乳幼児教育

保育室にある「緑」

ドイツの海外研修に訪れたときに、驚いたのが緑の多さです。それは保育室内だけに限らず、園外においても非常に多くの緑がありました。また、ビオトープなども用意されており、トイレの中にまで、たくさんの緑が用意されている印象があります。ミュンヘンでは窓際の棚の上にも植物が置かれています。そして、それは園だけではなく小学校の窓際ですら植木が並べられています。それも観葉植物だけに限らず、花の咲く植物も置かれています。それに比べると日本の保育園はドイツに比べると保育室に緑がほとんど見られません。

 

日本で行われている研究の中で「緑視率」というものがあります。それは「視界に一定以上の割合の緑が入ると仕事の能率が上がる」という研究です。ドイツのミュンヘンの保育士方がそのことを知っているということはないでしょうが、ドイツの環境は四方だけではなく、上方においても緑があり、その多さが伺えます。そして、そこにある植物は基本的に自然の植物であり、造花は使ってはいません。そのため、その植物は酸素を排出し、空気を清浄化し、加湿をしてくれます。カポックという植物の葉は、よくある加湿器並みの湿気を室内に出すことが知られています。また、「緑視率」の研究の中には、さらに効果を増すものとして「自ら育つ緑である」ということがあります。「自ら育ち、成長していく植物が机の上にあることで、より効果がある」という結果も出ているそうです。

 

では、なぜ、日本の教室や保育室には緑が置かれていないのでしょうか。よく言われる理由は「小さい子どもが土をいじる」「葉をちぎってしまう」「植木鉢を倒してしまう」ということが言われます。そのほかにも「育てるのが大変ですぐ枯らしてしまう」ということも言われます。なぜ、ドイツのミュンヘンでは子どもたちが倒したり、葉をちぎったりしないのでしょうか?

 

藤森氏はそれは「保育のあり方」にあると考えています。

藤森氏は「明確な理由がこれということはよくわかりませんが、まず、ミュンヘンの保育室には教具、遊具があふれんばかりに置かれていることも理由の一つかもしれません」と言います。確かに、ミュンヘンの保育室には教具や遊具が豊富に置かれています。乳児のころからたくさんの遊具が棚に並べられ、いつでも自分で取り出せるようになっています。つまり、土や葉を触る必要の無いくらい環境が充実しているのです。もう一つの要因は、子どもたちがとても落ち着いています。テンションが上がっている子や走り回っている子、大声を出している子はほとんど見ることがなかったと藤森氏は言います。それは好きなことに黙々と取り組んでおり、植木にぶつかったり、倒してしまったりすることがないのではないかというのです。また、なぜ枯れないのか、葉にほこりがついていないのはなぜなのかということも不思議に思ったそうです。枯れないように植物に水をあげたり、葉のほこりを拭いていたりする姿を見たことがないというのです。これは毎年ドイツに海外研修で見ているからこそ、よりそのことを感じたのでしょう。

 

こういった園にある植物に関して、藤森氏はこう言います。

「私の園では植木の枯れ具合で、保育室の落ち着きぶりを見ることがあります。心に余裕がないと、植木は枯れてしまいます。植木が水を欲していることに気が付かないということは、子どもの心が渇いているのにも気が付いていないように思うのです」

 

観葉植物やそのほかの植物の生育の生育状況からも保育のあり方が見えるというのはあまり考えたことがなかった指摘です。確かに毎日が余裕のない日々だとしたら、観葉植物にまで気が回らないということがあるでしょうし、ひとつの指標として見ることができるのかもしれません。また、緑視率を考えてみると、子どもの保育環境においても、緑の意味というのは影響があるということがわかります。日本の保育室はドイツに比べると緑は確かに少ないです。どういった環境が必要なのか、子どもたちが落ち着かない理由の一つに「緑」というのもあるのかもしれません。そういった視点においても、日本の場合は空間というものに関して、自然物よりも装飾など大人の作ったものが多く壁に飾られているように思います。

 

では、このことに対して、古来からの日本家屋はどういった室内環境だったのでしょうか。

日本家屋とアメリカの家屋

藤森平司氏は著書「保育の起源」の中で、保育における住居のあり方についても触れています。住居は空間的な環境だけではなく、前回も書いたように「家族」といった人的環境にも影響があります。また、物的環境も提供してきたといいます。そのため、住居は風土(土壌・気候)、風俗、住まう人間の心理・動線、生活のあり方、人間関係に密接に関係しています。そして、保育をする上で、日本の伝統的な家屋を知ることは有意義なことなのではないかと言います。なぜなら、そこには日本民族の社会や生活に対する審美、倫理、そして、道徳観といった日本民族に属する文化の諸相が見えてくるからです。日本家屋のような建物で生活をすることはなかなか少なくなってきていますが、日本の住居形態に表象された価値的関心や志向を取り上げることは保育施設における生活の環境のありかた、特に乳幼児を中心とした大人との共同生活の環境のあり方の見直しにつながると藤森氏は言います。

