乳幼児教育

本当の知能指数

前回のダックワースの発見によれば、マシュマロ診断から見えてきたものは一番長くマシュマロを我慢できた子どもたちが使っていたような自制のテクニックの問題点は欲しいものがはっきりあるときにしか使えないということでした。つまり、短期的な見通しにおいて褒美を与えるという動機は有用ではあることがわかったのですが、その反面、長期的で、はっきりとしない目標を達成するためには褒美を与えるという方法では集中力や自制心といたものが身につくことにはつながらないというのです。では、長期的な目標を達成するような自制心をつけるにはどうしたらいいのでしょうか。

 

長期的な目標の達成のメカニズムはふたつに分けて考えるとわかりやすいと言います。それは動機づけ(モチベーション)と意志です。長期的な目標を達成するにはどちらも必要で、どちらも一方だけでは充分ではないのです。多くの人に見られるのは、モチベーションはあるのに意志に欠けるケースです。たとえば、体重を減らすべき理由は山ほどあっても、チェリーディッシュを手放してトレーニング用のウェイトを手に取る気持ち(堅固な意志力や自制心)がなければ、減量はうまくいかない。もし、強力な動機づけがあれば、ダックワースが5年生に教えようとした自制のテクニックと実践は非常に役立つかもしれない。しかし、親や教師の望む目標を達成するための強い動機が当の子どもたちになかったら?その場合にはどんな自制のコツを教えてもどれも役に立たないだろうとダックワースも認めている。

 

ここでモチベーションについてカルヴィン・エドランドは5歳から7歳までの子どもを対象とした研究を始めます。対象は「低中流階級から低所得層の過程の子ども」。そして、無作為に実験グループと対照群のグループに分けられます。その後、標準の知能検査を受け、7週間後、子どもたちは同様の件を受けました。実験グループの子どもたちは1問正解するごとにM&Msチョコレートを一粒貰えます。最初の検査では二つのグループのIQはほぼ同じだったのですが、2度目の検査ではチョコレートを与えられたグループのIQが平均12ポイント上がりました。これは極めて大きな上昇だったのです。これはいわゆる外発的動議付けですね。

 

数年後、この研究に対してサウスフロリダ大学の二人の研究者が実験を進めます。今回は菓子抜きの最初の知能検査のあと、子どもたちを得点に応じて3つのグループに分けました。IQの高いグループの最初の検査時の平均は119くらいでした。真ん中のグループの平均は101、IQの低いグループの平均は79でした。2回目の検査では、研究者はそれぞれのグループの半数の子どもに1問正解するごとにチョコレートを差し出します。各グループ残り半数は何も褒美をもらえませんでした。高IQのグループと中間グループの子どもたちは、チョコレートをもらった2度目の検査でもスコアが変わらなかった。しかしIQが低かったグループでは正答のたびにチョコレートをもらった子どもたちは97までスコアをあげ、中間グループとの差がほとんどなくなったのです。

 

M&Msを使ったこの研究は知能に関する従来の認識への大打撃となりました。というのも、知能検査では、偽りのない、変わることのないものを測定できるはずだったのに、何粒かのチョコレートによって結果が大きく変わってしまったのです。そこで一つの疑問が生まれます。IQが低いとされている子どもたちの点数だけが上がったということは、彼らの知能は本当に低いのだろうか?ということです。彼らの本当の知能指数は79なのか?それとも97なのでしょうか。

待つこと

ミシェルのマシュマロを使った研究からは面白い結果がいくつか出てきました。例えば、精神分析理論や行動理論が提示するところによれば、子どもにとってマシュマロを二つ手に入れるための最良の動議付けとなるのは、ご褒美を意識の中心に置き続けること、最終的にそれを食べられた時にどんなにおいしいかを強調することであるはずだったのですが、実際の結果は正反対だったのです。子どもたちはマシュマロが隠されていた時のほうが、目の前にあったときよりもずっと長く我慢できたのです。この実験で最良の結果を出した子どもたちは気をそらす方法独自に考えだしていました。一部の子どもは実験者がもどってくるのを待つ間、一人でしゃべったり歌ったりしていた。おやつから目をそらしたり、自分の手で目隠しをしていた子どももいた。昼寝を始める達人もいたのです。

