乳幼児教育

大人と子どもの意識の違い

ダニエル・デネットなどの内省の矛盾による主張は、意識についての幅広い見解の一方の極論な考えであって、デネットにポール及びパトリシア・チャーチランドを加えた「アンチ意識派」がいます。逆にそれとは反対の立場としてのあるのが、ジョン・サール、デビッド・チャールマーズといった「プロ意識派」の哲学者たちです。

 

「アンチ」は意識体験が不安定で矛盾をはらむことを強調し、「プロ」は意識の主観的な確実性を強調しています。チャルマーズらによれば、意識と脳にズレが生じるのは、意識が非物質であるせいですが、だからといって意識が幻想だというのではないと言っています。チャーマーズは、心を神秘的な魂と同一視するわけではなく、ただ脳と意識は根本的に別種のものだと言っているのです。

 

子どもの意識に注目しても、意識を説明しきることはできませんが、どちらかというと、デネットの主張に歩がありそう気がするとゴプニックは言っています。子どもの意識は考えれば考えるほど複雑で矛盾を抱えています。子どもは本当に、大人と違う意識体験をして、それを私たちに正確に伝えているのでしょうか。自分の意識を間違って捉えているということはないのでしょうか。この箱にはキャンディが入っていると、ついさっき思ったことを、本当に覚えてないのでしょうか。過去の体験を取り違えているだけ、ということはないのでしょうか。内なる自己がないのに、なぜ意識を持てるのでしょうか。これは「わたしの」意識体験だという自覚のない意識に、どんな意味があるのでしょうか。もし子どもが過去の意識体験を取り違えているのだとしたら、大人にもそのような可能性はないのでしょうか。

 

わたしたちが当然のように思っていること、たとえば、私は数秒前に自分が何を考えていたか知っているとか、意識は一つの流れであるとか、自己は唯一のものであるといった想定が子どもを見ていると瓦解しまうとゴプニックは言います。意識が特定の性質をもつ統一的な現象でなくなってしまうのです。外部の世界に向けられる鮮明な意識と、内部の「わたし」を感じる感覚とは別物のようであり、その感覚は想像力や過去の出来事を想起する能力ともまた違うようなのです。もちろん乳幼児にも意識はありますが、これまでで紹介したように大人の意識とは非常に異なっているように見受けられます。

 

これまでの実験の内容を見ていた時に、子どもと大人との大きな違いは子どもは「今」というものが基本的にすべてであることに対して、大人は「未来や過去」も含めての意識という意味あいがあるように思います。目に見えるもの、感じるものすべてを取り入れようとする子どもと、効率よく、学び、必要なものを取り入れようとする大人というようにその時期に起きる学習というものが大きく違っているのだと思います。

 

ゴプニックは子どもの意識体験は、心の機能とギャップがあります。子どもはとても論理的で、データから正確な結論を導きますし、複雑な統計的分析や巧みな「実験」もしています。ところが、こんなに合理的な学習能力を持ちながら、意識のほうは大人から見ると非合理に映ることがあります。しかし、これは誤りだとゴプニックは言います。3歳児の心が大人にとって非合理なものだと感じられたからといって、子どもの心が実際にそうだと決めつけることはできないのです。そうではなく、子どもの場合は、心の機能と意識体験のギャップが大人よりずっと大きいと考えるべきではないかというのです。子どもは、思考と学習と体験が複雑で間接的な影響を及ぼし合っているのがよくわかるとゴプニックは言います。世界や自分の心について学習するにつれて、子どもの意識も変化していくのです。たとえば、他人の願望や信念は変わりえると知った子どもは、自分の願望や信念の変化も体験できるようになるのです。それは無意識の中で学習され、意識体験が絶え間なく絡み合っているのです。

 

だからこそ、乳幼児はその意識体験をたくさんする必要があり、一見大人にとっては非合理なものであり、一貫性の無いものであるように感じるのですが、将来の社会で生きる子どもたちからすると、そこに向かうための日々の体験が基本にあるのです。

