ワーキングメモリ

実行機能は混乱していたり、予測がつきづらかったりする状況や情報に対処する能力として知られおり、それは子どもの衝動性を抑制する力として近年注目されている能力だと言われています。そして、この実行機能に関わる能力は家庭の経済状況と深い関係にあると言われています。

 

2009年にコーネル大学の研究者、ゲイリー・エヴァンズとミシェル・シャンベルクが企画した実験によって、子ども時代の貧困が実行機能にどう影響するかを実験し証明しました。この実行機能の中でも二人が注目したのは作業記憶(ワーキングメモリ)「いくつかの物事を同時に記憶する力」でした。これは長期記憶とは全く違うと言います。一年生のときの担任の名前を憶えていられるかどうかといったこととは関係がないのです。スーパーマーケットで買うつもりのものを全部覚えていられるかどうか、これがワーキングメモリと関係ある問題なのです。

 

このワーキングメモリの働きを測定するためにエヴァンズとシャンベルクが選んだ道具は「サイモン」という子ども用の電子ゲームでした。これはハズブロ社製のゲームで、LPレコードくらいの大きさで厚みがあります。UFOのようなカタチの玩具で、異なる色と音を発する4つのパネルがついています。このパネルがランダムに光り、挑戦者はパネルが光った順番を記憶します。このゲームを使ってエヴァンズとシャンベルクはニューヨーク州北部の田舎町で195人の17歳の若者を対象にワーキングメモリのテストを行いました。全員が生まれたときからエヴァンズの研究対象だったのです。

 

この対象者のうち、約半数が貧困ラインよりも下の家庭で育ち、残りの半数はブルーカラー、あるいは中流階級の家庭で育った。そんな中でエヴァンズとシャンベルクの最初の発見は成長期の間にどれだけの時間を貧困のうちに過ごしたかによって、サイモンのスコアをおおむね予測できるというものだったのです。つまり、十年を貧困の中で過ごした子どもは五年後の子どもよりもスコアが悪かったのです。しかし、この貧困とワーキングメモリの関係性はこれまでの研究ですでに分かっていることでした。

 

そこでエヴァンズとシャンベルクはストレスを測るのに新しい生物学的な物差しを導入しました。研究対象の子どもたちが9歳のとき、次いで13歳のときに、コルチゾールのようなストレスホルモンのレベル、血圧、肥満度指数などの生理的なデータを全員から集め、それらを組み合わせてアロスタティック負荷(ストレス対応システムが酷使されたことによる身体への影響)を測る独自のものさしを作り出しました。データを目のまえにすべて並べ、それぞれの子どもについてサイモンのスコア、過去の貧困度合、アロスタティック負荷の3つを見ていると3つの数値には相関があったのです。困窮した暮らしが長いほどアロスタティック負荷は大きく、サイモンのスコアは低かったのですが、ここで驚くべき発見があったのです。二人が統計学の手法をつかって、アロスタティック負荷の影響を除外すると、貧困の影響も一緒に完全に消えてしまったのです。サイモンのスコアが悪くなった、つまり実行機能の能力を阻害しているのは貧困そのものが問題なのではなく、貧困に伴うストレスにこそ問題があったのです。

実行機能

貧困家庭の子どもと中流の子どもの間の成績格差をうめる有望な手段としてとりあげられた「実行機能」ですが、現在分かっているところではこの実行機能とは高次の精神活動の集積であると言われています。ハーバード大学にある児童発達研究センターの所長ジャック・ションコフは、脳全体の機能を見渡して、実行機能を航空管制官のチームに喩えています。つまり、実行機能とは、ごく大まかにいって、混乱していたり予測がつきづらかったりする状況や情報に対処する能力のことを指します。

 

この実行機能の働きを試すテストとして有名なものにストループ・テストがあります。これは緑色の文字で書かれた「赤」という単語を見せられ、単語は何色で見えているかと尋ねます。「赤」と答えないためにはいくらかの努力が必要です。とっさに赤と答えそうになる衝動に抵抗するときに使うのが実行機能なのです。この機能は特に学校で大事なスキルであると言われているそうです。なぜなら、学校で子どもたちは常に矛盾した情報に対処することを求められるからです。Cという文字はKと同じように発音されます。taleとtailは、発音は同じでも意味が違うということが分かります。ほかにも「ゼロ」という概念にはそれ自体に一つの意味があるが、「1」と並べられると全く別の意味を持ちます。こうした多種多様なトリックや例外を飲み込むには、ものごとを認知する際の衝動の抑制がある程度求められます。これは神経学的には感情面の衝動の抑制(お気に入りの玩具の車を他の子にとられたときに、たたくのを我慢する力)と関連のあるスキルです。

 

