乳幼児教育

オンラインと協同

アンドレアス氏は「協同学習が自己調整学習や探求学習へとつながる素晴らしい方法である」といっています。このことを見ていると協働的な関わりが深まっていくことで、学力が上がるというのが見えてきます。しかも、ただ学力が上がるだけではなく、自己調整や探求といった、自ら能動的に学習する態度というのも同時に関わってくるのを考えると、本来の学習において、ひとりで黙々と机に向き合うようなものよりも、より深い学びにつながってくるのかもしれません。

 

また、新型コロナウィルスの感染において、リモート学習というのが出てきましたが、この学習方法は今後の教育現場を変えていくということが言われています。アンドレアス氏においても、このことは取り上げています。こういった技術革新におけるオンライン講座は、誰でも参加できますし、高価な教授法に変わる魅力な方法であるといっています。しかし、このようなオンライン講座の修了率は極めて低いままです。その理由の一つが、学習成果を認定する信頼性の高い方法が見つかっておらず、こういった講座で学んだ経験を労働市場で評価される資格に変えるのが難しいのです。なぜ、こういったことが起きるのでしょう。それはオンライン講座の多くが「読み取り専用」ということが挙げられるからです。これは私も実感しているところです。現在、いくつかの講義や研修をオンラインで受けることもありますが、やはりどうも集中が続かなくなることが多くあります。また、実際自分が話す側に立った時に、相手がいないと張り合いもないですし、単調なものになりがちです。つまり、この方法は講義形式を再現はしているが、対面しているわけではないので、教員が意欲を引き出してくれることはないのです。そこでPISAはPISA4Uと言われるオンライン講座のデジタルプラットフォームを共同開発しました。これを開発したドイツのロイファナ大学のホルム・ケラー前副学長は、学習対象者として熟練の教員たちに口座への参加を依頼しました。そして、参加者のグループが同じ教育目標を共有しながら、可能な限り多様性を持つようにアルゴリズムに基づいてグループ分けを行ったのです。その後、グループにはオンラインのメンターと経験豊かな教員のサポートを受けながら、協同で問題解決に取り組みました。その結果、修了率は高くなり、ほとんどの参加者が様々な国や文化を持ち、興味と経験が異なる人々と共に取り組んだことが継続的に参加する原動力になったと語っていたそうです。PISAではこのようなデジタルプラットフォームの後継となるものを現在開発しているそうです。

 

いまだ、このようにオンライン講座により便利になったといえる部分はありますが、その反面、課題も多いのだろうことが見て取れます。しかし、その課題において、大きな意味合いを持たせるというのが、やはり「協同」でおこなうという参加者のグループにおける教育目標の共有や多様性を持つことであるというのは非常に興味深いことです。人との関わりのなかにある刺激というのはかなり大きいのですね。ただ単に画面と向き合うのではなく、その中でも人との関わりを持って、学ぶというのは大きな環境としての意図があるのでしょう。「協同する」というのはかならずどこかで残しておかなければいけないのですね。

共に学ぶ

アンドレアス氏はこれまでの自制心や自己効力感などの能力を養うことについて、こう言っています。「私たちはまた、個人の成績に加え、協同する方法を教えたり、協同を評価することをもっと考える必要がある。今日の学校の生徒は通常、個別に学習し、学年末にはテストを受け、個々の成績を認定される。しかし、世界がより相互依存になるほど、より効果的な共同相手が必要となる。今日のイノベーションとは、個人が単独で働いた産物ではなく、知識を結集し、共有し、結び付けた成果である」といっています。

 

これからの時代は個々の成果だけではなく、協同するスキルが重要になってくるというのです。何度もその理由に上がってきますが、これからの時代はよりグローバルであり、さまざまな人との関わりが必要になってきます。そして、そこでの文化や環境の理解、価値観を調整する力が必要になってくるのです。

 

アンドレアス氏は生徒のエージェンシーの育成が必要であると言っています。この生徒のエージェンシーとは「自ら考え、主体的に行動して、責任を持って社会に参画し、社会を変革していく力」のことを指しています。こういった能力を育成するためには、教員は生徒の個性だけではなく、学習に影響を及ぼす教員、仲間、家族、コミュニティのより幅広い関係を認識する必要があると言っています。そして、その中心には「共同エージェンシー」があり、これは生徒の成長を支援する、双方向で相互支援的な関係です。この「相互」というのが重要であり、生徒だけではなく、教員、学校管理者、保護者や地域社会の誰もが学習者であり、子どもたちと共に学ぶという姿勢が求められるのです。

 

