乳幼児教育

本当の意味での臨界期

小西氏は動物実験においては日齢差に問題もあり、設定するには人間とは違うということを加味した上で慎重に精査していかなければいけないと言います。では、実際人間の赤ちゃんの認知能力の高さを示す実験はどのように行われているのでしょうか。

 

紹介されているのは「言語、視覚の臨界期に関する実験」です。その一つとして「L」と「R」を聞き分ける実験があります。これはスウェーデン、アメリカ、日本の3カ国の赤ちゃんを対象に、音韻(言葉の音)の違いをどの程度認識できるかを調べました。すると、生後直後3カ国すべての赤ちゃんが「L」と「R」を聞き分けることができたのです。しかし、生後6か月になると日本の赤ちゃんにだけ「L」と「R」を区別できない子どもが多くなることが分かりました。

 

ほかにも、人間の赤ちゃんに、ヒトとサルの顔を見せて、その違いを判別させます。すると、生後6か月の赤ちゃんは、ヒトだけではなくサルの顔もそれぞれ区別します。つまり、大人には同じように見えるサルの顔の違いを一匹ずつ認識しているのです。ところが、生後9ヶ月頃になると、ヒトの顔は微妙な違いでも識別できるのですが、サルの顔は「サル」とひとまとまりでしか認識できないようになるそうです。

 

この二つの実験から見えてくるところは「視覚野」と「聴覚野」の臨界期の開始時期を示しているのと同時に、赤ちゃんの脳が生きていく上で、本人にとって不要な能力をどんどん捨てていっていることが見えてきます。

 

つまり、言語野においては「L」と「R」の発音の聞き分けは日本環境の場合は必要ないので、その能力は消失していくと言います。しかし、この実験だけをみて「6か月前に英語を始めないとネイティブになれない」と言っているわけではなく、大人になってから聞き分けられる科学的なトレーニング方法もあると言われています。視覚野においても、人間の社会で生きていくうえでは、ヒトの顔が見分けられることが優先されます。そのため、サルの顔の区別する能力は失われていくのではないかといわれいます。

 

このことから「臨界期」とは本来生物にとって「生物が環境に適応するために脳が柔らかい状態で生まれ、それぞれの環境に合わせて生きていけるように脳の機能を柔軟に作り変え、それを定着させることのできる時期」のことです。つまり、「環境に合わせて生きていける」ために重要な時期なのです。臨界期は、算数や英語といった知能を強化することのみに与えられた「教育的効果の高い時期」という狭い範囲でとらえられる時期でもないのです。

 

こういった脳の発達から見るといかにその時期において必要とされる環境が大切かということが分かります。そして、子どもたちに「適した環境」とはなんなのかということを考える視点が求められているように思います。臨界期は様々な刺激があることで学ぶことも多いのは確かです。しかし、それは「知的」や「認知」といった偏ったものだけではなく、その他にも多く学ぶことも多いのです。このことをしっかりと理解した上で保育も考えていくべきなのでしょうね。

動物実験から見えるもの

小西氏はつぎに「刺激の有無が生物の生育にどのような影響を与えるか」を調べた二つの実験を紹介しています。その一つ目が、D・H・ヒューベルとT・N・ヴィ―ゼル(共にノーベル医学・生物学賞受賞)が行った仔猫の実験です。これは生まれたばかりの仔猫の片目を完全に遮断し、数週間そのままにしておくとどうなるのかという実験です。結果としては、仔猫の遮断された側の目は普通に開けることができても、目に映ったものが何であるかを認識する機能は失われていました。生後間もない時期に脳に適切な刺激が与えられなかったために、脳の視覚野が発達できなかったのです。

 

次に、心理学者グリーノーらによる豊かな刺激と貧しい刺激に関するラットの実験です。遺伝的に同じラットの子どもを2つのグループに分け、一方にはえさや水だけの環境を、もう一方には餌や水だけでなく、広い場所と様々な玩具などを備えた豊かな環境を与えました。つまり、前者は刺激が少なく、後者は刺激の多い環境で育てたのです。すると、成長したラットの脳には、はっきりとした差が出ることが分かりました。豊かな環境に置かれたラットの脳の方が、そうではないラットに比べて重く、シナプスの数もずっと多かったのです。しかも、それだけではなく、迷路を使った実験でも、豊かな環境で育てられたラットの方がいい成績を収めたのです。

