卒業と非認知スキル

アンジェラ・ダックワースはボーエンらと同じように中学と高校の生徒の間で、評定平均と標準テストのスコアを分析すると、純粋なIQ検査から予測できたのが標準テストの得点、自制心のスコアから予測できたのが評定平均でした。このダックワースの調査結果とボーエン、チンゴス、マクファーソンの前回紹介した発見をまとめると、ある学生が大学に入学し、卒業できるかどうかは、当の学生の頭の良し悪しとはあまり関係がないことが見えてきます。むしろ中学や高校で高い評定平均を取るための性格の強みと関係があるというのです。ボーエンらは「私たちがみたところ、高校の成績は学科の習熟度以上の者をあらわにしている。モチベーションと粘り強さ、そして、さらに、よい学習習慣と時間管理能力の有無を明らかにしている。これは当の生徒が大学の教育課程を修了できるかどうかを判断する大きな材料となる」と言っています。大学に入るための知性と卒業するための力というものには違いがあるのですね。

 

ここで出てくる二つの研究結果から見えてくることは非常に面白い結果です。そして、学校というもののあり方もよく考えていかなければいけないと思いました。私は常々、塾と学校との関係に少し違和感を感じていました。なぜ学校があるのに塾に行くのか。学校の必要性とは。様々な意味合いから見えるものがあるように思います。よく日本において学校は学習指導だけではなく、生徒指導もあるということが言われます。この生徒指導があるからこそ、日本の教育現場はAI化されないのではないかとも言われています。そこにはこの自制心ややり抜く力といった、AIでは代替できないものが含まれているからなのでしょうね。

 

また、タフ氏はこういった自制心ややり抜く力はひとたび思春期に達してしまえば、こうしたスキルや習慣を教えるのはもう無理であるという見方もあるだろうと言っています。しかし、それはその時点であるかないかだけの問題であり、そうしたスキルや習慣を持っていれば卒業でき、持っていないければできない、それだけのことかもしれないと言っています。つまり、和解チェスの選手たちの考える力を育んだスピーゲルや美容師のラニータ・リードが17歳のキーサ・ジョーンズの人生観や性格を再構築したことなどを考えてみると、ジェームス・ヘックマンのいう「非認知的スキル」やディビット・レヴィンのいう「性格の強み」を使うことによって素早く予想外の変化を遂げ、生徒たちの変化を助ける方法を見つけました。ということは、この方法を大勢の生徒に用いることで彼らが大学を卒業するのに必要な知的技能や性格の強みを伸ばす手助けができるのではないかというのです。

適正検査と卒業

『本物の教育』を書いたマレーはアメリカ国内では最も有名な認知決定論者でもあります。彼の論旨は知識至上主義(重要なのはIQであり、それは人生のかなり早い段階で来ますという考え方)の一つの形に過ぎない教育とは、スキルを身につけさせるものではなく、人々を選り分け、高いIQをもったものに潜在能力をフルに生かす機会を与えるものであるとしていました。しかし、ボーエンらがデータをよく観察してみると、低所得層の学生が大学を選ぶときに無理をして背伸びしているわけではないことが分かった。それどころか、実際には彼らの多くが自分の評定平均や共通テストの結果よりずっと低いスコアで入れる大学を選んでいた。このように「アンダーマッチング」というこの現象は、裕福な学生のあいだではあまり見られなかった。不利な状況にある生徒に限定された問題だったのです。

 

ボーエンやマクファーソンらがデータを分析していたところ、一流大学に入れるほど学力をもった富裕層の学生の4人に3人がそのとおりに進学しました。しかし、同等の優秀な成績を修めながら、親が大卒者でない生徒の場合には、3人に1人しか一流大学に進学しなかった。しかも、難易度の低い大学を選んだからといって、こうした学生たちが大学を卒業する確率が上がるわけではなく、むしろ逆効果だったのです。3人が発見したところによれば、アンダーマッチングは確実に大きな間違いでした。

 

