乳幼児教育

反射から運動へ

身体と脳の機能は大きく関係していると言います。五感を通して得た情報を知覚し、身体運動との相互のやり取りによって認知能力が増していくというのが言われています。そして、その運動には2通りあるそうです。そして、この2通りの運動の移行が、発達に影響を及ぼしそのスムーズな移行が保育の大切な課題になってくると言います。

 

赤ちゃん特有の運動に「原始反射」という行動があります。この反射は、新生児や乳児に見られる、外からの刺激に対して意識の関与なしに起こる「無意識の運動」です。これは「不随意筋」と呼ばれる筋力の作用です。赤ちゃんの手を指で触れると握ります。それは意図して握り返しているわけではなく、「把握反射」と呼ばれる無意識の運動です。また、抱き上げると歩こうとするかのように足を前に出しますが、これは「原始歩行」というこれも無意識の運動です。

 

胎児期の脳幹や脊髄の成長とともに原始反射が始まり、大脳の機能が進むことで生後しばらくすると自然に消えていき、代わりに本人の意思によって手足を動かす「随意筋」が出現するのです。この移行は赤ちゃんの経験の積み重ねによって進んでいきます。たまたま、クレヨンを持って描いた線や丸を、描くことを繰り返すことで、次第に自分の意志で描くことができるようになってくるのです。このときには、経験が大切であると同時に、「自発的な運動」が重要になるのです。

 

運動と脳の機能の関連性は大きいのですね。乳児の子どもは特に反射行動から自分の意志で手足を動かすようになります。初めはつかむ活動であったのが、指先を使った微細運動を行うようになり、どんどんその指先の機能は細かくなっていきます。そこで大切なのはいかに必要な時に必要な活動ができるのか、つまり「やりたいときにできるような環境」を作ることができるかということです。「~歳児だからこういった環境」といった大人の先入観だけでは「自発的な運動」の機会を失してしまうかもしれません。そのため、意欲がある瞬間を見通して用意をする目線が重要になってきます。また、その意欲を引き出すためには他児の影響も少なくはないでしょう。人は少し先の発達の子どもをモデルにして意欲を持つと言います。意欲を持ち行動をしていく中で、経験を積み重ね、自分の意志で動かすことを覚えていくのであれば、大人が誘導し、その動きを促すよりも他児と関わりモデルを示し、自らやろうとする機会を増やす方がより自発的な運動をする機会につながるのではないかと思います。だからこそ、乳児の食事の環境はお互いを見合う活動が増えるような環境作りを作っています。

 

一つ一つこういった理論を参考にしながら環境を作ることで、より発達にあった環境に近づくのではないかと思います。しかし、その根底には「子どもの自発性」や「主体性」をしっかりと捉え認めていかなければできないように思います。そのために、「子どもはどのように発達するのか」「生きる力」とはどういった力なのかを知らなければいけません。そして、それはこれからの社会を見通したうえで本当に必要な力なのか、その生きる力として優先順位が高いのかをしっかりと見極めていかなければいけないのだと思います。

子ども集団

赤ちゃんは他者の存在を機能によって使いこなしていると言われているそうです。遊ぼうとするときは同じくらいの発達の子どもを選び、模倣しようとするときには少し上の子どもを選びます。そして、教わろうとするときはもう少し上の子どもを選んでいると言われています。気が合うかどうかというよりもといった個人差によって相手を選ぶこともありますが、年齢差で選ぶことも多いようです。これは実際の赤ちゃんの様子を見ているとよくわかりますね。周りの人を見て、使い分けているように見えます。そして、この年齢差のある子ども同士は、家庭内でのきょうだいか、地域の子ども社会の中に存在していましたが、それも今はなくなってしまいました。したがって、今は、さまざまな年齢の子とも遊ぶ機会を意図してつくっていかなければなりません。その一つがきょうだいの役割についてです。

 

