知能至上主義

保育を変えていく中で、保護者から苦情が来ることがあります。もちろん、理由がある苦情もあれば、感情的に保育が変わることが納得できないという保護者も中にはいらっしゃいます。それは決して悪いことではなく、どの保護者も子どものためを思っているということに変わりはありません。保護者は子どもたちに幸せで成功に満ちた人生を送ってもらいたいと思っているとは思うのですが、それが具体的にどういった人生なのか。今の保育が子どもにとって本当に最善なのかが不安に思っているのです。今の親はこういった不安を抱えている人が多いのではないかと著者「成功する子・失敗する子」でポール・タフ氏は言います。ポール氏はアメリカのニューヨークのような都市では特に強くこういった思いを持つ人が多くあり、人気の幼稚園に入るための競争力はまさに戦いだったと言います。

 

そして、自分たちの子どもエリントンは今後どうやら「知能至上主義」が浸透した文化の中で育つことになりそうだと思ったそうです。それは多くの人が思う。今日の社会でいう『成功』はおもに認知的スキル(知能検査で測定できるたぐいの知力で、文字や言葉を認識したり、計算をしたり、共通のパターンを射抜いたりといった能力が含まれている)の有無できまるといったものです。そして、こうしたスキルを伸ばす最良の方法は、可能な限り練習を重ねることと、可能な限り早くからはじめることと考えられています。

 

こういった知能至上主義は非常に広く受け入れられていますが、実際のところは比較的新しい発明であることを多くの人が忘れていると言います。元々は1994年、カーネギー財団が「スタート地点」(Starting points)を出版し、アメリカの子どもたちの学力の発達について警鐘を鳴らしたときに出てきた考えなのです。この本では、今の子どもたちは人生の最初の三年のうちに学力を伸ばす十分な刺激を受けておらず、それが問題であるというのです。

 

その理由となる一つは、一人親の家庭や働く母親が増えてからであり、このため子どもたちは学ぶ準備のできていない状態で幼稚園に入ることになる。というもので、この報告のおかげで、様ざまな本や知育オモチャなどの売り上げが何十億にもなったと言います。その後にもカーネギーの発見と研究は社会的政策にも強烈な影響を与えるようになります。慈善家や議員などもこれを受け、不利な状況にある子どもたちが早いうちから遅れてしまうのは学力を高める訓練が不充分だと結論付けました。そして、心理学者や社会学者は、貧しい子どもの成績不振を家庭や学校での言葉と数字による刺激が不足していることと結びつける証拠を上げます。

 

こうした研究で最も有名なのは、ベティ・ハートとトッド・R・リズリーという二人の自動心理学者が一九八〇年代に始めたものである。ふたりはカンザスシティーでホワイトカラーの家庭、ブルーカラーの家庭、生活保護家庭から集めた42人の子どもたちを集中的に研究し、子どもの教育に決定的な違いが生じる原因も、その後の子どもたちがあげる成果に差異が生じる原因も、突き詰めればひとつであることがわかったのです。それはごく幼いうちに両親から聞いた言葉の数です。

 

ホワイトカラーの親に育てられた子どもは3才になるまでに三千万語を耳にしていたことに対し、生活保護を受けている親に育てられた子どもが聞いたのは一千万語だったということが分かったのです。そのため、貧しい子どもたちがのちのち学校生活や人生一般で失敗する根本的な原因は、聞いた言葉の数の不足だというのです。

 

こういった知能至上主義は非常に分かりやすく、例えば、家に置かれている本が少なければ読解能力は低くなる。親が話す言葉の数が少なければ子どもの語彙も少ない。ジュニア公文で算数の問題をたくさんやればテストの点数は上がる。時に滑稽に思えるほどの二者の相関が厳密に示されます。さらに、ハートとリズリーの計算によると、生活保護家庭の子どもがブルーカラーの子どもとの語彙の差を埋めるには、毎週きっちり四十一時間の集中レッスンが必要であると言っています。

