乳幼児教育

内部意識

実行制御(機能)と記憶というのは大きく関わっているということが見えてきました。大人の実行制御を見てみると、自伝的記憶の場合と同じように、意識が大きな役割を果たしているのが分かります。わたしたちは普段、無意識のうちに行動し、計画し、複雑な道を通り抜けます。そして、途中で計画を変更したり、後でしなければならないことのために、今したいことを我慢するときには、行動を決定する「わたし」を意識に必要があります。つまり、何も考えずに障害を避け、角を曲がって家に帰ろうとした「現在のわたし」の意識に対して、それを「制御するわたし」が割り込んで、「今日はあっちへ行かなきゃいけない」と思い出させるのです。

 

意志を貫き、行動を制御するには、強く、時に厳しい意識を持ち続けなければなりません。「制御するわたし」は「愚かで、衝撃的で、惰性に流されやすく、鈍感なわたし」を絶えず見張っていなければいけないのです。内なる制御者は、密接に連携を取り合って、1人三役のように働きます。実行制御するには、過去、現在、未来の自分を統合し、最終決定を下すことが必要になります。

 

よくドラマやアニメなどで、天使と悪魔が頭の上で話している姿の描写があります。これは天使が「制御するわたし」で、悪魔が「鈍感なわたし」ということなのでしょう。実在するわけがないのに、実在しているような気がする。純粋に現象論的に考えると、自伝的記憶と実行制御、監視し、記憶し、判断する「わたし」は、ひとまとまりのもののように見えます。しかし、科学的な心理学では、このような「わたし」が内部意識の本体だとは考えないとゴプニックは言います。

 

自伝的記憶をつくったり実行制御をする能力は、もっと間接的で微妙な仕組みによって、内部意識と一貫した自意識を生み出しているのだと思われます。幼児は自伝的記憶も実行制御も未発達ですから、内部意識や自意識のあり方も大人と違っているのだというのです。では、子どもはどのような内部意識になっているのでしょうか。

 

それを調べたのがフラベル夫妻の研究でした。子どもの外部意識は大人のそれとは相当違っていたのは以前にも紹介しましたが、内部意識においても、大人とは大きく違っていたそうです。大人の意識や思考、感情には流れがあって、記憶は連綿と続いています。ところが5歳の子どもには、この前提が当てはまりません。たとえば、壁にむいて椅子にジッと座っていたエリーを見ている子どもに、こう尋ねます。「エリーは何を考えているのかな?心の中で何か起きているのかな?考えたり、感じたり、思ったりしているのかな?」しかし、5歳の子はどれも否定します。エリーは何もしていないし、何も見ていないから、頭の中も空っぽだというのです。

 

つまり、ボーっとしているというのは何も考えていない空っぽの状態なのだというのです。幼児においては自分の心についてもこれと同じように考えています。大人はよく座禅の中で、「無」になるということを行いますが、これもある意味で「空っぽ」の状態になることの難しさを指しています。特に大人はその邪念であり、考えを消すということは難しいと考えているのです。しかし、子どもは頭の中を何時間も空っぽにしていられる?と聞くと自信満々に「できる」と答えたそうです。どう見ても何か考えているはずのときもこれを疑わないのです。

 

子どもにとって意識の流れとはどうなっているのでしょうか。

未来の記憶

エピソード記憶の実験で、4歳児の子どもは自分の気持ちは「以前とは違うということがある」ということがわかってきたきました。そして、そういったことを理解している子どもたちは、自分の気持ちは今後も気持ちは変わりえるということも理解できるようになります。

 

