6月2024

日本教育が取りこぼしたもの

これまでの教育において、従来型の学校教育に言及されます。これまでの教育では日本の経済発展を支えるために「みんなが同じことが出来る」「言われたことを言われた通り」ということが求められてきました。結果、学校教育に求められてきたものは「正解(知識)の暗記」が中心になり、一方で「自ら課題を見つけ、それを解決する」という他者と協働し、自ら考え抜く学びが十分になされていないのではないかと答申の中で指摘もあったようです。

 

この「みんなと同じことを同じように」というのは学校生活で中心となる考えになると、同調圧力が発生し始めます。これがいじめの原因となったり、学校生活での生きづらさや非合理的な精神論や努力主義、詰込み教育などとの間で負の循環が生じるのではないかということも言われています。私はこれと共に、「年齢でのくくり」というものもあるように思います。「○○年生なら」とか、乳幼児期であると「○才」だからといった年齢の刷り込みは日本はとても強いように思います。しかし、異年齢での保育を行っていると、子どもたちは年齢で遊ぶ友だちを決めているのではなく、発達によって遊ぶ友だちを選んでいるように思います。日本はあまりにもこういった同調圧力が強くなるような学習環境であるために「できない子」も「できすぎる子」もいじめの対象となります。これは個別最適化の学びが出来ていないということの表れでもあるかもしれません。

 

こういった基本的に学校教育における「言われたことを言われた通りにできる」といった教育は「何をしていいかが分からない子どもたちを生んでいる」実態がコロナ禍において見えてきたそうです。以前、あるサイトで「イエナプラン」の事が話題に上がっていました。イエナプランは基本的に子どもたちが自主的、主体的に勉強する枠組みが作られているのですが、そこでのコメントに「こんな自習が主体の勉強なんて、私だったら勉強しない」とか「勉強せずに遊んじゃうな」というコメントが多く見受けられました。これは日本の現状において、非常に正直なコメントであるように思います。何よりも勉強や学習というものが「先生から習うもの」になっており、「自分が学ぶもの」という認識ではないということが伺えます。一体何のために学ぶのでしょうか。誰のために学ぶのでしょうか。

 

今一度、学ぶ必要がある主体というものがだれで、何のために学ぶ必要があり、どういったことを学習においてしなければいけないのかを改めて、問い直す時代でもあるように思います。その大きな意図が「令和の日本型教育」にこめられた意図のように思いますし、教育や保育に携わるもの一人一人が成績といった目に見えるものだけではなく、その大きな意味を考えていかなければいけないように思います。

これからの教育の目的

新学習指導要領には学校の段階と学校種の違いを越えて共通するものがあるそうです。それはどういった文章かというと「これからの学校には、こうした教育の目的及び目標の達成を目指しつつ」といった文章の後に「一人ひとりの児童が、自分の良さや可能性を認識するとともに、あらゆる他者を価値のある存在として尊重し、多様な人々と協働しながら様々な社会的変化を乗り越え、豊かな人生を切り拓き、持続可能な社会の創り手となることが出来るようにすることが求められる」とあります。

 

この文章から読み解くにかなり「自己肯定感」の意味合いに重要性があることが見えてきますね。この本では自己肯定感は「自分が大切な一人の人間であり、学ぶことを通して成長できる存在と認識する事」としています。当然、「一人一人の個人として存在していい」というのは一人では認識できないので、こういったところに「協働的な学び」が必要とされる課題があるのでしょう。

 

また、この著書では周囲の人との関わりや大人に苦しいときに助けを求めれば手が差し伸べられる経験を通して、必要な時に「助けて」といえる力の重要性なども挙げられています。だからこそ、大人は注意深く子どもを見守ることが必要とありました。

 

その際に、教師は「何を教えたか、ではなく、子どもたちが何を学んでどのような力を身につけていくか」ということに重点がおかれ、学ぶ喜びを児童に示さなければいけません。そのための子どもの参加や参画が重要になると書かれています。

 

ここまでの文章を見てどうでしょうか。私からするとこの内容が小学校で示されるというのは何とも考えさせられます。なぜなら、ここで言われる内容は乳幼児教育においても同様の目的があるからです。乳幼児教育においては特に「成績」というものはありません。小学校の教育要領においては学校での教育は「できるようにする」という語尾が多くあります。つまり「習得する」ことに目的がおかれています。一方で、幼稚園教育要領や保育所保育指針、認定こども園教育保育要領では語尾には「感性を豊かにする」や「味わう」「豊かにする」が多くあります。つまり、習得ではなく、そこで磨かれる「感性」などの目に見えない力が目的とも言えます。それは「学ぶ喜び」の芽生えが目的なのかもしれません。そうであるならば、「参画や参加」ということは乳幼児から必要であるといえます。

 

長らく、乳児や幼児は「何もできないもの」という捉え方が当たり前にありましたが、実際のところ、小学校などの教育改革において、乳幼児教育の役割というのはとても大きいように感じます。

 

教育改革

最近、日本の学校教育が大きな転換期を迎えているようです。「令和の日本型学校教育」というものが2021年の中央教育審議会で話し合われたことが話題になっています。特にその中でも「個別最適な学び」と「協働的な学び」というのが中心に据えられています。乳幼児教育において、これらの学校教育というものは決して無縁ではいられません。幼稚園や保育園で過ごした子どもたちは当然社会に出る前に義務教育に進学していきます。ということは、乳幼児教育も学校教育と同様にどのようなことが行われ、どういった教育の連携が取れるのかということが課題になってきます。

 

今回は『「個別最適な学び」と「協働的な学び」の一体的な充実を目指して』といった奈須正裕氏と伏木久始氏の著書から考えていきたいと思います。今回の教育改革において、その必要性はどこにあるのかというと総論には「社会の変化が加速度を増し、複雑で予測困難となってきている中、子どもたちの資質・能力を確実に育成する必要があり、新学習指導要領の着実な実施が重要である」とあります。

 

つまり、これからのVUCAといわれる不安定・不確実な世の中において、それに適した人材の育成のために「新学習要領の着実な実施」が重要と言っています。またこのことにおいてはICTの使用による少人数による指導体制の整備によってこれまでの「個に応じた指導」を整理し「個別最適化」されるものと、これまでの班活動などの「協働的な学び」を一体的な充実を目指しているようです。そのため、別の新しいことを始めるのではなく、新学習指導要領を行うことが目的としてあり、指導側からの視点から学習者側に変化を起こす「一人ひとりの子どもを主語にする学校教育」に変化していくと言われています。

 

また、このことの実現において、これまでの小学校の学習指導要領にあった「地域や学校の実態及び児童の心身の発達の段階や特性を十分考慮して」から「児童の心身の発達の段階や特性及び学校や地域の実態を考慮して」に変化し、微妙な文言の変化であるがこれまでの「学校の実態」が先に合ったところから「児童の心身の発達」が先に出たことで、児童からの視点にフォーカスが当たっているようです。

 

私からすると、学校の教科が中心となる学校教育で「心身の発達の段階や特性」というものに注視するというのはなかなか難しいようにも思いますが、それらの子どもたちの理解度というものをICTを利用し、最適化しようとするのが目的となるのでしょう。

 

では、このことについて「一人ひとりの児童の目指す姿」というのはどういうものとして考えられているのでしょうか?