メンタルヘルスと保育

今回、武神健之氏の著書「職場のストレスが消えるコミュニケーションの教科書」という本を取り上げましたが、初めは社会においでどういった人がメンタルヘルス不調、いわゆるうつ病などの精神疾患にかかるのだろうか。ということからこの本を見ていきました。そして、そういった人が出てしまう職場環境がどういった問題があるのか。これは現在、保育士不足と言われる保育園や幼稚園といった施設においても、同じことが言えます。というのも、その辞める理由の多くは「職場の人間関係」や「保護者関係」といった人との関わりにおけるところに問題があるからです。

 

今の人はコミュニケーション能力不足ということが言われ続けています。間違いなく、この理由がメンタルヘルス不調にもつながっているのは間違いないように思います。そして、こういったメンタルヘルスの根底には乳幼児期の環境に問題があるのではないかということが言われています。実際、今回の本の内容をひも解いてみると、記事の中に何度も同じことを書いたのですが、それは大人(ここでいう上司と部下の部下)を「子ども」に置き換えることができますし、「上司」を「親や保育者」とも置き換えることができます。つまり、「みる・きく・はなす」という技術は保育者や教育関係者においてはより重要になってくる能力です。とりわけ、保育者は子ども・職場・保護者・地域関係とすべてが人間関係における環境がベースになります。成績などに囚われないために、そこで行うことはコミュニケーションのベースを養うことが重要になるのです。

 

武神氏は最後に「そのすべての技術の根底にあるのは『承認』です」ということを言っていました。これはビジネスコンサルティングをしている人が良く使う言葉ですが、保育においてはこの「承認」はそのまま「共感」や「安心」に置き換えることができます。つまり、大人だろうが子どもだろうが、自分の持っている能力を発揮するには、こういった関係性が大切なのです。こういった関係性があるからこそ、安心感や信頼感を覚えるのです。そして、何度も言いますが、それにおいては大人も子どももないのです。

 

武神氏は産業医として1万人以上の働く人と面談をした経験上、精神的ストレスを持っている人の多くに共通するのはこの「承認されたい」という欲求だと言っています。しかし、この裏に隠れているのは子ども時代の「承認された経験」の少なさもあるのかもしれません。今の時代、塾や習い事が多く子どもの自由遊びの時間がどんどん削られています。そんな時代で子どもたちは自分のやりたいことを存分にやっているのでしょうか。それが保障されているのでしょうか。早計な推測でしかないのですが、こういった幼少期における「遊びこみ」の少なさやその時に大人の距離感がうまくなく、自分というもののとらえ方が自分から発したものではなく、人の評価から自分を見る他律になっている中で自尊感情や自己肯定感が今の人はうまく得れていないのかもしれません。そして、それが結果として、社会に出てから問題に起きているように思えてなりません。「教育」や「保育」というもののあり方をこの本からも見えてくるように思います。

対処法

これまでは、メンタル不調者を出さないための対象の仕方が紹介されていました。では、実際、悩みや不安を抱えた人やメンタルヘルス不調の人と対話をするためにはどういったことを注意しておかなければいけないことなのでしょうか。それには5つの対処法があり、これらのことを意識する必要があると言います。

 

その一つ目が「⑴共感しても共鳴しない」ということで、これはベテランのカウンセラーでもなりうることだと言います。話している内容が深刻であった場合や相手が自分と似たような境遇であったり、生い立ちが似ていたりした場合、自分と相手を切り離して考えられないということがありえます。相手に感情移入しすぎてしまうということですね。あくまで「共感」することが大切です。共感とは相手の気持ちを受け止め、こちらから相手の感情を理解しようと積極的にすることです。しかし、「共鳴」となると、あちらが揺れればこちらも振動してしまう、相手に振り回されてしまうといった受動的なものになりよくありません。注意していても、そうなった場合、話を聞くのは1日に1人とか、リカバリーできるようになんらかの対応を考えておくとか、自分の無理のないコミュニケーションをとることが必要になってきます。

 