このことに関して、クリスティーナ・アタンスが行った実験は、まず砂漠に照り付ける太陽、雪に覆われた山頂など、いろいろな風景の写真を子どもに見せてから、「明日ここに遠足に行くとしたら、何を持っていけばいい?」と聞き、サングラス、貝殻、防寒着、氷の中から持ち物を選ばせました。続いて、「なぜ、これを選んだの?」と聞くと、4歳、5歳の子は、先の危険を予測して、それを防げそうなものを選んでいることが分かりました。(砂漠にはサングラス、雪山には防寒着)また、その理由も「目が痛くならないように」とか「風邪をひかないように」など、未来の適切な予測に基づくものでした。ところが、3歳児ではこうした適切な答えがずっと少なく、サングラスも貝殻も、砂漠に必要だと考える傾向があったのです。

 

乳幼児の現在の願望を未来のために抑制する「実行制御」の能力が育つのは、自伝的記憶が作れるようになるのとほぼ同時期です。子どもが自分の心に働きかけられるようになるのは、3歳から5歳にかけてです。目の前のクッキーを我慢するマシュマロ実験のようなものでは、子どもたちは歌を歌ったり、口笛を吹いたり、目をつぶったりして、誘惑から逃れようとするのは、未来に自分を投射しているからではないか、未来の自分を予測ができるから待とうと自分を成業できるのではないかというのです。

 

これより幼い赤ちゃんも、別の世界を思い描き、その実現に向けて働きかけをすることはあります。ですが、実行制御をするためには、別の自分を思い描く能力も求められます。そのして現在の願望と未来の願望が食い違うとき、その能力が使われます。また、その時には、現在の感情と未来の感情の因果関係も分かっていなければいけません。たとえば、「今はサングラスはいらない。でも明日砂漠に行ったらほしくなるのでは?」とか「今は一枚でいいからクッキーが食べたい。でもこれを食べてしまうと、あとで2枚のクッキーをもらえない。そうなったらいやだな・・」といったように現在の感情だけでなく、今こうしたら未来の自分はどう感じるだろうと考え、必要なら自分の心を抑制するというのが実行制御です。

 

実行制御(機能)においても「記憶」というものは大きく関わっているのですね。確かに自分のことを客観的に見ることや、先の自分の気持ちを予測できていないと実行機能のいわゆる「目標を達成するために自分の気持ちをコントロールする」ということにつながりません。そのためには「目標」を見通しておかなければいけませんし、その時の自分の感情も予測できていなければいけません。よく実行機能においては、様々な「体験」を通すことが必要と言われます。ということは、子どもにとって体験というもの自体が記憶や因果関係を得ることにいかに大きな影響を与えるのかということが見えてきます。つまり、主体的に関わることがその後の学習にも大きくつながるということの根拠ともいえることが見えてきます。

記憶の因果関係②

乳幼児がどのようにして現在の自分が過去や未来の自分と関係するのかを調べた実験の中で、ダニー・ポヴェネリが行った研究は幼児の成長記録をビデオで納めたものを使ったものでした。この実験では、子どもと一緒に遊ぶ大人が、1歳半の赤ちゃんの鏡の実験のように、こっそりとその子のおでこにシールを貼り、その後すぐにこの様子を映したビデオをその子どもに見せるというものでした。

 

すると、5歳の子は、ビデオに写ったシールに驚き、あわてて自分のおでこを触り、シールがないか確かめます。ビデオに写った過去の自分と自分の現在を同じ一つのものとして認識できているからです。ところが3歳児は同じように撮影したビデオを見ても平気です。鏡の中の自分は認識できますが、ビデオに写った過去の自分と現在の自分とがひとつながりの自分として認識できていないのです。しかし、過去の自分のおでこにシールがついていることには気づきます。ところが、そのことが現在の自分にもつながっているということには結びつかないようなのです。5分前に貼られたばかりのシールが、今もおでこについているという可能性に至らないのです。

 

また、年齢による違いがさらに極まっていたのが、3歳児がビデオの中の子どもを自分の名前で呼ぶのに対し、4歳児は「僕」など一人称を使ったのです。たとえば、3歳児のジョニーは「あれ、ジョニーのおでこにシールがついているよ」というばかりで、自分のおでこを触ろうとはしません。一方、4歳児は「あれ、僕のおでこにシールがついている」というなり、おでこのシールをはがそうとしました。3歳児は、ビデオの中の子が少し前の自分だと分かるのに、それを今の自分につなげるということができなかったのです。