 

エドワード・S・モースは日本人の住まいと、それに直接かかわりを持つ周囲の環境について、1886(明治19)年『Japanese Homes and Their Surroundings』(日本人の住まいおよびその生活空間)という本を著しました。それは日本語でも訳され『日本人の住まい』として出版されています。その著書の中で序論に《日本の家屋の開放性と近づきやすさとは、それ自体が日本の顕著な特質である》と述べ、《外国からの訪問者は、誰も彼も例外なく、独特の性格を持つ日本人の住居についての楽しい記憶を抱きながら、帰っていくのである》と書いています。藤森氏はこの言葉を受け、モースの言う《日本人による典型的な産物の一つ出ある》というところから日本の家屋をもう一度見直し、その伝統を保育室にどうしたらいいかを考えていきます。

 

モースは日本の家屋に日本人の生き方を見ます。そして、その家屋の表象しているものは「美しい貧相」と「開放的な平穏」という言葉で表しました。そして、米国の家屋との比較において「日本の家屋をわがアメリカ家屋に比較した場合に見られる主要な相違点のうち一つは、仕切り壁とか外壁とかの設営方法にある。わがアメリカの家屋にあたっては仕切り壁および外壁は堅牢であり、かつ耐久性を持っている。したがって、骨組みができあがったときには、この仕切り壁がすでに骨組みの一部をなすのである。ところが、これとは逆に、日本家屋にいたっては、耐久壁に全く支えられていない側面が二つもしくはそれ以上も存在する。屋内構造においても、まったく同様で、耐久性に匹敵するほどの堅牢性を持つ仕切り壁などは、ほとんどまったく存在しないのである。その代用として、床面と上部で固定された溝にはめてするすると動かせるようになる、軽くてよく滑るふすまがある。この固定された溝が各室を区切るようになっている。この動くふすまは、これを左右に動かせば開放されるようになっており、場合によっては全部を取り外すことさえできるようになっている。ふすまを全部取り外してしまうと、数室を一括して一つの大広間として使用することもできる。これと同じような全面撤去の仕方で、家屋の一つの部屋から他の部屋へ行こうとする場合に、自在ドアを開けるなどのことは全然必要がない。窓に代わるものとして、外襖すなわち、白い紙を貼った障子があり、これを通して屋外の陽光が室内に拡散するようになっている」と言っています。海外の家屋と日本の家屋と比べると日本の家屋はずいぶん自由度がある作りになっていることに対して、海外の家屋は堅牢であり、耐久性に優れているところが特徴的にあるのですね。

 

見守る保育の中では、0・1児室、3・4・5児室は大きな空間になっています。そして、制作や絵本など多くの遊ぶ空間は可動式間仕切りや家具で空間を区切っています。そして、モースが言うような日本家屋のように可動式間仕切りや家具を動かすことによって、空間の一部を閉めたり、全部開け放したりすることで保育室を自由に仕切ることができます。こういった作りの考え方は日本家屋につながりますね。

心の理論と学び

自分の心と他者の心を推測することといった「心の理論」はいつごろ獲得されるのでしょうか。先日のブログの中でも少し触れた部分なのですが、これまでは4~5歳児から自分と他者との関係がわかってくると考えられていました。これは「誤信念課題」といわれる方法によってわかってきました。それはどんな方法だったのでしょう。

 

例えば、男の子と女の子が部屋で一緒に遊んでいます。男の子がボールを籠の中に入れて部屋を出ます。男の子がいない間に残った女の子がボールを別の箱に移します。そして、この場面を被験者に見せて「男の子は最初にどこを探すと思いますか?」と聞きます。正解は初めに男の子がボールをいれた「籠」です。しかし、箱と答えてしまう場合は「心の理論」が得られていないということになります。この方法に対して、従来は4~5歳児は正しく答えられますが、それまでは他者が自分とは違う見解を持っていることを想像できないため、自分が知っている方を答えるといわれています。

 

