乳幼児教育

30年後・・・

今後の世の中はデジタル技術とグローバル化によって、経済構造や社会構造に大きな影響をもたらすと言われています。しかし、その影響は当然のごとくどういったものかはまだ分かりません。それらの結果について、アンドレアス氏は「破壊的な影響力に対する集団的な反応、すなわち技術的な最先端領域と文化的、社会的、制度的、経済状況と、それに応じた人々の継続的な相互作用によって決まる」と言っています。つまり、生かすも殺すも自分たち次第ということですね。うまく新しく出てきた技術や多様な社会において、適応していくのかが重要になってくるのです。

 

こういった環境において、国際社会では2030年に向けて持続可能な開発目標(SDGs:Sustainable Development Goals)を設定し、貧困を終わらせ、地球を保護し、すべての人々が繁栄するための行動指針を示しました。アンドレアス氏は「これらの目標は、ますます加速してく時代の遠心力に対する接着剤であり、グローバル化のパズルにかけた部分を提供する人類共通のビジョンである。これらの目標がどの程度設定されるかは、今日の教室で起こることに少なからず依存している。持続可能な開発目標の基本原理が、市民との真の社会契約になるためのカギを握るのは教育者である」と言っています。

 

そして、アンドレアス氏は「2030年には現在の小学生は義務教育を修了している。したがって、私たちは小学生が現在何をまなぶかを形づくるために、彼らの将来について考えていなければならない」と言っています。このことについて、私もある先生から「私たちが今保育している子どもたちは30年後には間違いなく社会に出ています。つまり、私たちは30年後の未来を予想して保育をしなければいけません」と言われたことを思い出します。

 

教育者はつい、日ごろの保育に追われ、現在の子どもたちに目を向けがちです。それは当然のことで、それを怠ってはいけません。しかし、自分たちは決して社会において無縁ではないということも同時に考えなければいけないのです。そして、社会に出たときに、どういった力が必要とされるのかを意識する必要があるのです。アンドレアス氏の話はどちらかというと学校教育の話が中心です。そのため、多くの話は学校現場においての話になりますが、我々保育に携わる者はこういった学校現場の変遷を知ることの重要性もすごく感じます。

 

保育は小学校のプレで行うものではなく、社会を見据えた保育を行い、乳幼児期に必要なことを行い、小学校にパスしていかなければいけないのです。それぞれにはそれぞれの役割となる教育課程や保育課程があるが、それらは別々に行われるものではなく同じ目標を向いていないければいけないのであろうということを感じます。それが保育現場と教育現場の連携となりえると思うのです。

移り行く環境

アンドレアス氏は「21世紀の教育の背景には、絶滅寸前となった私たちの環境がある」と言っています。それはどういった部分のことかというと「人口の増加、資源の枯渇、気候変動」ということが挙げられており、そこから持続可能性と将来の世代のニーズについて考えていかなければいけないと言っています。それと同時に、テクノロジーとグローバリゼーションの相互作用は、新たな課題と新たな機会を生み出しているというです。

 

アンドレアス氏は「デジタル化は民主化の力である」と言っています。しかし、デジタル化は小さな声をどこでも聞こえるようにする一方で、個性と文化の独自性を消し去ることにも危惧しています。人々は利便性のために自由を引き渡し、コンピューターの助言や意思決定に依存すれば、デジタル化は人々から力を奪うこともできるのです。

 

このことは私も常々感じているところでもあります。TwitterなどSNSといったツールは正しく使えば、非常に便利な機能を備えています。しかし、その反面、最近のニュースではSNSに関わるものが少なくありません。結局のところ、SNSをうまく使うというよりは、SNSによる技術に人間が振り回されいるようにすら感じます。しかし、このことはSNSだけに限らず、技術の進歩はそれと同時に人間の豊かな心情や生活をどこかで犠牲にしているように思います。メールが出てきたときも、「相手の顔が見えないので感情を見えずらい」といったようなコミュニケーションにおける問題が言われていました。世の中では、24時間どこででも、飲み物や食べ物が変えるようになった半面、家庭で手料理が出ないことも出てきたり、食品添加物の発展による健康被害もささやかれたりしています。

 

新しい技術共に、新しい文化が出来上がっていくというのはどの時代も同じだという一方で、今の社会、コミュニケーション能力の低下というのは非常に危惧しなければいけない内容だと思います。なぜならば、それは人がこれまでの歴史の中で、最も強みとしてた能力であって、人が他の種とはっきりと違う高度なコミュニケーションがあるからこそ、さまざまな気候変動や環境に適応してきたことや、グレートジャーニーと呼ばれるほどの途方もない旅に出て、分布を広げることができたのだと思います。そのコミュニケーションができなくなっているというのは非常に危険なことであろうことは想像に難くないと思っています。

 

