乳幼児教育

注意と脳の反応

赤ちゃんは大人とは違い、意識が強くあり、可塑性があることで、脳に出来事すべてを取り込もうとするような様子が認められます。その時、脳はどのような作用を起こしているのでしょううか。

 

脳は、部位ごとに違った種類の注意に対応していることが分かっています。頭のてっぺんのほうにある頭頂葉は、視覚世界への持続的注意に関係しています。つまり、頭頂葉は新奇なものを見張り、後頭葉はそれが何かを理解する、という役割分担をしているのです。そして、このどちらの領域も、乳児期のごく初期に盛んに活動します。前頭葉は内因性注意と、余分な反応を抑制する能力に深く関わっています。ここは乳児期のごく初期から潜在的に活動はしているのですが、他の部分との連携が強化されるのは、もっと後になります。この連携は年齢とともに強まっていき青年期も続きます。私たちが邪魔な情報を抑制し、注意をコントロールするための基礎を作っているのです。

 

脳は当然注意や意識をするときに活動をしますが、では、様々な注意とそれに対応する脳の部位はどこにあるのでしょうか。それについてラファエル・マラハたちが一連の研究をおこなっています。この研究では機能的磁気共鳴画像装置(fMRI)をつかったもので、この装置を使い、問題を解いたり、何らかの課題を行っているときに、脳の各部にどれだけの血液が流れているか、問題や課題が脳のどの部分を活性化させるかを画像で見ることができます。

 

その装置をつかったマラハの被験者たちは映画を見せられます。すると、脳の血流パターンは、どの被験者も映画の中の出来事にほぼ沿ったものでした。もっとすごいのは、脳の前頭前野、計画や思考や自意識に関わる部分が、映画を見ている最中、ものの見事に抑制されてしまったのです。かわりに明るくなった、つまり活発に動いたのは後頭葉、赤ちゃんの時に活発に活動する部分です。これは被験者が意識がはっきりしているのに、自意識が消えてしまったことを意味しています。計画を立ててもいませんし、映画の内容を吟味したり、判断したり、評価したりもしていないのです。この状況は赤ちゃんがモビールを夢中で見ているときに似ています。モビールを見ている状況は大人で言う映画をみて我を忘れている状態と似ているのです。

 

このように大人の状態と赤ちゃんの状態を比べてみると面白いですね。赤ちゃんにとっても大人にとっても、何かに夢中になるときは同じような脳の働きをしているのですね。その後、成長と共に脳の前頭葉も変化していきます。その変化を通して、子どもの注意が変化していきます。

赤ちゃんの強い意識

赤ちゃんが広い範囲に注意を払うことで、様々なことを学習していくということが分かってきました。これは因果マップを作るときも同様で、統計パターンにおいても、ちょっと変わるだけで新しいマップを作っていきます。ゴプニックはこのように赤ちゃんは情報の有益性とか重要性に関係なく、興味深い出来事でさえあれば、その情報をことごとく吸収していくと言っています。そのため、乳幼児は大人よりも早く、楽々と新しいマップを作り、古いマップを修正していけるのです。

 

神経科学の研究からみても、赤ちゃんの脳にはアセチルコリンが豊富に存在する一方、抑制性の神経伝達物質は、もう少し成長しないと見ることができないのです。そして、興味深いのは赤ちゃんに麻酔をかけるときには、大人より高濃度の麻酔薬が必要なことで、これも理由は麻酔が神経伝達物質に作用するものだからなのです。意識を示す定義に「麻酔をかけるとなくなるもの」というのがあります。このことと高濃度の麻酔が必要というのを関連付けて考えると、赤ちゃんは大人よりも意識をなくすための「謎の物質」を持っているということが言えるのです。

 

さらに赤ちゃんの脳には、大人よりもずっと柔軟で可塑性があるという特徴があります。たとえば、子どもは怪我や病気で脳を損傷しても、大人より早く、しかも十分に回復するようです。大人の脳にはそれほどの柔軟性はありません。老犬に新しい芸は教えられないと言いますが、それは老いた脳に新しい芸を覚えさせるのも一苦労になるのです。

 

また、内因性注意の実験でサルにジュースをあげる際、特定の音が鳴るとジュースがもらえ、体に触れるとジュースが貰えない場合、サルは音が鳴ることに注意するという実験がありました。この実験を赤ちゃんサルに行ったところ、この実験で対象となった大人のサルとは違った結果が見られたのです。子どものサルの脳は大人のサルの脳のように、聴覚でとらえた出来事と触覚でとらえた出来事を区別していなかったのです。全体に注意が向いていたのです。これは人間の赤ちゃんが一つのことに集中できないのと似ています。さらにやり方をかえて、決まったパターンで大音響にさらすなど、一部の刺激だけに注意が向かわないように大量の刺激を浴びさえたときも、子ザルの脳細胞には変化が起こりました。報酬が貰えなくても、脳は音に反応して変化したのです。大人のサルでは、こういった脳の一般的可塑性は認められませんでした。