以前、自分の働いていた保育園では「自分は子ども(園児)たちに保育士として育てられた」というのが口癖でありました。子どもたちは御するものではなく、子どもたちから学ぶ対象だったのです。よく「子どもたちはこんなことできる」という宣伝文句を聞いたりすることがありましたが、私にとっては「子どもたちだけでこんなこともできる」ということに驚かされることが多いのです。また、以前、私が中学の教育実習に行ったときにその頃の担当教員が、ゆとり教育について生徒にある国を調べるといったときに「その国を知らない生徒に教えようがない」と言っていたのです。そのころは「そういったものなのだろう」と感じていたのですが、今思えば、それはチャンスであったのかもしれません。子どもたちと一緒に世界地図や地球儀を取り出し、一緒に場所をしらべ、そこからインターネットなどで情報を調べることもできたはずです。しかし、ここで重要なのは学校現場では単元があり、時間を使っていられないということもあったのかもしれません。いずれにしても、子どもたちの興味のあることに「調べ込む」時間がとれない現場としての悩みはあるように思います。であるならば、乳幼児期のまだ、それほどまで単元などの縛りの無い中で「遊び込む」ことや「~込む」といった環境を多く用意しておくことはこれからの時代とても重要な意味を成すのではないかと思います。

これから必要なスキルの共通点

これからの新しい時代に通じるスキルは多角的に分析し、評価し、知識を構築することだとアンドレアス氏は言っています。そして、今後の問題解決においては、二者択一または単一の解決策はめったにないとも言っています。個人は、相互のつながりを意識した、より包括的な方法で考える必要があるのです。

 

では、このように新規性、変化、多様性そして、曖昧さに対処するにはどうしたらいいのでしょうか。それには「ひとり一人が自分自身のために考えられる」ことが前提だとアンドレアス氏は言っています。「問題解決における創造性は、自身の行動が招くのであろう未来を予測し、リスクと期待成果を評価し、自身が引き起こす結果に対する説明責任を負う能力を必要とします。」といいます。これは自身の経験、個人的や社会的な目標に照らし合わせて行動を熟慮し、評価する責任感、道徳的かつ知的な成熟でもあります。そして、特定の状況における善か悪、良いか悪いかの認識と評価は、倫理的なものです。

 

それは「私はなにをするべきか」「私はそれをする権利があったのか?」「限界はどこか?」「結果を踏まえても私はそれをしたほうがよかったのか?」というような規範や価値、意味や制約に関する質問を意味します。これらの中心にあるのは、自制心、自己効力感、責任、問題解決、適応能力を含む自己調整の概念である。発達神経科学の進歩は、思春期の可塑性の第二の爆発が起こり、特に可塑性の脳領域および系統が自己調整の発達に関わることを示している。

 

つまり、その頃の生徒たちには特にこういったスキルが必要になってくるというのです。よくよく見ていくと「自制心、自己効力感、責任、問題解決、適応能力を含む自己調整の概念」とアンドレアス氏が言っているのは、以前、森口佑介氏の著書の中にも出てきた「非認知的能力」であるということが分かります。つまり、アンドレアス氏においても、今後の社会において、重要となってくるスキルは非認知的能力であるということが伺えます。このスキルを土台として、知識を蓄えることで、イノベーションと持続性を生み、評価し、新たな知識の構築になると言えるのです。

 

そして、保育においては、以前の森口氏の著書でもあったように、乳幼児期の教育が非常に思春期に永起用すると言われていました。それと同時に、乳児の頃かラ子どもたちの関わる力であったり、非認知能力と言われる力が養われていくということで、学校休育のみならず、乳幼児教育にこそ、より重要点があるのではないかと私は思っています。

高等専門学校と教科横断

アンドレアス氏は「イノベーションと問題解決には、異質なものを組み合わせ、つなぎ合わせ、今までにない想定外のものを想像することが重要である」と言っています。そして、そのためには「オープンマインド、今まで関係なかったアイデアの結合を含み、さまざまな分野に精通していることも必要なことだ」と言っています。それは一つの事柄について学んでいるだけではつく力ではありません。総合的な分野の知識も知っておき、なおかつ、関連付ける力も必要になってくるのです。そうすることで独創的なスキルが得られることになるというのです。では、そういった力をつけるにはどうしたらいいのでしょうか。PISAはそのために、生徒が学校の教科の枠組みを超えて考えることが必要だと考えていました。しかし、実際に教科横断的な課題を解決することの困難さが見えてきたのです。

 

