アンジェラ・ダックワースはチャータースクールの顧問をしていたころ、チャータースクールは貧困層の子どもたちの環境を変える手段にはならないと思うようになりました。そして、ペンシルベニア大学の博士課程に出願するときに、いくつかの学校で働いた経験から学校改善について20代のころとは全く異なる見解を持つに至ったことを書いたそうです。そこには「問題は学校だけでなく生徒自身にもあるように思われる。理由は以下のとおりである。勉強は厳しい。もちろん楽しく刺激的で満足を与えてくれる側面があることは確かだが、時に気力を挫き、疲れさせ、やる気をそぐ面もある。知力がありながらつねに成績の悪い生徒たちを助けるには、気質が知能と同程度に重要であることを、教員と親がまず認識するべきだ」と書いています。
ダックワースは最初に自制心の研究を始めます。彼女はフィラデルフィアで164人の8年制を対象に従来の知能検査と標準的な自制心の評価を行いました。そして、その年度のあいだ、さまざまな学術的手法を使って生徒たちの成績の推移を分析しました。年度末になると意外な発見が出てきました。前年秋に実施した二つのテストのうち、知能検査の結果よりも自制心評価の結果のほうが評定平均(GPA)をより正確に予測する指標となったのである。
ダックワースはウォルター・ミシェルと共同研究を始めます。ミシェルはコロンビア大学の心理学の教授で、最近様々なところで聞くことが多くなってきた「マシュマロ・テスト」の研究で有名です。1960年代後半、その頃、スタンフォード大学の教授だったミシェルは4歳児の自制心をテストする独創的な実験を考え出しました。彼女は子どもを一人ずつ小さな部屋に連れていって机の前に座らせ、マシュマロなどのおやつを差し出します。机の上には呼び鈴が置かれています。実験者はこれからちょっといなくなるけどわたしが戻ってきたらそのマシュマロ食べていいわよ、と告げます。そのとき、子どもに選択肢を与えます。マシュマロが食べたくなったら呼び鈴を鳴らせば、実験者は部屋にもどり、子どもはおやつを食べることができます。ただし、実験者が自分から戻るまで呼び鈴を鳴らすことなく待てたらマシュマロは二つもらえるのです。
ミシェルは誘惑に抵抗するために子どもたちがそれぞれに使う手法を研究するつもりでこの実験を行ったのです。しかし、その後十年以上が経ち、褒美を我慢する能力が子どもたちの将来の成果とどう関連するかを調べ始めると、新たな側面が見えてきたのです。1981年の時点で見つけられた限りの生徒の追跡調査を実施したところ、マシュマロを我慢できた時間とその後の成績の相関には目を見張るものがありました。おやつを15分我慢できた子どもたちの学力検査の得点平均はものの30秒で呼び鈴を鳴らした子どもたちの平均を210点も上回ったのです。
2020年2月11日 5:00 PM |
カテゴリー:乳幼児教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
「性格」と言っても、時代背景や環境によって「良い性格」や「求められる性格」は変わってきます。しかし、「性格の強み」に話を持ってくるとその時代の道徳観や宗教上の規則や権威などは限定的になるのではないかとセリグマンとピーターソンは考えました。そして、様々な時代やどんな社会でも評価される24の性格の強みを整理していきます。その強みを育てることは特定の倫理体系に関わりなく現実的に利益を生むと考えたのです。そして、それは幸福であると同時に有意義で充実した人生へと通じる確かな道の一つになると彼らは考えました。
では、この「性格」についてはどう考えたらいいのでしょうか。多くの人は「性格」という言葉を生まれつきのもの、変わらないもの、人の本質を決める核となる性質という意味で使います。しかし、セリグマンとピーターソンはこれらの定義とは異なるものとして考えられています。二人は「性格」が変わることはおおいにある。適応できる力を備えた、強みや能力の組み合わせであると定義したのです。そして、性格とは習得でき、実際に使える、そして何より人に教えることができるスキルであると言っています。
