非行と発達障害

最近、「ケーキの切れない非行少年たち」という本が話題を呼びました。これは立命館大学で臨床心理の教授であり、もと精神科医の宮口幸治氏が著した書籍です。手に負えない犯罪者の子どもたちの様子から日本の発達障害教育における問題、そして、提案を挙げています。もともと彼は大阪の公立精神科病院に児童精神科医として勤務しており、外来や入院病棟で発達障害、被虐待、不登校、思春期の子どもたちなどを診察していました。そして、そこで発達障害を持った子どもと出会います。

 

この少年は性の問題行動をたびたび起こしていました。とにかく年齢関わらず、女性の体を触ってしまうというこだわりがあったのです。そこで宮口氏は彼に認知行動療法を行います。これは前回のポール・タフ氏の著書にも紹介されていましたが、思考のゆがみを修正することで適切な行為・思考・感情を増やし、不適切な行為・思考・感情を減らすことや対人関係スキルの改善などを図る治療法の1つです。一つの見方ではなく、違う見方を伝えることで自分の思考のゆがみに気づき、その後はより適切な行為・思考・感情につながっていくことになるのを目的にしています。こうやって考え方の思考をかえることでより好ましい行動につなげていく認知行動療法は性加害者への治療プログラムの根幹にもなっています。

 

性加害者は性に対して歪んだ思考(実は女性は襲われたがっている など)を持っていたり、対人関係において「社会の人たちは皆敵だ」「自分はみんなから避けられている」「自分には価値がない」といった攻撃的、被害的思考をもっている場合があり、そういった歪んだ思考が性加害行為につながっている可能性があるのです。しかし、この認知行動療法を施している間にも、その時には反省していたのにも関わらず、少年は性の問題行動を起こします。その後、なぜそうなったのかその原因が分かりました。かれは知的なハンディも併せ持っていたために認知機能が弱く、認知行動療法のワークブック自体がしっかりと理解できていないかったのです。

 

認知行動療法は「認知機能という能力に問題がないこと」が前提に考えられています。そのため、認知機能に問題がある場合(発達障害や知的障害の場合)、効果ははっきりとは証明されていません。そのため、認知行動療法がベースとなったプログラムは効果が期待できない可能性があるのです。結局病院ではこういった発達障害や知的障害を持ち問題行動を繰り返す少年に対しては、投薬治療といった対症療法しかなく、根本的に治すことは困難なのです。

 

宮口氏はなぜ彼らが法を犯したのか、犯行に至った背景や問題点はよくわかるのですが、少年たちに対してどう支援をしていけばいいのかに非常に悩んだそうです。投薬以外の個別カウンセリング、認知行動療法、作業療法などで解決するは思えず、その他の手立ても思いつかなかったのです。そこで少年院に来て、驚いたことがあります。それは発達障害の子どもでも病院を主審する児童・青年は比較的恵まれた子どもたちだったのです。もちろん、虐待を受けた子もいたそうですが、基本的には病院には保護者や支援者がいなければい連れてこれないのです。また、非行に走って加害者になり、警察に逮捕され、さらに少年鑑別所に回され、そこで初めて「障害があった」と気づかれるという現状もあったのです。つまり、現在の特別支援教育を含めた学校教育がうまく機能していなかったのです。では、どうしたらこういった少年たちを更生させることができるのでしょうか。そして、その根底にどういった特徴があるのでしょうか。

子どもの未来と大人の姿勢

子どもと不利な状況について新しい考えかたを提唱している人々が自説を主張するとき、経済の話をすることがよくあります。それは国家的な規模で子どもの発達へのアプローチを変えていくべきだ、なぜならそれが資金の節約にも経済の改革にもつながるからだと考えるからです。実際、ハーバード大学内の児童発達研究センターの所長ジャック・ションコフは低所得層の親への効果的な支援プログラムを子どもが小さいうちに実施すれば、あとになってから治療教育や職業訓練を現行のアプローチよりはるかに費用がかからないうえに、効果もずっと高いと主張しています。ジェームス・ヘックマン氏はもう一歩計算を進め、ペリー・プレースクールは1ドルの投資に対して7ドルから12ドル分の利益をアメリカ経済にもたらしたとしています。