だからこそ、保育は子どもたちの家族以外の「他」と触れる初めての機会でもあります。この始まりこそ、大切にしなければいけない時代であると私は思っています。デジタル化になっていく環境には逃れることはできません。便利な世の中になっていくということも変えることはできません。だからこそ、そういった時代だからこそ、保育とはなにかということを問い続けることが必要な時代でもあるのだろうと思います。

海外から見て

アンドレアス氏は「教育は非常に局所的で内向きになることが多い。」といっています。そのため、学校と教員が自分たちの仕事に関する知識を共有するのが困難になっている可能性があると言っています。このことは各国の教育システムにも同様のことがいえ、国境を越えて他国の教育政策や実践に目を向ける機会はほとんどない。他国の経験から学ぶことがほとんどないのです。アンドレアス氏はこのことについて「今を生きる若者の人生や未来のため、新たな政策や実践を試みる倫理的な要素を考えれば残念なことだ」と言っています。

 

確かにこのことは海外研修に行かせてもらうとよくわかります。それは日本の良いところを見ることにも繋がるのですが、どちらかというと日本の課題のほうがより鮮明にみえる気がします。特に大きく違うと感じたのが、教育と政府との関係です。海外はどの国でも、子どもの教育において、政府の介入が大きいのを感じました。ドイツでは、以前紹介したようにミュンヘン市は「陶冶プラン」が進められ、私が見学にいったときも園長先生や施設長は分厚い「バイエル」という日本でいう指針や要領にあたるものを持って話していました。韓国や中国では国が進めるということに対して、非常にスピーディに変化が起こっているのを感じました。シンガポールは教育省である「エクダ」がスパークという園の資格のようなものを発行し、その質の担保を確保するようにしていました。このことに対し、日本の特に保育に関しては、保育指針や教育要領といった指針となるものはあっても、その動きは大綱的です。そのため、各園の裁量によるものが多く、さまざまな保育形態が乱立していても良いという環境です。それが良いのかどうかはわかりませんが、ジャッジを下すものがないため、施設によってその目的や子どもの発達の見通しというのは大きく違ってくるように思います。こういったことは日本の様子をより感じるのは海外を見ることでより感じます。

 

アンドレアス氏は「国際比較が非常に重要な理由はここにある」と言っています。「教育の世界をリードする人々が達成した公平性、効率性の高い功績に基づいて教育の可能性を示すことができる」といったように海外の様々な教育体系を見ることによって、政策立案者は、測定可能な目標に基づいて有意義な目標を設定することができ、異なる教育システムが類似の課題にいかに対処しているかを理解できるようになるのです。そして、私が感じたように、「政策立案者や実践者が国際的な視点から自らの教育システムについてより明確な見解を得る機会が提供されることである。そのシステムの根底になる信念や構造、強みや弱みを深く理解した上で、教育システムは変更、改善されなくてはならない」と言っています。

 

私はそれともう一つ、こういった変更改善を行うためには、自分の教育システムを見直す視点を自分も持っていないといけないということです。そして、そのためには、今自分たちが行っている保育や教育に対してしっかりと理解していなければ、変更や改善するのではなく、鵜呑みにしてしまいます。まず、じっくりと自園での実践に目を向けることが重要なのだということが分かります。

誰のため

アンドレアス氏は教育を車のキーを紛失した運転手になぞらえてこういっています。「車のキーを無くした運転手が、街灯の下を探し続けたところ、誰かに『鍵を落とした馬車はそこか?』と聞かれ、『違うがここしか見えないから』と答えた」そして、教育にもこういったところがあると言っています。「最も手にしやすく、見やすいものを見るという根深い本能です。多くの場合、最も重要なことではなく、最も簡単に測定できる方法で教育の進捗状況を確認する。そして、他のところで達成されているものとの比較ではなく、自国や特定の地域の自信の学校内で起こっていることのみに基づいて教育を議論することが多い」といいます。

確かに人は目に見えるものを信じます。それは何も教育だけではなく、様々な産業でもそうでしょう。目に見えるほうが安心するのです。しかし、ヒトには知恵があり、見通しを持てるだけの想像性も持ち合わせています。大きな大局を見て、教育を進めていくことが必要であり、未知の未来を想像して進めていかなければいけないなか、どうも最近はこの見通しを持つことを忘れ、ルーティーン化された教育体系が当たり前になっているように思います。こと保育においても同様に言えます。「去年こうだったから」とか「これまではこうだった」といって毎年同じことが行われているということはよくある話です。もちろん、それが今の子どもたちにとって、発達にあっているものであったり、興味や関心があったりするものならいいのですが、大人が導入をしっかりして、子どもたちを誘導していくというのはどうなのかと思うこともあります。また、どうしても新しいことに取り組むことにはエネルギーが要りますが、なかなかそこに目が向けられず、合理化してしまったり、長い目で成長を見届けれず、介入してしまったり、と保守的になってしまうことが多くあります。