しかし、実際のところ教員がそれを教えようとするとたいてい道徳の壁にぶつかると言います。1990年代にアメリカでは性格教育の大きな波が来ました。「アメリカのすべての学校が性格教育を行い、正しい価値観と正しい市民感覚を求める」ということが掲げられ性格教育プログラムがはじまりました。しかし、現在でも何百もの公立学校が性格教育のプログラムは実施されているが、多くは漠然とした表面的なもので、厳密な観察の結果、ほとんど効果がないと分かったそうです。教育省の付属機関である国立教育研究センタ―が2010年に実施した性格教育プログラムの全国評価では、小学校で普及率の高い7つのプログラムが3年にわたり調査され、その結果、児童の行動に関しても、成績に関しても、校風に関しても、プログラムの効果は全く見られなかったのです。
これに対し、セリグマンの語るアプローチは道徳を振りかざすのではなく個人の成長や達成に焦点を合わせているところでした。レヴィンとランドルフもこういった視点に興味を惹かれたのです。しかしKIPPは擁護者からも批判者からも道徳主義的であると思われています。このことはジャーナリストのディビット・ホイットマンが2008年の著書「小さなことへのこだわり」でKIPPアカデミーの同種のチャータースクールが採用している方式を「新しい家父長制」と呼んでおり、こうした学校は生徒たちに「物事を考える方法だけでなく、従来の中流階級の価値観に従って行動する方法も教える」と言っています。これに対し、レヴィンはKIPPのねらいが生徒に中流の価値観を教え込むことであるというは心外だと言っています。「”性格の強み“式アプローチは、価値判断が全く入らないところが美点だと思います」とレヴィンは言います。「“価値観・倫理観”式のアプローチでは“それは誰の価値観なのか?”“誰の倫理観なのか?”という問題に行きつくことが避けられない」となるからです。
これらを整理すると性格と道徳のつながりが見えてきますね。価値基準の主体を「自分」とするのか、「その文化や社会」とするのか。前者がセリグマンの言う「性格の強み」であり、後者を「道徳」というように見えてきます。現在、日本でも道徳の教育が教科化することが決まり、今後ますますこの議論がされていくのではないかと考えられます。そして、アメリカの例でもあるように漠然とした表面的なものではあまり成果が見られなかったことが日本でも起きるのではないかと思うのです。教科化されることで、その価値基準が子どもの主体から離れかねないからです。そのため、目を向けるのは教科やプログラムではなく、子ども自身がどういったところでこういった性格の強みをつけていくようになるのかを見ていかなければいけなくなるのです。
2020年2月10日 5:00 PM |
カテゴリー:乳幼児教育, 教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
いくら勉強ができても、KIPPアカデミーの生徒のようにその時代はよくても、その先に気持ちが持続しなかったり、目的を見失ってしまうことがあります。それは日本においても、就職しても長続きしなかったり、ひきこもってしまったりと社会問題になることが多いです。そして、このことには「気質」が大きく関わってきます。『オプティミストはなぜ成功するか』を著したセリグマンはこのことに対して「性格の強みと美徳」という本を書いています。これは「好ましい気質の科学的な分析」を始めようとする試みで研究されています。
まず初めにセリグマンは「性格」とは話をややこしくする言葉であると言っています。なぜなら、それは人によって意味するところが大きく異なるからです。また、それは特定の価値観への執着を表す言葉として表れることが多いというのです。つまり、時代とともに「よい性格」という意味が変わることは避けられようがないのです。ヴィクトリア朝のイギリスではよい性格の人物は、貞操、倹約、清潔、敬虔(けいけん)、礼儀作法などに重きを置く人のことでありました。西部開拓時代のアメリカであれば、良い性格といえば度胸や過剰なまでの自信、創意、勤勉さ、気概などを持ち合わせていることでした。しかし、セリグマンは著書を共に書き、共同研究をしているミシガン大学のクリストファー・ピーターソンとともにこうした歴史に伴う変化を超え、現代北米の文化の中だけではなく、どの時代のどんな社会でも評価される性質をつきとめようとしました。それはアリストテレスから孔子、ボーイスカウトからポケモン図鑑に至るまで、あらゆるものにあたって、多くの場所で高く評価されると思われる24の性格の強みをリストにまとめました。このリストには勇敢、市民性、公正、賢明、高潔といった従来高く評価されてきた特徴も含まれています。また、愛、ユーモア、熱意、美をめでる心といった情緒の領域に踏み込んだものもあります。さらに社会的知性(人間関係における力学を認識したり、異なった社会状況にすばやく適応したりする能力)、親切心、感謝の心といった日々の人間関係に関わるものもあります。
