乳幼児教育

共に学ぶ

アンドレアス氏はこれまでの自制心や自己効力感などの能力を養うことについて、こう言っています。「私たちはまた、個人の成績に加え、協同する方法を教えたり、協同を評価することをもっと考える必要がある。今日の学校の生徒は通常、個別に学習し、学年末にはテストを受け、個々の成績を認定される。しかし、世界がより相互依存になるほど、より効果的な共同相手が必要となる。今日のイノベーションとは、個人が単独で働いた産物ではなく、知識を結集し、共有し、結び付けた成果である」といっています。

 

これからの時代は個々の成果だけではなく、協同するスキルが重要になってくるというのです。何度もその理由に上がってきますが、これからの時代はよりグローバルであり、さまざまな人との関わりが必要になってきます。そして、そこでの文化や環境の理解、価値観を調整する力が必要になってくるのです。

 

アンドレアス氏は生徒のエージェンシーの育成が必要であると言っています。この生徒のエージェンシーとは「自ら考え、主体的に行動して、責任を持って社会に参画し、社会を変革していく力」のことを指しています。こういった能力を育成するためには、教員は生徒の個性だけではなく、学習に影響を及ぼす教員、仲間、家族、コミュニティのより幅広い関係を認識する必要があると言っています。そして、その中心には「共同エージェンシー」があり、これは生徒の成長を支援する、双方向で相互支援的な関係です。この「相互」というのが重要であり、生徒だけではなく、教員、学校管理者、保護者や地域社会の誰もが学習者であり、子どもたちと共に学ぶという姿勢が求められるのです。

 

以前、自分の働いていた保育園では「自分は子ども(園児)たちに保育士として育てられた」というのが口癖でありました。子どもたちは御するものではなく、子どもたちから学ぶ対象だったのです。よく「子どもたちはこんなことできる」という宣伝文句を聞いたりすることがありましたが、私にとっては「子どもたちだけでこんなこともできる」ということに驚かされることが多いのです。また、以前、私が中学の教育実習に行ったときにその頃の担当教員が、ゆとり教育について生徒にある国を調べるといったときに「その国を知らない生徒に教えようがない」と言っていたのです。そのころは「そういったものなのだろう」と感じていたのですが、今思えば、それはチャンスであったのかもしれません。子どもたちと一緒に世界地図や地球儀を取り出し、一緒に場所をしらべ、そこからインターネットなどで情報を調べることもできたはずです。しかし、ここで重要なのは学校現場では単元があり、時間を使っていられないということもあったのかもしれません。いずれにしても、子どもたちの興味のあることに「調べ込む」時間がとれない現場としての悩みはあるように思います。であるならば、乳幼児期のまだ、それほどまで単元などの縛りの無い中で「遊び込む」ことや「~込む」といった環境を多く用意しておくことはこれからの時代とても重要な意味を成すのではないかと思います。

これから必要なスキルの共通点

これからの新しい時代に通じるスキルは多角的に分析し、評価し、知識を構築することだとアンドレアス氏は言っています。そして、今後の問題解決においては、二者択一または単一の解決策はめったにないとも言っています。個人は、相互のつながりを意識した、より包括的な方法で考える必要があるのです。

 

では、このように新規性、変化、多様性そして、曖昧さに対処するにはどうしたらいいのでしょうか。それには「ひとり一人が自分自身のために考えられる」ことが前提だとアンドレアス氏は言っています。「問題解決における創造性は、自身の行動が招くのであろう未来を予測し、リスクと期待成果を評価し、自身が引き起こす結果に対する説明責任を負う能力を必要とします。」といいます。これは自身の経験、個人的や社会的な目標に照らし合わせて行動を熟慮し、評価する責任感、道徳的かつ知的な成熟でもあります。そして、特定の状況における善か悪、良いか悪いかの認識と評価は、倫理的なものです。

 

それは「私はなにをするべきか」「私はそれをする権利があったのか?」「限界はどこか?」「結果を踏まえても私はそれをしたほうがよかったのか?」というような規範や価値、意味や制約に関する質問を意味します。これらの中心にあるのは、自制心、自己効力感、責任、問題解決、適応能力を含む自己調整の概念である。発達神経科学の進歩は、思春期の可塑性の第二の爆発が起こり、特に可塑性の脳領域および系統が自己調整の発達に関わることを示している。

 

つまり、その頃の生徒たちには特にこういったスキルが必要になってくるというのです。よくよく見ていくと「自制心、自己効力感、責任、問題解決、適応能力を含む自己調整の概念」とアンドレアス氏が言っているのは、以前、森口佑介氏の著書の中にも出てきた「非認知的能力」であるということが分かります。つまり、アンドレアス氏においても、今後の社会において、重要となってくるスキルは非認知的能力であるということが伺えます。このスキルを土台として、知識を蓄えることで、イノベーションと持続性を生み、評価し、新たな知識の構築になると言えるのです。