「意識」の変遷

ゴプニックは子どもの意識の研究は哲学の重要な議論にも新しい光を投げかけると言っています。これは哲学の歴史における「意識」というもののとらえ方ですが、およそ100年前までの哲学では、私たちの行動は意識体験が引き起こすのだと考えられていました。つまり、自分の心を探れば、行動のもとになった概念や感情、判断が見つかると考えられていたのです。これをデカルトは「内省」と呼びました。デカルトは私たちが確実に知りえるのは意識体験のみであると主張し、ウィルヘルム・ブントやウィリアム・ジェイムズといった初期の科学哲学者もこれを踏襲しました。東洋の哲学や心理学で重視される内観瞑想も、これと同じものです。

 

しかし、この「内省」は厄介な矛盾もはらんでいると言います。「自分の心を見つめると、心の働き方も変えてしまうのではないではないか。」「監視人であり、自伝作家であり、経営者である内なる自己を、わたしたちは本当に体験できるのだろうか」という疑問が出てきます。これについてヒュームはこれを否定しました。ヒュームは「自己とは幻想にすぎず、探ろうとすれば消失するものである」と言っています。仏教においてもこのことと同じことを教えています。では、ヒュームのいうように「自己は最初からない」のでしょうか。それとも、「あることはあるけど、見つめようとすると消えてしまう」のでしょうか。また、これまでの考えのように「内省により、ありのままの意識体験を捉えるのは無理」なのでしょうか。

 

これについて科学的心理学の発達につれ、内省はいろいろな誤認をもたらすことがわかってきました。意識体験は、行動や心理学的な証拠とあきらかに矛盾することがあるのです。たとえば、以前外部意識の話で紹介した、不注意による見落としの実験では、ビデオの全場面を注視しているつまり意識下にあるにもかかわらず、ゴリラが通過したことを見落とした例や、 盲視者がある物体に手を差し伸べて、触ることができるという行動ができるのにもかかわらず、その物体を見るという外部意識の入力はそこでは起きていないといったこと。実際に経験するという意識体験をしていない出来事にも関わらず詳細な記憶といった内部意識を持つ例などを見ると分かります。また、実行制御にしても、本人は合理的だと確信している判断にも、無意識のうちに非合理なバイアスがかかることがあります。つまり、実際のところできないはずであるにもかかわらず、意識体験を通して体験しているという矛盾です。

 

これらの現象においては、そのいずれの場合においても、私たちはいるはずがないと分かっている頭の中の監視人、自伝作家、経営者を兼ねる脳内の小人「ホムンクルス」の存在を感じます。こういった一種の矛盾は確かにあります。いくら意識下に入っているとしても、それが認識しているとも限りません。逆に意識下になかったものであっても、体験しているように記憶できるものがあります。これは大いなる矛盾です。

 

こういった矛盾に対して、ダニエル・デネットなどの一部の哲学者は、意識は実在しないという過激な主張をしています。

赤ちゃんの信念とこれからの課題

子どもの信念は成長につれて、だんだんと固まってきます。内部意識においても、外部意識においても、赤ちゃんは自らの体験をもとに世界の情報を取り入れることを優先的に行っています。そうしていく中で、信念を裏付ける証拠を固めていくことで、ある程度の量になると、もうそれ以上は信念を変えたくなくなるようです。今ある、信念をできるだけ保守し、どうしても必要なとき、一部だけを変える。それが次の課題となるのです。これまで作り上げてきた信念を効率よくカスタマイズしていくのです。そうしていくように変化していくためには、行動も変わってきます。記憶の方式も変わり、今度は身に付けた信念の出所や経緯も大事になってくるのです。新しく得た情報が、既存の信念よりも正しく、信頼できるという確信が得られない限り、信念を変えようとはしなくなっていくのです。

 

このように赤ちゃんの思考や信念は成長と共に大人のような思考形態に変わってきます。科学的に証明されているわけではありませんが、大人の自由連想や入眠時の思考は、革新性や創造性と関連があるとゴプニックは言っています。長椅子に横たわって自由連想すると、隠れた自己を発見した気分になり、夜中にベッドの中で大発見する科学者が実際にいたりします。洞察瞑想も優れた洞察を得ることが目標です。批判抜きで自由に意見を出し合うブレインストーミングも、自由連想や入眠時の思考と似て、斬新なアイデアを生むのに適しています。鮮明な注意が、学習や脳の可塑性を現象的に示しているように、このような意識体験は、頭の中で新しいアイデアや情報がまとめられていることを示す現象的な指標と言えそうだとゴプニックは言っています。