セリグマンとピーターソンの書くところによれば、ほとんどの社会において一定の道徳観を持っていることは長所とされ、多くの場合その道徳は宗教上の規則や制限と重なります。しかし、性格の強みの話をしようとすると、道徳の価値は限られたものとなる。なぜなら、道徳的な行いとは単に高い権威や規則に従っているだけの場合があるからです。彼らは「美徳は規則よりもはるかに興味深い」と言っています。セリグマンとピーターソンによれば、24の強みの真価はある特定の倫理体系との関わりから生じるのではなく、それが現実に利益を生むこと、つまりその強みをもっていることによって実際に何かが得られることにあると言います。そして、こうした強みを育てることは「良い人生」、つまり幸福であると同時に有意義で充実した人生へと通じる確かな道の一つであると言っています。
求められる人材というのは時代によって大きく違います。昭和初期などは「企業戦士」といわれるほど、トップダウン型に適応できる人が求められました。しかし、現在ではそういった良しとされていた性格は「イエスマン」や「言われたことしかできない」とネガティブな意味で捉えられる言い方に言い換えられています。確かに時代によってその性格の良し悪しは変わるのかもしれませんし、権威や宗教による規則や制限によって「道徳」のとらえ方も違うということが言えます。では、どうしたら、これからの変化のある社会や多様性を求められる社会で「豊かに」生きていくことができるのでしょうか。セリグマンとピーターソンは性格において、あることを定義しています。
2020年2月9日 5:00 PM |
カテゴリー:乳幼児教育, 社会 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
KIPPが始まって以来、レヴィンとファインバーグは学力と同時に良い気質を育てる授業をしようと明確に意識してきました。しかし、授業のコツや教育の参考になる教育者はいたのですが、気質の教育となるとその手本となる教育者を見つけられることができませんでした。そのため、KIPPではこういった気質を育てるにはどういった価値観や行動をしていけばいいのかを話し合うことが始められていました。
そんな中、2002年まだ、KIPPの最初の卒業生が高校生活を送っていたころ、レヴィンは投資管理の仕事をしている兄から『オプティミストはなぜ成功するか』という本をもらいました。著者はペンシルベニア大学の心理学者マーティン・セリグマンです。セリグマンはポジティブ心理学として知られる研究分野の中心人物の一人です。この1991年初版のこの著書はポジティブ心理学の基礎をなすテキストであり、「楽観主義とは生得的な気質ではなく習得できる技術である」と説いています。悲観的な人々もそれは成人でも子どもでも訓練次第でもっと希望を持てるようになり、そうなればより幸福に、健康になって、ものごとがうまく運ぶことが増えるというのです。
『オプティミストはなぜ成功するか』のなかでセリグマンは、多くの人々にとって鬱は病気ではなく、心理学者たちが信じるように「失敗の原因について悲観的な思い込みを心に抱いているとき」に起きる「ひどい落ち込み」であると述べています。そして、鬱状態を避け生活を改善したいなら、「説明スタイル」を変え、よいこと、もしくは悪いことが自分の身に起こった理由について自分自身のためのより良いストーリーを作り出す必要があるというのが彼の助言です。
セリグマンはペシミストには不快な出来事を永続的(パーマネント)なもの、個人的 (パーソナル) なもの、全面的(パーベイシブ)なものと解釈する傾向があるという。彼はこれを「3つのP」と言っています。「テストに失敗した?準備が足りなかったからじゃない、馬鹿だからだ」とか「一度デートを断られたら、もうほかの人を誘ってもしょうがない。だって自分がかわいくないのがいけないから」といった思考になるというのです。ずいぶんと悲観的な考え方ですね。
これに対して、オプティミストは良くない出来事については特定のものであり、限られたものであり、短期間のものであると解釈します。その結果、失敗のただなかにあっても気を取り直してもう一度やろうと思える可能性が高いのです。
