乳幼児教育

管理的な子育て

これまで、「支援的な子育て」を見てきました。それでは「管理的な子育て」というのはどういったことをいうのでしょうか。支援的な関わりが子ども主導の子育てに対して、管理的な子育てはその逆で、親主導の関わりだと森口氏は言っています。ここでは「歯磨き」を例にして説明しています。親が子どもに歯磨きをさせたい場合、何度も歯を磨くように指示をします。そのうち磨かなければおやつを抜きにするなどの罰をあたえるかもしれません。罰をあたえるというのは、管理的な子育ての典型的な例だと言っています。

 

そして、森口氏は「管理的な子育ての影響には2つの側面がある」と言っています。一つ目が、極端になりすぎると子どもの実行機能に悪影響を与えてしまうという点です。2つ目は、ある程度の親の統制は実行機能を育むと考えられるという点です。

 

まず極端な例というものを見ていきます。これはルーヴァン・カトリック大学のロスカム博士らの子どもの母親や父親に対して、子育てに関するアンケート調査を森口氏は紹介しています。ここではアンケート項目は大きく、支援的な子育てと管理的な子育てに分けられ、支援的な子育ての項目は、たとえば「子どもが何か問題を抱えたとき、私(親)はそのことについて子どもと話し合う」などで聞いていきます。一方、管理的な子育ての項目は「子どもが私(親)の癇に障る場合、私(親)は身体的な罰をあたえることがある」などでした。

 

このアンケートを親に実施し、子どもに対してさまざまな実行機能のテストを行いました。そして、アンケート結果と子どもの実行機能の関連を調べたのです。その結果、親が支援的な子育てをした場合には子どもの思考の実行機能が高かったのに対して、親が管理的な子育て、特に、体罰を与えるような子育てをした場合には、思考の実行機能が低かったというのです。

 

ここに体罰が意味のない、結果として子どもたちに大きな影響を与えてしまうということの具体的な意味合いが見えてきます。確かに保育をしていても、子育てをしていても、罰を与えなければいけない瞬間というのは出てきます。しかし、体罰は子どもの発達において全面的に悪影響を与えると森口氏は言っています。そして、こうも言っています。「残念ながら、我が国において家庭や教育現場で、現在においても体罰を容認するような声を聞きますが、許されません」

 

体罰は長い間、教育現場でも言われていました。しかし、未だ、「教育的な躾」ということで体罰をするニュースが後を絶ちません。こういった考え方は根が深くあるのが今の現場環境です。しかし、実行機能に悪影響が出ているのはアンケートによって明らかになったのを見ると改めなければいけないのです。そして、カーっとなったときに大人も自分の感情をコントロールしなければいけないのです。以前、森口氏も子どもの実行機能を伸ばすためには、そこに関わる大人も実行機能が高くなければいけないと言っていました。そこにはこういった意味があるのです。

見守る

支援的な子育てとはどういったことをいうのでしょうか。森口氏は支援的な子育てとは、やみくもに子どもを褒めることとは違うといっています。もちろん、子どもを褒めることは必要なことです。しかし、子どもの行動を何でもかんでもほめればいいわけでもないのです。

 

トマセロ博士らの研究では、1歳半くらいの乳児の親切な行いがご褒美を与えられることによって減少することが示されています。1歳から2歳くらいの子どもは非常に親切で、見知らぬ人であっても進んで手伝ったり助けたりします。たとえば、知らない人が物を落としたりすると自ら拾いに行くいうのです。子どもは、最初はそのこと自体を楽しんでこの行為をおこないます。褒められたりご褒美をもらったりするためにおこなうわけではありません。ところが、手伝うなどの行為をした後にご褒美をもらえると、子どもは自ら進んで手伝わなくなります。最初は自発的に行っていた行動が、ご褒美をもらうことによって、ご褒美をもらうことが目的化してしまい、自発的に行わなくなるのです。

 

子どもを褒めるというのは一見、良いことをしたと子どもに意識させるために行うことが多いです。しかし、その行為自体が、子どもの自発性を損なうことがあるのですね。これは子育てに限らず、保育の中でも注意しておかなければいけないことです。森口氏は「自発性を損なうようなかかわり方は、子どもの実行機能にも負の影響を与えると考えられます」と言っています。「褒める」という行為の難しさを感じます。

 

森口氏はさらに「子どもが一度欲求をコントロールできたからといって、ご褒美をあげるのは考えものです。」と言っており、「子どもは自分のために自分を制御するのであって、人に褒められるために頑張るのではない」というのです。

 

保育を見ていると特に思うのは、「褒める」という行為や「怒る・叱る」という行為の意味です。どちらもあくまで「行為」の問題であり、子どもたちの関わりのおける本質ではないのではないかと感じます。大切なのは子どものその状況での気持ちや葛藤を理解し、共感することが保育においても大切になってくるのではないかと思うのです。最近、私はそのことを「相手の気持ちを見通す」というように言っています。相手がどう感じるか、どう思うかを考えたうえで、「怒る」や「褒める」ということを話さなければ、結局のところ相手に言葉が響くことは難しくなるのではないかと思うのです。

