9月2025
「教育の基本は自ら考える力」をつけるために必要であると、苫野先生は話されていました。では、「そもそも学校とは何のためにあるのか?」ということですが、この点についても面白い話をされています。それは、
「公教育は人類1万年の戦争の果てに見いだされた革命的発明である」
というものです。
歴史的に見ても、「人間の歴史は戦争の歴史」とも言われるように、長らく争いが絶えず行われてきました。その要因となるのは、奴隷や貴族などの身分制度や差別、宗教によるもの、領土の取り合いなどが主であり、剣闘士や奴隷、処刑を民衆にさらすなど、「死」というものが身近なものであるどころか、娯楽としてもあったといえます。日本でも「さらし首」や「はりつけ」「市中引き回し」といった拷問があったことを考えると、今ではとても見るに堪えない行為も、当時は当たり前に行われていました。
しかし、現代では当然のことながら、こういった殺し合いを見ることもなく、身分というものもありません。つまり、「人は対等」という倫理観が今の時代では当たり前になっています。このことこそが学校教育や教育の成果であると、苫野先生は話していました。そして、その感覚は「民主主義の発明」によってもたらされているといえます。
この民主主義の根本原理について、苫野先生はG.W.F.ヘーゲル(1770~1831)の言葉を引用して説明しています。その根本原理は「自由の相互承認」であり、「お互いを対等に『自由』な存在として認め合うことをルールとした社会」である、といいます。このような「みんな同じ」という感覚を、公教育によって持てるようにしていると話しています。
ただし、最近はこの民主主義の根本原理が崩壊の危機にあるとも指摘しています。政治においてポピュリズムが各国で起き始めており、お互いを認め合うよりも排他的で自己中心的な動きが目立ってきています。
さらに、民主主義はヘーゲルの「自由の相互承認」とルソーの「一般意思」(みんなの意見を持ち寄って見いだし、みんなの利益になる合意)によって、その本質を理解できると苫野先生は話しています。ここで重要なのは「一般意思」の解釈です。「意見を持ち寄って見いだし、みんなの利益になる合意」を作るという点が強調されています。これは重要なことで、現在一般的に行われる「多数決」は、少数の考えを排除してしまう面があるため、必ずしも民主主義の本質的な決め方とはいえません。本質的な民主主義とは、多数決では排除される少数派の人たちも納得できる合意を目指すことです。もし、多数決を用いる場合には、決める前に「多数決で決める」と全員が合意した上で行うことが重要になります。
このような民主主義としてのあり方を学ぶ場こそが、公教育、すなわち学校教育の本質であると、苫野先生は話していました。私もこの考えに同感です。従来の先生主導の教育は、必ずしも民主的とはいえませんし、そのような力を培う場でもありません。また、成績や学力、学歴といった評価は、本質から考えると周辺的なものに感じられます。
2025年9月29日 5:05 PM |
カテゴリー:教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
苫野先生は講演の中でまず、「教育の基本は何か?」と問いかけられ、その答えとして「教育の基本は自ら考える力をつけること」だと述べられていました。
その根拠として、フランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソー(1712~1778)の言葉を紹介されました。
「『あれしなさい、これしなさい、あれするな、これするな』と言われて育った子どもは、そのうち『息をしなさい』と言われなければ呼吸さえしなくなるだろう」(著書『エミール』より)
極端に思える表現ですが、昨今の「指示待ち人間」と言われる社会人や若者の様子を見ると、決して人ごととは言えないように思えます。つまり、将来私たちが求める人材や社会を担っていく人材を考える上で、この視点は重要です。ここにこそ、苫野先生が語られた「教育の基本は自ら考える力を育てる」という言葉の意義があるのでしょう。そして、そのために「教育の基本中の基本は『信頼して、任せて、待って、支える』」と強調されました。これは藤森メソッド(見守る保育)における藤森先生の考え方とも重なります。
また、ルソーは次のようにも述べています。
「大人は子どもを道徳的にしようと、規律を与え、叱り、説教する。しかしそれは、子どもをかえって不道徳にすることになる」
大人の一方的な規律は、子どもを嘘つきにしたり、他者を罰する態度(つまり、注意されすぎた子どもは友達にも同じように注意し、思いやりのない関係をつくる)につながります。だからこそ、子どもは「たっぷりと自分が尊重される」ことによって、初めて他者を尊重できるようになるのです。
ただし注意が必要なのは、この「尊重」という言葉の解釈です。保育の現場では「子どものいいなりになること」や「子どもが言うからと過度に寄り添うこと」を尊重と勘違いしてしまう場合があります。しかし、それは本来の意味での「尊重」ではありません。
「尊重」とは 子どもを一人の人として扱うこと です。そのためには子どもの意見にしっかり耳を傾け、大人と意見が違うときにはきちんと話し合い、互いに納得できる答えを考えることが大切です。奔放に育てすぎることも、一方的に規律を押し付けることも、いずれも子どもを「他罰的な人間」にしてしまう危険があります。