また、他の発見もあります。学生が大学をきちんと卒業できるかどうかを予測する正確な指標は、入学のためにうける二つの共通テスト(SATとACT)の結果ではなかったのです。実際には、最難関の公立大学でないかぎり、ACTのスコアは大学を卒業できるか否かとはほとんど関係がなかった。それよりはるかにデータとしてあてになったのは高校時代の評定平均だったのです。

 

このことは大学入試に関わる人にとってショッキングな内容でした。なぜなら、このことはアメリカ社会にあった能力主義の精神に反するからです。そもそも、このSATという大学進学適性検査が開発されたのは、高校の成績で先を見通すのは無理ではないかという疑念が大きくなったからです。様々な広い地域のあるアメリカで、どうやって学力を比べるのかという問題を解消しようと、大学でやっていける能力を一つの明白な数字へと純化する客観的なツールとしてつくられました。

 

しかし、ボーエンとチンゴスとマクファーソンが調べたところによると、SATやACTよりも、高校の成績こそが、卒業できるかどうかを見分ける正確な指標であったのです。確かに名門校と教育困難校の平均評定が同じだと、名門高校のほうが卒業できる可能性は高いのだが、どの差は意外にささやかだったのです。そして、彼らは「高校の成績が非常に良かった学生の大多数は、たとえその高校が困難校でも、どこであれ入学した大学をきちんと卒業した」と言っています。

つまり、卒業するということは学生の頭のよさとは別のところにあるのだということが分かります。このことをダックワースも調査をしていくなかで、同じような結果を見つけていきます。そして、その結果の中で、やり抜く力と自制心との関係を改めて見つけていきます。

大学の問題➁

アメリカの大学において、入学よりも卒業に限定や不平等の問題があったというのですが、それはいったいどういうことが限定であり、不平等であるといえるのでしょうか。OECD(経済協力開発機構)の加盟34カ国のなかで、大学への入学率が8位というアメリカですが、卒業率からいうと下から2番目で、うしろにいるのはイタリアだけでなのです。そう遠くない昔、アメリカは大学の卒業生を生み出すことにかけては世界をリードしていました。しかしそれが今では、大学の中退者を生み出すことで世界をリードしているのです。

 

ただ、不思議なのはこういった現象が大学教育の価値の上昇と同時に起こっている点だというのです。つまり、中退者が世界でも多く出ているのだが、大学の価値は上がっているというのです。アメリカで学士号を取ると、高校の卒業証書しかもたないアメリカ人と比べて83%増しの収入を期待できるのです。これは経済学者に言わせると「学歴間経済格差」という用語になりますが、先進国の間ではもっとも高い数値で、40%しか差のなかった1980年以来急激に増えました。

 

ということは、やろうと思えばできるのに、大学を卒業しない今日のアメリカの若者は「大量の札束を道端に置き去りにしているようなもの」なのです。では、なぜ、学位にこんなにも価値があることや、アメリカ以外の国では大卒者が急増しているのに、アメリカの学生が中退するのでしょうか。

 

この疑問への最良の答えとなるものが大学の元学長であり経済学者でもあるウィリアム・G・ボーエンとマイケル・S・マクファーソンが共著した2009年の『ゴールラインを越える』にでてきます。そこでは、どの生徒が無事卒業したか、どの生徒が中退したか、そしてその理由に関するものが書かれており、それは驚くべきものでした。それは特定の楽器に中退者が多い現象について、学生側、特に低所得層の学生が抱く非現実的で過度な期待に問題があると説明されていました。チャールズ・マレーが2008年に書いた著書「本物の教育」には「アメリカの高等教育の本当の危機は大学教育を受けられる若者が少なすぎることにあるのではなく、多すぎることにある」と論じています。そして、アメリカ人にはもともと「教育にロマンティシズムを求める」傾向があり、このため学ぶ能力が足りないだけの学生まで大学に押し込もうとするとマレーは書いています。そのため、高校の進路指導にあたる教員や大学の入学許可にかかわる職員が「希望的観測、婉曲表現(えんきょく:遠回しな表現)、善意の平等主義の霧」の中で道を失い、IQの低い低所得層の学生に知的な負荷の多すぎる大学教育を進めてしまっているため、そうした学生が学業に必要とされる知性を持っていないと自覚したときに退学するのだと言います。