 

このことに対して、自伝的記憶と実行制御は、大人がもつ長期的な計画を立案し実行する能力を反映しています。ゴプニックは自分の体験において、過去、現在、未来を通じ一貫したものと捉えるからこそ、嫌なことも我慢すると言っています。確かに、何か長期的目標を持つためには近くのことばかりを見ていてはできません。そして、大きな目的を持ち続ける根気さや困難にぶつかったときに目的を見失わないからこそ、我慢できるのです。そのためには未来の自分を見通す力が必要です。そして、それは過去から現在の自分とつながっているという事を認識していなければいけません。

 

実行制御の実験は、1960年代に初めて行われました。その後、このテストの結果は、その子がティーンエイジャーになったときの学業成績と強い関連があることが分かりました。5歳の時点で欲求の充足を先延ばしできた子は、できなかった子よりも、ティーンエイジャーになったときに有能で成熟していると評価されることが多く、SAT(大学進学適性試験)でも一貫して高得点でした。そして、将来に絶望したティーンエイジャーは、自己破壊的な行動をとりやすい、ということを指摘する心理学者たちもいます。マイケル・チャンドラーは、カナダ先住民コミュニティのティーンエイジャーに注目しました。彼らは自殺のリスクが高く、自己破壊的な行動が多いことで知られていました。そのことを調べてみると、自殺リスクの高い青少年には、一貫した自己の感覚が希薄であることが分かりました。現在の自分から過去へ、そして、とりわけ未来へとつながる自己が、自殺リスクが高い成長年にはあまり確立していないというのです。

 

このことはいかに乳幼児期での自己の確立が将来に大きく関わってくるのかということが見えてきます。乳幼児期に自らの体験における情報を多く取り入れ、思考や信念をしっかりと持たせることができるのかということかが、将来にも重要になってくるのと同時に、昨今の日本の自殺者の多さや「キレる」といった人の増加、SNS関連の事件などはこういった子どもたちの信念や思考形成において、大きな課題があるのかもしれません。

赤ちゃんの脳の変化

子どもは6歳になるころには、自伝的記憶、実行制御(機能)、内なる監視人の基本的な機能が出来上がり、意識体験も大人とほぼ同じになるとゴプニックは言います。では、この内部意識の変化はどうして起こるのでしょうか。これには子どもの言語能力によるものが大きいようです。というのも、自伝的記憶と自己制御は、言語能力とともに発達するのです。言葉を使うことで、あったこと、するべきことを、他人だけでなく、自分にも言い聞かせられるからです。大人は言語能力が十分発達しているので、出来事に対して、内語を盛んに使います。頭の中で、言葉にして表現するのです。しかし、フラベルの研究では子どもはその内語をほとんど使わないらしいことを示唆しています。

 

このように言語は、大人の内部意識において、大きな役割を果たします。自分の「うちなる声」に叱られ、せかされ、指示され、説き伏せられます。このことについて、哲学者ジェリー・フォーダーはあるエピソードを紹介しています。「哲学の文章を書いているとき、意識の流れはどんな感じですか?」と聞かれ、彼は「がんばれジェリー、君ならできるぞ、ジェリー、その調子だ、ジェリー」と答えました。大人はこのように、内語を使っています。しかし、子どもの場合は少なくとも口やかましい内語は使わないし、聞いていないようです。目標に向かって彼らをせきたてるのは、内語よりも親の生の声だというのです。

 

大人と子どもの内部意識の違いは、外部意識の違いもそうだったように、大きな目で見れば一種の役割分担だとゴプニックは言っています。つまり、子ども特有の意識は、子ども特有の課題に対応しているというのです。それは、外部意識のときと同様に、子どもにとっては、そのころはより多く、より早く世界を学ぶことが目的だからです。このことを中心に考えると、情報源を忘れる「出典健忘」と、そのために生じる被暗示性も説明ができるというのです。信念をスピーディーに更新するには、古い信念や出所は捨ててしまうほうが効率がいいのです。

 