子どもは生まれながら、いろんなことができるように備わっていますが、発言には環境が大きく関わっています。その環境の影響はさまざまですが、特にきょうだい関係が「心の理論」にどう影響するのかを調べる研究がされています。それはつまり、異年齢児の存在がどのように子どもたちに作用するかということでもあるといいます。これについて藤森氏は「ロバート・フルガムの「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」という本を紹介しています。それによるとフルガムは「自分が人格形成をしていく過程で、幼稚園の時の仲間との葛藤、喧嘩をしたりとか、あるいは場合によっては助け合ったりとか、あるいは自分が約束を守らないと非常に痛い目に遭うというようなことから、多くのことを学んだ」といっています。つまり、人生で必要な知恵は、高等教育で学んだのではなく、幼稚園の砂場にあると言ったのは、砂場が重要な意味であるのではなく、異年齢の子ども集団に意味があるということであると藤森氏は言います。

 

赤ちゃんにおいては、学ぶ対象や教えてもらう対象としての他児であり、幼児期においてはお互いが影響し合う関係性であったりと、子どもたちにおいてはやはり他者からうける影響が学びや知恵につながるということがわかります。実際の保育においても、異年齢に変えたことで子どもたちの様子は大きく変わってきました。まず、大きく変わったのが「少し手のかかる子」でそれまで年齢別に保育をしていた時は注意されることが多かったのですが、自分より年の下の子どもが同じ空間にいることで、一緒に遊ぶことが多くなりました。それは年齢という区分ではなく、発達という区分で見ているとその子は少し下の発達の子どものほうがあったのでしょう。落ち着くのもその様子を見ていると当然です。そこには発達にあった子ども同士の集団があるからです。また、乳児から入ってきている子どもたちと幼児から入園してくる子どもたちの様子も少し違うということが見えてきます。やはり、乳児からこども集団があり、関わりを中心とした保育の中にいると「会話力」の違いも見えてきますし、異年齢の子ども集団の中にも刷り込みなく入っていくという様子が見えてきました。

 

年齢別と異年齢での保育集団の違いというのを比べるとその子どもの様子は少し違ってくるというのは、やはり今少子化であり、地域や家庭に子ども集団がないからこそ、こういった違いが見えてくるのでしょうね。もし、地域や家庭に異年齢の集団があるとこういった違いはなく、あまり変わったことに違和感はないのかもしれません。こういった一つ一つの子どもの様子を見ていても、これまでとは違う社会の形になっているということを感じます。そして、今本当に必要な保育の形態がどういったものかを考える必要があるということを感じます。

表の道と裏の道

これまでの社会脳の研究を見ていくと、これまでの教育では「賢明に生きるため、出世するための知識」を身につけることが優先され、学問的な知識や技術、社会の中での適切に行動するために必要なルールや規範、儀礼を読み取る能力など個々の人間の表の道の能力ばかりが論じられ、強調され、その習得のための学習や訓練が行われてきたと言えます。しかし、脳科学の進歩に伴い、人が社会の中で懸命に生きるための社会的知性とは、人と人との関係において感情、情動で働く、脳の「裏の道」の能力が存在することがわかってきたのです。と藤森氏は「保育の起源」で話しています。

 

確かに教育において、知識や技能、学力や偏差値が重視されやすいのは数字としても表れますし、評価がしやすいからではないでしょうか。その反面、「裏の道」とされる社会的知性というものは評価は難しく、その人と関わっていく中でしか、その人となりというものは見えてきません。以前、リクルートの方と話をする機会がありましたが、そこでも「最近は優秀な大学を出たからといって、会社の中で優秀かというとそうではない」ということを話していました。そして、説明会でも全部聞いたり、これまでは「社会人として当たり前」としてあったことでもできないといったことができない人が多い。ということも話していました。ゴールマンは「社会脳における、他人と同調する能力、傾聴する能力、共感的関心など、裏の道のシステムの能力の高さを伴ったうえで、高い知力、学力を持ってこそ、初めて人はより良い社会人として生きることができる」ということを言っています。まさに今リクルートの方が言っていることにもつながっているのではないでしょうか。

 