ストループ・テストの場合においても、オモチャの場合においても、とっさの本能的な反応を抑えるために前頭前皮質がつかわれています。感情の領域で使うにしても、実行機能は学校生活を乗り切るための極めて重要な能力です。そして、この実行機能を必要とすることは幼稚園だろうが、高校生だろうが変わらず必要とする力です。

 

最近、自身の衝動性を抑えられない人の話をよく聞きます。前回の内容においても、そのことに触れましたが、それだけ、今の社会において「実行機能」が育っていない現状があるのかもしれません。そして、このことについてコーネル大学の研究者、ゲイリー・エヴァンズとミシェル・シャンベルクが企画した実験によって貧困と実行機能の関係性が見えてきました。この結果によって、保育の内容や今求められている子どもの環境が見えてくるかもしれません。そして、そこで見えてきた環境は今の日本においても非常に重要な意味を持っているようにも思います。

ストレスと脳

バーグ・ハリスはACE(子ども時代の逆境)に関するフェリッティとアンダの質問表に多少の変更を加えたものを使ってクリニックで700人を超える患者からアンケートを取ったところ、ACEの数値と学校での問題のあいだに不穏なほど強烈な相関が見つかりました。ACEの数値がゼロの患者のあいだでは、学習や行動に問題が見られるものは3%に過ぎなかった。しかし、ACEの数値が4以上のもののあいだでは、それが51%に上ったのです。

 

ストレス心理学者たちも、この現象を生物学的な側面から説明しています。脳の中で幼少期のストレスから最も強く影響を受けるのが前頭前皮質、つまり自分をコントロールする活動(感情面や認知的におけるあらゆる自己調整機能)において重大な役割を果たす部位である。このため、ストレスに満ちた環境で育った子どもの多くが、集中することやじっと座っていること、失望から立ち直ること、指示に従うことなどに困難を覚える。そして、それが学校の成績に直接影響する。抑えることのできない衝動に圧倒されたり、ネガティブな感情に悩まされたりしていれば、アルファベットを覚えるのも難しい。実際、幼稚園の教諭を対象とした調査の結果によれば、いちばん問題になるのは文字や数字を知らない子どもたちではなく、癇癪を抑えられない子どもたち、挑発を冷静に受け流せない子どもたちであるというのです。ある全国調査では、幼稚園教諭の46%が、自分のクラスの子どものうち少なくとも半数は指示に従うことができないと答えている。また、別の研究ではヘッドスタート(低所得層の就学前児童を対象とする、アメリカ政府の育児支援プログラム)の教員からの報告が取り上げられています。彼らの生徒の4分の1以上に、ほかの子どもを蹴ったり脅したりといった自制心の欠如を示す深刻な問題行動が、少なくとも週1回は見られると伝えています。また、ストレスの前頭前皮質への影響の中には、感情又は心の問題として分類されるものもある。それが不安と抑鬱です。前頭前皮質に過重な負荷がかかった結果、感情を制御することが困難になることがあるのです。

 

しかし、多くの場合は、ストレスの影響はおもに思考を制御する能力を弱めるかたちで出ます。これは「実行機能」として知られる、認知をつかさどる特定の機能が前頭前皮質にあるからなのです。富裕な学区では「実行機能」は教育上の新しいキャッチフレーズになっています。評価・分析すべき最新の事象というのです。しかし、貧困家庭に育つ子どもの研究をしている科学者のあいだでも、「実行機能」は別の理由から魅力的な新分野となっています。それは実行機能の改善が、貧困家庭の子どもと中流の子どものあいだの成績格差を埋める有望な手段に思われたからです。

 

子ども時代の逆境という環境は身体的な影響だけではなく、脳の前頭前皮質にまで影響をあたえ、その影響が子どもの集中力や衝動性、問題から立ち直るレジリエンスといったものにまで影響するのですね。このことを受けて考えてみると、今、教育現場の中で言われている「小1プロブレム」や学級崩壊、うつ病やひきこもり、最近のニュースでは「あおり運転」なども衝動性を抑制する力が無くなってきているといことにつながっており、社会の中で起きている問題行動と子ども時代の環境は決して無縁ではないのだろうと思います。乳幼児期の保育や環境というのは調べれば調べるほど、いかに重要な時代であり、それを受け持つことがいかに責任のあることなのかと感じられます。「環境を通して」ということは保育所保育指針でも、幼稚園教育要領にも書かれていますが、その重要性をもっと深く考える必要がありますね。

