乳幼児教育

発達から保育

環境的要因と遺伝的要因は現在、その発達要因は総合的なものだという結果に落ち着いています。そして、発達が表出するのは一定の閾値を超えるということで起きるということが言われています。そのため、何歳ではこんな行為は行われないと決めつけるのはおかしいということになりまし、発達過程がたとえ「おおむね」と付記されていても年齢でわけられるのはおかしいのではないかと藤森氏は言います。

 

では、子どもには何をしてあげればよいのでしょうか。まず、子どもの発達を見守る側は発達の特性を知る必要があると言います。というのも、子どもが発達するためには子どもからの欲求に適切にこたえることで達成できることが多いのですが、子ども特に赤ちゃんは自らの欲求を言葉で表すことはできないのです。子どもの発達は、均等に起きるものではなく、発達が起きる部位によって伸びる時期と、しばらく止まっている時期とが繰り返されているのです。これを「発達の異速性」と言われているものです。身体発達の場合、主に筋肉や脂肪などの組織細胞が充実して発達する時期を「充実期」といい、骨が伸びる時期を「伸長期」といいますが、それらは青年期になるまで交互に起きます。筋肉と脂肪の充実によって体重が増加し、骨の伸長によって身長が伸びるという発達が観察されています。

 

このような発達の知識を知らないと、発達過程におけるふさわしい育ちを間違って認識してしまい、無理な訓練をして正常な発達を妨げてしまったり、性成熟に支障をきたしたりしてしまいます。また、連続して起きる発達は個人差によってその時期やスピードが違うだけでなく、それぞれの発達への準備の過程があることも忘れてはいけないのです。そして、その準備における環境が、次の発達に影響していくのです。そのため、現在では発達段階という捉えかたをしなくなっています。というのも、発達は階段状に右肩上がりでなされるものではないからです。

 

保育者はこういった発達の特性を見通して、環境を作る必要があるのですね。ニュージーランドでは「テファリキ」という乳幼児カリキュラムがあります。そこでは、カリキュラムは、子どもの包括的な発達を反映するべきであるとし、その具体的な内容として、まず、「エンパワーメント(権限)」をあげています。「子ども自ら学び、成長するための力と、権限を与える」というのです。次に「発達の全体性」をあげています。例えば、ひとつのことに熱中していたとしても、そこから世界を広げ、必要なことを身につけていっていると考えるのです。ここでは発達は階段状に上っていくものでも、らせん状に上っていくものでもなく、放射状に広がっていくものと捉えられています。

 

そして、その発達に影響されるものとして「家族と地域社会性」があげられています。家族、そして、地域社会などのより広い社会を、ともに保育するには不可欠な要素といえるのです。つまり、身の回りにある事物が、子どもに影響を及ぼす環境となるのです。しかし、そのためには子どもとその事物との「関係性」が重要になります。子どもは、人、場所、モノとの応答性、かつ対等な関係を通じて学んでいくからです。

 

このようにテファリキは考えられているのですが、発達に関しては様々な人によって、多様な提案が現在されており、脳科学によって証明されているものから、否定されているもの疑問視されているもの様々あります。そのため、最新のそれぞれの学術分野の考え方やその地域による特性を考慮して、発達にあった保育カリキュラムを日本でも作る必要があると藤森氏は言っています。

環境閾値説

発達は遺伝的要因の成熟と環境的要因による学習との相互作用によって起きる「環境閾値説(かんきょういきちせつ)」という相互作用説をジェンセンは提唱しました。遺伝的可能性が各特性で顕在化するにあたって、それに必要な環境条件の質や量は異なり、各特性はそれぞれに固有の「閾値」を持っているという説です。「閾値」というのは一定水準のことを表します。例えば、身長や体重は劣悪な環境でない限りはその可能性を実現していきますが、知能テストの成績ではやや環境から受ける影響が大きくなるというのです。

 

学校での学業成績では、遺伝と環境の影響が拮抗するようになってきて、環境の重要度が増していきます。絶対音感や外国語の発音など特殊な才能は、それを習得するのに最適な寛容条件を必要とする上に、一定の専門的な訓練を受けなければ、その才能を開花させることができないとされています。藤森氏は、このように、ある力について、生まれつきか/環境によって発達するものか、と考えた場合「人と関わる力」は人類が遺伝的に持っているもので、それが環境によって表出するのだと考えていると言います。遺伝的にもっている才能は環境というトリガーによって開花されていくというのです。

 

このことを考えていくと人が社会を構成し、遺伝子をつないでいきました。そのため、赤ちゃんは当然、社会を構成する才能を遺伝子にもっており、社会を構成するような発達をしていくはずなのです。そして、社会を構成する人材として生きていくために、様々な社会を体験し、社会とのかかわりを始めていくことでその才能を開花させていくはずなのです。それは赤ちゃんから始まっているのです。赤ちゃんを見ていると寝ながら隣でよちよち歩いている赤ちゃんを目で追います。そして、隣の赤ちゃんの体を触ろうとします。つまり、もうこの頃から社会を見ようとしているのです。そのため、こういった隣にいる別の赤ちゃんの存在が重要になってくるのです。しかし、現在の社会では母子だけの関係になりがちであり、その場合、こういった行為が現れるのはもう少し先になると言えるのです。