 

では、この2つの実験はどういったことを示しているのでしょうか。まず、1つ目の仔猫の実験です。この実験の示すものは、「生後間もない時期に適切な刺激が与えられないと、使われない脳の神経細胞が退化してしまう」ことを意味しています。しかし、これも「オオカミ少女」の話と同じで、刺激の遮断という極端な状況を設定した実験であり、これを持って学習の時期を限定した早期教育が必要、というのは飛躍しすぎていると小西氏は言っています。

 

後者のラットの実験はというと、これを人間に当てはめると「より刺激の多い豊かな環境に乳幼児を置いたほうが、脳が発達する」といえるように思います。しかし、ここには大きな問題があると小西氏は言っています。このとき実験に使われたラットは日齢(生後)21~24日で、その後30日間異なる環境で育てられた後、日齢50日で解剖が行われています。これは何を意味するかというとラットは通常日齢45日で繁殖が可能になります。つまり、この実験で使われたラットの日齢50日というと、乳幼児期ではなく、少年期から成人するまでの期間にあたるといえるのです。そのため、後にグリーノーは、1歳(ラットとしては老年にあたる)のラットで同様の実験を行います。するとやはりシナプスの数に差が出たのです。このように動物実験においては、時期の設定が人間とは違うので注意が必要です。この実験からは成育環境と脳の発達の関係を見る上では意味があっても、乳幼児期の脳への影響を考えるには不適当ではないかというのです。

 

動物を使った実験というのは、確かに実験としては様々なことが見えてきます。しかし、その受け取り方をしっかりと分析し読み取らなければ、勘違いされた解釈になりかねません。特に時期を限定する(たとえば、今回では乳幼児)とするものであればなおのこと気を付けなければいけません。ただ、今回の実験では脳と環境というのは何らかの因果関係があることが分かってきました。そして、刺激があることで脳に影響が出てくるということも見えてきました。

 

次に、小西氏は実際に人間の赤ちゃんを使った認知能力の高さを示す実験を紹介します。

適切な環境と刺激

小西氏は乳幼児位の環境において「適切な刺激」が必要だと言っています。では、なぜそもそも「臨界期」が乳幼児期にあるのでしょうか。これは生物が環境に適応していくために必要なものだからそうです。たとえば、赤ちゃんは日本に生まれたら日本語を学びます。そして、日本の社会ルールを学び、1人の人間として社会に適応して生きていきます。こういった生まれた環境に適応するための高度な能力が「臨界期」なのです。

 

小西氏は著書の中で、人間の発達に適切な環境が不可欠であることを物語る出来事を紹介しています。その一つが有名な「オオカミ少女」の話です。これは1920年孤児院を運営していたシング牧師夫妻が、伝道旅行の途中、原住民族から奇妙な化物の話を聞きます。調査をしていくと、オオカミの洞窟から手足身体は人間で、肩や胸まで髪が覆いつくし、鋭い目つきをした不思議な生き物を見つけます。シング夫妻は彼らが人間の子どもであると見抜くと、自分たちで引き取って、育てることにしました。このとき推定年齢が1歳半のアマラ、もう一人は8歳のカマラです。

 

発見当時、8歳だったカマラは、最初は乳と肉しか摂取しなかったのですが、次第にビスケットやケーキを口にするようになりました。四つん這いで歩いていた歩行も立膝になり、ついには二足歩行ができるまでになります。また、当初は人間社会から自由になろうと抵抗を示しましたが、それができないとわかると受容し、最後には人間的な関わりに好感を持つようになったと言います。しかし、アマラトカマラはシング夫妻の献身的養育にも関わらず、アマラは発見からわずか1年ほど、カマラは9年後に病気で死んでしまいます。

