乳幼児教育

脳研究の課題

小西氏は「脳の臨界期」など脳科学の研究は慎重に取り組むべきだと言っています。そして、それには4つの課題があると言っています。ひとつめは先日紹介した「個人差の問題」赤ちゃんとひとくくりとして見ても、その姿は千差万別でありますし、睡眠量やその日の機嫌、体調によっても大きな違いが出てきます。であるから、仮に統計的に有意さがあったとしても、それがすべてとして扱うのは少し、早計なのです。

 

そして、次の問題が「動物実験の結果をそのまま当てはめられるか」ということです。結論からいうと実際のところ、動物を使った実験の結果をそのまま人間に適応するのは難しい部分があると小西氏は言います。しかも、それを人の学習や発達と結びつけるのは少し飛躍したところもあると言っています。では、なぜ、動物を使った実験を行うのか。それは人道的に不可能な環境を設定できるということと、その環境設定自体が簡単であるからなどで、人間では実験できない部分を補うためです。そのため、小西氏はラットの知能が上がったからといって、我が子と比較したり、気にしたりする必要はないと言っています。

 

次に「人の脳機能に影響を与える因子は多い」ことを挙げています。人間は、目、耳、口、手など、様々な器官からいろいろな情報を得ています。そして、複数の情報を複雑に組み合わせて日々の社会活動を営んでいます。また、こういった器官を使った、見る、聞く、触るなどの基礎的な感覚よりもさらに複雑な、思考、意識、知覚、認知、記憶、判断、意志決定、情動といった高次の機能を担う脳の仕組みがあります。これらを「高次脳機能」といいます。この高次脳機能については、分子生物学から発達神経学、生理学、医学、コンピューター工学、脳科学など様々な自然科学、人文科学の研究者が研究しています。そして、その高次脳機能に関して、人間は相手の情報を、言葉のような直接的な意味だけではなく、仕草、表情、服装、耳で聞いた声色などを複合的に見て判断を行っています。このように複数の機能を使っていることに対して、特定の機能と脳のある部分との関係性だけを見て「臨界期」において学習効果が上がるのを論じても無理があるのではないかというのです。

 

最後に「脳の機能的イメージングは万能ではない」ということです。たとえば、脳の活動を見るために以前、森口佑介氏の著書でも出てきましたが、fMRI(機能的磁気共鳴描画)を使います。これは人が例えば、手指や足指、舌にブラシでこするといった刺激を与えたとき、脳の部位がどのように活性化するかをfMRIで捉え、活動の様子を観測するというものです。こういった装置を使って脳の活動状態を観測することを「機能的イメージング」というのですが、この機能ができたことで、脳測定の技術が飛躍的に進歩しました。しかし、この方法も、デメリットがあり、脳波や脳磁場計測は空間把握が苦手であり、fMRIなどは空間解像には優れても時間の分解能が劣るのです。そのため、この方法はいくつかの方法を組み合わせて使うことが現状です。結局のところ、脳の機能的イメージング研究は、赤ちゃんや子どもを実際に「見る」こととセットで行うのがより望ましいものになると小西氏は考えています。

 

当然、様々な研究が意味のないものであるかというとそうではありません。しかし、それらの研究の結果がすべてではないということは現場としても重々承知していなければいけないことなのだろうと思います。そのうえで、こういった研究の結果と、実際の子どもの様子とをすり合わせていく必要があるのです。この項で小西氏は「脳機能と赤ちゃんや子どもの発達を長期的に見て、初めて脳のメカニズムは検証可能といえるのではないでしょうか」と言っています。保育においても、まだまだ取り組まなければいけないことは多くあるように思います。

