参画を子どもの姿から考える
「○○大会」というものを保育者たちが良くやっています。子どもたちは盛り上がりますし、保育者たちも盛り上がって楽しんでいます。私も初めはとてもいい活動しているなと感じましたし、盛り上がることには賛成でした。子どもたちの頑張る姿、応援する子どもたち、応援する方法も子どもたちが考えて行っていたそうです。保育者も大会のなかでとても盛り上がっていて、一体的な楽しさがありました。しかし、ある時からその「大会」の活動に疑問を持つことがありました。これは否定的というよりも少し「違和感」というくらいのものでなぜそれを感じるのかがまだ言語化できるほどではありませんでした。少し考えていく中で、その違和感の正体がわかりました。
今回見た大会は子どもたちの言葉から始まりました。そのため、保育者はその言葉を受けて計画を立てていきます。とてもいい動機だと思います。保育者も子どもたちに少しでも主体的に参加してもらおうとチーム作りやチーム名などを考えるように進めていました。進め方としては子どもたちの提案から始まり、子どもたちに決めさせることもあった。大会を行うにあたっては何の問題もないと思います。むしろ一般的な保育の中で行うイベントでは子どもたちを巻き込んだ楽しくいい進め方だと思います。しかし、違和感は拭えません。なぜなのか。
その違和感は子どもたちの今回の活動が「参画」に至っていたかということです。参画とは子どもたちが活動することに対して、計画や運営など関わる意思決定に参加するつまり「枠組みそのものを共に作る」ということです。つまり、大人が運営し、大人が計画し、大人がその活動を意味づけるのではなく、子どもたちが「○○大会」を自分たちで運営し、計画し、活動を進めていくことを考えることが重要にすることであり、保育者は子どもたちが自ら動けるように提案や支援をするということです。もちろん子どもたちだけで全てをするのは難しいです。だから、大人は子どもたちのやりたいことに寄り添い、時には提案し、任せ、必要なところに介入する。子ども理解が重要になってきます。それが保育の営みとしての大きな活動であると思っています。今回の場合はどちらかというと「参画」というより、用意された枠に入る「参加」に近かったように思います。しかし、語弊がないようにいうと保育者の先生は一生懸命子どもたちが参画できるように考えてはいました。ただ、「枠組みを作るというというところまで考えが至らなかった」とも話してくれました。それはどこに目的を持つかということの設定にズレがあったからなのだろうと思います。
最近特に感じることは「そもそも保育とは?教育とは?」ということです。今回の大会もそうですが、「楽しませてあげよう」ということや「盛り上げよう」「子どもたちがいうから」というイベントは確かに子どもたちにとって思い出が残るものですし、大切なことです。前述のことは保育の中でとても大切なことですが、それだけで十分なのだろうかと感じました。これが私の感じた違和感の根本です。教育基本法には「第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とあります。「民主主義」をどう保育の中に入れていくことができるのでしょうか?「参加する」ことが民主主義を教えることにつながるのでしょうか?せっかくの子どもたちの提案から始まった活動です。どうやって進めるのかを大人が決めるのではなく、子どもたちが自ら決定していけるような枠組みを大人が支えてやることが保育の本質であるように思うのです。その中で、問題解決能力や創造力、思いやりなどが育っていくと思っています。
活動一つ一つの「もったいない」を取りこぼさないよう、一つ一つの子どもたちとの活動を真摯に向き合っていくことが大切であると感じました。
2026年2月26日 4:40 PM | カテゴリー:教育, 日々思うこと | 投稿者名:Tomoki Murahashi