 

しかし、タフ氏が共感を覚えたのは、経済の話ではなく、個人的な主張の方だったと言います。彼は逆境に育つ若い人々と一緒に過ごしたとき、二つの感情がこみ上げるのを抑えきれなかったと言います。一つは、彼らがすでに何かを逃してしまったことへの怒りです。たとえば、ケウォーナがミネソタのミドルスクール時代に他の子どもたちが数学や比喩の勉強をしている間にポップコーンを食べながら映画を見て過ごしたという当時の気持ちを語ったときに、タフ氏は彼女のことを思うと怒りすら感じるというのです。なぜなら、彼女は結果として、いまになって倍も懸命に勉強しなければならないからです。

 

しかし、その反面、タフ氏はケウォーナが実際に倍の勉強をしていることに対して、二つ目の感情、賞賛と希望を感じたと言います。それは避けられない運命と見えたものに背を向けてよりよい道を行くという、苦痛を伴うはずの困難な選択をする若い人々を見たときに感じたと言います。ここで登場した彼らや彼女らは自分が10代だったころより自分を作り直すためにはるかに真剣に勉強している。そうやって毎日もう一段、さらに成功に満ちた未来へと梯子をのぼる。

 

このときにタフ氏はあるたとえをしています。「そのときまわりにいる私たちは、彼らの努力に拍手喝采をおくり、いつかもっと多くの若者が彼らに続いてくれることを望むだけは十分とは言えない。彼らだって一人でそのはしごに身を引き上げたわけではない。彼らがそこにいるのは、誰かが一段を登る後押しをしたからだ」

 

私は教育は導くものではなく、フォローしてあげるべきものではないかと思わなくもありません。本来の教育のあり方は、学習であり、そこには主体性があります。つまり、学びたいものを選ぶのは子どもであり、「学ばせる」というのは子ども主体ではなく、大人主体なのです。そして、「学ぼう」と思うのであれば、そこに「学ぶ目的」がなければ、なかなか学ぶのはつらいものになります。そして、その目標は「夢」であると思います。今の日本でどれほどの子どもたちが夢を持って「まい進」できているのでしょうか。貧困などの経済状態も家庭にはあるでしょう。そういった子どもたちが夢を持てるようにどれだけ支えれているのでしょうか。ポール・タフ氏の話は自制心や実行機能、など今求められている子どもの能力を紹介していますが、その下支えとなる大人のあり方も大いに影響のある内容として描かれています。では、どういった環境を作ることが必要なのか、それが子どもの将来のために役立てるのであろうか。そんなことを考えます。

子どもと周囲の環境

アメリカでは保守派が性格が重要であるという主張が正しいことが科学的に示されたのですが、貧困に関する典型的な保守派の議論が一歩及んでいないことがあるそうです。なぜなら保守派の主張が「性格が重要である・・以上」で止まってしまうからです。彼ら自身の力でそうなってもらうしかない。言って聞かせることはできるし、罰則を設けることもできるが、我々の責任はそこまでだ、というわけなのです。つまり、「性格が重要である」とは言っているものの、それは生まれながらであり、そこに関するアプローチは何もできていないのです。

 

しかし、実際のところ、科学によって、和解人々の成功にとって極めて重要な役割を果たす性格の強みは、生まれながらのものではないということが分かってきました。そのため、幸福や良質な遺伝子の結果として魔法のように現れるものではないのです。脳内の化学反応に根差し、子どもが育つ環境によって形づくられるため、ある程度は計測、予測が可能です。つまり、社会全体としての私たちにも多大な影響力があるというのです。誕生から大学を出るまでのあいだ、どういう種類の支援策が強みやスキルを伸ばすかについてはいまやたくさんのことがわかっています。親は格好の媒体ですが、唯一の媒体ではない。強みの形成を助ける力はソーシャルワーカーからも、教員からも、聖職者からも、小児科医からも、近隣の住人からも発することができる。たすけとなる支援策はどこから提供されるべきか、政府からか、非営利団体からか、またはそのどれもの組み合わせかを議論することができます。どちらにしても、我々にはできることは何もないとはいえないことが分かってきました。

 