 

これらの実験の結果から見ても、赤ちゃんは大人よりも強い意識を持っており、大人よりも貪欲に様々な出来事を取り入れているということが分かります。

意識と抑制

赤ちゃんと大人の注意の違いは外因性注意の方が優位であるとことだけではありません。赤ちゃんは大人のように抑制できないのです。乳幼児は集中力が弱く、余分な情報にも心を閉ざせません。視野の端に入ったことも、簡単に注意をそらす傾向があるのです。

 

乳幼児は大人のように集中することは苦手ですが、たまたま見つかった情報を拾うのは上手です。たとえば、記憶を試す課題では、カードの束から一度に2枚ずつを見せ、右側のカードはいいから、左側のカードに何と書かれているかだけを覚えるように言い、左側に注目させます。そして全部終わったところで、左右両方のカードの内容を子どもに聞きます。すると年長の子どもは左側のカードの内容を右側のカードよりよく記憶していて、大人のように注意の対象外の情報を抑制していることが分かります。そのうえ、幼い子どもよりも左側のカードの内容を覚えています。ところが、幼い子どものほうは、左右の記憶の差が少なく、注意していなかったはずの右側のカードの内容を年長の子どもよりよく記憶しているのです。

 

幼児と「神経衰弱」をした場合、この能力に気づかされます。このゲームのコツは、自分がめくったカードだけでなく、他の人がめくったカードもちゃんと見ておくことです。幼児はこれが驚くほど得意で、大人のほうが負けることも珍しくありません。あるいはまた、そのときは、話を聞いていないように見えたのに、しばらくしてから大人の会話から拾った言葉や考えを突然口にし、周囲を驚かせるといったことがあります。

 

つまり赤ちゃんは、世界の何を見るかを、自分で決めるというより、世界の方が決めているのに任せているのです。また、どこに注意を向け、どの情報を遮断するかを決めてしまわないで、多くのことを同時に意識しているようです。特定の対象についての有益な情報だけを拾うのではなく、赤ちゃんの周囲のものすべて新しい情報を集めまくるのです。

 

まさに広く浅く情報を取り入れるというのが赤ちゃんの意識思考だようです。幼児の「神経衰弱」のゲームでは実際に経験したことがありました。私の記憶にある子どもは木製の神経衰弱のゲームでしたが、気の木目やへこみ、ちょっとしたシミをすべて覚えてしまい、神経衰弱としてのゲームではなく、ほぼ暗記されたカードをひっくり返すような作業になっていました。大人も一度間違えてしまうと、すべてを取られてしまうようになってしまい、大人もあっさり負けてしまうという子どもがいました。確かに、こういった経験はどこにでもあり、心当たりがあることが多々あります。

 

外因性注意の優性と抑制をすることがまだできていないこと、この二つにより乳幼児の子どもたちは集中ができないように「そもそも」なっているのです。乳幼児においてはそれだけ広く、すさまじい情報量を子どもたちは頭の中に入れているのでしょう。

赤ちゃんの観察

赤ちゃんも大人と同様に外因性注意や内因性注意を通して周りを意識しますが、赤ちゃんの場合は内因性注意よりも、外因性注意の方がずっと支配的だとゴプニックは言います。赤ちゃんであっても、自分の注意をコントロールするといった内因性注意をしないことはないのですが、幼くなるほどそのようなことはまれで、注意はもっぱら外の世界の興味深い出来事に注がれ、心の中の計画だとか目的だとかに従うことは少ないと言います。これを以前紹介したボールのやり取りの中にゴリラが横切るといった例でいうと、赤ちゃんはボールを追うのをやめてしまうのです。内因性注意は、幼児期を通じて、時間をかけて発達していくのだと言います。

 

2歳児からお気に入りのおもちゃを取り上げたいときは、言い聞かせたり、鉱物で釣るより、別の注意を引いそうなおもちゃをあげるほうがずっと手っ取り早いです。こうすることで、子どもは自分から古いおもちゃを手放します。赤ちゃんは嫌いなのだけれどつい、興味をひかれてしまうもの、強い光とか大きな音に注意を向けるところもあって、べそをかきながらも、目を話せないところがあるのです。ある意味、人間の「見てはいけないものほど、見たくなる心理」みたいなものは赤ちゃんにも同様にあるのです。

