乳幼児教育

メンタルヘルスと保育

今回、武神健之氏の著書「職場のストレスが消えるコミュニケーションの教科書」という本を取り上げましたが、初めは社会においでどういった人がメンタルヘルス不調、いわゆるうつ病などの精神疾患にかかるのだろうか。ということからこの本を見ていきました。そして、そういった人が出てしまう職場環境がどういった問題があるのか。これは現在、保育士不足と言われる保育園や幼稚園といった施設においても、同じことが言えます。というのも、その辞める理由の多くは「職場の人間関係」や「保護者関係」といった人との関わりにおけるところに問題があるからです。

 

今の人はコミュニケーション能力不足ということが言われ続けています。間違いなく、この理由がメンタルヘルス不調にもつながっているのは間違いないように思います。そして、こういったメンタルヘルスの根底には乳幼児期の環境に問題があるのではないかということが言われています。実際、今回の本の内容をひも解いてみると、記事の中に何度も同じことを書いたのですが、それは大人(ここでいう上司と部下の部下)を「子ども」に置き換えることができますし、「上司」を「親や保育者」とも置き換えることができます。つまり、「みる・きく・はなす」という技術は保育者や教育関係者においてはより重要になってくる能力です。とりわけ、保育者は子ども・職場・保護者・地域関係とすべてが人間関係における環境がベースになります。成績などに囚われないために、そこで行うことはコミュニケーションのベースを養うことが重要になるのです。

 

武神氏は最後に「そのすべての技術の根底にあるのは『承認』です」ということを言っていました。これはビジネスコンサルティングをしている人が良く使う言葉ですが、保育においてはこの「承認」はそのまま「共感」や「安心」に置き換えることができます。つまり、大人だろうが子どもだろうが、自分の持っている能力を発揮するには、こういった関係性が大切なのです。こういった関係性があるからこそ、安心感や信頼感を覚えるのです。そして、何度も言いますが、それにおいては大人も子どももないのです。

 

武神氏は産業医として1万人以上の働く人と面談をした経験上、精神的ストレスを持っている人の多くに共通するのはこの「承認されたい」という欲求だと言っています。しかし、この裏に隠れているのは子ども時代の「承認された経験」の少なさもあるのかもしれません。今の時代、塾や習い事が多く子どもの自由遊びの時間がどんどん削られています。そんな時代で子どもたちは自分のやりたいことを存分にやっているのでしょうか。それが保障されているのでしょうか。早計な推測でしかないのですが、こういった幼少期における「遊びこみ」の少なさやその時に大人の距離感がうまくなく、自分というもののとらえ方が自分から発したものではなく、人の評価から自分を見る他律になっている中で自尊感情や自己肯定感が今の人はうまく得れていないのかもしれません。そして、それが結果として、社会に出てから問題に起きているように思えてなりません。「教育」や「保育」というもののあり方をこの本からも見えてくるように思います。

正しい叱り方

「怒る」から「叱る」ためには相手を承認することが必要になってくると言っています。そして、実際「怒る」というときは意外と少ないというのも前回紹介しました。では、次に「叱る」ときにはどうすればいいのでしょうか。武神氏は相手を承認したうえで怒るためには、次の「守ってほしい項目」、「し・か・り・ぐ・せ」を守っていただきたい言っています。

 

まず、「し」は身体的接触は絶対禁止。多くの会社でパワハラかどうかの認定するときに最初の基準となるのが、身体的接触があったかどうかだからです。もちろん、ペンでたたくということや物を投げるというのは分かりやすいのですが、単純に肩を軽くたたくのも普段は問題にならなくとも、関係が悪くなると「小突かれた」や「触れられた」などとなってしまう可能性があります。

 

つぎに「か」過去は責めずに、隔離し2人で。過去は責めても変えられないのです。それよりも大切なのは今後です。過去を変えることはできなくても、そこに与える意味づけを変えることはできます。過去を学びや教訓にすることに目を向けるのです。また、部下を叱るときは人前ではなく、2人でというは基本だと言われていますが、これができていない会社は少なくないと言います。というのも、こういったことが起きる裏側には「叱る時にはほかのみんなにも聞こえるように言うことで、周りにも何がいけないかを伝えるため」という理由があることがあります。しかし、相手にもメンツやプライドがあります。特に大人になればなるほど、こういった意識は外資系に比べ、日本企業はできていない現状があるそうです。