 

そして、保育においては、以前の森口氏の著書でもあったように、乳幼児期の教育が非常に思春期に永起用すると言われていました。それと同時に、乳児の頃かラ子どもたちの関わる力であったり、非認知能力と言われる力が養われていくということで、学校休育のみならず、乳幼児教育にこそ、より重要点があるのではないかと私は思っています。

高等専門学校と教科横断

アンドレアス氏は「イノベーションと問題解決には、異質なものを組み合わせ、つなぎ合わせ、今までにない想定外のものを想像することが重要である」と言っています。そして、そのためには「オープンマインド、今まで関係なかったアイデアの結合を含み、さまざまな分野に精通していることも必要なことだ」と言っています。それは一つの事柄について学んでいるだけではつく力ではありません。総合的な分野の知識も知っておき、なおかつ、関連付ける力も必要になってくるのです。そうすることで独創的なスキルが得られることになるというのです。では、そういった力をつけるにはどうしたらいいのでしょうか。PISAはそのために、生徒が学校の教科の枠組みを超えて考えることが必要だと考えていました。しかし、実際に教科横断的な課題を解決することの困難さが見えてきたのです。

 

そういった教育の実現はできないのでしょうか。アンドレアス氏は「それでもいくつかの国では、教科横断的な能力を育成しようとしている」と言っています。その例として、日本の国立高等専門学校機構(高専機構)を挙げています。2018年にアンドレアス氏は高等専門学校の東京キャンパスを視察したそうです。そこでは実践的で協働的なプロジェクト学習が多いため、一見するとキャンパスは専門学校のように見えたそうです。しかし、高専は別物だといいます。アンドレアス氏は「全国51の高専は実際には日本で最も精選された高校やカレッジの一つであり、そのカリキュラムは技術や科学と同じくらい一般教養も重視している。卒業生の約40%は、大学に進学して学び続ける。高専から直接就職する生徒は、日本で最も引く手あまたのイノベーターやエンジニアとして平均で一人当たり20件もの旧人を得ている」といいます。

 

では、その高専の特徴はどういったところにあるのでしょうか。それは「教室での学習と実践的なプロジェクト学習のユニークな一体」であると言います。そこでは学習は教科横断的かつ学生中心であり、教員は大荷コーチやメンターの役割を担っているのです。それは世界中の学校で流行しているような、人為的な1週間のプログラムでは無く、生徒のアイデアを発展させ、実現するために数年間を掛けてプロジェクトに取り組むような形になっているそうです。このような彼らの実践の成果はお蔵入りにならず、日本発のイノベーションの一つとしてインキュベーター(起業を支援するもの)の支援により商品化されることも珍しくないのです。このようなプロジェクト学習は最近になって注目されているが、高専では1960年代からすでに実施されているのです。

 

では、その他の学校ではどうだったかというと、1990年代後半には日本では総合的学習の時間によって、教科横断的な学習を導入しようとしたが、教育現場での実践には十分に組み込まれず、テストで教科ごとの知識を重視する中等教育では、その影響は限られました。

 

「関連付ける力」というのは今の時代重要視されているようです。しかし、「教科」として分かれてしまうと、なかなか総合的な教科としてはできにくいのかもしれません。保育においても「5領域」がありますが、見ているとどうも切り分けて考えられることも多いように思います。しかし、それらの力は総合的であり、密接に関わっています。

教育システムの再構築

これからの仕事は、人工知能と人間の社会情動的スキル、態度、価値観を結びつけるものに変わってくると言われています。そして、人工知能を利用し、新しい価値観を生み出せるようにしていくことが求められます。こういった社会に求められるスキルが変わってくると教育で施される知識も変わってきます。

 

生徒にとっては有効期限が限られた内容を習得する(知識の習得)のではなく、学問分野の構造的および概念的な基礎を理解すること(方法論の習得)が重要になる。たとえば、数学では、私たちが数学を学ぶ方法と理由を知り(認識論的信念)、数学者のように考え(認識論的理解)、数学に関連する実践を把握(方法論的知識)する必要があるというのです。つまり、ただ、知識として学習するのではなく、「なぜ、何を、何に使うために」ということを学ぶことが必要だというのです。これは数学に限った話だけではなく、他教科にも通じることであり、教育の本質ではないかと思います。

 

「2015年のPISAの科学的リテラシーは知識と理解を重視し、例えば科学において生徒が知っていることだけではなく、科学者のように考えることができるかどうか、科学的思考を重視するかどうかを重視した」とアンドレアス氏は言っています。しかし、その結果は各国によって、そして地域内でさえも著しく違っていることが見えてきました。台湾の生徒は科学的リテラシーで最も優れた成績を残したが、相対的に見れば、科学者のように考えることよりも科学的な知識を再現することが得意であった。一方でシンガポールでは、知識においては台湾と同程度だったが、知識よりも科学者のように考えることが求められる問題でさらに優れていた。オーストリアでは、科学的な概念を理解するよりも科学的な事実の知識において優れていた。フランスでは逆に概念的な知識が優れていた。