脳科学研究と課題

子どもの脳の臨界期における議論は何も日本だけでおきているわけではありません。1997年アメリカのヒラリー・クリントン大統領夫人(当時)が「子どもの脳をうまく発達させるための教育」というシンポジウムを開催しました。ほかにも2002年パリで行われたOECDの基調講演では、ローラ・ブッシュ大統領夫人が、フォーラムのテーマ「安全」「平等」「教育」「成長」はどれも重要としつつ、「『教育』がすべての要である」と述べました。こういった発言をうけて、ヨーロッパなどの先進国では、「教育」への関心が急速に高まり、特「脳科学と教育」への取り組みが一層強化されることになります。また、日本でもニューズウィーク日本語版で「脳科学」の特集が立て続けに起きたことにより、日本でも「脳科学」に関心が深まってきました。

 

こういった流れを受け、文部科学省は「脳科学と教育」研究がスタートすることになります。これは脳科学者や教育関係者、医者、心理学者などが集まり、日本の子どもの発達を科学的に調査・研究する検討会が立ち上がります。そして、その中に今回紹介している小西行郎氏も入っているのです。その研究の中では、まだまだ脳科学というものの取り組みは慎重であるべきだとの一定の答えが出ていたようです。というのも、これはこれまででも紹介した通り、「臨界期」を単に「教育的効果の高い時期」と捉えられるのは危険だからといった考えだからです。特に、私がこれらの研究の中で重要だと思う視点においては「子どもたちをよくするということだけでなく、子どもをより理解するということがまずあるべきだ」という視点です。あまりにも、「子どものために」という視点で子どもを一緒くたにしてみることは危険なように思います。それぞれの子どもにはそれぞれの子どもの人格はあるわけです。それを一つの入れ物のように扱うことの危険性はあるように思います。一つのレッテルを貼って子どもを見るという危険性は確かにあるのかもしれません。

 

これは脳科学の研究における4つの課題にも上げられます。その一つ目の課題が「個人差をどう扱うか」というものです。科学の比較実験において、「有意差」というものがあります。実験においては簡単に言うと「間違う確率が5%以下であれば統計学的には有意である」という考え方です。誤差が5%以下であれば、その結果は有意な結果であるというのです。しかし、小西氏は赤ちゃんを研究する場合、「有意差の有無」だけで片付けていいのかと問題があるというのです。なぜなら、人間の赤ちゃんの場合、「個人差」や「個人の中での差」が顕著に表れるからです。それは実験時の体調や時間帯、睡眠状態、お腹の好き具合、機嫌によっても左右されます。毎回単一の結果が出るとは限らないのです。つまり、そういった様々な環境においての結果は不安定なものであるという前提があるのです。

 

ほかにも小西氏は赤ちゃん研究においての課題を挙げています。

臨界期と本当に必要なこと

澤口氏は子どもにとって脳科学の観点から育児環境において刺激のあるものに影響が出てくるということを言っています。これは「臨界期」に早期教育が必要だという風に捉えられるように見えます。しかし、澤口氏はこういった赤ちゃんにおける育児環境に影響があるという一方で、子どもが「得意とする知性」を発見し、「熱中することや喜ぶことをさせる」ことが大切であり、そうでないなら「英才教育などしない方がマシなくらいだ」とも言っています。また、「IQ偏重の英才教育」は無意味で、「幼児教育の『基本』は多重知性(ガードナーの多重知性理論をもとに澤口さんが提唱する、人類が持つ基本的な8つの知性のこと)の各々をまんべんなく育てることにある」とも言っています。そして、「特定の知性を英才教育で伸ばすことも考えるべき」とも言っています。このことから見ても澤口氏はどうやら、「絶対音感」や「ネイティブのような英語力」を育てるような早期教育の重要性を単純に説いているというわけではないことが分かります。

 

しかし、澤口氏の発言や仔猫の実験やラットの実験は子の教育において非常に衝撃的であり、「臨界期」がどういったものであるかということよりも、都合のいい部分だけが独り歩きしてしまっているのです。そして、一番問題なのは子ども自身がそれを望んでいるのかということです。澤口氏もいうように「得意とする知性」や「熱中することや喜ぶことをさせる」ということが根底になりと、それはただの作業となってしまい。意欲のある活動にはつながらない。このことも澤口氏は言っています。

