乳幼児教育

心理学の見直し

藤森氏は教育心理学、発達心理学には見直されるべき理由が3つあると言っています。

まず、見直される最大の理由は過去の教育心理学や発達心理学が、子どもをまともに人間として見ていなかったことであると言っています。これまでの紹介にもあったように、ピアジェの認知発達の新しい知見からも見えるように、現在様々な研究によって、新生児の持つ能力は非常に高いということが明らかになっています。

 

2つ目の理由は心理学の中に「実験的にわかること」への過信があったことだといいます。それはどういったことかというと、実験において被験者の子どもは「なんでこの人はそういうことを聞くのかな」と気をまわしてしまうために、変な答えになってしまうのです。また、このことは実験内容によっても起こることがあります。というのも、実験は子どもにとって遊びとなっていることが多く、実験者は自分と親しく遊んでくれる存在として捉えることが多いのです。かつての(数的にもごく限られた)実験では正確さにおいて十分ではないものでもあるというのです。

 

3つ目は、乳児は「心の理論」を獲得していないと決めつけ的に思われていたことです。自分の相手の立場に置き、どうなるかを想像できるという「心の理論」は4歳までは分からないと思われてきましたが、1歳半の子どもでも、それがわかっているということが明らかになってきています。新生児室にいる生まれたばかりの赤ちゃんは、他の赤ちゃんが泣いているとつられて泣くと言われていましたが、「ただつられているのではない」ということが分かってきたのです。実験で、自分の泣き声を録音したものを赤ちゃんに聞かせても全然反応しないのに、他の赤ちゃん、しかも同じ月齢の赤ちゃんの泣き声を聞くと(もらい泣きのように)一緒に泣きはじめることが分かったのです。自分の泣き声と他の赤ちゃんの泣き声をきちんと区別して、他の赤ちゃんの泣き声を聞いても、自分も悲しいくなるということ、つまり赤ちゃんも他者の心がわかっているということが明らかになったのです。

 

実際に赤ちゃんのクラスを見て、赤ちゃんを観察していると、上記に見える赤ちゃんの様子を見ることも多くあります。しかし、どこかでこれまでの赤ちゃん研究の内容を鵜呑みにして、先入観をもって子どもを見ていることも起きているのかもしれません。本来はこういった研究を鵜呑みにするのではなく、いかしてなければいけなく、参考にしなければいけません。そのため、私たち子どもを見る職業においては、研究を子どもたちに当てはめるのではなく、子どもたちの様子を研究結果に当てはめていかなければいけなく、やはり子どもを見る目線を養っていかなければいけないのだろうと思います。藤森氏はこの章の最後に「旧弊な発達理論を鵜呑みにするのではなく、新しい研究成果に常に留意しながら、保育とのかかわりを考えていきたいと思います」と締めくくっています。

赤ちゃんの論理的思考

ピアジェは乳児が数の認識について、論理的思考ができるようにならないと考えており、数の概念は十分に獲得することはできないと考えていました。しかし、乳児研究の発展により、この理論も覆ることになります。乳児が数の概念について理解しているだけではなく、わずかながら計数能力も持っていることが分かってきたのです。そして、この数の能力もコアノレッジの一つとしています。

 

ちなみに前回の話の中でも出てきたコアノレッジ(中核知識)というのは、乳児が(物体や数、他者との関係などのように)人が生存するうえで重要で最も基礎的かつ中核的な部分を、生得的(生まれながら)に持っている、もしくは、必要最低限の経験で獲得できるように生まれてくるという考え方で、このような基本的なコアノレッジに、2000年代半ばからは、新たに社会集団いついての領域も含まれてきており、米国の認知心理学者 エリザベス・スペルキがコアノレッジ理論として記したものです。

 

たとえば、生後3か月の乳児は自分と同じ人種の顔を好んで見つめたり、5カ月児は自分の母語のアクセントで話していた人の顔を、別の言語や別のアクセントで話す人の顔よりも好んだりするなどの傾向があると分かってきました。そのほかにも、最近の研究では、食物を新しい領域に含めるべきか、などという議論もされており、その幅はますます広くなっていく領域であると予想されています。

