8月2025

運動と集中力

集中力についても、運動は少なからず大きな影響を与えると言えるようです。集中力を調べる際、「選択的注意」を調べるエリクセン・フランカー課題が行われました。選択的注意というのはたとえば、喫茶店で人と話している時を想像するとわかりやすいように思います。騒がしい喫茶店で話をしていても、相手の声が聞こえると思います。それは騒がしい喫茶店の音を人は遮断し、相手の声に集中しているからでいる芸当です。これができないと、いろいろな音に反応してしまい、相手の声が聞こえなかったり集中できなかったりします。ADHDの人は割とそういった状態にあるようです。いろいろなところが気になってしまい、集中できないのです。

 

このように、この「選択的注意」をするテストをする中で、被験者が運動をすると選択的注意力と集中力が改善したようです。MRIを通してテストを受けている時に脳を観察していると、頭頂葉と前頭葉が活発に動いていたことがわかりました。この領域は意識を集中し、その状態を維持する機能を司る部分です。なお、このテストを行う際、健康状況も調べたのですが、健康状態が万全な人の方がテストもうまくこなせ、選択的注意力が優れていたことがわかりました。では、「健康な人が選択的注意力が高い」というと、必ずしもそうとはいえないようです。なぜなら、それは運動によって体調が改善して集中力が高まったというより、もともと集中力が高い人がたまたま運動を楽しむ傾向にあり、そのため健康だった傾向があるともいえるからです。

 

そのため、今度は新たな被験者を通して、運動により健康になったことで選択的周囲力が改善するか調べることが始まりました。1つのグループはウォーキングを行い、2つめはヨガやストレッチといった心拍数が増えない負荷のかからない運動を行います。どちらのグループの同じ活動頻度と時間をもうけ半年間続けました。その後、選択低注意力を改善しているか、エリクセン・フランカー課題を行いました。するとウォーキングのグループはテスト課題をうまくこなし、選択的注意力が改善し、前頭葉と頭頂葉が活発化しました。この傾向はウォーキングのグループで見られたのです。つまり、習慣的にウォーキングのような簡単な活動を半年続けるだけで、脳が変わり、選択的注意力が高まるということ証明されたのです。

 

運動は体を健康的にしてくれることやストレスをコントロールするだけではなく、脳の機能にまで影響がみられるのです。注意力が改善したのも、運動によって前頭葉の細胞同士のつながりの数が増えたことが考えられるようです。そのため、情報量が多いような環境になったときに脳が集中力の機能を発揮し、周囲の不要な情報を的確にふるいにかけたというのです。この研究によって、研究チームは「脳の働きが活発になると可塑性が促進され、周囲の環境に対処する注意能力も高まる」という結果に確固たる結論をもったそうです。

誰のためにあるのか

ここ最近の運動のストレスコントロールや性教育について考えると、共通していることがいずれも主体は大人が「つけてあげる」ものではなく、「本人が身につく」ことにあります。大人ができることは、環境を整えることに限られる場合が多いのだと思います。

 

運動でいえば、「遊びから生まれる運動」と、大人がルールを守らせる運動では、運動量に違いがあります。大人は決まったことを行わせがちですが、純粋な運動量という観点では、遊びの方がより多くの効果をもたらすこともあります。性教育においても同様です。「男女を分ける」「一緒にさせない」ということが目的になりがちですが、本来の目的は「性差を知ること」や「相手がいやなことをしないこと」を理解しすることに大きな意味があると思います。

 

つまり、どこに主体があるのか、誰のための行為なのかをよく考える必要があります。必ずしも大人がよかれと思って教育指導を行うことが、子どもの成長に好影響を与えるとは限らず、場合によっては「いらぬお節介」となることも理解しておく必要があります。

 

たとえば、性教育で「男女一緒にするのはどうか」という質問があります。しかし「男女を分ける」という前提自体、ジェンダーフリーの観点からはバイアスがかかっており、場合によっては差別的ともいえます。また、男性同士が苦手な男性がいるかもしれません。多様性が広く複雑になるほど、大人が枠組みを作ることは難しくなります。そのような世界で生きる今の子どもたちは、私たち大人よりも柔軟な意識を求められるでしょう。既存の意識で子どもたちを縛ることは、将来の障壁を作ることにもなりかねません。