しかし、この結論もどうやら違ってきているそうです。「3歳以下の子どもは心の理論をもたない」という定説を覆したのは2005年の科学雑誌「サイエンス」にある当時、イリノイ大学の大学院生であったクリス・オオニシらの論文であると藤森氏は言っています。赤ちゃんが数、引き算を理解しているという実験ですが、それによって月齢15カ月の赤ちゃんでも誤信念課題(他者の気持ちがわかる)ということがわかったそうです。こういった研究はまだまだ賛否両論であり、異論も多くあるそうです。しかし、このように様ざまな観点から「乳児が他者の行動を理解するメカニズム」を解明しようとしているのです。

 

人の真似をすること、模倣行動は社会行動の中でも最も重要な働きであると言われています。それは真似をすることで、試行錯誤なしで効率よく学ぶことができるのです。そして、ヒトの文化的な行動は「ヒトからヒトに伝えられてきたのである」ということもできるのではないかというのです。以前、民俗学の観点から子どもの文化を見ていても、大人の行動にとても興味のある子どもたちは様々なことに興味を持って模倣してみようとします。そして、その活動の中で、道具の使い方や食べ物の扱い、危険なモノへの対応などを学んでいきます。それはただ連合記憶のみに頼るやり方では、他者の行動を素早く真似ることはできないと言います。相手の行動とその文脈から行動の目的を推論し、同じ目的を達成するような自分の行動を生み出すことができたときに可能になります。それかまたは、相手の動きをあたかも自分の動きのように処理することによって、その行動に関わる一連の運動を体験し、学習することが可能になります。それが「目的論」や「シミュレーション論」というものです。

 

つまり、ただその物事を覚えるだけでは真似できないというのです。相手の意図がわかっていないと真似もうまくいかないのですね。勉強においても同じことが言えるのかもしれません。応用までできるようになろうと思うと、ただ覚えるだけでは応用はできません。何か目的がないとそこまで理解しようとする意欲は湧かないのかもしれません。「模倣から学ぶ」ということは結局のところ意欲が出やすい環境なのだと思います。社会脳は人間関係だけでなく、「学ぶ」という学習意欲にも影響するのだと思います。

脳の進化と遺伝子と環境と

生物の発達を考えるにあたって、それが生まれつきなのか、その後の環境によってなのかは大きなポイントになってきます。藤森氏は「保育の起源」の中で「私は、生まれながらに持っている遺伝子は、長い進化の過程でその種が生存し、子孫にその遺伝子をつないでいくように作られているのだと思います。」と言っています。たとえば、タンポポは花を咲き終えたら、綿毛になり種を風に乗せて飛ばします。この営みは遺伝子に組み込まれた活動です。しかし、その種が落ちる場所はどこに落ちるかわかりません。なぜなら、どの環境に落ちるかは遺伝子に組み込まれていないからです。落ちるところは子孫を残すには最適な場所ではないかもしれません。しかし、10本のタンポポから10本以下しか増えなければその種は滅びてしまいます。そのため、ばらまく種の数やそのリスクを計算して種を多くし、風に効率的に乗って遠くに飛ぶように進化していきます。つまり、環境要因のリスクを減らすために進化発達するということは環境も無縁ではないのです。また、環境によってその数では対応できない状況が起こることがあります。そのときには落ちた環境に適応できるような能力を次第に獲得していきます。それは長い進化の過程の中で行われていくだけではなく、その時々にも適応できる遺伝子も兼ね備えていて、その環境ともとからの遺伝子との相互関係によって変化させていくのです。藤森氏は「それはまさに『柔軟性』であり『遊び心』であると思っている」と言っています。

 

「社会脳の発達」を書かれた千住氏はこのあたりのことを脳科学の観点からこう考えています。「『脳機能は局在する』『脳機能の局在は経験によって変化する』という発見は、現在の根幹をなしています。一見矛盾するこの知見は、脳機能の局在が脳の構造発達と環境からの入力との相互作用によって創発するという、相互作用説によってうまく説明できます」そして、その相互作用説に基づくのであれば、「脳の発達だけでも社会環境だけでもなく、その両者が発達の過程でどのような相互作用を見せるのかを、丁寧に追いかける必要があります。そのためには発達初期である乳児期から、ヒトの発達の過程を直接研究対象とする必要がある」と言っています。タンポポと同じように人間の脳の発達においても、そもそも脳の中にある遺伝子やその機能と社会環境との相互作用によって発達進化しているということが言えるのではないかと言っています。そして、そのために乳児期から発達する過程を直接見ていく必要があるといっています。

 

