怒りの背景

宮口氏は官女の感情統制の中で「怒り」が最も厄介だと言っています。それは対人トラブルの原因が大体「怒りからくる」ものであり、「自分の思い通りにならない」「馬鹿にされた」といったものから起こることがもとになるからなのです。また、これらはさらにそれぞれの個人の思考パターンによって怒りの程度が異なります。

 

例えば、AさんとBさんがいたとします。二人が同じ作業をしていて、Cさんが「それは違うよ」と注意をします。その時にAさんは「なるほど、Cさんありがとう」と考え、Bさんは「うるさい、馬鹿にしやがって」と考えます。AさんとBさんとではCさんの言葉の受け止め方は大きく違います。このように好意的に受け取るか、被害的に受け取るかは、それぞれの思考パターンによって違うのです。そして、どちらの方が「怒り」につながるかは、容易に想像できます。では、このような被害的な思考パターンはどのようにして生まれてくるのでしょうか。宮口氏はその多くの場合、それまでの対人関係のあり方(親からの虐待やいじめ被害を受けていたことなど)に基づく要因と、B君の自信の無さが関係していると言っています。

 

自分に自信がないと自我が脆くて傷つきやすいので、「また俺の失敗を指摘しやがって」と攻撃的になったり、「どうせ俺なんていつもダメだし・・・」と過剰に卑下したりして、他者の言葉を好意的に受け取れないのです。自信が持てない原因には「対人関係がうまくいかない」「勉強ができない」「じっと座っていられず注意ばかりされている」「忘れ物が多く叱られている」「スポーツができない」「運動が苦手」などがあります。さらにそうなる原因として発達障害、知的障害、境界知能があることもあります。

 

怒りのもう一つの背景として、「自分の思い通りにならない」といったものもあります。これは「相手への要求が強い」「固定観念が多い」といったことが根底にあります。相手に「こうしてほしい」という願いの要求や「僕は正しい」「こうあるべき」といった歪んだ自己愛や固定観念が根底にあるのです。たとえば、道ですれ違う人と肩がぶつかるときがあります。こっちが誤ったのに相手が何も言わなければ、ムカッとするかもしれません。しかし、それは「ぶつかったら謝るべき」という固定観念があるからなのです。当然、相手が自分音思い通りに動いてくれることは稀です。すると固定観念に反した相手に対する「怒り」が生じ、その行動は「怒り」に基づいたものとなり、うまく処理できないと突然キレたりするのです。

 

このように宮口氏は怒りにはこういった背景があるということを言っています。しかし、こういった背景は非行少年に限らず、普通の人でも起こりうる反応です。非行少年はこういった「怒り」に対して、過剰に反応が出てくるのだと思います。また、「怒り」がおこる背景の中に「自信がない」ということが言われていましたが、その背景も紹介されていますが、私はそこにはもう一つ「過保護」も入っているのではないかと思います。今の時代は少子化社会です。子どもに対して大人が多くいる時代です。そのため、大人が子どもを容易に統制できてしまうのです。これは保育においても非常によくある話であり、「子どもたちは教えなければできない」という観念が非常に強いように思います。いわゆる「白紙論」ですね。そのため、「子どもは未熟である」という観念から、指示を出しがちです。また、その指示に乗らない子どもたちは怒られたりするのですが、特に問題行動を起こす子どもはこういった時に怒られがちであり、それによってますます自信を無くしていき、問題行動はかえってひどくなります。

 

仮に指示に従順に従っている子どもも、自分で考えるのをやめ、自分で考えるのではなく、周りに合わせるため指示を待つようになってきます。これでは子どもたちにとって主体性も自主性もあったものではありません。現在の教育現場においては主体性が叫ばれているもののそれが保障されているかというとそうではないことが多いように思います。非行少年に限らず、今の子どもたちの環境は非常に自信の持ちにくい環境のように思えてなりません。そして、その窮屈な環境の中にあることでスクールカーストやイジメ問題などが起きているように思います。