人間は原始から社会を形成して生き延びてきました。社会を形成することは人間の重要な特徴であり、その中で他者と自分とのバランスをとることが「道徳」につながります。つまり、道徳はルールとして外から与えられるものではなく、人とのやり取りの中で自然に形成されていくものなのです。
しかし現代では、「ルールをつくらなければ守れない」という発想に象徴されるように、自律よりも他律に依存する傾向が強まっているように感じます。それでも一方で、公教育の存在があることにより、私たちは人類史上大きなメリットを享受できる時代に生きている、と苫野先生は指摘されていました。
2025年9月26日 5:02 PM |
カテゴリー:教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
先日、熊本大学の苫野先生のご講演を聴く機会がありました。今回は幼稚園のある門真市の教職員フォーラムの中での講演でしたが、私としては改めて考えさせられる機会となったため、ここでまとめてみようと思います。
まず、苫野先生はさまざまな本を執筆されている哲学者・教育者であり、熊本大学での勤務だけでなく、経済産業省産業構造審議会委員など、さまざまな場でご活躍されています。そのため、話の前半は哲学の話でした。ここが特に私にとって興味深いところです。というのも、私が学ぶ藤森メソッド(見守る保育)の藤森先生もよく「保育は哲学で考えるべき」とおっしゃるからです。私もその考えに賛同しており、教育や保育においては「何のために行うのか」を考えて取り組むべきだと思っています。
最近では価値観も少しずつ変わってきているのだと思いますが、かつては「いい大学に入り、いい会社に就職すること」が理想とされ、それに伴い成績や学歴が重視されてきました。「頭がいい=勉強ができる」という考え方や、成績や学歴で人を判断する風潮があったように思います。もちろん、生きていく上で必要なステータスであるとは思いますが、だからといって「幸せか」と問われると、必ずしもそうではないように思います。
また、これからの社会では、AIの台頭や労働人口の減少、少子高齢化、海外からの労働者によるグローバル化など、これまでとは全く異なる状況が予想されます。こうした中で、旧態依然とした教育は遅れを伴うと考えられます。吹きこぼしや落ちこぼれ、若年の自殺者、引きこもり、不登校、SNSの問題といった課題がある一方で、自己肯定感や自尊感情の低さ、コミュニケーション能力の低下も指摘されます。いくら勉強ができて成績が良くても、さまざまな問題によって学校生活や社会生活で活躍できないことが多々起きています。
これまでのような、知識を暗記して覚える学びは、今後AIによって代替される可能性があります。実際、大学などでもAIが利用されることがあります。それを遠ざけるのではなく、今後は「どう使っていくか」が重要なスキルになってくるでしょう。そうなると、これまでの学習の価値観も大きく変わると思います。だからこそ、「なぜ保育が必要か」「なぜ教育が必要か」という本質を追求することが重要です。苫野先生は「哲学とはそもそも本質を考え抜き、それにまつわる問題について考えること」と話されていました。
では、良い保育や教育とはどのようなものでしょうか。苫野先生は、教育が変わる時代であったり、AIによって知識の習得が個人でも可能になったとしても、「公教育は絶対に必要だ」と話されていました。私もその考えに賛同しますが、その根拠はどこにあるのでしょうか。
2025年9月11日 4:34 PM |
カテゴリー:教育, 日々思うこと |
投稿者名:Tomoki Murahashi
SNSというものは、悪いとらわれ方をすることが多いですが、一方で非常に有用なツールでもあります。流れてくるリール動画も「切り抜き」として誤解を生むようなものもあれば、自己啓発のように名言を切り抜いたものも出てきます。割と私はそういった人の名言に感銘を受けることも多々あり、そのことをふと書いてみたくなりました。
その一つが何かの番組でイチロー選手が話していたことです。そのインタビューでイチロー選手は「よく言われるんです。『負けているチームにリーダーが必要じゃないか』と。もちろんいた方がいいです。でも、もっと大事なのは何かを感じようとする人がいるかです。優秀なリーダーがいても、それを見て何かを感じる人間が周りにいなかったら、何もならない。チームとして。たとえリーダーがいなくても、何かから何かを常に感じようとする姿勢のひとが集まった方が実はチームとしてはうまく機能する。そして、こいつが中心かなっていう人が出てくる。出てこなかったらそれまでです。安易にこいつをキャプテンかなとってやるとうまくいかないんですよ。残念ながらやりがちですけど。」という言葉でした。私もキャプテンであったり、この業界だと『主任』かと思うのですが、安易に上から決めるべきではないと思います。