 

これらの実験から心理学者の多くは、赤ちゃんや幼稚園児には年長の子や大人のようなエピソード記憶がないと考えました。しかし、これまでの実験をもとに考えると、乳幼児は自伝的記憶はなくても、エピソード記憶はあるということは分かります。手がかりを与えれば過去の出来事を思い出すといったように、過去の出来事を詳細に記憶しています。ただ、それを時系列に並べれないだけです。そして、なぜそれを知ったのか、知った時どう思ったのかを思い出すことができません。直接知った出来事を間接的に知った出来事より重視するということもありません。

 

これをゴプニックは「乳幼児期の心の中には、過去と現在の心をつなぐ『内なる自伝作家』、ただ一つの自我がない」と言います。ついさっきまで、箱には鉛筆が入っていると思っていた「僕」、お腹いっぱいになる前はクラッカーを欲しがった「僕」。ビデオに撮られたときおでこにシールを付けていた「わたし」を実感できていないというのです。

 

ビデオの様子は日本ではどういった表現になるのか少し気になりますが、これまでの実験を通しても、赤ちゃんから乳幼児期においては、過去に自分が体験した記憶といったものは赤ちゃんでもあるということが分かります。しかし、まだ「自我」というものが成立していないことから、記憶における「自分」というものが確立されていなかったり、自分が相手とは違う観念を持っていないという「誤信念」といった考え方がまだ出てきてしまうのだろうと思います。まだまだ、こういった記憶においては、解釈が難しいですね。自分自身ももう少し整理してみていかなければいけないと思います。

記憶の因果関係①

エピソード記憶のうち、自分の体験したことの記憶である自伝的記憶は、自己同一性、つまり、自分を客観的に見ることや自分がどう思っているかを自覚することなどといったものに非常に重要な役目を果たします。過去と未来の自分が連続していると感じるのは、特性が変わらないからではなく、同じ体を持つからでもありません。鍵を握っているのは「記憶」です。自分の過去に起きた記憶は紛れもなく「自分のもの」であり、他人の記憶とはっきりと弁別できるものです。仮に他の人が、かつて自分と同じ考えや思い込みを持っていて、そのことを自分が知っていたとしても、その他者の記憶は自分の記憶とは別物であります。

 

哲学者のジョン・キャンベルは、自伝的記憶の意識体験は、過去、現在、未来の自分の間にある因果関係に依存すると言っています。大人は、自分の人生を過去、現在、未来の体験を因果で結んだ一つのつながりの物語として捉えているというのです。自分が将来すること、感じること、信じることは、現在していること、感じること、信じることに左右され、それはさらに過去にしたこと、感じたこと、信じたことに左右されるというように考えるのです。人生が一本の時系列であるとのは疑う余地がないように思えます。

 

ところが、このような因果関係的には構成されない意識体験もあります。たとえば、解離性障害、つまり多重人格であれば、複数の自分事に違った時系列があります。同じ体で起こる体験であっても、Aの人格であるときにはAの未来に関わるが、Bの人格のときには影響がおきません。

 

では、赤ちゃんに至ってはどうでしょうか。自我の感覚というのはごく幼いうちに芽生えます。たとえば、1歳半ぐらいで鏡の中の自分を認識できるようになると言われています。これは、シールを使った実験で行われており、赤ちゃんの頭にこっそりシールを貼って鏡の前に連れて行くと分かります。1歳児は誰か別の赤ちゃんが鏡の中にいるかのように振る舞って、鏡に映ったシールを指さします。しかし、これが2歳児だとすぐに自分のおでこを触り、シールがあるか確かめたのです。

 