 

つぎは「り」理論的に。感情的にならないようにすることです。この「り」にならないためには、次の「ぐ」具体的に。を守ることで可能になると言います。その「ぐ」具体的にですが、これは「何に対して叱るのか、ほめるとき以上に叱るときは具体性大事」なのです。そうでなければ、何に対して叱られているのかわからないということになりかねないのです。そして、これはほめるとき同様できるだけ早くすることも大切だそうです。最後に「せ」性格を責めない。事実に対して叱るべきであって、性格を責めるのはNGなのです。

 

ここで武神氏は一つの例を紹介しています。これは30代半ばの女性管理職が20代後半の女性職員に対して起こった内容です。あるときこの女性職員は遅刻が多く、また、短いスカートに胸元の開いたトップスといった格好が多かったのですが、管理職の女性は職場のみんなのまえでこう怒りました。「いつも遅刻してきて、どういうつもり!やる気あるの?ないの?恰好からしてだらしないのよ、その性格から治しなさい!」と怒鳴ったそうです。

 

では、これまでの「し・か・り・ぐ・せ」からみて解説してみましょう。このとき身体的接触はなかったので、「し」はOKです。しかし、遅刻してきたその場ではなく、過去の積み重ねを問題し、隔離もしていないので「か」はできていません。感情的に叱り飛ばしているので「り」もできていません。「ぐ」は遅刻のことは具体的ですが、服装のことは言わずにそれも含めて「だらしがない」と決めつけているので、これもダメです。そして、「せ」は性格を治しなさいなどと言っても効き目があるはずがありません。

 

このことを見ても、「しかりぐせ」ができていない、よくない叱り方だというのがわかります。この事例をみると「叱る」というよりは感情的に「怒っている」ように見えます。実際、これに似た事例によって自殺事件があったようです。まずは、相手を承認している気持ちがあることを大切にしてほしいと武神氏は言います。

 

これは親子においてもいえることで感情的に怒っている親をよく見ます。子どもにおいても「承認」されることは非常に重要な意味を持ちます。そこに存在意義を持つことは安心基地を持つことにもつながるのです。大人においても、子どもにおいても、「承認される」という環境にいることは情緒の安定において必要なことなのだとわかります。

怒ると価値観

武神氏は自分自身に「怒る」という感情が向かうことは何の問題もないと言ってます。そして、大切なことは相手を「承認」し、「叱る」ということにつなげるかということが重要なことだと言っています。しかし、この「承認」というのはなかなか難しく、相手を見ていないと分かりません。なぜなら、怒りの基準、つまり「どの程度までを許容し、どの程度を超えたら怒るか」は人それぞれだからです。

 

自分の価値観に沿って考えて行動し、この一線を超えたら怒る。だからこの一線を周囲の人が超えないように「見える化」しておくことが有効なこともあります。しかし、重要なのはこの一線自体も自分の価値観であり、他人が納得しているとは限らないのです。そのためにも、お互いの「怒る基準や許容範囲=価値観」を普段からよく話し合っておくことが大切だと言っています。そして、自分の価値観だけではなく、相手(他人)の価値観も尊重することも重要なのです。大切なのは「正義は人の数だけある」ということを理解しておくことです。そして、価値観は人それぞれであり、本来変えることはできないのです。

 

その価値観は、文化圏や宗教からくるものかもしれません。会社が違えば文化も異なり、「正しい」の基準も異なります。もちろん、年齢や時代というものもあるでしょう。「正しい」と思われる「価値観」は立場の数だけあるのです。武神氏はカウンセリングをしていく中で、まだまだ自分の基準や許容範囲=価値観=正義を超えたから怒る人が多い。つまり、自分の価値基準だけで怒る人が多いと感じるそうです。

 

