の上司と話をすると「〇〇さんには期待してたんだけどなぁ」と言われることがあるそうです。これは本心かもしれませんが、もしかしたらその上司は「休職者を放っておいたわけではない」と主張したくて、そう言っているかもしれません。では、「はなす技術」を持っている人はどうなのでしょうか。

 

「はなす技術」を持っている人は、相手に期待するのではなく、期待を“示す”というのです。「期待する」というのは単に自分(上司)が期待するという行為なのです。そして、その期待に応えるか否かという責任は相手に委ねられます。しかし、よく考えると自分が期待しているからといって「相手がやらなければならない」という道理はなにもありません。本来、「期待する」というのは自分の勝手な行為であり、何かあったときの責任は自分にあります。しかし、いつのまにかその責任まで相手の責任になってしまうのが「期待する」という行為なのです。期待をするというのは、自分の行為に見えますが、実は最終的には「他責」の行為なのです。

 

このことはよく考えておかなければいけません。特に人事などを司る役職にある場合はなおのことこのことを意識しておかなければいけないと常々感じます。では、「期待する」というのではなく、「期待を示す」というのはどういったことをいうのでしょうか。

はなす

「みる」「きく」と進めてきました。最後は「はなす技術」です。「はなす」は漢字で書くと、①言葉で相手に伝える「話す」②手放す、握っているものを解き放つという意味の「放す」③距離や空間を分離するという意味の「離す」の三つの意味があります。

 

そして、このうち、「放す」と「離す」は時間空間的距離を話すということで、リーダーや上司にとって、部下との距離感として意識してもらいたい「はなす」だと言っています。そして、これは部下との単なる物理的・空間的距離感だけではなく、接する時間という意味での適切な時間的距離感も含みます。できるリーダーは適切な距離を持って上手に「はなす」ことによって、相手に自主的に動いてもらっているのです。ここで意外だったのが、「はなす」というと「話す」しか出てこなかったのですが、「放す」や「離す」といった意味合いが確かにあることが分かります。そして、読んでいくうちにこの「はなす」ということが意外と自主性や主体性につながるということがよくわかるようになります。このことは保育にも通じる内容で、子どもと保育者との関わりにおいても重要な距離感を示しています。では、それはどういった距離感なのでしょうか。

 

武神氏は「はなして相手に任せることが、相手に主体性を持って動いてもらうことにつながる」と言っています。しかし、ここで注意しなければいけないのは、「任せる」ことと「委ねる」ことを混同してはいけないということです。よく「任せる」というとすべてを任せっきりでそのあとは放置という人がいますが、それは任せたとは言わないのです。ましてや、自分がよくわからない業務があって、それを部下に丸投げしたとすれば、それは「任せた」のではなく、無責任に「委ねた」ということになるのです。しかし、この「任せる」というのと「委ねる」というのは周りから見るとわかりにくいところがあります。そのようなときは上司の部下に対する「会話の言葉=話し言葉」に注意すると分かるときもあります。どういったことかというと、部下にかける言葉で“はなす”ができている上司は部下に「頑張って“いる”ね」と言います。それに対して、できない上司は「頑張ってね」と言います。

 

「頑張る」こと自体を求めるのではなく、「頑張っている」姿勢を見ているということが必要なのでしょうね。これは参考になります。つい、物事を見ているときに「頑張る」ことを求めがちです。そして、もしそれが思っているほどの成果をあげれていない場合はよりそこに近づくように煽るように声を掛けがちですが、もしその人自体が限界まで頑張った状態でそれなのであればとてもつらいことでしょう。こういった双方の思惑の違いによって、片方にプレッシャーがのしかかってしまうことは珍しいことではありません。そのためにも、その人自体の頑張りに目を向けるほうが、モチベーションが上がるのは言うまでもありませんし、次の意欲や主体的な取り組みにつながるだろうことは想像がつきます。ある程度の余裕がマネジメント側にも求められますね。結局は「急がば回れ」ということなのでしょう。