アロスタシス

ロックフェラー大学の神経内分泌学者のブルース・マキューエンは1990年代のはじめに提唱したストレス反応についての理論を提唱し、今も広く受け入れられています。マキューエンによると、ストレスを管理するプロセス(彼はこれを「アロスタシス」と名付けた)こそが体を損なう要因になっていると言っています。人体のストレス対応システムは、酷使すればやがて壊れてしまうのです。そして、このストレス対応システムによって徐々に進行する人体への負担をマキューエンはアロスタシスによる負荷(アロスタティック)と呼び、負荷による有害な影響は体を観察していればわかると言います。たとえば、急激なストレスによって一時的に血圧が上がるのは、危機的な状況に対応するために必要なだけの血液を筋肉や内臓に送り込むためなのだが、この血圧の上昇が繰り返されると動脈内に隆起が生じ、心臓発作の原因となる。継続してかかるストレスにより、結果として心臓発作になりかねないということが見えてきます。ACEの数値が高い人が虚血性心疾患になる危険性をはらんでいるということとつながります。

 

しかし、本来、人間のストレス対応システムは受けたストレスの種類によって適切な防衛機制がひとつだけ引き出されるのがよいのです。たとえば、もし何かで軽傷を負ったなら、免疫システムが働いて大量に抗体を作り出せばよいのですし、もし、攻撃者から逃げる必要があるのなら、心拍数や血圧が上がればいいのです。しかし、HPA軸(視床下部・下垂体・副腎系)は脅威の種類を見分けることができないため、どんな脅威に対してもすべての防衛機制をいっぺんに活性化させるのです。つまり、一つの脅威に対して全く助けにならないストレス反応もしばしば起こるというのです。たとえば、聴衆に向かって話をしなければならないときに突然口が渇いてしまうといったことなどです。これはストレスによって危険と察知したHPA軸が襲撃に備えて水分を保存しているのです。そうなると必死で水の入ったグラスを探し、中身をごくごくと飲み干すことになります。

 

現在、これらのアロスタティック負荷を測定する数値も現在では研究され、ある程度数値化する指標が見えてきているそうです。そのため、医師が例えば20代の患者に出してみせるたった一つの数字に、当の患者がそれまでに受けてきたストレスと、そのストレスの結果として現在直面している健康上のリスクとの両方が反映されてしまうというのです。そして、それは厳然たる医療データを反映したものとして出てくるのです。そのため、現在では子ども時代の逆境が実際に体に及ぼした影響は皮膚の下、体の奥深くに刻みこまれたものとして見えてくるようになってきたのです。

 

このようにストレスは体に影響が出てくるだけではなく、数値化できてくることが分かってきました。そして、それは体だけではなく脳においても影響が出てくるということも分かってきました。

HPA

アンダとフェリッティは逆境によるストレスが、発達段階の体や脳にダメージを与えると言っています。

 

私たちの体はHPA軸と呼ばれるシステムを使ってストレスに対応している。HPA軸は「視床下部・下垂体・副腎系」の略で、これは困難な状況への反応として脳から体へと化学信号が流れる様子を表している。視床下部、つまり体温や空腹感、渇きなどの無意識に起こる反応をつかさどる脳の領域は、なんらかの危険を感じとったときに最初に防衛にあたる。まず、視床下部が化学物質を放出して下垂体を刺激し、それを受けた下垂体がシグナルを伝達するホルモンを放出する。そのホルモンにより副腎が刺激を受け、グルココルチコイドと呼ばれるストレスホルモンを送り出して特定の防衛反応のスイッチを押す。こうした反応のなかには自覚できるものもある。恐怖や不安といった感情や、心拍数の上昇、発汗、口内の渇きといった体の反応がそうです。しかし、HPA軸の影響には、自分の体内で起っていることなのに直に感知できないものが多いのです。神経伝達物質の活性化、血糖値の上昇、心臓血管系から筋肉への血液の流れ、血中の炎症性たんぱく質の増加などがその例です。

 

「なぜシマウマは胃潰瘍にならないのか」(シュプリンガー・フェアラーク東京、1998年)の中で、神経科学者のロバート・M・サポルスキーはこう言っています。「わたしたちのストレス対応システムは、他のすべての哺乳動物と同じように、急性のストレスに反応できるように進化してきた。人類がサバンナに暮らし、捕食者から逃げ回っている分にはそれでよかった。しかし、現代の人類はめったにライオンと戦ったりしない。今日のストレスの大半は、さまざまなものごとについて心配するという精神機能からくる。だがHPA軸はその種のストレスに対応するようにはできていない。」と言っています。そして、「人間の生理システムは急を要する身体的な非常事態に反応するよう進化してきたものである。しかしわたしたちは住宅ローンや人間関係や昇進について心配することで、そのシステムを何カ月ものあいだ使い続ける」というのです。

 

こうした生理システムの使い方は効率が悪いだけではなく、きわめて有害でもある。その証拠にここ15年以上の間に多く発見されている。HPA軸に、特に幼少期に負荷をかけすぎると、長期にわたる深刻な悪影響が体にも、精神にも、神経にも様々に出てくるのです。しかし、このプロセスの難しいのは、わたしたちをかき乱す原因がストレスそのものではないという点です。原因はストレスに対する反応にあるのです。