 

前回にも登場した心理学者T・G・バウアーは著書「賢い赤ちゃん」の中で、赤ちゃんは論理的であり、仮説を立て、その仮説から予測を演繹(えんえき)すると言っています。こうした研究により、乳幼児の力が次々と示されてきたのです。

 

また、米国の児童心理学者アリソン・ゴプニックの「哲学する赤ちゃん」ではそうした赤ちゃんに関する様々な発見が紹介され、幼児が(かつては理解できないと考えられていた)因果関係を理解し、(関心を持ち)、仮説をたて、未来を予測できることも示されています。そのうえ、乳幼児は物理学的、心理学的、生物学的な面でも、因果関係の知識を持っていると考えられています。これについては「素朴理論」という言葉で説明されています。

 

素朴論とは子どもの持つ知識が、断片の寄せ集めではなく、理論と呼べるほどに体系化されている様子のことを指すそうです。つまり、学校教育で教わったことではなく、素朴にもともとの子どもが持っている能力をゆうしており、「哲学する赤ちゃん」には「子どもの脳は、意識には上ることのない因果マップ、世界の仕組みを性格に捉えた地図を描ける」と説明しています。

 

このようにピアジェのそれまで行っていた数々の理論は覆っていくものが今の研究ではたくさんあるようです。しかし、このいくつを私たちは知っているでしょうか。今の保育環境がどれほどに生かされているのでしょうか。こういった研究内容を含め、新しい世界に向かっていく子どもたちに「生きる力」を育んでいくにはこういった研究をどう捉え、今に生かしていくことができるかが重要になってくるのだと思います。これまでの内容は藤森平司氏の「保育の起源」での内容から紹介しましたが、藤森氏は子どもの能力を過小評価しがちだと言っています。しかし、これまでの内容を見ていても乳児の持っている能力というのは

とても有能なものを持っていることが分かります。そのうえで藤森氏はこういった心理学の新しい知見から、「子ども観」の見直しを余儀なくされると言っています。

感覚間協応

子ども研究方法は観察手法から乳児の視線を利用した選好注視法が、子どもの発達心理研究に利用されていました。それにより、乳児の時点で単純なものより複雑なものを好むことや奥行きの理解があるということなど、様々なことをすでに知覚しているということが分かってきました。

 

では、聴覚についてはどうなのでしょうか。これも母親の胎内にいる頃から機能してることが明らかになっています。生後数日において母親の声と見知らぬ女性の声を提示した際に、母親の声を好むことがわかっています。しかし、父親の声と見知らぬ男性の声を提示した際には、いずれも関心を向けるさまが見られなかったそうです。この結果は赤ちゃんがははは親の胎内にいるときから母親の声を聴いている経験があるからだということが言われています。

 

新生児は音を知覚するとその音源に対して顔を向け、大人と同様に、不協和音を嫌い、協和音を好む傾向があることも知らされています。嗅覚や味覚については、まだ研究が少ないようですが、新生児は苦い味よりも甘い味を好み、他人の母親よりも自分の母親の母乳の匂いのするパッドを好むなど、味覚や嗅覚も乳児期から機能していることが明らかになっているそうです。さらに大人の嗅覚は方向弁別能力という、匂いの元が右からなのか左なのかということを判断する能力は低いのですが、乳児は左右の弁別ができるという報告もあります。

 

このように新生児や乳児が視覚や聴覚などの感覚を発達させることが明らかになっているのですが、ピアジェの理論と最も大きく異なっているのが、感覚と感覚の関係、つまり感覚間協応についての問題だというのです。ピアジェは把握や視覚などの枠組みは、早期には独立して機能し、その後それらの枠組みが協応して働くようになるという考えを持っていました。この考えでは新生児や生後間もない乳児に、視聴覚統合や、視覚と触覚の統合はありえないことになってしまいます。しかし、実験手法の確立により、新生児にも感覚間協応があることが示されているのです。ほかにもピアジェは視覚と把握行動の協応ができるようになるには、生後数か月を要すると考えていました。ところが前回にも紹介した心理学者のバウアーらはこのピアジェの論に対して、生後数日の乳児が、視覚的に誘導された対象物に向かって手を伸ばす行動(=リーチング)を行うことが示されたと「Nature」誌に報告しました。それは、視覚と把握行動の協応という感覚の関係、つまり感覚統合について、ピアジェが唱えたものよりも早い時期に乳幼児が視覚と運動を協応させていたということを示したのです。

