乳幼児教育

保育の質と実行機能

森口氏は著書の中で「幼稚園や保育園に行くこと自体が子どもの実行機能の発達にとって重要な意義がある」と言っています。これは以前、ポール・タフ氏の著書や森口氏の「自分をコントロールする力」にも出てきた、ノーベル経済学賞を取った経済学者ジェームス・ヘックマン氏の研究にも言われています。幼児期にうける教育が将来の育ちにつながるという長期縦断研究から見えてきますし、その中心となる能力は非認知能力であるとも言われています。

 

また、前回紹介した家庭環境が子どもの実行機能に与える影響でも紹介されたように、貧困層やネグレクトの家庭では、それ以外の家庭よりも、子どもの実行機能が著しく低いことが示されていました。そして、この原因となるのはストレスを経験することです。しっかりと関係を築くことができる大人がいないことに起因しているのです。このことを踏まえて考えてみると幼稚園や保育園においても、子どもがストレスを経験せず、楽しく過ごすことができると、子どもの発達をさせられるかもしれないのです。好きな教諭や保育士がいて、関係を築くことができれば、子どもは実行機能を育むことができるかもしれないと森口氏は言っています。

 

東京大学の山口博士らの研究では、母親の最終学歴が高校卒業未満の家庭と、そうではない家庭の子どもが、保育園や幼稚園に通うことでどのような利益があるかを調べました。その結果、母親の学歴が高卒未満の家庭は、幼稚園や保育園に通うことで子どもの多動性が著しく減少することが示されたのです。逆に母親が高卒未満以外の家庭の子どもの場合は子どもの行動にあまり影響を与えませんでした。このことから幼稚園や保育園に通うことで、すでに子どもには影響があることが分かります。では、保育の質についてはどうでしょうか。

 

最近では保育の質における研究や研修はいたるところで起きています。では、保育の質と実行機能にはどのような影響があるのでしょうか。イリノイ大学シカゴ校のゴードン博士らの研究グループでは、3つのカテゴリーからなる幼児教育・保育の質評価を行っています。1つは園のハードウェアにあたる部分です。これは園の広さや備品などが含まれます。2つ目は教諭・保育士による子どもの健康や衛生に関するかかわり方です。トイレットトレーニングや睡眠などの関わりにおける評価です。3つ目は子どものやり取りにあたる部分で、うまくコミュニケーションを取れているかが含まれます。

 

その結果、2つ目と3つ目の幼児教育・保育の質が、子どもの実行機能と関わることが示されました。つまり、子どもの健康や衛生に関する関わりかたがうまく、子供とのやりとりが円滑な幼児教育施設では、子どもの実行機能が育まれやすいのです。健康や衛生に関する関わりは忍耐の連続だと森口氏は言います。たとえば、トイレットトレーニングや怪我の対応などは、子どもたちは耐えなければいけないタイミングが多くあります。その時の子どもとのやりとりも支援的な養育行動の効果があると考えられます。このように、教諭・保育士の関わりは、子育てで重要だった部分と通じるところが多いのです。ただ、幼稚園や保育園ならではのものもあると森口氏は言います。それは集団の子どもに関わるという部分です。では、このような集団の子どもに対してはどのようなプログラムなら実行機能を鍛えることができるのでしょうか。

マインドフルネス

最近、保育園や幼稚園などで「茶道」を行っている話を聞くことがあります。「茶道」と言うとかなり行儀や作法があるように感じますし、それこそ「待つ」ということを子どもは意識していかなければいけないように思います。これと同じように最近のビジネスマンに流行っているのが「マインドフルネス」です。具体的には「瞑想やヨガ」を指すことが多いですが、自分の身体や精神、呼吸などに注意を向ける活動のことを指します。

 

最近、森口佑介著の「自分をコントロールする力 非認知スキルの心理学」(講談社現代新書)を紹介していますが、森口氏は最近、タイの共同研究者たちとマインドフルネスが子どもの実行機能を向上させるかを検討したそうです。マインドフルネスは先ほども紹介したように、身体や精神に対して集中することや、今という瞬間に集中することを重視しているため、自分をコントロールする実行機能を向上させると考えられています。

 

森口氏はタイのマヒドン大学分子生物科学研究所の研究者から、タイの子どもは実行機能に大きな問題を抱えているため、この能力を育てるためのプロジェクトを手伝うことになります。そして、タイに訪れたときに衝撃を受けたそうですというのも、研究者らの調査によると、タイの子どもの約30%が実行機能に問題を抱えているというのです。つまり、3人に1人の計算になります。森口氏の知り合いの研究者によれば、タイの子どもは、目の前の快楽に飛びついてしまい、勉強ややるべきことをすぐにおろそかにしがちで、特に学校での授業が成り立たないということです。また、違法薬物に手を出す子どもが多く、国家的な問題になっています。そのため、その研究者らは、政府や企業を巻き込んで、実行機能の発達の支援をするためのプロジェクトを開始しました。

 