これに近いことをダニエル・ゴールマン著の「EQ リーダーシップ」では「共鳴」と言う表し方をしています。「一人ひとりのメンバーが共感を形成し、目標に向かって心を一つにしたとき、チームには共鳴が起こる」と話しています。共鳴が起きると「チームが一つにまとまり、組織のために人々が結束するとき、そこに働いている人々が結びつけるのは、全員が共有する感情です。メンバーが互いに心を許しあってアイデアを共有し、学び合い、協調して決断をくだし、仕事を成し遂げていく。」と言っていました。まさにイチロー選手が話している言葉に近いことですね。
そこで重要になってくるのが「共感」というものです。イチロー選手の表し方でいうと「何かを感じる人」という表現になるのでしょう。藤森メソッド(見守る保育)の『保育の起源』では「『子どもにとって善い』と思って職員は保育をしているのを信じること。そして、その気持ちにリーダーは共感して、その気持ちを実現していくための方法を、理念に戻ってもう一度、一緒に考えることが重要です。」とありました。
たとえ、「これは・・」と思う提案があっても、それを『子供のために行おう』としていることは信じる視点は大切です。その上で、未熟な部分を『足していく』といった理念を通してその活動をより豊かにできる方法をともに考えることが重要なのでしょう。単純に『善い悪い』をジャッジするのではなく、足りないところを気づかせたり、よくしていくことが、共鳴を起こせるリーダーです。言葉にすると簡単ですが、なかなか難しく、私はまだそういったマインドコンロールするのが難しいです。ただ、イチロー選手の動画を見ると改めてリーダーシップを考えさせられました。
2025年9月4日 3:41 PM |
カテゴリー:組織論 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
運動がストレスだけではなく、集中力にも影響するのがわかったのですが、ここで面白いことが書かれています。運動と幸せホルモンとよく言われる「ドーパミン」との関係です。運動をすると人の体にいい影響がでるというのはこれまでの話の中でもありましたが、それに「ドーパミン」が大きく関わっているそうです。ドーパミンは脳の細胞から細胞へと情報を伝える「神経伝達物質」の一つです。おいしいものを食べたり、社会と交流したり、運動や性行為などをすると、脳の側坐核といわれる脳の様々な領域とつながっている細胞の集まっているところからドーパミンの分泌量が増えるといわれています。ドーパミンの分泌量が増えることで、ポジティブな気分になり、人はその行動を繰り返したくなります。
なぜ、そういったことを脳が催促するのかというと、それはヒトの進化に関係しており、進化上そういった行為が生存確率をあげ、遺伝子を次の世代へつながることになるからだと言われています。ヒトの体とはいえ、一つの生物であり、次の世代へ遺伝子をつなげるという生物学的欲動を起こしているというのは何やら不思議な気になります。しかし、人間としての特徴である社会性や食事、性行為などは生存戦略としてわかるのですが、なぜ、運動が入るのでしょうか。それは我々の先祖が狩猟や住処を探すときに走っていたためだと考えられているそうです。これも生き延びていくために必要な行動であり、そのために脳が報酬を与えるドーパミンが分泌されるのだと言われているそうです。走ることや運動することは今の時代では割とトレーニングであったり、ダイエットであったりと「負荷」をかけるように考えられていますが、そもそもは生存の可能性を増やすためのものです。だからこそ、その「報酬」であったり、「ご褒美」を脳はくれるということなのでしょう。そして、それによって体が強くなることで、生存、または遺伝子を残す行動に向かわせるのですね。
また、この側坐核は集中することにも関わります。面白いのは集中している時はどういうときでしょうか。ほとんどがその物事が楽しんでいるときではないでしょうか。脳は今行っている活動が続ける価値があるかどうかを判断し、情報を絶えずほかの領域に伝えています。もっと言うと集中している(刺激を受けている)状態の時にはドーパミンが分泌されている時です。逆に集中していないとき、注意が散漫なときはドーパミンの分泌は抑えられ、ほかのドーパミンが放出されそうなものに目がいってしまい注意力が散漫になるのです。よくSNSで様々な情報を見ていると気づいたら時間が過ぎていたというのもこれに当たりますね。このように人の頭の中でドーパミンはより刺激的なものを貪欲に追い求めていると言います。それが結果として以前紹介したスマホ認知症ような症状も出ることを示唆しています。スマホは情報があふれ出る機器です。止めどなくあふれる情報を貪欲に脳はほしがり、ドーパミンを放出し、次に次に情報を求めます。この刺激性が時間を忘れるほどの集中力を生んでいるのでしょう。
この集中できない状態というのを考えた場合、「ADHD」の人にはどうなのでしょうか。ADHDの人は先ほど紹介した側坐核からでるドーパミンの受容体が少ないために、活発に働かないことから起きることがあるそうです。そのため、報酬中枢を活発に働かすために、より大きな刺激を求めることで注意散漫になったり、多動の傾向が起きるのです。
このようにADHDの子どもたちのことを考えてみると、なぜ注意散漫になるのか、逆にそういった子どもでも、どういった環境にしてあげると座ってられるのかがわかるような気がします。
2025年9月2日 2:31 PM |
カテゴリー:あいさつ, 進化 |
投稿者名:Tomoki Murahashi