レヴィンは本を読み進めていくうちに、セリグマンの3つのPの説明の多くが自分や同僚の教員や生徒たちに当てはまることに気づいたのです。そこで彼はセリグマンの著書から得た着想を基にKIPPアカデミーのスタッフに「反省と気遣いのための質問」のリストをつくり同僚の教員に配ることで、自分たちのやり方を再評価することをはじめました。
今日の日本でも、このセリグマンの著書に書かれていることに当てはまることがとても多いように思います。特に日本でかなり多くのうつ病になる人がいる状況を考えると、日本はペシミストの気質を持っている人が多いという証拠なのかもしれません。しかし、こういった気質は生得的、つまり生まれもって持っているものではなく、習得できるものであるということがいわれているのです。つまり、それは今の日本ではこういった気質を習得することが難しい環境が多いということを意味しているようにも思います。
2020年2月8日 5:00 PM |
カテゴリー:あいさつ, 乳幼児教育, 教育, 社会 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
KIPPのディビット・レヴィンはここを卒業した最初の生徒たちが大学で苦戦しているということに心を痛め、その対応策を探るため、大学のデータを集め始めます。しかし、最初のクラスだけではなく、2番目・3番目のクラスからも大学中退の知らせが舞い込むようになるとレヴィンはある興味深い事実に気づきます。それは大学で粘れるのは必ずしもKIPPでトップの成績をとっていた生徒たちではなかったのです。その生徒たちにはどういった特徴があったのでしょうか?
大学で粘ることができた生徒たちは「楽観的だったり、柔軟であったり、人付き合いにおいて機敏だったりといった、何か他の才能や技術を持った」生徒たちだったのです。そういった生徒たちは悪い成績を取ってもすぐに立ち直り、次回はもっと頑張ろうと決意できる生徒たちでした。親とのケンカや不幸な別れから立ち直ることのできる生徒、講義の後に特別に手を貸してくれるように教授を説得できる生徒、映画でも観に出かけたい衝動を抑えて家で勉強のできる生徒だったのです。こうした性質そのものはそれだけで学士号をとるのに十分な条件にはなりません。しかし、家族からの援助を当てにできない若者、裕福な学友たちが享受しているセーフティネットを一切持たない若者にとっては、こうした気質は大学を卒業するために欠くことのできない要素だったのです。
レヴィンが気が付いた大学卒業者に共通する気質は、ジェームス・ヘックマンや他の経済学者が非認知的スキルと呼ぶものと重なる部分が大きいのです。しかし、レヴィンはこのことを「性格の強み(キャラクター・ストレング)」と言っています。1990年代をはじめ、KIPPがヒューストンのミドル・スクールの教室が始まって以来、レヴィンと共同創立者のマイケル・ファインバーグは学力と同時に気質を育てる授業をしようと明確に意識してきました。壁には「コツコツ勉強」「人にやさしく」「近道はない」といったスローガンを掲げ、分数や台数だけではなくチームワークや共感や粘り強さを教えられるような褒賞と罰点のシステムを作り出しました。
もともとレヴィンとファインバーグは、新卒の若者を教師として派遣するNPO「ティーチ・フォー・アメリカ(TFA)」の第三期派遣団の一員としてヒューストンにきました。もともとは大学を出たばかりの無知な教師でした。最初のころはそれまでに会ったことのある革新的な教育者たちから授業のコツや戦略を借りることで、掛け算表からシェイクスピアまでどの強化も教えやすくなりました。しかし、気質の教育となるとレヴィンもファインバーグも手本を見つけることができないでいました。確立されたシステムがなく、それどころか議論もほとんどされていなかったので、KIPPでの話し合いは1から始めるしかありませんでした。どういう価値観や行動を、なぜ、どうやって育てるのか、教員と理事で毎年改めて意見を出し合うことをしていったのです。
その中でレヴィンは一つの本と出合います。そして、そこでの説明の多くが自分や同僚の教員や生徒に当てはまると気付いたのです。
2020年2月7日 5:00 PM |
カテゴリー:乳幼児教育, 教育, 社会 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
« 古い記事
新しい記事 »