そこで森口氏はタイの保育園で、マインドフルネスが子どもの実行機能を向上させるかどうかを調べました。マインドフルネスの訓練として、マヒドン大学の大学院生が、既存のトレーニングと、タイの僧侶たちが行っている瞑想とをブレンドして、新しいプログラムを開発しました。プログラムは毎日やる短い活動と、週に3回、各40分間の保育プログラムの一部としてやる長い活動です。これを8週にわたって続けました。前者は毎朝1~3分間、自分の呼吸に対して、集中するという活動です。保育のプログラムは以下の4つのパートから構成されました。①集中力:呼吸に注意を向け、少しでも気が散りそうになったら、呼吸に注意を向けなおします。②感覚:自然に感謝し、味覚や嗅覚などを存分に発揮させます。③運動:自分に身体感覚について学び、身体をどのようにしたらコントロールできるかを学びます。④感情:感情について学び、感情をコントロールする方法について学びます。これらの活動を通じて、自分の体や感情についてしっかりと認識し、そのうえでそれらをコントロールできるように学ぶことを目的としています。

 

これらの前後に、感情の実行機能と思考の実行機能を測定します。その結果、マインドフルネスはとくに感情の実行機能に非常に有効であることが示されました。感情をコントロールすることを目的としているので、これは当然の結果と言えるのかもしれません。また、この際、思考の実行機能も一部の子どもでは向上しました。

音楽と実行機能

運動以外に森口氏は音楽も、子どもの知能や記憶の発達に有効があることが示されていると言っています。ロットマン研究所のモレノ博士らの研究では、4歳から6歳の幼児が参加し、2つのグループに分けられました。1つは、音楽を通じた訓練を受けるグループであり、もう一つは美術を通じた訓練を受けるグループです。どちらのグループも1日1時間の訓練を2度、週に5日4週間にわたって訓練を受けました。

 

音楽の訓練は、主にリズム、ピッチ、メロディなどの音楽の基本的な特徴を区別したり、学習したりすることのほかに、音楽に関する概念や理論を学んだりするなど、多岐に渡る内容でした。もう一つの美術を通じた訓練を受けるグループは、形、色、線などの美術の基本的な特徴を区別したり、学習したりしました。どちらのグループも、訓練の前後に、IQと実行機能のテストをされ、これらのテストの成績が訓練を通じて向上するかどうかが調べられました。その結果、美術訓練を受けたグループは、IQも実行機能もほとんど変化がありませんでした。一方、音楽を通じた訓練を受けたグループは、IQと実行機能が向上しました。

 

では、音楽のどういったところが実行機能に影響があるといえるのでしょうか。森口氏は「子どもが音楽を楽しみ、他の子どもと一緒に取り組むことができる」ことが実行機能に影響があるところであると言っています。なぜなら実行機能は主体的に行動をコントロールする力であることから、どんなに有効な方法でも、子どもが嫌々やるような方法ではあまり効果は出ないからではないと考えられるからです。

 

これまで、運動、スポーツ、音楽が子どもの実行機能にどう影響するのかということを取り上げてきました。共通するのはどの事柄においても、自分の気持ちをコントロールする瞬間があることが見えてきます。それと同時に、各各々のことについて、「自分がやりたこと」つまり、主体的に取り組んでいることであることも重要な意味を持つということが見えてきます。ある意味で、実行機能を育むということに共通することは、自分が何をしたいかを明確に持っていることが重要なことなのかもしれません。好きなこと、心から取り組める何かを持つことこそが実行機能を持つことにつながるのだろうということが分かります。

 

では、乳幼児教育ではどういったことが求められるのでしょうか。よくこういった話をすると「だからいろいろな経験をさせなければいけない」と親が子供に「させたがる」ことがいます。「嫌がってでも、経験する中で好きなものが見つかる」という考えです。もちろん、そういった子どももいるでしょう。しかし、「一つ好きなことを見つけても、10嫌いになる」可能性もあるのです。やはり大人が子どもたちにしてあげることができるのは子ども達が選べるだけの環境を用意することなのでしょうね。

学びのユニバーサルデザイン

2020年7月20日の日本経済新聞に「学習方法 自ら選ぶ」という記事が書いてありました。これは早稲田大学 学校臨床専門の高橋あつ子教授の「学びのユニバーサルデザイン」の考え方を授業に入れるといったことを記事にしたものです。この「ユニバーサルデザイン」ですが、最近教育の研修などでもよく聞く用語になっています。

 

そもそもこの「ユニバーサルデザイン」とは「特別な製品や調整なしで、最大限可能な限り、すべての人々に利用しやすい製品、サービス、環境のデザイン」のことを言います。「デザイン」というと商品やファッションの「デザイン」を一番に思いつきますが、ここで言われる「デザイン」はもっと広い意味合いがあり、見た目だけのデザインではなく、構造なども含むトータルコーディネートのことを指します。

 