 

だからこそ、大人は選択肢や環境を用意するなど、間接的な関わりの質が重要になってくるように思います。子ども自身が考え、進む道を選べるよう、大人がじっくり待つことが求められます。根気のいることですし、子どもを信じることは心配にもなります。人を信じることの難しさは、自分自身もまだまだ学ぶところがありますが、保育においてはこの点をよく考えていきたいと思います。

運動とストレスは正反対の作用

ここ数日、性教育の話をしましたが、話を運動脳に戻します。運動がストレス耐性をつけるということはこれまでも話していたことですが、実際、このことを調べた研究がありました。不安による疾患を抱えたアメリカの大学生たちが、くじ引きでウォーキングかランニングのどちらかを選び、それを疲れない程度に週に数回、20分ずつ2週間にわたって続けたそうです。そうするとウォーキングもランニングもどちらのグループも不安感は軽減したのです。その効果は直後から実感し、その後1週間も続いたそうです。また、その効果が高い運度はランニングとウォーキングではランニングの方が不安感の軽減は高いと生徒たちは感じたそうです。この結果は以前にも話した内容ではあるのですが、重要なことはこういった運動習慣によって、体はストレスに対して「慣れ」や「予行練習」になるということです。

 

不安障害は症状がでると心拍数と血圧が上昇します。何か悪いことが起きるはずだと考え、心臓の鼓動が激しくなるのです。これと同じようなことが運動時に起きます。ランニングやウォーキングを行うことで動悸は激しくなります。結果心拍数や血圧は上がります。しかし、走り終えた後は気分は穏やかになり、脳内でエンドルフィンとドーパミンといわれる物質が放出され快感を覚えます。すると体は「心拍数や血圧があがっても、それは不安やパニックの前触れではなく、よい気分をもたらしてくれるもの」と脳に教え込むことになります。「心拍数があがる=危険」と感じていたものが、そうではない解釈するようになるのです。だから、心拍数が上がりやすいランニングの方が高い効果を感じたのでしょうね。この本ではストレスと運動はほぼ正反対の作用を脳に与えるといっています。ほかのフィンランドの調査でも週二回以上運動をしているひとはストレスや不安とはほぼ無縁であったこともわかったそうで、同じような調査をしたチリでも同様の結果が出たそうです。

 

絶対的なプログラムはないとはいうものの、筋力トレーニングよりもランニングやスイミングなどの有酸素運動を30~45分。少なくとも20分を続けることが進められ、習慣化し長く続けることで、海馬や前頭葉といった脳内のブレーキペダルの役割をする力が強化されるようです。少なくともこういった運動を週に2、3回は心拍数が大幅に増えるような運動をした方がいいようです。そうすることでストレスを受けて動悸が激しくなっても、脳はそれが恐怖から来るものでなく、プラスの変化をもたらすものと学習するそうです。特に不安障害やパニック発作の症状がある人は効果があることが見られます。

 

運動をした後の、なんともいえない高揚感であったり、心地良い脱力感は脳内での作用が起こしていたことなのですね。そして、その作用を常態化することで、ストレスが起きたときに備えができるというのはいかに運動が重要な意味を持つかということがわかります。「ストレスと運動はほぼ正反対の作用を脳に与える」現代人は特に運動不足が問題になっています。この現状とうつ病や適応障害などの精神疾患が増えているのはよくよく調べると因果関係があるのかもしれません。

包括的性教育

ユネスコは、科学的根拠に基づいたアプローチとして「国際セクシュアリティ教育ガイダンス」を示し、そこでは8つの学習領域が掲げられています。具体的には、①人間関係、②価値観・人権・文化・セクシュアリティ、③ジェンダーの理解、④暴力と安全の確保、⑤健康とウェルビーイングのためのスキル、⑥人間のからだと発達、⑦セクシュアリティと性的行動、⑧性と生殖に関する健康です。これらを見ていくと、性教育は単に「性の知識」を伝えるものではなく、社会的規範や人権、多様性、暴力防止など、より広い社会づくりに関わる内容を含んでいることがわかります。

私自身の経験を振り返ると、学校で受けてきた性教育は「からだの仕組み」や「妊娠・避妊」といった⑥と⑧に偏っていた印象が強く、「ジェンダー」という言葉に触れることはほとんどありませんでした。つまり、ユネスコが強調する包括的性教育の多くの領域は、自分が学んでこなかった分野であると感じます。