 

小西氏は「科学者から『臨界期』についての研究が発表され、その『学習効果』が伝えられたために、子どもそっちのけで様々な議論が起こり、今日に至っているのではないでしょうか」と言っています。大人の親心が子どもたちにとって「余計なお世話」になることの危険性はこれまででも話の中に上がってきました。親が思う環境と子どもが望んでいる環境とは違いがあるのかもしれません。そのため子どもを「見守る」という姿勢は非常に重要な要素をはらんでいるように思います。

 

「教育」や「保育」というものも、それは例外ではなく、「教えなければいけない」と大人が思うものと子どもが「知りたい」と思うものが違う場合があります。「教えなければいけない」内容が多くなるがゆえに「勉強嫌い」の子どもを量産しているようでは何にもならないのです。そして、それは同時に「自分が知りたいもの」を探す力すら奪っているように最近は感じます。大人が子どもたちに対して「楽しませる」ことが多くなり、子どもたちが「楽しむ」ことを受動的になっている時代にもなっているように思います。工夫をすることをしなくてもいい時代になってきているように思います。

 

これからの時代は自分たちで新しい価値観や概念を生み出すことが求められる時代です。そんな時代に大人はどのような環境を子どもたちに用意することができるのでしょうか。そのためにも、様々な研究やデータをただ鵜呑みにするだけではなく、あくまで目の前の子どもたちを中心に研究やデータを当てはめて考えていく姿勢が求められるように思います。

脳と環境

小西氏は「『臨界期』を、『教育的効果の高い時期』といった狭い範囲でとらえているように感じられる」と言っています。これにはいくつかの誇張された情報が原因であることも言えるようです。

 

たとえば、北海道大学の澤口俊之さんは「幼児教育と脳」(文春新書)の中で早期教育(著書では「幼児脳教育」)の必要性を説いています。この澤口さんは最近では様々なテレビ番組でもよく出演されていますし、知っている人もいるだろうと思います。彼は「音楽的知性を育てるには、それ相応の適切な環境が必要である、良質な音楽を(0歳児のころから)絶えず聞かせるといった環境である。楽器を演奏することも大切だ。このようにすればいわゆる『絶対音感』も獲得することができる」といっています。ほかにも、「赤ん坊でも良質の絵画に囲まれれば、ピカソもモネも理解しその影響は脳内に刻まれるはずだ」「仮にあるスポーツの優秀な選手に育てたいなら、幼少期(0~8歳、遅くとも12歳まで・筆者注)において、そのスポーツの少なくとも基礎はきちんと教えるべきだ」「もし、『真の』マルチリンガルに育てたいなら、幼少期に母国語の他に外国語の環境にさらすことが必須となる。もちろん、ネイティブの外国語環境である、英語なら、ネイティブ英語を話す人が身近にいることがベターだ」とも話しています。つまり、様々なことにおいて、脳にとっては臨界期までに早期教育的な環境に置いたほうが良いというようなことを言っています。

 

確かに、「オオカミ少女」や仔猫の実験のように、極端な刺激の遮断は脳の発達障害を招くことになります。しかし、最低限どういう刺激がどれだけあれば脳が正常に発達するかはまだわかっていないと小西氏は言います。ましてや、早期教育によって子どもの能力を伸ばすのに、どういう刺激がどれだけ必要なのかもわかっていないのです。そういった中において、今始めなければいけないからと焦って、嫌がる子どもを無理やりピアノ教室や英会話脅威室に入れることにどれだけの意味があるのでしょうか。まだまだ、脳科学においても解明がなされていないということを改めて行うことの危険性があるというのです。

 

