誰もが楽しむ
工藤氏の変革は「宿題の廃止」「クラス担任の廃止」「定期考査の廃止」だけではない部分にも影響していきます。それは「運動会のクラス対抗」でした。このことに関しては工藤氏からではなく、生徒が考え生徒会の中で話し合われた結果、「クラス対抗」であり、工藤氏は「生徒が目的を達成する手段として適切ではないと生徒たちが判断した」ことが理由であると言います。
そのことについて工藤氏は生徒たちに一つの条件を出します。それは「生徒全員が楽しませること」を目的にすることです。運動が必ずしも得意でない生徒も、運動会を楽しみにしている生徒にも、全員楽しめるものにしてほしいと生徒に話したそうです。生徒ははじめ「クラス対抗リレー」をしたいかどうかのアンケートを取ります。すると、9割が「やりたい」と言い、1割の生徒が「やりたくない」という結果だったそうです。これまでであれば9割が「やりたい」のだから「クラス対抗」を行うことになるのですが、「全員が楽しませる」ためには1割の生徒の「やりたくない」を無くさなければいけません。何度も話し合いが繰り返される中「全員リレーをしない方が全員のためになる」という考えに至ったのです。
そこでそもそも「運動会・体育祭」の目的は何かといった時、「競争力を養うこと」や「運動能力の優劣をつける」ことにあるのであれば「クラス対抗」は適切な手段なのかもしれないが、麴町中学校の体育祭の一番の目標は「生徒全員を楽しませる」ことを最上位目標にしていると言います。生徒の中には運動が得意ではない生徒もおり、運動会や体育祭が憂鬱な生徒もいます。クラス対抗のリレーや大繩跳びで自分のミスによって周囲に迷惑をかけ、責められ人間関係にひびが入る可能性もあります。「全員が楽しむ」ためには運動が苦手な生徒の居場所もつくらなければいけません。クラス対抗の形での勝敗を意識すると勝利したクラス以外の生徒は悔しい思いをし、運動が苦手な生徒は肩身の狭い思いをします。それでは「全員を楽しませる」ことにはならないのです。
これまでの学校教育では「規律」や「団結」が尊ばれ、チーム一丸となって何かを達成することが目的とされていました。しかし、個人に自己犠牲を求め、個性を認めないような組織は本質的に強くなれないと考えている。と工藤氏は言います。そのうえで、学校における体育の目的については、技能を高めることや競争心を養うことよりも、運動の楽しさを求めることのほうが大切だと考えている。と言い、スポーツは自分の人生を楽しませる、友だちのようなものであってほしいと思っていると話しています。
私自身も「行事」においては、その本質を改めて見直す必要があるということを感じます。
「教育の本質としての運動会・体育祭」、いつの間にかそれが「運動会をする」ことにとって代わられている時代なのかもしれません。そして、何よりもその主体が「子ども」ではなく、それを見ている「大人」になっていたりとなっている場合もあります。規律や団結を否定しているのではなく、その中にも社会があり、それを調整していく力はこれからの社会でとても重要な意味合いを持ってくると思います。こういった本質を見たうえで保育を進めていく必要性をとても考えさせられます。