 

またこのほかにも実験的研究の手法が変わったことにより、ピアジェのこれまでの理論とは違った結果が示されていくことになります。

研究手法

ピアジェの本格的な乳幼児研究は素晴らしい業績を残しましたが、「彼の研究手法では、乳幼児の能力を十分に測りきれていない」という批判が20世紀後半に相次いで起こります。その批判の一つのポイントが「ピアジェは文化や社会の影響を軽視している」という指摘です。彼にとって乳幼児は、自らの知識を獲得し、思考を構成していく存在でした。そのため、乳幼児のまわりの他者や文化の影響をあまり考慮せずに、乳幼児自身の力を強調したのでした。彼は認知発達の質的に異なった発達段階を想定していたのです。しかし、これは現場を見ていると感じることなのですが、子どもたちにとって、他児との関りや兄弟関係、周囲との相互作用は子どもの認知発達にも大きく影響しているのが言われています。ピアジェはその部分に関しては触れられておらず、あくまで子ども単体の認知発達に言及していたのです。

 

また、ピアジェの時代は観察手法が主な研究方法でした。しかし、それでは観察者の意図が入りすぎるがあまり、子どもの能力を過小評価しているという問題点もありました。そのため、ピアジェ以降で広く行われている実験手法は乳児の視線を利用したものです。乳児は養育者など周囲の環境を見つめ、目で追い、それが何であるかを学習しようとします。乳児の視線の動きは非常に活発であり、その視線から知的能力を調べようという考えが生まれたのでした。そして、その視線を使った研究方法の代表的なものが選好注視法です。

 

この選好注視法は2つの対象を提示し、乳児がどちらか一方を選択的に注視するか同化を調べる者です。この手法によって、乳児は単純なものよりも、より複雑なものを好んで見ること、非対称的なものよりも対照的なものを好んでみること、パターンがないものよりはパターンがあるものを好んでみることが明らかになりました。もう一つは馴化・脱馴化法(じゅんか・だつじゅんかほう)というもので、乳児が対象を見つめるということと、新しいものが好きだが、すぐに飽きてしまうという傾向があることを利用した方法です。ほかにも期待違反法と呼ばれる方法があります。それは乳児が知っていることとは別の異なった出来事を提示して、乳児の興味や驚きを誘発する方法です。

 

このように乳児の視線を研究することで、様々な研究装置が開発され、乳幼児研究の進展に大きく貢献してきました。有名なのはエレノア・ギブソンとリチャード・ウォークによって開発された「視覚的断崖」もその一つです。この装置は乳児の奥行き知覚がいつごろ獲得されるかを検証するために開発され、その結果、生後半年頃の乳児にはすでに奥行きを知覚する能力があるということがわかったのです。心理学者T.G.Rバウアーらは、ある物体をスクリーンに投影機で映し、スクリーンに映った物体の大きさを変化させた際に乳児がどのような反応を示すのかを実験した結果、生後間もない乳児が顔を手で覆ったりするなどの防御反応を取ったそうです。この実験により、赤ちゃんが生まれながら三次元空間を知覚する能力を持つことが証明されました。

 

このように乳児の視線を利用して実験することで、乳児がもつ様々な能力が明らかになってきました。また、乳児は目が見えないと考えられてきたのが、現在の科学的な検証によって、新生児は視力は悪いものの、まったく見えてないわけではないことがわかっています。ただし、新生児の視力は約20~30㎝先に焦点が合わされており、大人のように焦点を合わせることができないそうです。そして、生まれた直後の乳児でも、動く物体に注視しようとしますし、顔のような配置の図形を好んで見つめることも明らかになりました。