2つ目が「⑵拒否にも対処できるようにする」 ということです。時に、気になって声を掛けてみても「イヤ、いいです」と拒絶されることもあります。こういった場合、対処法はケース・バイ・ケースですが、1回拒否されたからと言って、それで引いてしまわないようにしなければいけないというのです。そして、何度も拒否する人に対しては個別に対策を何考える必要があるとも言っています。

 

「⑶つなぐ」 この場合は、たとえば、相手が拒否したとしても、「大変そう」と感じている時点で組織として何らかの対処をすべきであるとすることです。そういった意味では、医師やカウンセラーにつなぐということです。しかし、ここで注意しておかなければいけないことは、部下に何も言わずに産業医やカウンセラーのところに行って部下の相談をすると、産業医や健康管理士から部下に連絡が言った時に「誰が私のことを知らした」と、かえって殻に閉じこもって話をしてくれないようになりかねないことになります。ですから、「ちょっといいですか」と声を掛けた時に、拒否された場合でもきちんとカウンセラーや産業医に相談することを伝えたうえで、相談しにいく必要があります。そういったことを伝えておけば、たいていの人は上司から自分のことを伝えられるよりも、自分から面談に行こうとすることが多いようです。そのため、上司に必要なのは、まず最初に気づくことなのです。マネジメントする側やリーダーといった立場の人が察知し、適切な人、役職、場所、健康管理士やカウンセラーにつなぐことが大切なのです。

 

「⑷緊急性がある場合」 これは例えば「自殺の恐れ」などはまさにこれに該当します。「みる・きく・はなす」技術は相手を直接救うことが目的とされているわけではありません。必要なことは、話を聞いて必要に応じて専門家のところにつなぐことがコミュニケーションの目的なのです。しかし、手に負えないような自殺などのような緊急性のあるものは本人とのコミュニケーションを飛ばして、カウンセラーや産業医に連絡するなり、ご家族に連絡するなり、本人に「休め」というなり、素早い対処が求められます。

 

「⑸確信が持てない場合はどうするか」  部下についての変化を察知したとしても、自分の判断に自信が持てないことがあります。そういった場合はその部下の同僚など近い人に様子を聞くことも重要になります。しかし、ここで注意が必要なのが「様子を見てみよう」と放っておくうちに、深刻な事態になってしまうことです。だからこそ、積極的な行動は大切だというのです。

 

こういった対処法を行うような事態にならないような円滑なコミュニケーションがあることがそもそも必要なのであって、ここで言われることは最終的な関わりです。そして、その中心はやはり「きく」ということがもっとも重要な要素であるのですね。

新年

あけましておめでとうございます。

ブログをはじめてから最初の正月を迎えます。ほとんどが読んでいる本を通しての投稿が多いのですが、ここで自分なりに本の内容を解釈し、投稿していくことで様々な知識を得ることが多いです。まだまだ、つたない文章により読みにくいところもありますが、もしみられている方がいれば、ご容赦ください。

 

さて、昨年もたくさんのニュースが取り上げられました。「あおり運転」やあいかわらずなくならない「いじめ」とくに昨年は子どものいじめだけではなく、大人のいじめも多くニュースになっていました。また、中年世代の引きこもりも大きな問題になっているというニュースもありました・こういったニュースを見るたびに、「なぜこういったことになるのか」と思うことがあります。

 

先日紹介した、武神氏の本の内容も、メンタルヘルスに悩む大人が多い現状があるからこそ、こういった内容の本が必要とされるようになっているのだろうと思います。またここで話されていた内容は保育に置き換えられるように思います。つまり、問題は大人社会ではなく、その根本的な原因は乳幼児期も遡って考えていかなければいけない内容なのかもしれないと考えられます。今の社会、社会自体は成熟しているにもかかわらず、人同士の関わりというのはもしかしたら後退しているのかもしれないと感じます。

 