このように脳科学のアプローチの重要性は様々な視点をもたらしてくれます。正常な発達をもたらすためには適切な刺激は必要です。しかし、その一方で過度の刺激はかえって子どもたちの発達を阻害するものになりかねないと言います。ただ、こういった科学の進歩は議論を生み、大人の勝手な思い込みによる育児環境の誤った解釈を防ぐためにも、今後さらに高まってくるだろうと小西氏は言います。例えば、自閉症やアスペルガー症候群、学習障害(LD)などの発達障害においては脳科学の発展は欠かせません。しかし、「だからといって脳科学が乳幼児の行動のすべてを説明できるものではなく、子どもの発達は、その子どもを通してしか見ることができない」と小西氏は言います。

 

この言葉を現場の人間はしっかりと捉えておかなければけません。どうも、私たちはこういった研究成果を鵜呑みにしているところが多いように思います。「研究の内容に子どもをあわして」しまって、「子どもに研究を落とし込んで」いないかもしれません。

 

こういった説の中、澤口さんは先ほどの内容の一方でこういったことも言っています。

本当の意味での臨界期

小西氏は動物実験においては日齢差に問題もあり、設定するには人間とは違うということを加味した上で慎重に精査していかなければいけないと言います。では、実際人間の赤ちゃんの認知能力の高さを示す実験はどのように行われているのでしょうか。

 

紹介されているのは「言語、視覚の臨界期に関する実験」です。その一つとして「L」と「R」を聞き分ける実験があります。これはスウェーデン、アメリカ、日本の3カ国の赤ちゃんを対象に、音韻(言葉の音)の違いをどの程度認識できるかを調べました。すると、生後直後3カ国すべての赤ちゃんが「L」と「R」を聞き分けることができたのです。しかし、生後6か月になると日本の赤ちゃんにだけ「L」と「R」を区別できない子どもが多くなることが分かりました。

 

ほかにも、人間の赤ちゃんに、ヒトとサルの顔を見せて、その違いを判別させます。すると、生後6か月の赤ちゃんは、ヒトだけではなくサルの顔もそれぞれ区別します。つまり、大人には同じように見えるサルの顔の違いを一匹ずつ認識しているのです。ところが、生後9ヶ月頃になると、ヒトの顔は微妙な違いでも識別できるのですが、サルの顔は「サル」とひとまとまりでしか認識できないようになるそうです。

 

この二つの実験から見えてくるところは「視覚野」と「聴覚野」の臨界期の開始時期を示しているのと同時に、赤ちゃんの脳が生きていく上で、本人にとって不要な能力をどんどん捨てていっていることが見えてきます。

 

つまり、言語野においては「L」と「R」の発音の聞き分けは日本環境の場合は必要ないので、その能力は消失していくと言います。しかし、この実験だけをみて「6か月前に英語を始めないとネイティブになれない」と言っているわけではなく、大人になってから聞き分けられる科学的なトレーニング方法もあると言われています。視覚野においても、人間の社会で生きていくうえでは、ヒトの顔が見分けられることが優先されます。そのため、サルの顔の区別する能力は失われていくのではないかといわれいます。

 

このことから「臨界期」とは本来生物にとって「生物が環境に適応するために脳が柔らかい状態で生まれ、それぞれの環境に合わせて生きていけるように脳の機能を柔軟に作り変え、それを定着させることのできる時期」のことです。つまり、「環境に合わせて生きていける」ために重要な時期なのです。臨界期は、算数や英語といった知能を強化することのみに与えられた「教育的効果の高い時期」という狭い範囲でとらえられる時期でもないのです。

 

こういった脳の発達から見るといかにその時期において必要とされる環境が大切かということが分かります。そして、子どもたちに「適した環境」とはなんなのかということを考える視点が求められているように思います。臨界期は様々な刺激があることで学ぶことも多いのは確かです。しかし、それは「知的」や「認知」といった偏ったものだけではなく、その他にも多く学ぶことも多いのです。このことをしっかりと理解した上で保育も考えていくべきなのでしょうね。