 

しかし、このように馴化のプロセスを逆手にとって古いおもちゃを手放させるこのやり方は、赤ちゃんの成長と共に通用しなくなります。それは年齢が上がるにつれ、外部の出来事よりも、内部の思惑で注意がコントロールされるようになるからです。こうなると、新しいものや珍しいものにいつも注意してくれるとは限りません。そうして大人になったときには、ボールから目を離さないといったん心に決めたら、突然出てきたゴリラにも気づかなくなるのです。

 

確かに、保育の中で見る赤ちゃんは常に目をキョロキョロとさせ、何か音が鳴るたびに、そちらに目を向けます。逆にその音の出どころが分からないと不安になり、泣いてしまう子どももいるくらいです。こういった活動には何か意味があるのだろうといつも見ていました。ゴプニックが言うように周りの環境に目を配らせ、外の要因に目を向けることで、学ぼうとしているのです。ある意味で集中してはいない状態です、その集中しないということ自体が必要な時期なのですね。様々なものを「馴化」が起きるまで観察し、興味のある者や目につくものを分析し、学んでいるのでしょう。

 

つまり、この頃の子どもたちの対応は「あ~しなさい、こ~しなさい」と指示するのではなく、その子どもたちが注意しそうなことや興味のありそうなもの、楽しいことを環境の中に用意する必要があるようです。

大人の意識と子どもの意識

これまで、意識と注意の関連から内因性注意と外因性注意の紹介をしました。人は外の世界の要因から注意する外因性注意があり、外の対象に対して注意を向けます。これに対し、内因性注意は自発的に目的に向けて意識を向けることがあります。また、これらの反応においては脳の神経伝達物質による影響が大きいことも同時に見えてきました。常に脳は注意を向けるにあたり、抑制と興奮のバランスで決まってくるのです。

 

では、赤ちゃんの注意や意識といった物はどのようなものなのでしょうか。このことに関して、赤ちゃんの意識体験については、正確なことはまだわかっていないのですが、赤ちゃんの注意力、脳については多少のことが分かってきています。それにおいて、赤ちゃんや幼児の意識は大人と似ているともいえ、違うともいえます。

 

一昔前は赤ちゃんの注意は完全に自動的、反射的で、高次の脳中枢は使われていないと考えられていました。このことにおいてゴプニックは「赤ちゃんには脳がないという神話の一つに過ぎない」と言っています。しかし、そんなことはありません。赤ちゃんが何かに注意を向けるときは、大人と同じように対象の情報を取り入れていますし、意識もあると思われます。そして、わずかに予想とズレた出来事をみたときは、大人と同じ種類の脳波が現れますし、対象をじっと見つめ、特徴を目で調べ、その間、心拍数が低下するところも大人と同じです。これらの徴候はどれも、赤ちゃんが大人と同じように、その出来事を鮮明に意識していることを示しています。その出来事が面白ければ、驚くほど長い時間見つめ、しばらくすると飽きてしまい、目をそらします。これは大人も赤ちゃんも同じなのです。

 

このプロセスはまさに「馴化」のプロセスですね。わずかに予想とズレた出来事を見ると、赤ちゃんの注意はそれにくぎづけになり、予想通りだった出来事よりも長く見つめます。赤ちゃんは予想外の出来事に対してはとても貪欲に見えます。

 

このような赤ちゃんの意識を利用すると、赤ちゃんがどんな風に世界を把握していくかを知ることができます。また、こういった貪欲さが必要であるのは、人間が予想外の出来事にあるチャンスというのは若い時期ほど多いからです。そして、それは外界の物とはかぎりません。心の中にも予想外の事態が発生が発生するということに他ならないのです。

 

こういった実験をもとに見ていると、赤ちゃんにおいても、言葉には表さず、態度で示しますが、大人と同じように感じ、不思議に思い、周りの環境に能動的に働きかけ学んでいるということが分かります。また、最後の文にある「予想外の出来事にあるチャンスというのは若い時期ほど多い」というのはまさに経験値の問題なのでしょうね。大人は赤ちゃんと比べ、経験が多くあります。その分、様々な新しいことをその都度経験していることにもなり、「馴化」された出来事は赤ちゃんと比べて多いのは当然のことです。このように考えると、赤ちゃんが様々なことを考え、環境の中で自発的に感じることが多い状況を作り体験を通したことが多くできるような関わりをしなければいけません。だからこそ、「応答的な関わり」というものが重要視されるのでしょうね。