 

ミシェルの発見によれば、子どもが時間を引き延ばすために効果があるのはマシュマロについて違う考え方ができるような簡単な助言があった場合でした。頭に浮かぶのおやつが抽象的であればあるほど我慢できる時間も伸びたのです。マシュマロを菓子ではなく、円く膨らんだ雲みたいなものと考えるように誘導された子どもたちは、7分ほど長く我慢することができました。本物のマシュマロを見ずに絵に描かれたマシュマロを見るよう勧められた子どもも比較的長く我慢することができたのです。仮に本物のマシュマロを見てはいても「絵みたいに額がついていると想像してごらん」といわれた子どもたちもいて、やはり18分ほどまつことができました。

 

しかし、ミシェルの発見を学校に取り入れようとすると、それは思ったより困難が多いことがすぐに分かりました。ダックワースは何人かの同僚とともにフィラデルフィアの学校で40人の5年生を対象とした6週間の実験を行い、自制心の訓練を通して指導し、宿題を終わらせたことに対して褒美を与えました。実験終了後、子どもたちは始めたころよりも今のほうが自制心がついたと思うと報告したが、実際のところはどういった尺度からみても、学校内の対照群の子どもたちと変わったところがなかったのです。自制心に関する教員の評価も、宿題の提出率も、標準学力テストの結果も、GPAも、遅刻の回数も比較はしたが、すべてにおいて効果はないことが分かりました。

 

というのも、一番長くマシュマロを我慢できた子どもたちが使っていたような自制のテクニックの問題点は、欲しいものがはっきりとわかっているときにしかうまくつかえないことである。とはいえ、ダックワースが五年生の子どもたちに目指してもらいたいと思う長期的な目標は20分後に貰えるマシュマロほどの実体があるわけでも、即効性があるわけでも、魅力的なわけでもなく、試験に合格する、高校を卒業する、大学で成功するといったより長期的なかたちのはっきりしない目標を達成するために必要な集中力や粘り強さをつけるにはどうしたらいいのでしょうか。

マシュマロ実験

アンジェラ・ダックワースはチャータースクールの顧問をしていたころ、チャータースクールは貧困層の子どもたちの環境を変える手段にはならないと思うようになりました。そして、ペンシルベニア大学の博士課程に出願するときに、いくつかの学校で働いた経験から学校改善について20代のころとは全く異なる見解を持つに至ったことを書いたそうです。そこには「問題は学校だけでなく生徒自身にもあるように思われる。理由は以下のとおりである。勉強は厳しい。もちろん楽しく刺激的で満足を与えてくれる側面があることは確かだが、時に気力を挫き、疲れさせ、やる気をそぐ面もある。知力がありながらつねに成績の悪い生徒たちを助けるには、気質が知能と同程度に重要であることを、教員と親がまず認識するべきだ」と書いています。

 

ダックワースは最初に自制心の研究を始めます。彼女はフィラデルフィアで164人の8年制を対象に従来の知能検査と標準的な自制心の評価を行いました。そして、その年度のあいだ、さまざまな学術的手法を使って生徒たちの成績の推移を分析しました。年度末になると意外な発見が出てきました。前年秋に実施した二つのテストのうち、知能検査の結果よりも自制心評価の結果のほうが評定平均(GPA)をより正確に予測する指標となったのである。

 

ダックワースはウォルター・ミシェルと共同研究を始めます。ミシェルはコロンビア大学の心理学の教授で、最近様々なところで聞くことが多くなってきた「マシュマロ・テスト」の研究で有名です。1960年代後半、その頃、スタンフォード大学の教授だったミシェルは4歳児の自制心をテストする独創的な実験を考え出しました。彼女は子どもを一人ずつ小さな部屋に連れていって机の前に座らせ、マシュマロなどのおやつを差し出します。机の上には呼び鈴が置かれています。実験者はこれからちょっといなくなるけどわたしが戻ってきたらそのマシュマロ食べていいわよ、と告げます。そのとき、子どもに選択肢を与えます。マシュマロが食べたくなったら呼び鈴を鳴らせば、実験者は部屋にもどり、子どもはおやつを食べることができます。ただし、実験者が自分から戻るまで呼び鈴を鳴らすことなく待てたらマシュマロは二つもらえるのです。