 

アメリカとは実情は違えど、日本の場合も似たような状態にあるように思います。今、日本では大学にいくのは既定路線であり、大卒を取ることが当たり前の世の中になっています。また、少子高齢化しているため、大学も存続のため、学生の確保に奔走するなか、どれほどの教育の意図が遂げられているのかが疑問となっています。日本の場合は、アメリカとは逆で「入るまでは困難」である国なのでそれはないのかもしれません。しかし、「出るのが簡単」と言われるように逆に入ってからのモチベーションが低いようにも見えます。実際、入ることにばかり目が向くあまり「燃え尽き症候群」と言われるような、入学してから無気力になってしまう人がいるということが問題になっていました。結果として、「大学での学び」というものがどれほど生かされているのかが問われているようにも思います。

大学の問題

日本の大学は昔から「入りにくく、出やすい」ということがいわれていることに対し、アメリカの大学は「入りやすく、出にくい」とよく言われることが多いように思います。そして、アメリカの大学といえば、世界トップクラスの大学が名を連ねていることも多いです。しかし、そんなアメリカの大学で問題が起きていると言っています。

 

そもそもアメリカの大学は20世紀のあいだずっと、高等教育システムの質とそのシステムを首尾よく通過した若者の割合において、並ぶもののない国でした。1990年代の半ばにいたるまで、アメリカの大卒者の割合は世界一高く、先進諸国の平均の倍以上だったのです。しかし、今や世界の教育に関する入れ替わりは激しく、25歳から34歳までの人々の4年制大学の卒業率でアメリカは1位から12位に転落しています。それはアメリカの国内の大卒率が減っているわけではなく、他国の割合が急激に伸びているのです。

 

ある分析によると1990年代から2000年の間に、大学を卒業した親がいる裕福な生徒の学士号取得率は61%から68%に増えたのに対して、最も不利な状況(低所得者層のうちでも下位25%の家庭に育ち、親が大学を出ていない子どもたち)の間の取得率は11.1%から9.5%に減っているのです。これは不平等の広がりつつある現在において、この傾向は意外には思われないかもしれない。つまり、アメリカの階級格差が起きていることが見えてくるからです。しかし、前世紀にはすべてが全く違っていたということを覚えていた方がいいとタフ氏は言います。

 

ハーバード大学の経済学者であるクローディア・ゴールディンとローレンス・カッツが2008年に著した『教育とテクノロジーの競争関係』には、20世紀のアメリカの高等教育の歴史は事実上、民主化の歴史と重なるとかいてます。つまり、初め1990年ごろはアメリカの大学の卒業生はたったの5%ですべてはエリートの裕福な白人でした。そこから戦争がえりのアメリカ兵が大学に行くのを助ける法律ができたことや、女性については、大卒者の割合の増加が男性をはるかに超えたことが時代とともに変化してきました。そういったことが結果として、アメリカのキャンパスはエリートだけの場所ではなくなり、多様性が増していくことになります。工場労働者の子どもが工場所有者の子どもと同じ空間で学ぶこともありえるようになります。そうした時代が「教育に関する上向きの流れがそのまま社会全体の特徴となっていた」とゴールディンとカッツは書いています。しかし、現在、各世代がそれぞれに前の世代の教育レベルを大きく超えた時代の進み具合は止まっているというのです。そして、高等教育システムは社会の流れをつくる道具であることをやめ、平等の機会を増やすことをやめてしまいます。

 

最近にいたるまで、教育政策の関係者は大学の門戸を広げることだけに力を注いできました。特に不利な状況にある若者の入学を増やすかなどです。しかし、大きな問題は入学ではなく、卒業の方に限定や不平等の問題があるのではないかということが見えてきたのです。

知性とは何?