 

そして、こういった関わりの経験が、他の子を真似たり、他の子と取り合いをすることで、他の子との直接的な身体的触れ合いが始まります。その触れ合いが重なり、他の子との関って遊ぶようになってくるのです。このように関わる力も繰り返し連続して起きていくと言います。このとき、条件が非常に悪くて不適切な環境である場合は、その発達は疎外されます。しかし、その特性が顕在化するのに必要な一定基準(閾値)を超えると、発達は正常な範囲内で進行することになると言います。つまり、人と関わって生きていくことは人間の遺伝子に組み込まれているにしても、人と関わる環境がなければその特性は表れてこないのです。そして、次第に外に出るようになり、地域の人と接する機会が増え、公園で遊ぶ他の子を見ることが多くなると、関わる力が表れてくるのです。こういったように遺伝的要因と環境的要因は相互に影響を与え合って発達を支えるので、どちらかが一方的に有意というわけではなく、その程度に大小があるだけだと考えられているのです。

 

この環境閾値説というのはとても面白いですね。今自園に来ている子どもたちを見ていても、発達が遅れているように見えても、その遅れを取り戻していく子どもは多いように思います。そして、そもそも「遅れている」と思う感覚すら、本当はおかしいのかもしれません。年齢による発達への刷り込みが今の子どもの環境において、かなり強く根付いているようにすら思います。発達のことを知ることは重要ですが、その「発達の特性」を知ることはもっと重要なことなのだと思います。

発達の連続性

藤森氏は「遺伝子を受け継いだ赤ちゃんが持っている能力は、きっと将来生きていくうえで必要な能力であるような気がします。もし必要でない能力ならば、それは受け継がれたりせず、消えていっているでしょう。人類がある方向に向かって成長していくとき、それぞれの時期での発達は、その時期にだけ必要なのではなく、その後の生存に備えての発達であるはずです。」言っています。ある突然ものがつかめるようになるのではなく、それまでにものをつかむための様ざまな芽生えが見られるというのです。そして、それを「発達の連続性」と言います。

 

発達の連続性はある方向に向かって、絶えることなく生起する連続的な変化のことであり、表面的には発達が止まっているように見えたとしても、また、突然その発達が現れたとしても、体や精神はいつでも変化し続けているのです。そのため、その時期における行為を保障していくことが大切になるのです。つまり「今をより善く生きる」ことが「望ましい未来を培う力となる」ということなのです。このように考えていくと子どもたちが毎日過ごしている様子はすべて意味があるということですね。大人から見て意味のないようなことをしていたとしていたとしても、それは将来の発達にとって必要なことをしているに違いないのです。不用意に静止したり、怒ったり、イライラしたりする前に、少しそんなことを考えてみるといいかもしれないと藤森氏は言います。

 

この順序性、方向性、連続性を考えると、例えば2歳児に対して「子ども同士が関わり合って遊ぶ姿は見られない」という観察から「2歳児までは子ども同士の関わりは必要ない」という考えが導きだすのはおかしいことになるというのです。子ども同士が関わって遊んでいるかいないかという問題は、2歳児では見られず3歳児になると見られるというように、子どもの月齢によって生起することではないのです。また、その時に「関わって遊んでいなかった」ということが、「集団はいらない」ということにはならないはずなのです。

 

つい保育をしていく中で、子どもたちの発達を理解しようとする上で「○○歳児だから~~」というような見方をしてしまうことがあります。その先入観自体が目の前の子どもたちの姿や発達成長を見失わせているのかもしれません。今の発達を見て当てはめていくよりも、先の発達を参考にし、環境を作っていく意識を持つことが重要になってきます。常に子どもたちは新しい変化が起きていく中で、その環境を作っていくためには目の前の子どもたちをよく見ていかなければいけません。こういった発達の連続性はあくまで目安であり、その通りではないということは知っておかなければいけないことです。

 

また、発達は遺伝的要因による成熟と環境的要因による学習との相互作用によって起きるということも藤森氏は言っています。これまでも遺伝か環境かということは言われていましたが、それは発達にとってはどういったことが言えるのでしょうか。

発達の特徴

発達にはいくつかの特徴があり、留意点があると藤森氏は言います。というのも、発達は一生を通して、連続的に進行する変化の過程として見たときに、その進む速さは一定ではなく個人差がありますが、発達は一定の規則・型に従って進んでいきます。発達の進むスピードの差が生まれる原因としては、遺伝的な個人差や性差、発達過程の環境などがあります。しかし、どんなに個人差があっても、「発達の順序性」という規則は不変で、発達は一定の決まった順序で進行していきます。