ポールタフ氏は非認知能力は乳幼児期に得られる力ということを話していました。そして、その力は将来大人になってからも影響のあることと言っています。つまり、今行っている保育の仕事がいかに人の人生に意味があり、誇り高く、重要な仕事なのかと改めて感じます。これからより多様な社会になり、AIなどが発展し、ますます複雑な時代になっていきます。そんな時代に活躍できる子どもたちをどう育んでいくのか、よく考えていかなければいけないなと思います。

正しい叱り方

「怒る」から「叱る」ためには相手を承認することが必要になってくると言っています。そして、実際「怒る」というときは意外と少ないというのも前回紹介しました。では、次に「叱る」ときにはどうすればいいのでしょうか。武神氏は相手を承認したうえで怒るためには、次の「守ってほしい項目」、「し・か・り・ぐ・せ」を守っていただきたい言っています。

 

まず、「し」は身体的接触は絶対禁止。多くの会社でパワハラかどうかの認定するときに最初の基準となるのが、身体的接触があったかどうかだからです。もちろん、ペンでたたくということや物を投げるというのは分かりやすいのですが、単純に肩を軽くたたくのも普段は問題にならなくとも、関係が悪くなると「小突かれた」や「触れられた」などとなってしまう可能性があります。

 

つぎに「か」過去は責めずに、隔離し2人で。過去は責めても変えられないのです。それよりも大切なのは今後です。過去を変えることはできなくても、そこに与える意味づけを変えることはできます。過去を学びや教訓にすることに目を向けるのです。また、部下を叱るときは人前ではなく、2人でというは基本だと言われていますが、これができていない会社は少なくないと言います。というのも、こういったことが起きる裏側には「叱る時にはほかのみんなにも聞こえるように言うことで、周りにも何がいけないかを伝えるため」という理由があることがあります。しかし、相手にもメンツやプライドがあります。特に大人になればなるほど、こういった意識は外資系に比べ、日本企業はできていない現状があるそうです。

 

つぎは「り」理論的に。感情的にならないようにすることです。この「り」にならないためには、次の「ぐ」具体的に。を守ることで可能になると言います。その「ぐ」具体的にですが、これは「何に対して叱るのか、ほめるとき以上に叱るときは具体性大事」なのです。そうでなければ、何に対して叱られているのかわからないということになりかねないのです。そして、これはほめるとき同様できるだけ早くすることも大切だそうです。最後に「せ」性格を責めない。事実に対して叱るべきであって、性格を責めるのはNGなのです。

 

ここで武神氏は一つの例を紹介しています。これは30代半ばの女性管理職が20代後半の女性職員に対して起こった内容です。あるときこの女性職員は遅刻が多く、また、短いスカートに胸元の開いたトップスといった格好が多かったのですが、管理職の女性は職場のみんなのまえでこう怒りました。「いつも遅刻してきて、どういうつもり!やる気あるの?ないの?恰好からしてだらしないのよ、その性格から治しなさい!」と怒鳴ったそうです。

 

では、これまでの「し・か・り・ぐ・せ」からみて解説してみましょう。このとき身体的接触はなかったので、「し」はOKです。しかし、遅刻してきたその場ではなく、過去の積み重ねを問題し、隔離もしていないので「か」はできていません。感情的に叱り飛ばしているので「り」もできていません。「ぐ」は遅刻のことは具体的ですが、服装のことは言わずにそれも含めて「だらしがない」と決めつけているので、これもダメです。そして、「せ」は性格を治しなさいなどと言っても効き目があるはずがありません。

 

このことを見ても、「しかりぐせ」ができていない、よくない叱り方だというのがわかります。この事例をみると「叱る」というよりは感情的に「怒っている」ように見えます。実際、これに似た事例によって自殺事件があったようです。まずは、相手を承認している気持ちがあることを大切にしてほしいと武神氏は言います。

 

これは親子においてもいえることで感情的に怒っている親をよく見ます。子どもにおいても「承認」されることは非常に重要な意味を持ちます。そこに存在意義を持つことは安心基地を持つことにもつながるのです。大人においても、子どもにおいても、「承認される」という環境にいることは情緒の安定において必要なことなのだとわかります。