10月2022

他者の喪失と現実の喪失

門脇氏は1970年代の中頃から東京都の委託調査を引き受け、30年間3年に1度の割合で「東京都青少年基本調査」を行いました。その子とは『現代青年の意識と行動』(NHKブックス)や『子どもと若者の〈異界〉』(東洋館出版社)で紹介しました。そこであった都市部の青少年の変化の特徴は「他者の喪失」と「現実の喪失」であったそうです。

 

「他者の喪失」とは「自分以外の他者への関心が薄くなり、そのため他者と深く関わることが無くなり、結果として、他者を自分の心の内側に取り込むことが出来なくなっている」ことだそうです。これは他の人のことでありながら、その人のことがあたかも我がことのように思えるような状態で頭に思い浮かべることが出来なくなっているということを指しているようです。逆に言うと、関心のあることは自分に直接かかわることだけになることを指すので、自己中心的な人間になるといいます。これは保育でよく使う言葉でいうと「思いやり」ということが育っていないということに見えますね。

 

次に「現実の喪失」です。これは「自分が飲んだり、食べたりして毎日生きている“今ここにある”現実の世界がどのような内実と意味を持っているかがよく理解できなくなっていること」を指しています。これは社会学の専門用語で「状況の定義づけ」というそうで、これが人によってバラバラになると、現実の世界についての共通理解が成り立たなくなり、そうなるとその場で使われている言葉の意味もマチマチになって、コミュニケーションが成り立たなくなるという厄介なことになるのです。いわゆる「共通言語」として、共有された意味を持った言葉が使われているのかということです。学校の定義を先生や一般的には「しっかりと勉強する教育の場」と捉えていても、生徒は「友だちと遊ぶ場」であったり「監獄のようなところ」「いやな先生がいるところ」などと定義づけにズレがあると、言葉の本当の意味が伝わらなくなるのです。これは良く起きている現象であり、今の時代問題となることでもあるように思います。この「現実の喪失」は「志」や「目的意識」「やりがい」といったものの共有においても、大きな影響を与えているように思いますし、今の時代、コーチングやマネジメントにおいても、このことは非常に課題となっている部分であるように思います。

 

こういった「他者の喪失」と「現実の喪失」といった事態が進んでいくと、他者との相互行為(行為や言葉のやりとり)がちぐはぐになったり、その場その場での相応しい適切な行動がとれなくなるのです。そうなると社会力を高める可能性が一層低くなり、社会生活がギクシャクし、大人にとっても、若者にとっても、社会そのものが居心地の悪いものになり、人と人とのつながりが希薄になると門脇氏は言っています。

 

確かに他者との関わりに思いやりがあり、共通言語があるということは同じ方向に向いているとも言えます。こういった関係性が保証されていると、人と人とには信頼関係が築きやすい環境になっているといえるのではないでしょうか。こういった環境を作るためにはどうしたらいいのでしょうか。門脇氏の調査は1970年代から30年という事なので、おそらく2000年までのデータであろうと思います。現在2022年の子どもたちの環境はどうなのかというと、よりこういった傾向は進んでいるようにも思います。

 

ただ、門脇氏は社会力は大人になっても高まることはできるといっています。しかし、そこには「自分の社会力を高めようという自覚や意欲があるか」ということが大きな問題であるといっています。これは私も同意見です。何よりもまず「自覚する」ということが非常に大きな第一歩であると思っています。そうした中で「ヒトと何かを一緒にしたり、やれることを誰かのためにやってあげ、良い関係を作り、お互いの理解を深めるように心がければ社会力は上がるといっています。

有能な存在

最近、様々な研究から赤ちゃんは有能な状態で生まれてくるということが言われるようになりました。では、そもそもなぜ、赤ちゃんはこれまで無能で何もできないと思われていたのでしょうか。これは、人間の特性によります。人間の赤ちゃんは幼形成熟といわれるように母親から生まれて時には他の動物に比べ幼く生まれます。たとえば、馬や牛などは生まれて数時間後には自分の足で立って歩き始めます。しかし、人間の赤ちゃんは1年もの間、立つこともできず、食べることや、排泄することにおいてほとんどすべて一人でできません。このような状態から赤ちゃんは無能で無知な存在であると考えられてきました。

 

しかし、最近の赤ちゃん研究において、赤ちゃんの新しい事実が確認され、ヒトの赤ちゃんは生まれながらにして極めて高度な能力を持っている有能な動物であるということが分かってきたのです。では、ヒトの赤ちゃんはどのような能力を備えているのかというと、①生まれた直後から大人の顔を見分けることができる(大人識別) ②耳に入ってくる音の中からヒトのコトバとして発せられる音を正確に聞き分けることが出来る(音声識別) ③他者の目を見て自分に向けられた視線であるかどうかを察知できる(視線識別) ④他者と目を合わせ(アイコンタクトし)その人の視線が何に向けられているかを確認できる(視線追従) ⑤未知のものを見たり新しいことをするときに母親の顔をみて安全性を確かめる(社会的参照) ⑥自分の興味あるものを指すことで他者の関心を引く(共同注意)などがあります。

 

こういったことができるのは、生まれた直後から生後ほぼ9ヶ月あたりまでですが、人の子がそうした能力を備えているのは「ヒトの子は人間として成長するために大人を見分けて近寄り、出会った大人と応答することが不可欠であり、そのために必要な諸々の能力をあらかじめ備えて生まれてくる」と理解するしかいないということを門脇氏は言っています。そして、こういった能力は赤ちゃんが他の人との相互行為を行うために必要な能力です。社会力を培い高めていくためだけではなく、社会力をベースにまっとうな人間として育つためにも、両親だけではなく、周りにいる大人たちとの相互行為(応答の繰り返し)を多くすることが決定的に重要になるのです。それはこのような赤ちゃんの持って生まれた大人との応答能力をフルに使うことが出来るように努める必要があるのだといいます。

 

門脇氏はこういった子どもの能力において、テレビに子どものお守りをさせることや、赤ちゃんを抱っこして赤ちゃんと目を合わせることもなく、スマホを見ている母親の姿を見て、社会力を育てる上でとても大事なことなのに・・と危惧していました。

 

赤ちゃんは非常に有能な存在であり、他者にコミュニケーションを行う能力が高いことが見えてきます。この能力をいかに発揮させるかということが保育につながっていくのだろうと思います。つまり、それは保育をすることにおいても、子どものこういった本来持っている能力の理解する必要があることも同時に示しているように思います。