乳幼児教育

出典健忘

自分の体験を基にしたエピソード記憶(自伝的記憶)にはたくさんある記憶を思いうかべる自動再生(フリーコール)と幼稚園などの出来事を書いた連絡帳をもとに記憶を想起するように出来事の手掛かりを使って記憶を呼び起こす外因的なものがありました。ゴプニックはそれ以外にもエピソード記憶にはもう一つ特徴があると言っています。それは「ある出来事を単に知っているのではなく、それを知った経緯も知っている」ということです。それはどういったことかというと、「記憶は過去の具体的な体験に由来することを本人が知っているか、少なくともそう信じているか」ということであるとゴプニックは言っています。

 

脳損傷でエピソード記憶を失った人は、知識をどうして得たかを思い出せなくなります。コンピューターのプログラムが書けるようになっても、それをどうやって覚えたのか説明できないのです。脳損傷が軽く、新しい記憶をわずかに作れる人も、その記憶の由来を思い出すことは相当に困難です。

 

では、幼い子供であるとどうなのでしょうか。これについてゴプニックはごく幼い子どもも、自分の信念の由来をよく思い出せないと言っています。このことについてゴプニックは実験をおこないました。段ごとに鉛筆や卵など9種類の品物を入れた小さな引き出しを子どもに見せました。ある引き出しは、「あけて中を見せます。」ある引き出しは「この引き出しには鉛筆が入っています」と言うだけで開けません。またある引き出しはやはり開けずに「何が入っているでしょう。ヒントは、卵ケースに入っているものです」と言います。それから引き出しを全部閉め、一つずつ指差しながら、次のように質問を続けてします。「ここには何が入っているかしら?」「どうしてわかったの? それを見たから? 私が教えたから? それともヒントから?」と聞きます。すると、子どもたちはみな、引き出しの中身を覚えていました。ところが3歳児はその理由がなかなか思い出せず、見てもいない引き出しの中の卵を見たとか、その反対を言うことがよくありました。これに対し、5歳児では中身を知っている理由も正しく答えられたのです。

 

このように「出典健忘」があるために、子どもは暗示にかかりやすいという特徴があります。司法の場でも問題になっているのが、子どもたちに「あの人に触られたんでしょう?」と聞かれると幼児は実際に信じかねないということがあるのです。このような子どもの被暗示性は、かつては真実と嘘、事実と空想の区別がつかないせいだとされていました。でも、これは違うようです。子どもが暗示にかかりやすいのは、情報そのものの真偽というより、情報の出所が見極められないところから生じています。出所が判明できないために、幼稚園でのうわさ話や、誘導質問から推論したことを、本物の記憶と混同してしまうのでしょうとゴプニックは言っています。

 

これはよくよく気を付けなければいけません。保育の中でも、例えば喧嘩等の対応する時に大人が先入観を持って見てしまうと5歳までの子どもたちの記憶に対して、暗示的に操作しかねないのです。聞き出そうとするにしても、誘導尋問的な話し方は子どもたちにとって記憶を変えかねないというのはしっかりと意識していないといけないですね。

記憶の内因性と外因性

2歳児に対して、動物園の記憶を実験者がそこで起こった出来事を聞いてみるという実験しました。すると、2歳児はその子自身の記憶であると同時に、母親の記憶のものとしても答えました。これと同じ実験を条件をコントロールして行ってみると、3歳とそれ以上とでは、記憶の種類が違っているらしいことが分かってきました。

 

たとえば、もし「27日の夜はどこにいましたか?」と言ったことを大人が聞かれると、過去数日間のエピソード記憶をたどり、その夜の記憶にたどり着きます。その日の出来事を回想するときには、たくさんある記憶の細部を想起します。このような記憶の再生法を自由再生(フリーコール)といいます。

 

一方、「27日の夜、そのバーで、黒いフェルト帽をかぶり、バイオリンケースを持った男を見ましたか?」と尋ねられた時のように、ある手がかりをきっかけにして再生される記憶もあります。これもエピソード記憶の一種ではありますが、心の中で自由再生されるのではなく、外から促されなければ再生されるものではありません。ここでいう「促す」というのは、母親が2歳児に動物園の象の様子を思い出させたり、商店街で迷子になったいきさつを大学生に実験的に「思い出させる」ように、真偽に関わらず直接答えを与えるのとは違い、あくまで記憶を思い出させる「手がかり」を与えるということです。この場合、再生される情報は本物なのですが、手掛かりがないと引き出せないのです。

 

このように自動再生のように記憶の再生が起こることと、手掛かりをもとに記憶が再生される仕方と2種類あります。これは注意に内因性注意と外因性注意とがあるのに似ています。記憶においても、内因性と外因性によって左右されるのです。

 

他にも単語リストを見せ、後でそれを自由に思い出してもらうのと、ある単語を教え、それを手掛かりに次の単語を思い出してもらうの土手は、後者の手掛かりを与えられる方が自由再生より多くの単語を思い出せます。特に幼稚園児では、その差が一段と大きくなるようです。この時期の幼児は手がかりさえあれば、極めて詳細な記憶を再生できますが、自由再生はうまくできません。