 

ミシェルは誘惑に抵抗するために子どもたちがそれぞれに使う手法を研究するつもりでこの実験を行ったのです。しかし、その後十年以上が経ち、褒美を我慢する能力が子どもたちの将来の成果とどう関連するかを調べ始めると、新たな側面が見えてきたのです。1981年の時点で見つけられた限りの生徒の追跡調査を実施したところ、マシュマロを我慢できた時間とその後の成績の相関には目を見張るものがありました。おやつを15分我慢できた子どもたちの学力検査の得点平均はものの30秒で呼び鈴を鳴らした子どもたちの平均を210点も上回ったのです。

性格教育

「性格」と言っても、時代背景や環境によって「良い性格」や「求められる性格」は変わってきます。しかし、「性格の強み」に話を持ってくるとその時代の道徳観や宗教上の規則や権威などは限定的になるのではないかとセリグマンとピーターソンは考えました。そして、様々な時代やどんな社会でも評価される24の性格の強みを整理していきます。その強みを育てることは特定の倫理体系に関わりなく現実的に利益を生むと考えたのです。そして、それは幸福であると同時に有意義で充実した人生へと通じる確かな道の一つになると彼らは考えました。

 

では、この「性格」についてはどう考えたらいいのでしょうか。多くの人は「性格」という言葉を生まれつきのもの、変わらないもの、人の本質を決める核となる性質という意味で使います。しかし、セリグマンとピーターソンはこれらの定義とは異なるものとして考えられています。二人は「性格」が変わることはおおいにある。適応できる力を備えた、強みや能力の組み合わせであると定義したのです。そして、性格とは習得でき、実際に使える、そして何より人に教えることができるスキルであると言っています。

 

しかし、実際のところ教員がそれを教えようとするとたいてい道徳の壁にぶつかると言います。1990年代にアメリカでは性格教育の大きな波が来ました。「アメリカのすべての学校が性格教育を行い、正しい価値観と正しい市民感覚を求める」ということが掲げられ性格教育プログラムがはじまりました。しかし、現在でも何百もの公立学校が性格教育のプログラムは実施されているが、多くは漠然とした表面的なもので、厳密な観察の結果、ほとんど効果がないと分かったそうです。教育省の付属機関である国立教育研究センタ―が2010年に実施した性格教育プログラムの全国評価では、小学校で普及率の高い7つのプログラムが3年にわたり調査され、その結果、児童の行動に関しても、成績に関しても、校風に関しても、プログラムの効果は全く見られなかったのです。

 

これに対し、セリグマンの語るアプローチは道徳を振りかざすのではなく個人の成長や達成に焦点を合わせているところでした。レヴィンとランドルフもこういった視点に興味を惹かれたのです。しかしKIPPは擁護者からも批判者からも道徳主義的であると思われています。このことはジャーナリストのディビット・ホイットマンが2008年の著書「小さなことへのこだわり」でKIPPアカデミーの同種のチャータースクールが採用している方式を「新しい家父長制」と呼んでおり、こうした学校は生徒たちに「物事を考える方法だけでなく、従来の中流階級の価値観に従って行動する方法も教える」と言っています。これに対し、レヴィンはKIPPのねらいが生徒に中流の価値観を教え込むことであるというは心外だと言っています。「”性格の強み“式アプローチは、価値判断が全く入らないところが美点だと思います」とレヴィンは言います。「“価値観・倫理観”式のアプローチでは“それは誰の価値観なのか?”“誰の倫理観なのか?”という問題に行きつくことが避けられない」となるからです。

 