 

例えば、シャーレイの研究では、人間の乳児期の発達で順序性を考えると「胎児姿勢→あごを上げる→肩を上げる→支えて座れる→膝に座って物をつかめる→椅子に座る→一人で座る→支えてもらって立つ→家具につかまって立つ→ハイハイする→手を引かれて歩く→階段をハイハイで上がる→ひとりで立つ→ひとりで歩く」というように発達を順番通りに経過していくことになります。この発達の順序性が乱れたり、飛躍したりする場合には、発達上の何らかの問題や異常が考えられるのです。

 

発現の速度には個人差がありますので、おおむね何歳がどんな発達過程にあるかと定めることはあまり意味がなく、かえってその年齢における目標になってしまったり、「その基準よりも我が子が早い」というように受け止められたりして、誤った早期教育の原因にもなりかねないと藤森氏は言います。こういった意識は今の時代多いように思います。発達段階というものが明確になればなるほど、子ども自身をその発達段階に当てはめてしまうことは気を付けなければいけません。そして、そのことがかえって親にとってもプレッシャーになることもあり、「子どもそのものを見る」ということから離れてしまうことも起きてしまっているように思います。あくまで、個人差があり、一定の規則・型でしかないということをより強く意識する必要があります。

 

また、このほか、発達の特性を示すものとして「発達の方向性」という概念もあります。発達には一定の方向性があるということです。方向というのは、体でいえば、どのような宝庫いうに向かって各部が発達していくかということです。例えば、身体発達だと「頭部→尾部勾配」と「中心部→周辺部勾配」と呼ばれる方向性があります。どういったことかというと、「頭部→尾部勾配」とは、身体発達が頭のほうから、足に向かって進行するということを表しています。また、「中心部→周辺部勾配」とは、体の中心部にある体幹から、その周りにある末梢の方向へと進行することを表しています。このように原則的に、発達はある方向へ向かっていくということが発見されていると藤森氏は紹介しています。

 

このように発達の時期は個人差があるが、その発達のプロセスは一定の型があるということが分かっています。そのため、環境はその時期にある発達に合わせた環境を用意することが求められます。

生涯発達

保育をしていく中で「発達」という言葉がよく出てきます。そして、その「発達」は意識しながら保育をしていくことが重要になってくると言われることが多々ありますが、その「発達」というのはそもそもどう考えていけばいいのでしょうか。

 

藤森氏は「保育の起源」の中で、「人間の発達は非常に複雑であり、その複雑さを人間の力だけで解明できるはずがない」と言っています。古い時代において、発達は遺伝的要因にその大部分を依存すると考えられていました。そして、遺伝的に潜在している可能性が時間の経過にしたがって次々に開花してくることを発達と呼んでいたと紹介しています。いわば、いくら教育したって、生まれつきなので仕方ないという考え方が大部分を占めていたのです。しかし、現在では、遺伝的要因と同等に環境的要因が重視されており、機能的発達以外にも人格の成熟や知性の発達といった観点を合わせ、発達は生涯にわたる問題と認識されています。

 

また、発達は必ずしも成人期に至るまで右肩上がりでなされるものではなく、成人期のまでの変化の中で、一時的な発達の停滞や表層的な逆行が見られることがあるとされています。また、逆に成人期以降の変化でも生物学的な加齢と並行して発達の下降や衰退が必ずしも起こるかというと断言できない部分があることが分かったのです。そのため、発達は従来の「上昇・下降」といった価値判断を含まないものになり、一生の間の変化として考えられるようになってきたのです。つまり、小さい子どもが、最初は未発達で、次第に発達していき、いろいろなことができるようになるという考え方そのものが変わってきたというのです。

 

発達の起きる要因が環境と遺伝によるという考えはとても重要な視点を与えることになるのですね。こういった考えは結果として、人間は一生の間にいろいろな部分がどのように変化しているのかという「生涯発達」という観点が必要になってくるのです。この生涯発達という観点からすると、それぞれの年齢における行動、行為はそれぞれの段階で必要なものであり、生涯にわたって影響を及ぼすものであるということが分かります。そのため、赤ちゃんの時から、その時期ごとに振り分けられ、その時期にあらわれる行為を十分におこなうことができるようにすることが発達を援助することになると藤森氏は言います。

 

この視点を考えていくと私は保育とは「子どもを見る」ということですが、その「見る」は「発達を見る」ということなのだろうと思います。そして、それは「一般的な発達」に子どもを当てはめることでもなく、その時期にやりたい環境をいかにつくることができるのかということが保育士の大きな専門性でもあるのだと思います。そして、それは「やらせる」ことでもなければ、「やらなければいけない」ものでもなく、発達に近いものは「やりたいもの」になるのだと思います。そして、そういった環境の下で子どもたちは発達にとっていかに重要かということがよくわかります。