アンドレアス氏はこういった保守的に考え、広い視野で教育を考えていかなければいけないことにこう言っています「グローバル化は、経済、職場、日々の生活に大きな影響を与えており、教育は非常に局所的で内向きになることがおおい、教育システムは、互いに学ぶことから分離する『壁』を構築する傾向がある」と言っています。つまり、こと「教育」や「保育」に関しては閉鎖された考えがあるといっているのです。これは私も気にしているところです。教育や保育の世界にいるものにおいて、経済界や現在の企業職場に至るまで、社会のことが直結しているという実感がわいていない現状は大いにあるように思います。これは私もかつてはそう思うところがありました。しかし、今、海外の教育施策の話を聞いていると、日本に比べ、海外の保育、特に運営者ほど、社会に向けて保育を考えていることが分かります。アンドレアス氏も「教育システムの運営者は、自分の長所と短所に関する知識を得られるが、最前線で教育を運営し尽力している校長や教員はそうではない。自身の知識をより効果的な実践に転換する方法を知らないかもしれない。」と言っています。

保幼小の連携はずっと問題視されている中で、こういった連携や情報交換は非常に重要な意味合いを持たせるのでしょう。そのためには、各々の人たちがそれぞれの現場でどういったことを考え、どういった保育や教育を施し、繋げていくのかということを議論しなければいけませんし、なによりも、どういった人材を育成するためにあるのかという共通認識がなければ機能しないのかもしれません。

質を考える

異なる視点や世界観に従うには他者の現実感や視点に深い敬意と関心を持つということであるとアンドレアス氏は言っています。では、他者の立場や信条を認識し、自分自身の視点を深め、より成熟した意思決定を可能とする社会情動的スキルや認知的スキルを育てるためにはどういったことをしたらいいのでしょうか。アンドレアス氏はこういったスキルを育成するには、学習と教育のための非常に異なるアプローチや教員の能力が必要となるといっています。

 

アンドレアス氏は「前もって準備された知識を授けるような教育では教員の質は低くなる。そして教員の質が低いと、政府は望む結果を得るために民間セクターをつかって、教員になにをすべきか、どのようにしてほしかを正確に伝える傾向がある。現在の課題は、教員というものを高いレベルで自律し協同的な文化で働く進歩的な知識労働者とすることだ。」といっています。このことは現場においても非常に課題になっていることではないでしょうか。

 

現在でも様々な研修会で園内研修をどうやっていくかという研修が多く行われています。確かに非常に参考になることばかりで、自園でもかんがえなければいけないのかなとも考えているのですが、それだけではなく、教員自身が自律する環境も必要であるように思います。園内研修を行ったとて、それが「やらなければいけないもの」であるとどうしても惰性になりがちです。それが「やりたいもの」でなければいけないのです。大切なのはそういったことが「必要である」と気づく環境が必要であるように思います。それは園の雰囲気であったりするでしょうし、それこそが「保育者としての質」でもあるように思います。そのために、管理職である人間の役割は大きいのだと考えます。あるべきリーダーシップがなければ、職場の雰囲気は変わってきません。何事においても通じるところではあるのだと思いますが、組織風土が働く人のモチベーションを大きく変えるのです。仲良くなければ、意見は出てきません。しかし、ただ仲がいいだけだとそれは「なぁなぁ」の関係になり、それもよくありません。リーダーシップ論は教育現場においても、必要なことなのです。

 

また、アンドレアス氏は教員に必要なこととして「教員は有能な専門家、倫理的教育者、協同学習者、革新的な設計者、変化に富むリーダー、社会の構成員として働いている」といっています。そして、「しかし、そのような人々は主に行政上の説明責任体制、職務を指示する官僚的な指揮命令系統、科学的管理主義で組織された学校の交換可能な大量生産品としては機能しない。」つまり、これは現行の学校システムを変える必要があるとアンドレアス氏は言っています。「学校の専門的な統制基準、官僚的で管理的な職業基準を変える必要があり、過去とは社会通念であり、未来とは私たちが作り出す知恵なのである」つまり、過去の行事であったり、いわゆる「伝統」と言われるものがこれからも必要なのかということを考える必要も「ある」ということです。これは保育施設でも教育施設でもあることですが、「伝統」という言葉によって「やらなければならない」ものがあります。しかし、それ自体が今の時代やこれからの時代に本当に「必要なものなのか」を見直すことも必要なのです。そして、「必要でなければ無くす」ことも必要なのです。大切なことは、「伝統である」ものだとしてもその「意図」をしっかりと見据えることです。何が大切なのか、どういったものが本質であるのかその追及をしていくことこそが、「質」の向上においては大切なことであるように思います。