これらを整理すると性格と道徳のつながりが見えてきますね。価値基準の主体を「自分」とするのか、「その文化や社会」とするのか。前者がセリグマンの言う「性格の強み」であり、後者を「道徳」というように見えてきます。現在、日本でも道徳の教育が教科化することが決まり、今後ますますこの議論がされていくのではないかと考えられます。そして、アメリカの例でもあるように漠然とした表面的なものではあまり成果が見られなかったことが日本でも起きるのではないかと思うのです。教科化されることで、その価値基準が子どもの主体から離れかねないからです。そのため、目を向けるのは教科やプログラムではなく、子ども自身がどういったところでこういった性格の強みをつけていくようになるのかを見ていかなければいけなくなるのです。

性格

いくら勉強ができても、KIPPアカデミーの生徒のようにその時代はよくても、その先に気持ちが持続しなかったり、目的を見失ってしまうことがあります。それは日本においても、就職しても長続きしなかったり、ひきこもってしまったりと社会問題になることが多いです。そして、このことには「気質」が大きく関わってきます。『オプティミストはなぜ成功するか』を著したセリグマンはこのことに対して「性格の強みと美徳」という本を書いています。これは「好ましい気質の科学的な分析」を始めようとする試みで研究されています。

 

まず初めにセリグマンは「性格」とは話をややこしくする言葉であると言っています。なぜなら、それは人によって意味するところが大きく異なるからです。また、それは特定の価値観への執着を表す言葉として表れることが多いというのです。つまり、時代とともに「よい性格」という意味が変わることは避けられようがないのです。ヴィクトリア朝のイギリスではよい性格の人物は、貞操、倹約、清潔、敬虔(けいけん)、礼儀作法などに重きを置く人のことでありました。西部開拓時代のアメリカであれば、良い性格といえば度胸や過剰なまでの自信、創意、勤勉さ、気概などを持ち合わせていることでした。しかし、セリグマンは著書を共に書き、共同研究をしているミシガン大学のクリストファー・ピーターソンとともにこうした歴史に伴う変化を超え、現代北米の文化の中だけではなく、どの時代のどんな社会でも評価される性質をつきとめようとしました。それはアリストテレスから孔子、ボーイスカウトからポケモン図鑑に至るまで、あらゆるものにあたって、多くの場所で高く評価されると思われる24の性格の強みをリストにまとめました。このリストには勇敢、市民性、公正、賢明、高潔といった従来高く評価されてきた特徴も含まれています。また、愛、ユーモア、熱意、美をめでる心といった情緒の領域に踏み込んだものもあります。さらに社会的知性(人間関係における力学を認識したり、異なった社会状況にすばやく適応したりする能力)、親切心、感謝の心といった日々の人間関係に関わるものもあります。

 

セリグマンとピーターソンの書くところによれば、ほとんどの社会において一定の道徳観を持っていることは長所とされ、多くの場合その道徳は宗教上の規則や制限と重なります。しかし、性格の強みの話をしようとすると、道徳の価値は限られたものとなる。なぜなら、道徳的な行いとは単に高い権威や規則に従っているだけの場合があるからです。彼らは「美徳は規則よりもはるかに興味深い」と言っています。セリグマンとピーターソンによれば、24の強みの真価はある特定の倫理体系との関わりから生じるのではなく、それが現実に利益を生むこと、つまりその強みをもっていることによって実際に何かが得られることにあると言います。そして、こうした強みを育てることは「良い人生」、つまり幸福であると同時に有意義で充実した人生へと通じる確かな道の一つであると言っています。

 

求められる人材というのは時代によって大きく違います。昭和初期などは「企業戦士」といわれるほど、トップダウン型に適応できる人が求められました。しかし、現在ではそういった良しとされていた性格は「イエスマン」や「言われたことしかできない」とネガティブな意味で捉えられる言い方に言い換えられています。確かに時代によってその性格の良し悪しは変わるのかもしれませんし、権威や宗教による規則や制限によって「道徳」のとらえ方も違うということが言えます。では、どうしたら、これからの変化のある社会や多様性を求められる社会で「豊かに」生きていくことができるのでしょうか。セリグマンとピーターソンは性格において、あることを定義しています。