知性とはどういったことをいうのでしょうか。チェスが上手な生徒は知性が高いということが言えるのでしょうが、それと勉強とは同じと捉えられるのでしょうか。スピーゲルはチェスで優秀な成績を残したある生徒の高校共通学力テスト(SHSAT)で、その問題にぶち当たります。全州標準テストで常に平均以下の得点の生徒にSHSATで好成績を取らせる方法はないと思われると言われる中、スピーゲルはその生徒が驚異的なスピードでチェスの知識を吸収するのを見てきたし、教師としての自分の能力を信じていました。彼女は「半年もあるんだから、彼がのめり込んで勉強するならなんだって教えられる」と思っていました。

 

しかし、その三か月後、その自信はなくなってきます。スピーゲルはその生徒と一緒に懸命に試験勉強に取り組み、生徒も勉強に専念したが、彼があまりにもなにもしらないのでスピーゲルの気力は挫けそうになっていました。彼は地図上でアフリカやアジアがどこにあるかもわからない。ヨーロッパの国名も一つもあげられない。その2か月後には放課後や週末を使って一度に何時間も勉強したが、なかなかうまくいかず、スピーゲルは望みを失いかけていました。しかし、その気持ちは沈む一方で、その生徒のやる気をそがないように努めていました。たとえば、彼が落胆して相似や三角法は自分には無理だというと、「それだってチェスみたいなものよ」と明るく答えたのです。「数年前はチェスだって全然できなかったのに、特別な訓練をして、一生懸命に勉強して上達したじゃない。」「試験についても特別な訓練をすれば、あなたならきっとできるようになるはず」と伝えると「オーケイ、問題ない」と彼は嬉しそうに答えます。

 

そこでスピーゲルは疑問に思います。ここに明らかに素晴らしい知性をもった若者がいます。そして、彼は「やり抜く力」の好例のようにも見えたのです。情熱を注いで達成したい明確な目標があり、その目標に向けて真剣に、飽くことなく、しかも効果的に取り組んでいたのです。しかし、それなのに学業に関する標準的な指標によれば彼は平均を下回り、良くて凡庸な将来しか望めないのです。その生徒の将来を見ると凡庸なチェスプレイヤーからすると驚異的な成功物語であったが、その反面、彼自身からすると生かしきれなかった潜在能力の話になってしまうのです。

 

スピーゲルは彼がこれまでの人生でチェスと関係のない情報についてほとんど教わってこなかったことにショックを受けていました。彼のためを思うと怒りすら感じるというのです。「分数の基礎は知っている。でも幾何学は知らない。等式の書き方も理解していない。彼の今の学力は私が2年生か3年生だったころと同程度、つまり7~8歳であり、12歳のその生徒からするとかなり低く、もっと勉強しておくべきだったとスピーゲルは思ったのです。

 

SHSATは詰込みの勉強では対処できないようになっています。つまり、受験者が何年もかけて積み重ねてきた知識やスキルが反映されるのです。その多くは子ども時代を通じて家族や周囲の文化から気付かぬうちに吸収されたものです。もし、かれが7年生ではなく、3年生のころから数学や一般的な知識を習得していれば、チェスに費やしてきたのと同じだけのエネルギーを注いで、同じだけの助けを得られていたら、間違いなくSHSATを制することができたのではないだろうか。学業での成功を、盤上での成功と同じくらい魅力のあるものに見せてくれる教師に出会いさえしておけばと思ったのです。

 

これに近いことが大学入試でも起こっているように思います。以前リクルートの方と話をすることがあったのですが、最近の新社会人において、教養や勉強ができるが一般常識や一般的に当たり前のことができない若者が増えていると話されることがありました。ある意味でここで出てきた生徒における「チェス」のようにのめり込むものや強制されるものに目が向くあまり、その他に目がいかないこともあるのかもしれません。知識至上主義ではいけないのではないかと「成功する子・失敗する子」を書いたポール・タフ氏は言っていますが、その一端がここから読み解けているように思います。では、バランスよく成功していくにはどういったことが必要になってくるのでしょうか。