その中でも、乳幼児は顕著なようで、乳幼児期の学習は迅速で、貯えた知識が数カ月ごとに入れ替わり、しかも3歳から4歳の間に、おおきなパラダイム交換、つまり、捉え方が大きく変わります。この変化は子どもの成長の中で、様々におきています。例えば、以前紹介したように、子どもたちが絶え間ない学習によって、世界の因果マップを描いていくようになったり、発達心理学では、生後9ヶ月から12カ月の間に物の概念が、3歳から5歳にかけては心の理解ががらりと変わると言われています。子どもの時代においてはたったの2、3か月で世界像を総入れ替えできるのです。大人でそんなことができるとしたら、よほど柔軟で革新的な心を持つ人であって、それでもせいぜい2,3度起きることではないかとゴプニックは言っています。

 

大人で表してくれているのは面白いですね。赤ちゃんの脳の中で起きているのことを考えると赤ちゃんがいかに天才的な脳を持ち合わせているのかということが分かります。こうやって短期間の間に非常に高度な知識を取り込み、自分の世界を作り上げているという脳の構造のすごさを感じます。確かにこのことをみていくといかなる高性能なコンピューターでもできないことを赤ちゃんはやってのけているのですね。

大人と子どもの思考の違い

赤ちゃんと大人を比べると様々なことが見えてきます。これまでの外部意識にしても、内部意識にしても、大人とは違いあかちゃんは「今を生きている存在」であるということが見えてきます。一度整理してみると、赤ちゃんは過去の具体的な出来事を、現在の出来事と別に記憶して、その記憶を何カ月も保つことができます。計画を立て、可能世界を創造し、それを現実に変える方法を描くこともできます。しかし、赤ちゃんや幼児は大人のように、自分の人生を過去・現在・未来をつなげるように自伝的記憶として見たり、未来のために今の自分を判断する実行制御(機能)をすることはできません。大人のように過去から未来への時系列として人生は実感していないのです。時と共に移り変わる思考や感情の流れに浸るという感覚もないのです。

 

これはどうやら、乳幼児には、過去と未来に投射される「わたし」がないということがわかります。過去の自分の精神状態を思い起こすこともできません。何があったかは覚えていても、それについて自分がどう思ったか、どう感じたかは忘れています。同じように、すぐ先の未来は思い描けても、遠い未来の想像はできません。未来の自分が何を考え、何を感じるかを予測することができないのです。

 

では、この「わたし」というものが赤ちゃんにはないのかというと、ごく幼い赤ちゃんにも多少の自意識はあるとゴプニックは言います。鏡に写った自分を認識し、他人と区別することはできます。ビデオに写った子どもがだれかということも理解しています。しかし、赤ちゃんの心の中には、大人のような内なる監視人、自伝作家、経営者といった客観的に自分を見る視点というは持ち合わせてはいません。

 

ゴプニックはこのような赤ちゃんの様子を見て、「幼児の意識には大人の意識がもつ要素がすべて含まれているのだ」と言っています。過去の出来事のイメージ、立てた目的の見通し、奇妙な空想やごっこ遊びの反事実、さらに抽象的な概念まで、すべてがそろっているというのです。そして、これらの違い、今感じていることと過去の記憶との違い、空想と未来の目標との違いも区別がついているのですが、時系列としてそれらのことが過去から未来へとつながっているようにまとめられないというのです。

 

これらのことをゴプニックは「大人は外部意識がスポットライトであれば、内部意識は道と言える」と言い、子どもの場合は「注意はランタンの光のように拡散していて、その内部意識はあてどなく放浪しています」と表しています。大人は未来にも過去にも道を敷き、予測したり、振り返ったりしていくなか、子どもはランタンが映し出すものそれぞれに反応し、冒険していくのです。

 

こういった思考の違いを保育者は子どもと関わる際、理解しておくようにしなければいけないかもしれませんね。大人と子どもとでは、そもそもの思考の方法が違うと言えるのです。こういった子どもの発達における理解において、今、そこにある興味のあることに子どもたちは好奇心を寄せます。大人とは違い、好奇心や探求心が強いのは今ある環境を最大限楽しもうとしているからなのかもしれません。それを大人の道的な見方でもって、その考えを子どもに当てはめて求めるのは違うのだろうと思います。