そして、藤森氏は「社会で生きるということは、脳科学の面で見ると、他者と自分の脳の交流であって、この交流を上手に行う脳の反応経路、社会脳を持っている人は生き方が上手だといえるのです。そして、社会的能力、社会的知性の発達にとって乳幼児期がいかに大切であるかが認識されています。そして、この中心となるのが、他者との愛着形成なのです。乳幼児期に豊かな愛着の経験を持つ人は、ストレスに出会ったときにストレスを和らげ、自分を支えてくれる心の港を持つことができるのです」と言っています。いかに乳幼児から安心した環境の中で多様な人との関わりを通じて、感情のコントロールを知ることや社会脳を育てることが大切なのかということがわかります。

 

最近の子どもたちは少子高齢化の社会でこども集団がそもそも少ないことや核家族化により家庭に多様な人がいない状況、事件や交通事故など環境の難しさ、公園でも自由に遊べない空間の問題と上げていくととても子どもたちが自ら育ちにくい時代のようにかんじます。そして、そういった今まで地域や周辺環境に当たり前にあったことも含めて、教育機関がになっていかなければいけない時代だと感じています。教育に向かうための土台をしっかりと作ることから始めなければいけない時代で、まだまだ「表の道」のような教育が求められている現状ももう一度見直していかなければいけないのだと思います。そういった警鐘を脳科学は示しているように感じます。

影響力

人が持つ「影響力」というのはどういったことをいうのでしょうか。ゴールマンは「社会的相互作用の結果を生み出す能力」を影響力と呼んでいます。つまり、他人と付き合って、コミュニケーションする場合、様々な考え、理屈が飛び交います。それらをどのように調整し、良い結論を導き出すのか、そこで働くのが影響力という社会的才覚であるというのです。

 

例えば、相手の怒りを鎮め、事態を収めるためには相手との関係を建設的に処理しなくてはなりません。このとき権威を持っている人、地位の高い人、年長者などはともすると強い力を発揮し押さえつけようとしがちになります。しかし、それは強制的な押し付けになってしまいます。相手を見てどの程度の力の行使が必要かを見極める社会認知能力を発揮し、強い力を発揮したい衝動を抑える自制力が無くては適切な影響力を発揮することができないのです。そして、組織の中でのリーダーシップとは肩書ではなく、リーダーについていこうとする気持ちが人を動かすというのです。影響力のある人は言葉や行動に、人を納得させる力があるというのです。

 

そして、人に影響を与えるためには、自己表現力が必要になります。この能力は、自らが希望する自分の印象を他人に与えるように自分自身を演出する能力です。よくカリスマ性と言いますが、このカリスマ性を持った人というのは、他者を自分のリズムに同調させ、自分の感情に染め上げる自己表現力があると言われています。つまり、自然と他者と自分自身が同調していくことができる人がカリスマ性がある人というのでしょうね。そして、そのためには他人が同調したいと思える自己表現ができる人でなければいけないということなのでしょう。しかし、それは相手を何がなんでも説得しよう、そのためになんでもわかってもらおうとすることが、自己表現ではないのです。自己表現力の発揮には「抑制し、隠す」能力も必要だと言われています。どの立場にある人がどの程度まで感情を表現すべきかという微妙な規範をすることも、自己表現力の大切な要素だと言われています。

 

カリスマ性を持った人というのは自己表現ばかりではなく、他者のとの関わりのなかで抑制することもできなければいけないのですね。このことを受けて考えてみると「主体性」のとらえ方もこれに近いのかもしれません。「子どもが主体」だから「なんでもやっていいわけではない」のです。そこには必ず、状況や環境、時間など様々な規範があります。そういった規範と自分の自己表現との兼ね合いを調整していかなければいけません。ときには我慢することも必要です。実現する機会を得ることもあるでしょう。そういった一つ一つの経験がその子どもにとって社会と自分とを調整する力を養っていく機会になるのだと思います。そのために大人は子どもたちのサポートやフォローをしてあげなければいけなく、子どもたちのトラブルや経験に介入することは時としてかえって子どもたちの学ぶ機会を阻害しかねないように思います。その距離感は時にちかく、時に遠くあるようによく考えていかなければいけません。