しかし、まだ、この頃であっても、現在の自分が過去や未来の自分とどう関係するかまではわかっていないようです。これらが時系列で結ばれていないのです。確かに、赤ちゃんにトラブルになった後に「なんでこうなったかわかる?」と聞いても分かってはいません。

 

このことをテレサ・マコーマックは、子どもに2組の絵を2日間に分けて見せ、そのあと、見たことのある絵はどれか、それは今日見た絵か、昨日見た絵か、と尋ねました。すると、三歳児は見たことのある絵がどれかはよく覚えていましたが、いつ見たかという質問にはよく答えられませんでした。ところが、6歳児では、大人と同じ程度に、どちらの日に見た絵かを判別することができたのです。

 

これとは別にダニー・ポヴェネリが行ったビデオを使った成長記録ビデオを使った実験ではもっと劇的な結果が記されています。

記憶

子どもが暗示にかかりやすいのは、情報そのものの真偽というより、情報の出所が見極められないことから生じていると言われています。そこで、ゴプニックたちは子どもの被暗示性が記憶の出所の理解に関係があることを確かめる実験をおこないました。

 

まず、子どもに映画を見せ、その後色々な質問をしたのです。その一部は記憶の出所に関するもので、「その男の子が黄色い長靴を持っているのを、なぜ知っているの?映画会で見たから?その子がそう言ったから?」などと質問します。これとは別に、被暗示性を調べるための誘導質問も行いました。たとえば、映画に出てくる長靴は黄色ですが、わざと「その子は赤い長靴を持っていなかった?」と聞いてみます。すると記憶の出所をよく覚えている子ほど、誘導尋問に乗りにくいことが分かったのです。出所がはっきりと分かっていれば、4歳の子でも誘導尋問には乗らなかったのです。

ところが、3歳児は自分の信念が何に由来するのかも、以前の自分はどう思っていたかも、よく思い出せません。これは以前紹介した「誤信念」の実験からでもわかると言います。キャンディの箱を開けたら鉛筆が出てきたのをみて、子どもは驚き、がっかりします。ところがそのあと、「箱には何が入っていると思う?」と聞くと、たった今予想外の事実にびっくりしたにも関わらず、鉛筆と答えたのです。ほんの少し前に抱いた信念をきれいさっぱり忘れてしまったのです。

 

この実験を通して、さらに幼児は過去の信念だけでなく、過去の願望も忘れてしまうのかも確かめる実験をゴプニックは行います。まず、子どもにクラッカーが欲しいかどうかを尋ね、欲しいと言ったら、お腹いっぱいになるまでクラッカーをあげました。そのあと、クラッカーを食べるまえ、ここに座ったときは、クラッカーが欲しかったかと聞きました。すると三歳児の半数は「ううん、全然」と答えたのです。これにより、過去の物理的な出来事はすぐ思い出せるのに、その出来事について自分が何を感じたかは、あまりよく覚えていないということが見えてきたのです。

 

クラッカーにしても、鉛筆にしても、目の前で見て、体験しているのです。しかし、そのわずか数分後にはきれいさっぱり忘れてしまっているのです。直前の意識体験なのだから明らかであり、忘れるはずがないにもかかわらず、数分前に起こった体験を思い出せないのです。

 

これと同じようなことは大人でも起きます。たとえば、だいぶ月日が経ってから同じ間違いを犯すことがあったりします。あとになって記憶を都合よく作り変えてしまうことがあります。子どもの場合はそれがたったの数分のうちに起こるのですから、やはり子どもの住んでいる世界は、大人の世界とはだいぶ違うのではないかとゴプニックは考えています。

 

子どもたちの記憶はわりと刹那的に解釈されているのですね。大人は未来にも過去にも意識や記憶や見通しをもって生活します。それに比べ、子どもたちの記憶は実に「現在」にフォーカスが当たっているように思います。つまり、そこにある現実をしっかりと記憶し、注意し、情報を取り込んでいるのでしょう。見方を変えて、子どもたちの様子を考えていくと、子どもたちは「今」をまさに生きているのですね。