 

そして、そのためには「主体は誰か」ということをよく考えなければいけません。やみくもに褒める場合というのは「主体は大人」です。大人が子供に対して「こうなってほしい」をある意味で押し付けであったり、大人が上位にいる場合にそうなっているように思います。しかし、あくまで「主体は子ども」なのです。なんでも、大人が介入して褒めるのはおかしいというのはそういうことだと思います。森口氏はこの項目の最後にこう言っています。「子どもが主体的にやっていることに対しては、見守るような関わり方をすることが重要になってきます」と言っています。「見守る」ということは子ども主体になる距離感であるのですね。

支援的な関わり

森口氏は子どもの発達に影響があるのは「支援的な子育て」と「管理的な子育て」と言っています。では、具体的にそれはどういったことを指すのかを見ていきましょう。

 

まず支援的な子育てですが、たとえば、子どもが自分で洋服のボタンをはずそうとしています。ある親はいらだって、子どもの代わりにボタンをはずします。別の親は親が代わりに外すのではなく、外すためのヒントをそっと教えてあげます。例えば、ボタンの穴が入るように、ボタンの持ち方を教えたりすることです。前者の親と後者の親を比べたときに後者の親が「支援的な子育てをした」といえます。つまり、親が子どもの行動を一から十まで、教えるのではなく、子どもが自分で頑張ろうとしているときに、少しだけ後ろから支えてあげるということです。

 

ただし、ここで注意なのが、子どもがどれだけ時間をかけてもできそうな状況では、この程度のヒントでは難しいと思われます。森口氏は「大事なことは、親が子どもの現在の能力をしっかりと見極めたうえで、今取り組んでいる課題(ここでいうボタンをはずす)を子どもが自分で解決するために、最低限の支援をするということです。そして、これの対極にあるのが過干渉なのです。」と言っています。

 

このことは保育の中でもよく起きることです。特に乳児での保育で複数人の子どもを見ていると、どうしても時間に追われがちです。その中で、もたもたしている子どもがいるときせっかちな先生ほど、待てず、手を出して先生が「してあげる」ことが多くなります。幼児期の保育でも同じようなことがあるように思いますね。例えば、喧嘩の仲裁など、子どもたちが話し合っている中に介入し、子どもたちの言葉を取ってしまう保育者がいます。せっかくの子ども同士の関わりが、先生が間に入りすぎてしまうと、子どもたちはお互いで話すことをやめ、先生に話をし始めます。こういったように保育において、保育士が「保育」とおもって子どもたちに「してあげる」ことが「お節介」につながることがあります。これは結局のところ、「いけない」ということが分かっていますが、「何がいけない」のかの議論はそれほど深まってはいないように思います。しかし、森口氏はこういった大人の支援的な関りは子どもの実行機能に関わるといっています。では、それはどういったところから実行機能に影響があるというのでしょうか。

 

ミネソタ大学のカールソン博士らの研究では、親の支援的子育てを、親子のパズル遊びの中で検討しています。子どもがうまくパズルができない状況で、親が子どもにどのように関わるのか。ある親は、子どもがパズルをできないのがもどかしくて、自分が実演して見せます。これは親が子どもに過干渉している例であり、実行機能の発達は促されません。

 

別の親は、子どもが自分でパズルを解決できるように、ヒントだけ与えます。この方が支援的な親だということになるのですが、こういった親は子どもが問題解決することを支援しているものの、決して親自らが解決しているわけではありません。そのため、自分をコントロールする力が育まれやすいのです。

 

このように親を見ていくと、親の方にも実行機能が必要となります。子どもが自分で片付けようとしているのに、面倒だからとか、時間がかかるからという理由で、親が片付けしてしまうということは日常的によくあることです。ただ、子どもの自律的な行動を支援するためには、親も実行機能を発揮し、子どもが自分でやるのを見守ることが必要なのだと森口氏は言っています。

 

保育士においても、同様のことが求められますね。保育士自体が実行機能を持っていないと子どもたち自体に実行機能を持たせることができなくなるのです。まさに、大人の様子を子どもが踏襲することになり、人的環境という意味ではよく考えていかなければいけない内容ですね。

保育の質

ネグレクトは特に母親の学歴と関わりがあると森口氏は言っています。父親の育児参加が増えてるとはいえ、日本において子育ての中心は以前と母親が担っているからであって、中学校卒業などの最終学歴である母親は、そうではない母親よりも子どもとの関係性を築くことが得意ではないことが繰り返し示されています。

 