 

このことについてゴプニックは幼稚園児に「今日、なにしたの?」と聞くと「別に」とか「遊んだよ」というくらいで、なかなか詳しく教えてくれないのではないかと話しています。確かに、終わりの会で「今日は何が楽しかった?」と聞いても、割と大まかなことがらしか上がってこず、詳しく聞いても、「う~ん」と困ってしまう子どもは多いように思います。しかし、そこで起きた出来事を話して見たり、「こんなこともあったじゃない」と多少の手掛かりを与えると、答えが広がっていきます。しかし、だからといって全体の記憶が想起されたのではなく、それを手掛かりにした限定的な記憶であるのは確かですね。なるほど、子どもたちの記憶を想起させる方法においても、どれほどの記憶の引き出しがあるのか、幼児においてはどういった思考で記憶が思い出されるのかとても考えさせられます。

子どものエピソード記憶

前回までの内容のように、子どもたちの頭の中でエピソード記憶というのは起きているのでしょうか。ゴプニックは赤ちゃんでもエピソード記憶を持つことがありますが。それは大人のエピソード記憶とは少し性質が異なると言っています。そして、大人と同じようなエピソード記憶と似たものができるようになるのは5歳ぐらいで、これとは並行して内部意識のほうも変化していくと言っています。

 

これまで心理学者の中では赤ちゃんはエピソード記憶は持たないと考えられていました。しかし、赤ちゃんでも特定の出来事については赤ちゃんも具体的に記憶できていると実験によってわかってきたのです。その実験では、実験者が箱におでこをつけると箱が光るという場面を赤ちゃんに一回だけ見せておきます。そして、1か月後、同じ赤ちゃんに再びその箱を見せると、赤ちゃんは前かがみになり、おでこを箱につけるのです。つまり、一カ月前の出来事をはっきりと記憶していたのです。

 

他にも、よちよち歩きができるようになった1、2歳の子は、過去の具体的な出来事を言葉で示すこともできます。ゴプニックの息子が、1歳半のとき、訪ねてきた祖母と、ある晩、夜空の星や月を眺めていました。1か月後、祖母がまたやってくると、まだ昼間なのに「月」と叫んで、その腕を引っ張り、外に連れ出そうとしたのです。1ヶ月前に体験した出来事を思い出し、また、その行動をしたいと思いだしたのです。

 

ロビン・フィバッシュは、母親と一緒に動物園へと行く子どもの日常のひとこまを記録し、数日後、その子にそこでの出来事を聞いてみました。すると、2歳児は「象がウンチをしていたよ」などと非常に具体的なことを答えるのでした。ところが、その子が答えた内容は、動物園で母親の口から出たことをほぼそっくり引き写したもので、母親が言ったこと以外のことは覚えていなかったのです。ゴプニックはエピソード記憶はあくまで、自分の体験した自分だけのもので、他の人の記憶ではないと言います。そうすると2歳児のエピソード記憶はその子自身の記憶であると同時に、母親の記憶でもあったのです。これが5歳の子では、体験した複雑な出来事を記憶し、自分の言葉で答えられるようになります。

 

これと同じ実験をさらに条件をコントロールして行ってみると、3歳とそれ以上とでは、記憶の種類が違っているらしいことが分かってきました。

 

赤ちゃんのような幼い子どもでも、人の顔を覚えることや物を覚えることがあります。当然そういった記憶力があるというのは子どもを見ていなくても、誰しもが分かっていることです。しかし、エピソード記憶のような自分の体験を記憶するということも改めて考えると、わかってはいても、それほど複雑な記憶を駆使しているということに驚きます。

エピソード記憶

エピソード記憶とは、どのように作られるのでしょうか。自分の生活体験を後で再生できるように、とりあえずDVDドライブに保存しておくようなものでしょうか。ゴプニックはそんなに単純なものではないと言っています。たとえば、雰囲気のいいレストランで食事をしていたとします。しかし、脳裏に浮かぶのは雰囲気のいいレストランで食事をしている自分と誰かです。ですが、実際この情景は自分のうちから見ているはずです。つまり、自分の体験をその通りに再生するのであれば、机を前に料理が口に運ばれる情景のみのはずです。このように記憶においても、自分の目で見た情景だけではなく、客観的に俯瞰した記憶も出てきます。

 

また、エピソード記憶にはスペースシャトル・チャレンジャーの爆発事故や、9.11同時多発テロのようなおそろしい出来事の後には「フラッシュバブル記憶」と言われる記憶が残ることがあります。この記憶は非常に生々しいものですが、それでも実際の体験とは違ってしまうことがあります。これについて、チャレンジャー事故を人々がどう体験したか、心理学者が調べた研究があります。事故後間もない時期に「あなたは、あのときどこにいましたか?」「テレビで見たのですか、それともラジオで聞きましたか?」などの質問をし、答えを記録しました。そして、3年後にもう一度同じ質問をしたのです。すると、質問された人たちは、爆発の衝撃は今も生々しく残っていて、自己のことは正確に覚えていると答えたにも関わらず、多くの人の記憶に間違いがあったのです。本人が思っているほど、性格ではなく、実際の体験とは少しずつ違っていたのです。エピソード記憶の細部が完全な創作で、ありもしない体験を記憶してしまう例もあります。