 

研究においても、乳児に主体的に動く部分を見つけ、それを実験方法として利用していくことが乳児の認知発達の研究に大きく貢献しているのですね。また、考えられていた以上に乳児の持っている能力の高さにおどろかされます。子どもの白紙論の否定にはこういった実験の結果に裏付けがあるのですね。そして、この能力は視覚だけに限らないのです。

幼児研究から見えてくるもの

これまでの認知的な発達はそれまでのもの以外にもピアジェは乳幼児教育の中でいち早く「永続性」というものに注目しました。対象の永続性とは「対象物を実体性を持つ永続的な存在として捉え、見えなくなったり、触れられなくなったりしたとしても、それは存在し続けている」と理解することだと言います。ものの存在の認識がしっかりしていくるということですね。この対象の永続性という概念により、乳児は生後8か月ごろになると、対象探索ができるようになると考えました。赤ちゃんがものを探すためにハイハイをするということは世界が広がっていくためですが、そもそもそこに何があるのか、そこに行けばあるという認識ができてくるからということが言えるのですね。しかし、後世の研究によりこの理論は論破されることになります。それは生後8か月ではなく、生後半年以下の乳児においても対象の永続性を持つことが示されたためです。

 

また、ピアジェの幼児研究で有名なものに「幼児の自己中心性」という概念があります。ピアジェの自己中心性とは、一般的な意味のものではなく、自分以外の視点が存在することがわからず、周りのひとも自分と同じように外界を知覚していると思っている状態のことを言います。感覚運動期(0~3歳)の最後に獲得する「今ここにない物事をイメージする」といった感覚「心的表象」をすでに前操作期(3~6歳)の子どもたちは獲得しているのですが、すぐに論理的な思考ができるわけではないと言われています。そして、この時期の幼児の志向段階は自己中心性で特徴づけられると言われています。

 

さらにピアジェは自己中心性とともに「中心化」も前操作期の特徴であるとしました。この中心化とは、この時期の子どもの、ある特徴にのみ着目し、別の特徴を考慮できない傾向のことと言います。どういったことかとうと、水の入った容器から別の容器に水を移したとき、同じ量の水を移しかえても高さが高いほうが水の量が多いと判断してしまいます。実際は容器の高さと底の大きさといった2つの特徴を考慮して考えなければならないのに、高さといった特徴だけに着目してしまい、他の特徴に着目できないと考えたのです。これは量の保存だけではなく、数の保存、長さの保存も同じように考えてしまいます。

 

他にもピアジェは「アニミズム」に関する研究も重要な業績として認められています。アニミズムは前操作期の幼児に見られる認知的傾向のひとつで、これも幼児の自己中心性の表れだと考えられました。子どもが物にも意識があり、そこに帰属させる傾向は、まず、人間にとって何らかの機能をはたしているもの、例えば①石のようなものが意識を持つと考える段階から、②6~7歳から8~9歳にかけて、風や水のように動くものだけが意識を持つと考えるようになり、そして、③8~9歳から11~12歳になると、自発運動をするものだけが意識を持つと考え、最後に④11~12歳以降になると、動物だけが意識を持つと考えると言い、4つの段階で発達するとしました。

 

このアニミズムと同様に重要な概念として、ピアジェは「実念論」と「人工論」という考え方を提示しました。実念論とは子どもが心的出来事と物理的出来事を混同することです。子どもは思考が口や耳で生み出されていると考えますし、夢が頭の中だけで展開されていることを理解できません。自分の思考と外界の区別ができていないからです。その結果魔術的思考のような非論理的な思考が生み出されてしまいます。人工論とはすべての事物はひとがつくったものだと考えることです。

 

このようにして見ていると、ピアジェは様々な幼児期の認知的発達の概念を見つけてきたということがわかります。ピアジェのこの乳幼児研究の理論は非常に素晴らしい業績を残しています。しかし、その一方で、「彼の研究手法では、乳幼児の能力を十分に測りきれていない」という批判が20世紀後半に相次いで起こりました。それはどういったところなのでしょうか。