ただ、ここで注意しなければいけないことはアタッチメントの関係性は母親に限らないということです。父親でもアタッチメントの関係性は築くことができます。また、里親が子どもに関わったことで実行機能が向上したことを見ても、子どもがアタッチメントの関係性を築くことは里親でも構わないのです。それは教師や保育でも同じことが言えます。つまり特定の大人が、責任を持ってしっかりと子どもと関わり、安心できる場所を提供するということが大切になってくるのだと森口氏は言っています。

 

では、アタッチメントのことを踏まえ、子どもと関わるためにどういったことをしていく必要があるのでしょうか。森口氏はこのことについて最も研究が進んでいるのは「保育の質」だといっています。子どもの発達に影響力があるのは、支援的な子育てと管理的な子育てだそうです。支援的な子育てとは子どもの自主性を尊重しようという子育てであり、管理的な子育てとは親が子どもを統制するような子育てです。

 

「支援的」「管理的」というのは保育の中でもたびたび話題に上がってくる内容です。私は子どもの生活や保育に関して「見守る」という姿勢は非常に必要な子どもとの距離感だと思ってます。しかし、一口に「見守る」といっても、さまざまな受け止められ方をされることが多いです。「見守る」=「見る」ということは確かなのですが、「ただ見ている」というだけでは放任です。なんでもしていいわけではなくある程度のルールが求められるのです。こういってニュアンスは様々なとこで見受けられます。例えば、今回出てきた「支援的」もそうですね。「支援」と言われるとどういったイメージを持つでしょうか。子どもが困っていたら助けてあげるというのが支援ですが、最近では、「子どもが困ってもいない」のに助けたがる保育者や保護者がいることもよくあることです。それは「支援」ではなく「お節介」になってしまうのです。では、「管理」というとどうでしょうか。「管理」と言われると子どもたちの一挙手一投足を見て、少しでも違うことがあれば「違う」と注意される。しかし、これは「管理」ではなく「誘導」です

 

私はこのことについてあくまで「育児の質」や「保育の質」と考えると「支援」と「管理」は別のものではなく、同時でなければいけないと思っています。バランスを持たせることが必要なのです。今の保育では、どちらかに0か100かでバランスが取れていないような気がします。なぜなら、そのほうが「楽」だからです。しかし、人とはそれほど単純ではありませんし、これからのグローバルな時代においてはもっと柔軟なスキルが求められます。実行機能はそういった時代に必要な力なのです。

 

では、森口氏の見解としてはどういったものを「支援的」なもので、どういったものが「管理的」なものであると見えてきたのでしょうか。

ネグレクト

前回の内容でアタッチメントが赤ちゃんと養育者とどのようについて関わることで、作られてくのかということが分かってきました。つまるところ、養育者と赤ちゃんの関係性の中で、お腹が減ったときや不安なとき、不快なときに適切に対応してもらうことでアタッチメントの関係性が深くなっていくようです。そのなかで、子どもは自分の感情をコントロールすることができるようになると森口氏は言っています。

 

森口氏ははじめは子どもは感情をコントロールすることはできないといっています。しかし、養育者にくっつき、慰めてもあることで、コントロールしてもらいます。そういった経験の中で徐々に感情をコントロールするという感覚がわかってくるのです。そして、今度は自分で、たとえば指しゃぶりなどをすることで、感情をコントロールできることに気づきます。そのうちに、養育者の手を少しずつ離れ、自分自身で感情や行動をコントロールし、実行機能を育てるというのです。

 

私が前回、思った「安心基地」とは少し話が違っていましたが、子どもが感じるアタッチメント(愛着)といった親との関係性というものは同じような考え方であるように思います。ただ、子どもたちは養育者との関わりの中で、自分の感情のコントロールをしているのですね。赤ちゃんとの適切な関りは「お節介や先に手を出すこと」ではなく、いかに「応答的な関わり」が必要になってくるのかということが分かります。

 

そして、このアタッチメントこそが、「ネグレクトのような状態では実行機能が育たたない」ということの大きな要因であると森口氏は言っています。ネグレクトの状態では、子どもは不安になっても、養育者とくっつくこともできなければ、慰めてもらうこともできません。そのため、最初は感情のコントロールができない子どもが、養育者の助けも得られなければ、感情をコントロールするという感覚を得ることができないのです。結果、ネグレクトの家庭で育つと実行機能の発達に問題を抱えてしまうと森口氏は言っています。

 

では、身体的な虐待や心理的虐待の場合はどうなるのでしょうか。以前の話でもネグレクトのほうがそのほかの虐待よりも実行機能に影響があると森口氏は言っています。それは身体的であれ、心理的であれ、「関わり方自体は間違っているものの養育者は子どもに関わっている」というのです。しかし、ネグレクトの場合、子どもに関わりません。この違いが大きいのです。もちろん、身体的虐待や心理的虐待も、子どもの脳や心の発達に深刻な影響を与えることには違いはないので、決してこれが良いというわけではないが、実行機能に関しては、子どもにとってストレスが強いのは、誰も関わってくれないネグレクトであるということが分かってきました。