 

シング氏は、著書「狼に育てられた子――カマラとアマラの養育日記」の「遺伝と環境」と題した結論で、「カマラのばあいには、狼の環境の影響がおよそ万能といえるほどで、動物たちの手足と同じようになった彼女の肢体を、人間的生活に必要なように修正し、発達させることさえできなくしたということが、あっきりと立証されている」と言っています。シング氏は乳幼児期に与えられた狼の環境がカマラの人間としての発達を止めてしまったと述べています。この一件により、乳幼児期に発達を阻害する環境に置くことの怖さ、発達を促進させる外的な刺激の重要性が広く認識される一つのきっかけとなったのです。

 

小西氏はただ、この事例は社会的な接触の完全な遮断という極端な事例であり、これを早期教育の重要性に結びつけるのはいささか無理があると言っています。ただ、確実に乳幼児期において、環境の影響というのは大きいことであると思います。以前、私がいた園でもネグレクトの子どもがいました。園にもなかなか来れず、職員の母親に対する働きかけにより、幼児に上がるにつれて、徐々に保育園に来る機会が増えていきました。幼児に上がるにつれて、声を出したり、表情を変えたり、人と関わることが徐々に出てきましたが、知能は5歳の時点で、1歳児と知能障害が出ていたのは間違いありませんでした。ただ、集団の中に入ったことで、急に語彙が増えたり、関わりが増えたことを見ると、心理士の先生が言うには「もともと、知能的なハンデがあったかもしれないが、集団に入る環境にいる時期がもっと早かったら、こういった障害が重くなることはなかったかもしれない」と言っていました。私もそう思います。まさに、環境が適切ではなかったことが発達にも大きな影響を与えるということを知る機会になったのを覚えています。

 

そう考えると、アマラとカマラのように狼に育てられるといった環境はないにしても、刺激がほとんどなく、発達を阻害するという環境が今の時代はないとは言い切れないのかもしれません。

脳の臨界期と刺激

赤ちゃん学会の故 小西行郎氏は脳の臨界期には乳幼児期の脳の発達の仕組みが大きく関わっていると言います。では、その脳はどのように発達していくのでしょうか。小西氏は「簡単に説明すると、人間の脳は、胎児期に脳のもととなる神経板や神経管、神経芽細胞というものができ、それが大脳や小脳、延髄などに分かれて成長していきます。その後、脳の中に神経細胞(ニューロン)が発生して数が増え、他の神経細胞と結合するようになります」と言っています。そして、「脳の中にできた神経細胞が他の神経細胞と結合するときに“シナプス”と呼ばれる部分を介して刺激(情報)を伝達し合います。シナプスを介した神経細胞同士の連携、つまり脳の神経回路(ネットワーク)づくりが、いわゆる“脳の発達”と呼ばれるものです」そして、このニューロンのあたりのシナプスの数は、たとえば、人間の視覚機能をつかさどる脳の部位(視覚部)であれば、生後8か月ごろにピークに達します。そして、その後、どんどん消えて3歳頃には大人と同じ数になります。

 

面白いのは脳の発達は赤ちゃんのときにピークになるのですね。これは一見非効率ではあるのですが、ネットワークづくりの過程でシナプスが必要以上に多く増えるのは、脳の中枢神経に何らかのダメージが発達した場合、ダメージを受けたシナプスなどの代わりをする予備の役目を果たすためだそうです。では、なぜ減っていくのか。それは遺伝的な要因ももちろんありますが、その時点で使われていない不要なシナプスが整理されるためではないかと考えられているそうなのです。このように整理されることで、無駄のない効率的なネットワークがつくられていくのです。このことをシナプスの「過形成」と「刈り込み」と呼びます。

 