このことは日本においてももっと主張されてもいいのではないかと思います。日本においては「母親神話」とでも言われるほど、「母親が子どもを見なければいけない」と言われる風潮があまりにも強いように思います。いまだ、育児休暇の取得率は女性にくらべ、男性の取得率は低いままであったり、まだまだ女性と子どもとの関係が限定されて見られる風潮が残っているように思います。確かに母親との愛着は非常に子どもにとっての影響は少なくはありません。しかし、それだけではなく、父親にしても、社会においても、子どもを取り囲む環境にこそ、影響を受けているのを忘れてはいけません。また、これは保育現場においても、言える内容であり、未だ保護者の目線は子どもに影響を及ぼすのは先生や教職員であるという意見も多くあります。そのため、親からしても「あの先生は当たり」と言われてあり、逆に「あの先生ははずれ」というように見られることが多くあります。確かに一人の先生に限定した保育で行われるのであれば、一人の先生の影響は大きいのかもしれません。しかし、子どもたちが様々な環境のなかで性格の強みを持っていくのであれば、その環境はもっと多様性があったほうが良いのかもしれません。

 

現在私の園では職員が複数で保育をするようにしています。それは子どもたちが社会の中で生きていくという意味合いも多くあります。いろいろな人と関わる中で、自分を知り、自分をコントロールする力を見つけてほしいと思っています。今は「子どもたちを大切にする。」「丁寧な保育」という見方がかえって過保護な環境になっているのかもしれません。そして、その目線はすべて子どもたちにばかり目がいきがちです。それよりも子どもを取り囲む環境こそ本来目を向けるべきで、それは家庭や教育現場だけではなく、地域や社会においても子どもを中心に見ていく必要があるのだと思います。

流動的な社会に向けて

「成功する子・失敗する子」の著者ポール・タフ氏は教育改革の関係者は、成功への主な障害は学校のシステムのなかにあると思いたがると言っています。そして、障害を克服留守ための解決策もまた教室の中で見つかるとしているというのです。これに比べて、改革に懐疑的な人々は、低所得層の子どもの成績が悪い原因を学校の外に求めたがると言っています。

 

実際に、彼らがその原因だとするリストを見ると、食の安全が保たれていないだとか、ヘルスケアや公営住宅が不十分であるといったこと、人種差別や個人の力を超えたものだとか、そういったものが低所得層の子どもの成績に影響していると言っています。確かにそういった問題は現実的にあります。しかし、それらが貧しい子どもたちの直面する最大の障壁ではないとタフ氏は言っています。本当の障害は高レベルのストレスを生み出す家庭やコミュニティであり、そのストレスに子どもがうまく対処するのを助けるはずのアタッチメントが欠けていることだと言っています。

 

では、なぜ、貧困が関わる学業不振の根本的な原因を探すときに、間違った犯人に焦点を合わせ、科学が教えてくれる最大のダメージを無視してしまうのか。理由は3つあるとタフ氏は言います。一つ目に、当の科学的な見解そのものがあまりよく知られていない。あるいはあまりよく理解されていないという点です。いいたいことを説明するときに「HPA軸」のような用語をつかうときにはいつも苦労すると言っています。確かに、こういった貧困やそれにおける子どもの様子が話されるときにデータから読み解くことはあっても、アタッチメントや心情、内面の部分は非常に感情論で話されることが多いように思います。しかし、タフ氏が著書の中にあるように、最近では様々な研究や脳科学の進歩によって、科学的にその影響というものが読み取れるエビデンスが出てきました。こういったことはもっとこれからの子どもたちの教育現場や保育現場にももっと取り入れられるべきものではないかと思います。そして、こういった理屈であったり、理論というものにもっと目を向けることは今後の保育や教育においても非常に重要な意味合いがあるようにも思います。

 

そして、第2に低所得の家庭に暮らしていないものは、貧困家庭における家族の機能不全いついて話すことに、落ち着かないものを感じるという点です。他人の家庭を取り上げて公然と批判的に議論するのは無礼であり、特に自分が持っているものを相手が持っていない場合、その相手のことを話すのは失礼にあたるのではないかという点があります。

 