そういった教育の実現はできないのでしょうか。アンドレアス氏は「それでもいくつかの国では、教科横断的な能力を育成しようとしている」と言っています。その例として、日本の国立高等専門学校機構(高専機構)を挙げています。2018年にアンドレアス氏は高等専門学校の東京キャンパスを視察したそうです。そこでは実践的で協働的なプロジェクト学習が多いため、一見するとキャンパスは専門学校のように見えたそうです。しかし、高専は別物だといいます。アンドレアス氏は「全国51の高専は実際には日本で最も精選された高校やカレッジの一つであり、そのカリキュラムは技術や科学と同じくらい一般教養も重視している。卒業生の約40%は、大学に進学して学び続ける。高専から直接就職する生徒は、日本で最も引く手あまたのイノベーターやエンジニアとして平均で一人当たり20件もの旧人を得ている」といいます。

 

では、その高専の特徴はどういったところにあるのでしょうか。それは「教室での学習と実践的なプロジェクト学習のユニークな一体」であると言います。そこでは学習は教科横断的かつ学生中心であり、教員は大荷コーチやメンターの役割を担っているのです。それは世界中の学校で流行しているような、人為的な1週間のプログラムでは無く、生徒のアイデアを発展させ、実現するために数年間を掛けてプロジェクトに取り組むような形になっているそうです。このような彼らの実践の成果はお蔵入りにならず、日本発のイノベーションの一つとしてインキュベーター(起業を支援するもの)の支援により商品化されることも珍しくないのです。このようなプロジェクト学習は最近になって注目されているが、高専では1960年代からすでに実施されているのです。

 

では、その他の学校ではどうだったかというと、1990年代後半には日本では総合的学習の時間によって、教科横断的な学習を導入しようとしたが、教育現場での実践には十分に組み込まれず、テストで教科ごとの知識を重視する中等教育では、その影響は限られました。

 

「関連付ける力」というのは今の時代重要視されているようです。しかし、「教科」として分かれてしまうと、なかなか総合的な教科としてはできにくいのかもしれません。保育においても「5領域」がありますが、見ているとどうも切り分けて考えられることも多いように思います。しかし、それらの力は総合的であり、密接に関わっています。

教育システムの再構築

これからの仕事は、人工知能と人間の社会情動的スキル、態度、価値観を結びつけるものに変わってくると言われています。そして、人工知能を利用し、新しい価値観を生み出せるようにしていくことが求められます。こういった社会に求められるスキルが変わってくると教育で施される知識も変わってきます。

 

生徒にとっては有効期限が限られた内容を習得する(知識の習得)のではなく、学問分野の構造的および概念的な基礎を理解すること(方法論の習得)が重要になる。たとえば、数学では、私たちが数学を学ぶ方法と理由を知り(認識論的信念)、数学者のように考え(認識論的理解)、数学に関連する実践を把握(方法論的知識)する必要があるというのです。つまり、ただ、知識として学習するのではなく、「なぜ、何を、何に使うために」ということを学ぶことが必要だというのです。これは数学に限った話だけではなく、他教科にも通じることであり、教育の本質ではないかと思います。

 

「2015年のPISAの科学的リテラシーは知識と理解を重視し、例えば科学において生徒が知っていることだけではなく、科学者のように考えることができるかどうか、科学的思考を重視するかどうかを重視した」とアンドレアス氏は言っています。しかし、その結果は各国によって、そして地域内でさえも著しく違っていることが見えてきました。台湾の生徒は科学的リテラシーで最も優れた成績を残したが、相対的に見れば、科学者のように考えることよりも科学的な知識を再現することが得意であった。一方でシンガポールでは、知識においては台湾と同程度だったが、知識よりも科学者のように考えることが求められる問題でさらに優れていた。オーストリアでは、科学的な概念を理解するよりも科学的な事実の知識において優れていた。フランスでは逆に概念的な知識が優れていた。

 

このように科学的リテラシーとして同じように成績が優れて、似たような国においても、教育政策と教育実践が生徒の学習成果に違いをもたらすのが分かってきたのです。この結果を受けて、政策立案者や教育者は、概念や認識の深い学びに重点を置くようにカリキュラムや教育システムを再構築することが期待されます。

 

単に成績を上げるだけでは、深い学びには伝わっていきません。その教科がどういった意味があり、どのような学びが社会にとって必要とされるのか。アンドレアス氏がいう構造的で概念的な基礎的な学びとはどういったものであるのか。こういった中心となる学びの本質をとらえたうえで、教育も進めていかなければいけないのであって、保育はその入り口であります。とすれば、もっと本質的に学びにつながる姿勢を作っていかなければいけない時代を預かることになります。だから、主体的に遊ぶことや遊び込む環境が必要になってくるのでしょうね。