では、こうした包括的性教育を乳幼児期にどう落とし込むかを考えると、単純な知識の伝達では難しい部分も多いでしょう。艮氏は保育における性教育について「大人が子どもに対しての決めつけを見直し、子どもが自分で選び、決めていく環境を整えることが重要である」と述べています。ここでいう「決めつけ」とは、たとえば「男の子だから」「女の子だから」といったジェンダーバイアスを意味します。つまり、幼児期の性教育は、子ども自身が自分の性や生き方を自覚し、選択できる力を育てることにつながり、そのことは子どもの人権を保障することでもあるのです。

実際、文部科学省も幼児期の性教育の要素として「プライベートゾーンの理解」「相手の大切なところを触らない・見ない」「嫌な触られ方をされたときの対応」などを示しています。これらを子どもが理解できるようにするためには、性別で活動を分けすぎず、子どもが「違い」を自然に経験できる環境づくりが大切です。差別や偏見は、相手を知らないことから生まれるものです。だからこそ、大人は日常の関わりの中で理解と思いやりを育み、子どもが安心して「嫌」と言え、自分で選択できる環境を保障していくことが、幼児期における性教育の土台になるのだと思います。

性教育と保育

先日、ある研修で「乳幼児期の性教育」について話を聞く機会がありました。私自身も最近少し考えたことのある内容だったので、そこでの話は考えさせられるものがあります。特に保育という仕事はなかなかに「性」とは遠いようで実に近い仕事です。昨今の不適切保育や子どもに対するセクハラのニュースも聞くことがしばしばあるだけに保護者の方も気にされている人が多いのではないでしょうか。ただ、今回印象に残ったフレーズが「性と人権」という話でした。「性」と「人権」よくよく考えてみると確かにすごくつながるものだと思うのですが、言われなければ意識しなかった内容です。

 

この内容を研修の中で話していただいた宇都宮大学 艮 香織(うしとら かおり)先生は「性」をテーマにすることで子ども観・人権のとらえ方を再確認してほしいと言っていました。確かに考えてみると性差やジェンダーの問題は人権に触れることです。日本はそういった意味でもまだまだ、性における理解というのは遅れているのかもしれません。細かいことでいうと「ピンク」=「女の子の色」であったり、「車・乗り物」=「男の子の好きなもの」という意識はいまだに残っています。これは何も乳幼児に限った話ではありません。たとえば、「理系」というものも「理系女子」という言葉ができるほど女性は少数です。このことは日本の教育においても問題になっています。また、最近よく聞くジェンダーフリーの話や性同一性障害を持っている人の話などもたびたび問題になります。そのほかにもいまだ男性の育児休暇が進まない現状であったり、「家庭」=「女性」といった良妻賢母を求められたり、女性自身がそうあるべきだと思ってしまう風潮というのもまだまだ根強いものです。単に「性」という話ではなく、社会と性において「人権」というものは切っても切り離せないものであるということがよくわかります。

 

もちろん、少しづつ改善されているものもあったり、認められる風潮というものはありますが、海外に比べると日本のそれはまだまだ課題が多くあるのだろうと思います。というのも、自分自身もこの内容を書きながら「あれもあった、これもあった」と気づく漢字でありますし、今ひらめく中でもこれだけ出るので、事柄を考えていくと潜在的にはもっとあるものなのだろうと思います。

 

そこで、艮先生は包括的性教育の必要性を話していました。包括的性教育とは「セクシュアリティを精神的・心理的、身体的、社会的側面からとらえたうえで、カリキュラムに立脚した性教育」を目的とした教育の内容です。その目的は「健康とWell-being(幸福)、尊厳を実現すること」「尊重された社会的・性的関係を育てること」「選択が自分自身と他者のWell-being(幸福)にどのように影響するかを考える」「生涯を通じて、権利を守ることを理解し励ますこと」が言われています。「性教育」を通して人権を伝えることがこれからの社会につながるために必要なテーマであるということが言われています。この包括的性教育は世界的には進めら得ている現状があるのですが、日本においては「発達段階に応じた性教育を学習指導要領によって提供している」として、「受け入れない」という姿勢であるそうです。