公教育と民主主義

「教育の基本は自ら考える力」をつけるために必要であると、苫野先生は話されていました。では、「そもそも学校とは何のためにあるのか?」ということですが、この点についても面白い話をされています。それは、

「公教育は人類1万年の戦争の果てに見いだされた革命的発明である」

というものです。

歴史的に見ても、「人間の歴史は戦争の歴史」とも言われるように、長らく争いが絶えず行われてきました。その要因となるのは、奴隷や貴族などの身分制度や差別、宗教によるもの、領土の取り合いなどが主であり、剣闘士や奴隷、処刑を民衆にさらすなど、「死」というものが身近なものであるどころか、娯楽としてもあったといえます。日本でも「さらし首」や「はりつけ」「市中引き回し」といった拷問があったことを考えると、今ではとても見るに堪えない行為も、当時は当たり前に行われていました。

しかし、現代では当然のことながら、こういった殺し合いを見ることもなく、身分というものもありません。つまり、「人は対等」という倫理観が今の時代では当たり前になっています。このことこそが学校教育や教育の成果であると、苫野先生は話していました。そして、その感覚は「民主主義の発明」によってもたらされているといえます。


この民主主義の根本原理について、苫野先生はG.W.F.ヘーゲル(1770~1831)の言葉を引用して説明しています。その根本原理は「自由の相互承認」であり、「お互いを対等に『自由』な存在として認め合うことをルールとした社会」である、といいます。このような「みんな同じ」という感覚を、公教育によって持てるようにしていると話しています。

ただし、最近はこの民主主義の根本原理が崩壊の危機にあるとも指摘しています。政治においてポピュリズムが各国で起き始めており、お互いを認め合うよりも排他的で自己中心的な動きが目立ってきています。

さらに、民主主義はヘーゲルの「自由の相互承認」とルソーの「一般意思」(みんなの意見を持ち寄って見いだし、みんなの利益になる合意)によって、その本質を理解できると苫野先生は話しています。ここで重要なのは「一般意思」の解釈です。「意見を持ち寄って見いだし、みんなの利益になる合意」を作るという点が強調されています。これは重要なことで、現在一般的に行われる「多数決」は、少数の考えを排除してしまう面があるため、必ずしも民主主義の本質的な決め方とはいえません。本質的な民主主義とは、多数決では排除される少数派の人たちも納得できる合意を目指すことです。もし、多数決を用いる場合には、決める前に「多数決で決める」と全員が合意した上で行うことが重要になります。


このような民主主義としてのあり方を学ぶ場こそが、公教育、すなわち学校教育の本質であると、苫野先生は話していました。私もこの考えに同感です。従来の先生主導の教育は、必ずしも民主的とはいえませんし、そのような力を培う場でもありません。また、成績や学力、学歴といった評価は、本質から考えると周辺的なものに感じられます。