高橋あつ子教授はこのユニバーサルデザインを「学び」にあてて考えます。つまり「すべての人々に利用しやすい学びとは」ということですね。高橋氏は「小中高校の新学習指導要領では『主体的・対話的で深い学び』や『学びに向かう力、人間性の涵養(かんよう)』がうたわれているが、成績や受験のためでもなく、親や教師に求められるからでもなく、自分の成長のために学ぶ子どもはどれくらいいるだろうか」と言っています。最近では、アクティブラーニングなど対話的な授業が増えてきましたが、そのためには講義型の授業からの脱却が多くの場合望まれます。しかし、実際のところは教員が仕組んだ対話が主であることが多いそうです。それは果たして「主体的」というのだろうかと高橋氏は言っています。確かにこのことは保育においても当てはまる内容です。大人が「導入」として活動を進めていきます。しかし、そこに子どもたちの意見が入る余地が少なく、結局のところ「誘導的」に活動が進められることはすくなくありません。高橋氏はこういった授業の進め方は不登校経験や関わりが苦手な子にとっては学びやすいのだろうかと言っています。このように多様化した子どもの問いに向き合うために、「ユニバーサルデザイン」の考え方が重要だと言っています。

 

では、それはどういったことをいうのかというと「言語、人種、宗教などの多様化を前提に学びたいという気持ちを持ち、学ぶ方法が分かり、自分に合った柔軟なやり方で障害にわたる学習をかじ取りするもの」の育成を最終目的とすると言っています。つまり、教師主導のティーチングから、学習者中心のラーニングへの移行が進むといっており、この考えは世界的に広がりを持っているのだそうです。

 

そして、その進め方は「何のために学ぶのか」(WHY)「どのように学ぶのか」(How)を中心にしており、教員は子どもが学ぶための方法を多数用意し、こどもが自分に合った方法を選ぶようにして進めていきます。また、授業のまとめを書く際も、絵で表すのか、文章なのか、一人で考えるのか、ペアなのか、グループで進めるのかすべてが学習者が決めるようになるのです。このように多様な場面で選択が求められると子どもの自己調整力が育ち、総合的な学習で必要な問いを立てて解決し、表現する方法を選ぶ力にもつながる。そして、方法を選べる心地よさと責任を体験することで主体性が生まれると高橋氏は言っています。

 

高橋氏は小中高校において、こういった教育方法が求められるように言っているが、こういった体験を基にした教育形態は乳幼児にこそ、もっと求められるべきではないだろうかと思います。「主体的に」というのは乳幼児教育からでも求められるものであり、「学習」のプロセスにおいてはどの年代においても同じ環境が求められるように思います。

 

そして、一番考えなければならないのか、それは「何のために学ぶのか」であり、このことが今の時代、どこかで置き去りにされている現状を疑問に思います

スポーツと実行機能

森口氏は単純な運動よりも、スポーツのほうが実行機能を向上させると言っています。その中でも有名なものがテニスとサッカーがあげられるそうです。テニスは個人競技ですが、相手との戦いの中で、自分の感情や行動を持続的にコントロールする必要があります。たとえば、思い通りにボールを打てなかった時や、サーブが入らない時にどうしてもイライラしてしまいます。これはテニスの試合を見ているとよくわかります。プロのトッププレーヤーでも自分の思い通りに試合が進まない時はラケットを地面にたたきつけたり、感情をむき出しにしている様子が見られます。こういった時に頭の切り替えが必須になると森口氏は言います。そして、森口氏はスイスのテニスプレーヤーのロジャー・フェデラー選手を紹介しています。

 

ロジャー・フェデラー選手はテニス界史上最強とも言われるスイスのテニスプレーヤーです。彼は今でこそ、スポーツマンシップにあふれ、試合中も紳士的な振る舞いで世界中にファンがいますが、若い頃はお世辞にも自制心がある選手とは言えなかったそうです。子どもの頃は、集中力がなく、感情的でいつもエネルギーを持て余し、相手にショットを決められると、怒りだし、相手に負け惜しみを言っていたというエピソードも残っているほどだったそうです。しかし彼は、心理学者の力を借りて、自分をコントロールする力を身につけるよう試みたそうです。その影響もあったのか、フェデラー選手の素行の悪さは鳴りを潜め、スーパースターの階段を駆け上がっていきました。

 

最近の研究では、テニスの経験によって、子どもの実行機能が身につくことを示すデータがあるそうです。玉川大学の石原博士らの研究は、6歳から12歳の児童を対象に、テニスの経験の長さと、思考の実行機能の関係を調べました。その結果、特に男子において、テニスの経験の長さと、思考の実行機能が関連していることが明らかになっています。運動とスポーツについてまとめてみると、スポーツが難しい幼児には単純な運動をすることが、小学生以上の子どもにはスポーツが有効な方法だといえそうです。しかし、みんな運動が好きというわけではありません。ほかのことでは実行機能を得ることはできないのでしょうか。幼稚園や保育園では運動だけではなく、楽器を奏でることや絵を描くこと、積み木で作品を作ることが遊びの環境に作られます。では、運動以外に音楽や絵をかいたりすることは実行機能に影響を与えることはあるのでしょうか。