しかし、その研究では次のような課題を考えていると千住氏は言っています。「社会行動や社会的認知の脳神経基盤を発達認識神経学の手法を用いて探る、「発達社会神経科学」とでも呼ぶべきかもしれないこの研究方略は、言葉を話さず、運動能力や注意の持続、体力などに大きな制限のある赤ちゃんを対象に、どうすれば認知や脳機能を計測できるか、という技術的な因果を避けては通れない」と言っています。このことに対して藤森氏は「このような研究に対して現場(保育現場)の立場からすると、『臨床保育学』という視点を持つべきだ」と言っています。そうしたうえで「そうはいっても、最近の技術革新により、乳幼児期の行動や脳機能を無理なく測定することは格段に容易になり、体系的に進めることが可能になってきているようです。特に、乳幼児や児童を対象とし、彼らが直面する社会的な環境への適応について、脳科学の手法を直接用いた研究を行うことにより、新しく刺激的な知見を次々と獲得しつつあるようです」と言っています。

 

これまでの内容を見ても、かなり具体的に脳がどのような作用をして、社会性を発達させているのかということがわかってきているように思います。そして、そのことに対して保育や教育というのは無縁ではなく、この研究で解明されていることはまさに保育現場で普段から子どもたちの脳の中で行われているということを忘れてはいけないのです。そして、それほど重要な部分に関わっているということを改めて考えていかなければいけませんね。

脳の大きさと発達

社会脳がヒトの脳にはあり、ミラーニューロンによって相手の行動を自分の行動のように感じることができるようになっているというのが解明されてきました。しかし、まだまだ人間の脳は解明されていない未知の部分がたくさんあるようです。そんな中、「人の脳の発達にチームワークが大きく影響している」というのがAFP通信の記事で出ました。それはアイルランドと英国のスコットランドの研究チームが出した「人類は仲間とのチームワークを通じて脳を大きく発達させてきた」というものです。

 

研究チームはコンピューターを用いて、社会生活における困難な状況に応じて神経回路網を発達させる人間の脳についてのシュミレーション実験を行いました。いくつかのシナリオの中で利己的な選択をしたほうが自分の得になるようなシナリオでしたが、この実験を通して「脳が発達するほど他者との協力を選択する」といった結果が導きだされたそうです。

 

「ヒト科の祖先と比べ、なぜ現生人類ホモ・サピエンスの脳は大きくなったのか」という疑問は長らく、科学者らの間で謎のままでした。しかし、この研究チームの論文でも社会的交流に脳の大きくなった理由が隠されているという結果が出ていました。このチームでは「生き残るために欠かせないのが他者との協力。そこで、多様で複雑な〈社会〉に対処していくためには脳を発達させる必要があった」と見ています。

 

この論文の共著者であるアイルランドのダブリン大学トリニティカレッジのルーク・マクリナーはAFP通信の取材に「グループ内において他人同士が協力することはよくあるが、これには認識力が要求される。誰が自分に対してなにをしていて、それにどのように対応すべきか常に頭を働かせておく必要があるからだ」と語っています。そして、それと同時にグループ作業では相互関係を計算するときに「もしも共同作業で私がずるをしたらあなたはその次の時には『あいつはこの間ずるをしたから、もう協力しないぞ』と考えるだろう。つまり基本的に今後も相手の協力を得たければ、自分も協力せざるを得ないということだ」と指摘しています。さらに、チームワークと脳の力は相乗効果で高め合う関係にあり、より強力的な社会へ移行するにつれ、複雑多様な社会が脳の発達も促進していったのではないか推測しています。そして、「一度、知性が高レベルで発達を始めると、協力行為もより高いレベルで進歩する」と話しています。

 

つまり、ヒトの関わりの中で「競争」から「協力」に移行していったといい。脳の知性が高レベルに達していくとまた、その競争は複雑になり、それに対応して強固な社会が作られ、協力関係もより深くなっていくといったように、様々な事象や状況の中で対応していくうちに脳の発達につながってきたというのです。しかし、面白いのがこういった様々な状況で争いもあったでしょうが、最終的に工夫し協力するための方針をもって、社会を大きくしていったという方策をヒトはとったということです。もし、そのときに利己的な行動ばかりをとっていると人はすでに滅んでいたのでしょうね。自然と協力関係を築いていく中で、各々の「責任」があったということなのでしょう。そして、その責任が「ルール」を作り、社会の中で「掟」となり、その集団がより大きくなっていったのだと思います。こういった生存戦略も脳の発達を通して見るとまた違った見え方がします。そして、本来のヒトも見えてきます。