第3は新しい逆境の科学は複雑に絡み合ったもので、その中には根深い政治信念に反する難題が含まれるという点です。アメリカにおいてリベラル(自由主義)にとっては、保守派がある大事な一点において正しいことが科学的に示されてしまった。性格が重要であるという点においてである。貧困に対抗する手段として、不利な状況にある若者たちに私たちが差し出せる最も価値あるツールは「性格の強み」をおいてほかにないというのはこれまでのタフ氏の紹介した話の中でもたびたび言われています。つまり、誠実さ、やり抜く力、レジリエンス、粘り強さ、オプティミズムです。

 

日本においては、子どもたちの育ちよりも、成績や学歴といったものがまだまだ重視され、性格の強みといったものはまだまだ、それほど注目されていないようにも思います。これから「道徳」の教科化がされましたが、それがどれほど、効果があるのか、私は教科化以上にもっと乳幼児からの積み重ねこそが、「道徳」の教科の中で最も教えたいことにつながるようにも思います。そして、こういったことの積み重ねを小学校やその先の中学校以上の教育においても連携していくことが最も重要な意味を持っていくとも思います。学歴や成績はその前提がなければいけないようにも思います。

貧困への対策

前回、政府の機関やプログラムによって、その場しのぎのバラバラなシステムにより、子ども時代の一部や思春期の一部を断片的にしか支援することができず、それらの管轄がそれぞれ連携不足になることによって、かえって、ストレスがたまったり、疎外感や屈辱を感じることにつながるということが言われました。では、どうしたら低所得層の子どもたちは成功や幸福を手に入れることができるようになるのでしょうか。

 

タフ氏はこういったシステムとは別のものを作り出すこともできたのではないかと言っています。初めは総合的な子ども健康センターだとしても、心的外傷に焦点を合わせ、社会福祉による支援も盛り込んだケアがすべての患者に行われる場所。これは望ましいアタッチメントを築くための親への支援策にもつながっていくことになります。就園前なら、幼い子どもの実行機能の能力と自制心を育てる「心の道具」のようなプログラムなどを使うことも必要です。その後子どもたちを矯正クラスに追い込むような学校ではなく、かれらにあえてレベルの高い課題を課す学校に勧めるようにする必要があります。そこでは教室内で受けている学力向上への助けがどんなものであれ、それを補う形で教室の外からの社会福祉、心理学的な指導、性格形成のための指導による支援策が必要になります。それはポール・タフ氏が紹介したフェンガー高校などで取り入れられたものなど低所得地区の学校に提供されているものが近い形態のものです。高校ではワンゴールやKIPPが実施しているプログラムのようなものであれば恩恵を受けられるだろうとタフ氏は言います。彼らをより高い教育へと導くプログラム、学業面だけでなく感情面、精神面でも大学進学への準備を察せてくれるプログラムが良いのではないかと言っています。

 

きちんとパイプのつながったこうしたシステムを、失敗のリスクの最も高い10から15%の生徒を対象としてつくったら、間違いなくかなりの費用がかかるでしょうが、現行のその場しのぎのシステムよりは安く上がるのではないだろうかとタフ氏は言います。いくつもの人生を救えるだけでなく、資金の節約にもなるというのです。

 

こういったところに関して、日本では「学習指導」と「生活指導」があり、それが実際のところ、多くの学校教育現場において、教育者の負担になっているというのですが、この生徒指導というのが、KIPPのシステムのような大学進学における一つの相談窓口のような意味合いがあるように思います。しかし、大きく違うのが先の学校を見つけることや進むまでのフォローはしても、言った後のアフターケアのようなものはしないのです。しかし、そういったことをしているだけでも、日本の場合は大きく違うのかもしれません。「生活指導」があるおかげで日本の学校教育はAI化されないのかもしれないとも言われています。現在、コロナウィルスで遠隔教育が叫ばれていますが、一方的に教えるだけではAIでできる時代です。タフ氏の話でも「学業面だけでなく、感情面、精神面でも大学進学への準備を察せてくれるプログラムのほうが良いのではないか」というように「感情面、精神面」にももっと目線を持っていかなければいけないように思います。そして、そのためには各教育現場においても、しっかりとした連携が求められるように思います。そして、その連携は「発達」など、「感情面」や「精神面」といった「人格形成」の面にももっと目をかけていかなければいけないのではないかとおもうのです。