 

このように科学的リテラシーとして同じように成績が優れて、似たような国においても、教育政策と教育実践が生徒の学習成果に違いをもたらすのが分かってきたのです。この結果を受けて、政策立案者や教育者は、概念や認識の深い学びに重点を置くようにカリキュラムや教育システムを再構築することが期待されます。

 

単に成績を上げるだけでは、深い学びには伝わっていきません。その教科がどういった意味があり、どのような学びが社会にとって必要とされるのか。アンドレアス氏がいう構造的で概念的な基礎的な学びとはどういったものであるのか。こういった中心となる学びの本質をとらえたうえで、教育も進めていかなければいけないのであって、保育はその入り口であります。とすれば、もっと本質的に学びにつながる姿勢を作っていかなければいけない時代を預かることになります。だから、主体的に遊ぶことや遊び込む環境が必要になってくるのでしょうね。

社会関係資本

アンドレアス氏は「社会経済の世界では、質問は公平性と包摂性をもたらす」と言っています。この「質問」という文脈が私は少しわかりにくく感じましたが、「疑問」という言葉に読替えると理解しやすいように思います。つまり、常に疑問を持って社会経済を見ていくことで、公平性をもたせる必要性と包摂性(弱い立場のある人々も含め、市民一人ひとりが社会の一員として、支え合うこと)をもたらすということができるようになるというのです。

 

そして、私たちは経験、文化的規範、共通の目的又は職業を共有する家族や他の人々への帰属感といった「接続型社会関係資本」と呼ばれるものを持って生まれる。しかし、これからの社会経済において経験、アイデア、イノベーションを共有し、多様な経験と関心を持つ集団間で共通理解を築き、見知らぬ人や機関に信頼を広げていく「橋渡し型社会関係資本」を作り出すためには計画的で継続的な努力が必要であると言っています。

 

これからの時代においては多様性を持たせる社会や持続可能な社会ということが言われています。こういった社会のために「橋渡し型社会関係資本」を作り出す必要があるというのです。このような社会関係資本の橋渡しと多元性を尊重する社会は、どこからでも最高の才能を集め、多様な視点を積み重ね、創造性とイノベーションを育むことができるようになるため、常に創造的なのです。現在、様々な技術革新が起きている中で、世界的に有名が企業の多くは多様性が尊重されているように思います。偏見をなくし、それぞれの才能が尊重される社会であれば、より一層の発展した社会がもたらされるのは想像に難くありません。しかし。アンドレアス氏は多元性と多様性という価値観への幻滅が広がっていると言っています。このことは「内向き」のポピュリスト政党の登場を含む、政治的な状況からみられるというのです。最近でも、アメリカの大統領が変わりましたが、人種差別問題がやはりあがっていました。また、アメリカの経済の発展のためだけがクローズアップされ、他国との協調というところは重視されない背景が見えてきました。しかし、これは驚くべきではないとアンドレアス氏は言っています。

 

世界経済が一体感を増すことで全体的な生活水準は大幅に改善されたが、知識とスキルが高い人と低い人との間で仕事の質の格差を広げたというのです。OECDの国際成人力調査によると、OECD加盟国には10歳の子ども相当の読解力のような最も基礎的なスキルを持たない労働者は2億人以上もいるようです。まだまだ、世界では教育は包摂性といった課題からは逃れられていないのです。日本においても、この教育格差というのは問題にあがることがよくあります。

 

そこには社会関係資本のあり方に問題があるのではないだろうかとアンドレアス氏は言っています。社会関係資本が弱まり、市民社会が繁栄するための必要条件が損なわれることで共同体に不平等が生まれます。多くの人は普通に豊かに生活する人生を送る一方では、戦争による移民や生活困窮によって豊かな国に移民しようとするといった、何百人もの人々が生活環境の変化に苦闘しています。その状況は現在の生活の変化に怒りを感じ、混乱させられ、自分たちが誰なのか、自分のいる位置はどこなのかといったアイデンティティに疑問を感じているのです。アンドレアス氏は「私たちは単純化された解決ではなく、想像力とイノベーションで機会のギャップを埋める努力が必要である。そして、共通の人間性を理解するための努力も必要である」と言っています。これからの社会において、日本も労働人口確保のために海外の労働者を受け入れていくことが予想されています。

 

つまり、日本においても社会関係資本の考え方は決して無縁の話ではないのです。そのときのために、教育や保育は備えておかなければいけないのです。