10月2025

教育の必要性

民主主義は、ヘーゲルの「自由の相互承認」とルソーの「一般意思」(みんなの意見を持ち寄り、みんなの利益になる合意)によって理解できます。そして、このような民主主義的なあり方を学ぶ場こそ、公教育、すなわち学校教育の本質である、と苫野先生は話しています。

 

しかし、現代の学校現場では、不登校やいじめ、体罰、小一プロブレム、落ちこぼれ、吹きこぼれなど、さまざまな問題が見られます。これらの問題を思うと子どもたちが自由に学べているようには思えません。苫野先生によれば、こうした問題は子どもや時代のせいではなく、学校システム自体に原因があると言われています。現行の学校制度は150年間ほとんど変わっておらず、「みんなで同じことを、同じペースで、同じ方法で学び、出来合いの答えを考えるベルトコンベア式のシステム」と表現されます。これは大量生産の手法がそのまま教育に持ち込まれたものであり、私も共感します。

 

そもそも、現在の小学校教育は多子社会の中で成立してきた制度です。そのため、民主主義的な学びの本質は抜け落ち、成績や結果に重きが置かれるシステムになっていました。その中で、多子社会では、学校外の兄弟関係や地域の子ども社会が、自然と民主的な学びの環境を補っていたと考えられます。しかし、少子化が進む中でシステムを変えなかったため、現在のような現場の問題が顕在化してきたのだと考えられます。

 

乳幼児期の教育環境でも同様です。現代では、子ども同士の関わりや教え合い、遊びの展開、みんなで考える体験を意図的に作り出す必要があります。つまり、多世代や年齢の異なる子ども同士が関わる環境を設けることが求められ、これが「協同的な学び」の本質です。

 

さらに、学習プロセスも見直す必要があります。吹きこぼれや落ちこぼれは、子どもに問題があるのではなく、同質性を重視するカリキュラムによって生じています。私は最近よく、「義務教育の『義務』が、義務教育期間に習得することを義務とするのではなく、在籍することの義務になっていないか」と感じます。本来の義務は「学ぶべきことを習得すること」であるはずです。そのため、進度にこだわらず、子どもの発達や理解に応じた個別最適化された学習が求められます。

 

現在、学校教育では「協同的な学び」とともに「個別最適化学習」が進められています。これにより現場の問題は改善される可能性があります。しかし、指導要領や受験制度、教科書、そして社会一般の理解不足が大きな障壁となっています。特に日本では「留年=落ちこぼれ」という見方が根強く、教育の本来の目的や目指す子ども像について、保育や教育に関わる者がしっかり意識を持つことが重要です。

 

苫野先生の講演を通して、教育の本質や課題を理解し、それを現場に発信する重要性を改めて感じました。