 

これにおいて、細かい出来事において、記憶を植え付けることもできると言います。エリザベス・ロフタスと同僚たちが行った実験では、ごく普通の人にも「虚偽記憶」があるという驚くべき事実を示しました。まず、被験者に対し、あなたは幼いときに商店街で迷子になったことがある、という暗示を与えます。たとえば、「お母さんから、あなたが小さいとき迷子になった話を聞きましたよ」といったように伝えます。それから、その出来事を思い出すように促し、細部を少しだけ暗示します。たとえば、「噴水の陰に隠れていたんですってね」などです。すると被験者は、事件者の作り話を最後には完全に信じてしまい、ありもしない過去の出来事について鮮明なエピソード記憶を持つにいたるのです。

 

こういったようなエピソード記憶ですが、他のタイプの記憶と違うのが、感覚の細部まで豊かなことです。エピソード記憶はその時の雰囲気や感触、天気、様々なものが記憶として想像できるのです。一方で、単なる事実の記憶、パリはフランスの首都といったものは感覚は伴いません。しかし、ある出来事を取り上げて、どんな感じだった?どんなふうに見えた?どんな味だった?と聞いていくことで、詳細で具体的な心的イメージを植え付けられることがあります。記憶に関する心理学研究や、精神療法、さらには警察の尋問でも、このような手法によって、本当にエピソード記憶を捏造できてしまうことがあります。つまり、虚偽記憶が本物の記憶のように「感じられ」、其れに取り込まれてしまうのです。そうなってしまうと、意識体験としてはもう、実際にあったことと区別がつかなくなるのです。

記憶と内部意識

赤ちゃんの意識は周りを照らすように周囲に向けられているということをこれまで紹介してきました。それと同時に意識には外の世界に対するものと、心の中に向かうものがあります。心の内部の意識は、過去の記憶や未来への記憶、こだわり、空想などに左右され、過去の情景と未来の間を、まるでタイムトラベラーのように行き来します。これを「内語」と呼ばれます。頭の中で独り言を言うのもこういったことです。

 

このような意識の流れは、自己同一性の感覚と密接な関わりをもつと言います。つまり、自分の体験は、自分に起こることということです。哲学者ルネ・デカルトは、人が確実に知りえるのは内的体験だけだと考えました。つまり、「我思う、ゆえに我あり」とありますが、「我」とは誰のことを指しているのでしょうか。この「我」は内なる観察者として、自分の人生のステージを最前線から見つめるものであり、過去の記憶と未来の希望を統合する不変の自我です。未来を計画し、その計画から利益を受ける者です。つまり、「我」です。乳幼児にこのような内部意識があるのでしょうか。大人と同じような意識の流れがあって、内なる観察者のような司令塔はいるのでしょうか。

 

注意が外部意識と密接に関係しているのに対し、記憶は内部意識と密接な関わりをもちます。心理学者は記憶をいくつかに分類します。まず、一つ目は現在の行動に影響を及ぼす過去の体験です。これはウミウシのような単純な生物もこの種の記憶をもつと言われています。また、「パブロフの犬」が、ある音が聞こえたら電気ショックが与えられたことを記憶したのも、同様の仕組みです。2つ目は、それまでの人生で蓄積された知識があります。たとえば、パリはフランスの首都で、キャットはCATと綴るなど、いつこれらの知識を得たか覚えていないし、体験したわけでもありません。パリはフランスの首都という知識があるだけです。こういった無意識的な記憶に対し、自分の記憶を自分のもの、自分の人生を連続した物語として受け止める意識体験もあって、心理学者はこれをエピソード記憶と呼びます。そして、このエピソード記憶のうち、自分自身の体験に関わるものを自伝的記憶と言います。

 

記憶はそれに関わる脳の部分も、記憶のタイプごとに違います。ある種の脳損傷を受けた人は、新しい情報は学習できてもエピソード記憶をつくれません。有名な事例に、若い頃てんかん治療の手術を受けたH・Mという男性の話があります。手術で海馬を破壊された彼は、新しい技能の習得はでき、時には新しい事実を覚えることもできましたが、エピソード記憶は、手術後はもう作られることはありませんでした。そのため、彼は主治医に会うたびに自己紹介をしたのです。なぜなら、前に会った記憶がないからです。鏡を見るたびにぎょっとして、自分は27歳の男性だという記憶と、目の前の老けた顔の折り合いを付けなければいけないのです。H・Mの意識ははっきりしていたのに、その中身は正常な意識と非常に異なるものでした。新しい出来事も瞬時に忘れてしまいます。過ぎたことをどんどん忘れてしまうのです。