 

こういった人的・物的な環境の下、子どもたちは主体的に感じ、考え、活動をとおすことで、社会と自分とを調整する力を養っていくのでしょうね。そして、こういった力をつけていくことが結果としてカリスマ性を生むことにつながることや、社会において重要な生きる力につながっていくのだと思います。そのために、保育者や養育者がどうあるべきか、それこそが「保育」なのかもしれません。

脳と社会、そして学び 2

なぜ、これほどまで「脳と社会」の研究がされるのでしょうか。その背景として、これからの社会、人と人が直接結びつくことが、持続する社会を構築するうえで必要であることの証なのではないかと藤森平司氏は言います。

 

社会脳は子どもの知識・教養・人格の形成に不可欠なものであると言われています。そして、ミラーニューロンという神経細胞によって、心の中で他者になりきり、その仮想体験を持ちに他者の気持ちや意図を理解したり、他者の行動を予測したりします。そして、その行動こそが、他者から知識・教養・人格を受け取るうえで重要であると同時に、他者理解を通じて、共感・同情・相互利益・相互扶助を行う「共生脳」においても中心的な役割を演じているのです。このように社会脳を育てることは共生脳を鍛えることになり、それが子育てをすることで非常に重要になってくるのだそうです。

 

そして、それらを鍛えるためには子どもに教えるとか、しつけるといったやり方ではなく、子どもが自然に周りからよい知識・教養・人格を吸収するように、よい社会脳やよい共生脳が育つ環境を作ることが、早期教育で最優先される課題だというのです。では、そんな環境はどのように作っていけばいいのでしょうか。今の時代の環境では核家族化や地域社会のコミュニティの欠如、少子化などの理由で困難な時代なのではないでしょうか。子ども同士が関わる中で「他者の気持ちや意図を理解する環境」というのはつまりは「顔と顔を突き合わせてお互いの感情を理解する」といった環境です。今や保育施設でしかこういった関わりのある子ども環境は作れなくなっています。

 

米国の教育心理学者の創始者とされるエドワード・ソーンダイクはこの一連の中で育った能力を「社会的知性」と名付け、「人々を理解し管理する能力であり、人間世界でうまく生きていくために誰もが必要とするスキルである」と定義しました。この知性は人間関係についての知識の発揮だけではなく、実践できる能力でもあると言い、この能力と脳の働きの関係を考えるうえで出てきたのが「社会脳」です。そして、これは脳の特定の部位を示すことや神経細胞のことでもなく、他人との関係に対する思考や感情などを統括する神経メカニズムの総称であるとされています。他者の心的状態に合わせることや逆に影響を受けるプロセスのことを言います。

 

そして、社会脳の能力は書物の上での学習で高めらえれるような能力ではなく、乳幼児における養育者との関りによって目覚め、以後の人間関係の積み重ねによって、発達してく能力です。この社会脳の能力は、社会生活を行う上で必要であり、社会生活の中で能力を高め、最終的には人間社会の平和維持にも役立つ能力であるので、いじめ、少年犯罪などの根源に、この「社会的知性」の欠如、社会脳の未成熟があるのではないかと推測されているそうです。

現在に日本でも様々な事件や問題が起こっていますが、よく聞くのが「衝動」による事件の増加であります。そのほかにもうつ病、いじめ、ひきこもりといった社会問題が後を絶ちません。もしかするとそれはこの「社会的知性」に原因があるのかもしれません。ここにも書かれていたように乳幼児施設はとりわけ、その重要さは高いように思います。子ども集団の重要性や養育者との関係性、子どもたちにとって本当に必要な環境は何なのか。小学校に向かって遅れないことが目的なのか、重要なのは教育を受けることではなく、教育を受けることでどう社会に生かす力にするのかを考えなければいけない時代なのだと思います。脳科学の証明は教育の本質や社会を見直すきっかけになるように思います。