では、怒る時にはどういった基準で考えたほうがいいのでしょうか。認知科学者の苫米地英人さんは著者『「怒らない」選択法、「怒る」技術』のなかで「怒っていいときはほとんどない」と述べているそうです。怒っていいのは ①相手に過失があり②自分がそれによる不利益を被り③さらにその過失が想定外だった時 以上の3つを満たしたときに限るというのです。そう考えるなら、大概のことは想定内です。つまり、多くは怒るよりも自分のほうを変えることのほうが重要となります。苫米地氏の考えでいうと「怒っていいとき」の説というのは、他人のせいにしないで自己責任として、自己反省や自己成長につなげようという発想ではないかというのです。

 

自分の価値観と相手の価値観(正義)が異なっただけで、相手をいくら上手に叱っても、相手がこちらの怒る判断基準に納得していなければ、その怒ることに自己満足する人もいる一方で、怒られた方は不満、ストレスが溜まってしまうのです。

 

私はこのことをもう一つ付け加えるのなら、その相手が自分自身に過失があることを自覚しているのかといったところもあるのではないかと思います。相手が同じ価値基準にいる。つまり、同じ方向を向いているのであれば、その失敗は本人にとっても「だよね」と思うでしょうし、納得した上で「きく土俵」にのった状態になります。こういったやり取りができるために相手とのコミュニケーションやお互いの価値基準をすり合わせ、調整しておくことを日常からしておかなければいけないのでしょう。

 

また、このことを子どもに当てはめてみます。子どもは大人とは違い、しっかりと意志を泣いたり、怒ったりと行動として出してくれます。そういった意味では大人よりも分かりやすいかもしれません。そのときに、頭ごなしにこちらのやってほしいことに子どもに指示命令をしていくと、叱る前提となる『相手を「承認」している』ということにはつながらず、一方的な価値観を押し付け、最悪、ここでいうところのメンタルヘルス不調と同じような状況になります。親子関係の場合、愛着障害として形が出てくることがこれに近いのかもしれません。まずは関わりにおいて「子どもであっても一人の人間」という向き合い方をしなければいけないというのがここからも見えてきますね。

新入社員と子ども時代

多くの企業の中で、今新入社員との関わり方は大きく変わってきているそうです。保育の世界においても、新任の保育士が多く初年度にやめてしまうということが大きく問題になっています。武神健之氏の著書の中で紹介されている50~60代の聞き取りでは「昔は新入社員にガツンと言っても翌日会社を休むことはなかったが、今はすぐ来なくなる」ということが紹介されています。そして、その理由にはいくつかの問題があります。その一つ目が「社会の変化とそれに伴う価値観の変化」です。そして、そのなかには子ども時代の社会の変化があるのではないかと指摘しています。

 

今、新入社員と紹介されている世代は20~30代前半の世代ですが、その世代は一人っ子が多いということの影響はやはりあるのではないかと言います。きょうだい同士でもまれて育ってきたのと、一人っ子で親からも祖父母からもかわいがられ、けなされることなく育ったのとでは、やはりストレスに対する閾値がだいぶ違うのは間違いないと言っています。そのうえ、今の子どもたちは放課後に近所の子どもたちと遊ぶという場面が少なくなっているのも、打たれ強い人が少ないということに関係しているのです。つまり「争いごとや喧嘩になれていない」「コミュニケーションがあまり上手でなく、意見が通らなかった時の対処法がわからない」といった傾向は、やはり今の40~50代に比べて、20~30代に顕著になっていると指摘しています。

 

最近では一人っ子の子どもたちが多くなっているのは保育の仕事をしていると非常に身近に感じる問題ではありますし、先日園見学に来られた保護者と話をしていても、最近では同じ年の子どもと遊ぶことは多いですが、様々な世代の子どもたちと遊ぶというのは少なくなっていると思います。ということを言っていました。こういった乳幼児からの子ども同士の関わりは社会に出た時に非常に大きなハンディキャップを負いかねないというのは私も感じていました。実際、産業カウンセラーとして武神氏が感じている内容が保育においても、直結している話であるということはよく考えなければいけない内容であるということを感じます。

 