このようなことを受けて、早期教育肯定派の人たちは、このシナプスの数が最大になる乳幼児期にたくさんの刺激を与えて、色々な才能を伸ばしましょう(たくさんのネットワークを作りましょう)という解釈になるのではないかと小西氏は言っています。しかし、これは大きな誤解を生むと小西氏は言っています。それは脳のメカニズムや「臨界期」の関係はまだまだ研究が進められているところで、実はまだわかっていないのが現状なのです。そして、シナプスの話で言うと、20歳くらいまでシナプスの数が増え続ける脳の部位もあり、一概に乳幼児期でピークになるわけでもないそうです。逆に刈り込みがうまくいかないで、シナプスの数が多いままであるとADHD(注意欠陥多動性障害)の原因になるのではないかという研究もあります。

 

実際、このことで、一時期赤ちゃんが前を向く抱っこ紐が注目されたときもありました逆に刺激が強すぎるがゆえに子どもが落ち着かなくなったということで無くなったということも言われています。一概に刺激があり、シナプスの数が多ければいいというわけでもなく、大切なのは「適切な刺激」をあたえ、シナプスの刈り込みを適切に起こすことが重要なのでしょう。小西氏も「乳幼児期の脳に刺激が不要と言いたいのではありません」としてます。そして、「過度な刺激は科学的な裏付けがされていないだけに、その効果や安全性を保障できるものではない」というのです。

早期教育とは

脳科学の発達により、子どもたちの保育環境や早期教育においても、考え方は変わってきています。声高に子どもの早期教育について「売り」にしている幼稚園や保育園がいまだある中、では、実際子どもたちにおける早期教育がどのように子どもたちに影響が出るのか。子どもたちの頭の中でどのようなことが起きているのでしょうか。「最近の早期教育の特徴は、子どもの“脳”のみでとらえる論調にある」と小西行郎氏は言っています。彼は、日本の小児科医であり、保育学者であり、2001年に日本赤ちゃん学会を創設しました。惜しまれるも2019年にお亡くなりになられました。

 

そんな小西氏はこの「脳」のみでとらえる論調は子どもを「勉強ができる・できない」で判断する偏った見方を促し、結果的に子どもから“子どもらしさ”を奪うことになるのではないかと言っています。確かに日本ではまだまだ学歴というものは根強くありますし、「何をまなんだ」か「何をまなびたいか」よりも、どこの学校を出たかは未だ注目されます。そのため、勉強の目的においても、「学びたい」と意欲のあるものではなく「成績」が重視されるところが多くあるのかもしれません。結果的に小西氏が言うような「“子どもらしさ”を奪うことになる」というのでは、果たして子どもたちは「豊かな人生」を送れるということになるのでしょうか。

 

日本においては、早期教育はどういった捉えられ方をしているのでしょうか。小西氏は早期教育は「三歳児神話」と相まって、一種のブームといえる状況にあると言っています。現在ではこれまでの「天才児を育てる」と謳って、スピードを競って集中力や記憶力を高めることに重点を置いた早期教育だけでなく、キャラクターを使い、ゲーム感覚で子どもの判断力、思考力、創造性を養うことを目的とした塾や教材も増えてきていると言います。小西氏はこういったものに保護者がこぞって早期教育への意欲を見せる様子に「乳幼児の子育てはもはや“育児”ではなく、いかに頭のよい子ども、勉強のできる子どもを育てるかが目的になっているとさえ感じられます」と言っています。とかく、共通しているのは「育脳」をキーワードにした教材や塾が多いのです。

 

こういった早期教育において、切っても切り離せない関係にあるのが、「臨界期」という考え方です。小西氏はこの「臨界期」は「簡単に言えば、生き物の発達過程において、ある時期を過ぎると、ある行動の学習が成り立たなくなる限界の時期」のことを指すと言っています。この概念は、ノーベル医学・生物学賞を受賞した動物学者コンラート・ローレンツ博士の「刷り込み=インプレインティング」理論にさかのぼります。「刷り込み」とはふ化直後のハイイロガン(雁の一種)の雛が最初に見た動くものを母親だともってついて歩くという習性のことで、孵化直後の一定期間しか起きないことを指します。この一定の期間が「臨界期」に該当するという考えです。

 

この「臨界期」は、乳幼児期の脳の発達の仕組みが大きく関わっています。