こういった社会の価値観の変化において、「偏差値教育」というのもあげています。産業医をやっている武神氏が新入社員に「なぜ、この会社に入ったのか」と聞いたところ「友達がみんなこれくらいのレベルの会社を目指すから」と返答が返ってきたそうです。それは今の偏差値教育の中で「これくらいのレベルならこのあたり」「周りが行くなら自分も」といった外的価値観によって自己判断が行われることであって、それをよりどころにしていては会社では長続きしないと言います。

 

今の人の特徴として「他と自分を比べる」という人は確かに多いように思います。その裏側には「自分はこれができる」といった自己肯定感よりも「他の人はこのくらいできるから」と否定的に自分の能力を見てしまいます。それは人と比べることが偏差値教育のなかで常に比べられているような形になっているからなのかもしれません。

 

他にも単身世帯の増加や朝の挨拶と飲みニケーションなど、上司との関係性の中で、世代間の摩擦やコミュニケーションの希薄化が社会の変化とともに価値観が変わってきているということが上司との関係においても影響が出ているのではないかと話しています。社会に出た時に起きる問題に乳幼児の環境は大きく影響があるということがいえるのですね。

 

また、最近では「○○ハラスメント」という言葉がいたるところで聞きます。なぜ、「ハラスメント」がこれまで以上にニュースにでるようになってきたのでしょうか。

マーケティングから保育

保育園や幼稚園、こども園といった保育機関においても、「組織」という形態であることは疑う余地のないものであり、その原理というものは共通しているものであると思います。そのため、ドラッカーの経済学から読み取れるものもたくさんあり、参考になる部分も多くあります。前回、企業の目的は顧客の創造である。ということが話で出てきましたが、そこには2つの基本的な機能があるというのです。それはマーケティングとイノベーションです。この内容を保育の中に照らし合わせてみるとまた違った見え方がしてきます。

 

まず、企業においてマーケティングとはどういった部分にあるのでしょうか。私はてっきりマーケティングとは「消費者に対しての売り文句」といったものなのかと単純に思っていたのですが、ドラッカーは「消費者運動が企業に要求しているものこそ、まさにマーケティングである」としています。つまり、その主体は消費者にあるのです。そして、「企業の目的は欲求の満足であると定義せよと要求する。収入の基盤を顧客への貢献に置けと要求する」と言っています。やはりここにも企業は社会のためにあり、社会が求めることを実現するが企業としてのあり方ということが読み取れます。

 

しかし、これまでのマーケティングは私が考えていたように、販売に関係する全職能の遂行を意味するにすぎなかった。つまり、「売る」ということが目的になっていた。しかし、真のマーケティングは顧客からスタートするのです。すなわち、現実、欲求、価値からスタートするのです。「われわれは何を売りたいのか」ではなく、「顧客は何を買いたいのか」であり、「我々の製品やサービスにできることはこれである」ではなく、「顧客が価値ありとし、必要とし、求めている満足がこれである」というのです。そのため、マーケティングの理想は販売を不要にすることであるとドラッカーは言っています。マーケティングが目指すものは顧客を理解し、製品とサービスを顧客に合わせ、おのずから売れるようにすることであるのです。そのためには、顧客自体を知っていなければいけません。

 

このことを保育に置き換えて考えてみると、また面白いものが見えてきます。まず、間違ってはいけないのが企業で言う「顧客」というもの、つまり主体であるものが誰なのかということです。当然それは「子ども」であることは間違いのないことです。つまり、そのサービスを受ける主体はこどもです。このことがブレてはいけません。そして、その「顧客」の現実や欲求、価値からスタートするのです。この受け止め方は非常に難しいですね。私はこのことに対して、乳幼児教育を考えていかなければいけないのは、その恩恵というものは有形ではないものであり、将来役に立つ「生きる力」という目に見えない部分にあるということです。つまり、これからの社会において、必要な力を私たちは考え、予想し、形にするための方針を考えていかなければいけません。そのためには子どもの発達や社会の見通し、必要な力など、様々なことを見通していくことが重要になってきます。そして、それを子どもたちに伝えていくことが乳幼児教育におけるサービスになるのだと思います。やはり、この論説からみても、保育の本質を考えることは組織において重要なマーケティングにもなるのですね。

 

つぎにドラッカーはイノベーションが企業における基本的な機能だと言っています。