乳幼児教育

バーチャル教材と環境

小西は乳幼児期のバーチャル教材においても疑問を投げかけています。よくある「育脳」効果のあるビデオやDVDといったものです。一方的に情報が与えられる状況というのは子どもにとってはどのような影響がおきるのでしょうか。小西氏はこのような一方的な情報は子どもが自分の触覚を使って、自ら世界を広げる力を阻害する恐れがあると言っています。

 

その他の研究においても、2003年末に開かれた「赤ちゃん学会」で理化学研究所のヘンシュ貴雄さんが紹介したもので、子どものビデオ視聴と言語に関する実験があります。実験室に集められた子どもが、ビデオを見て中国語を学ぶグループと、対話によって中国語を学ぶグループの2つに分けられました。どちらも1日30分間、週3日の学習を1カ月間続けます。一か月後、対話で中国語を学んだグループの子どもたちは、中国語の発音を区別することができましたが、ビデオだけで中国語を体験したグループの子どもたちは、殆ど中国語を認識することができなかったのです。

 

ヘンシュさんは「対話による人との接触によって、子どもの意欲が喚起されたために(対話によって学んだ子どもの方が)、発音が定着したのではないか」と考えています。そして、他者との会話は、相手の反応を見る。顔色をうかがう。同調する。反発するといったコミュニケーションの学習にも大きく貢献しています。これは言葉の学習と同時に社会性を身につけるものでもあるというのです。

 

人が言葉を学ぶなかにおいて、社会性も身につけているというのは逆を言えば、社会性を身につけるために言葉を学ぶということも言えるのかもしれません。よく言葉が遅れている障害児に対して、「言葉のシャワー」をかけてあげてほしいと言われることがありました。これは単に言葉を覚えるということだけではなく、相手の障害児に対して、「言葉を使いたい」という意欲を持たせることにもつながっているのからなのかもしれません。

 

大切なのはいかに「意欲」を持たせるのかということなのだろうと思います。一時期はやったスピードラーニングでも、やはり「聴こう」とある程度思っていなくては、リスニング力はつかないということを聞いたことがあります。「ただ聞いている」だけ、または「聴かせよう」としてもそれほど大きな効果は得られないのかもしれないのです。そこに「やりたい」という欲求や意欲がなければ、大きな効果にはならないのでしょう。ましてや、乳幼児期からこういった早期教育を施すがゆえに、親との関わりが減ったり、ヒトとの関わりを減らしていくということはより社会性を身につける機会を減らしてしまっているのかもしれません。社会性か教育かどちらが将来に必要な力となるのかよく考えなければいけないのでしょう。特に今の時代、「遊び」の種類は非常に少なくなってきていて、遊ぶ環境も限定されたものになってきているように感じます。そういった時代においては、これまで当たり前にあった環境が無くなっているということをより意識しなければいけないと思います。

外への働きかけ

赤ちゃんは手や口を使って、身体を触ったり、嘗め回したりすることで、自分がどういうものかを認識します。そして、目や耳を使って、他者や周囲の世界に興味を持ち、認識し、積極的に関わろうとしていると小西氏は話しています。このことを考えてみると、非常に興味深いのは赤ちゃんは「大人が与える刺激によって反応する」だけではなく、「自分でも積極的に世界を見ようとしている」ことです。決して「赤ちゃん」だからといって「受動的」な存在ではなく、「能動的」にも世界に関わりかけていますし、自発的に刺激の選択を市、自分の意志や興味で周囲と関わろうとしているのです。

 

赤ちゃんは保育において、「並行遊び」といわれています。関わることは少ないと言われていました。しかし、実際の現場を見ていると赤ちゃんは子ども同士でジッと見ていたり、手や足で子どもに触れています。この姿を見ていても、赤ちゃんは何かをしてもらうのを待っているだけとは思えません、。最近では、「赤ちゃんは白紙で生まれてくる」という説は否定されています。赤ちゃんは赤ちゃんなりの持っている能力をフルに生かして、世界に働きかけているのですね。

 

東京大学教授の汐見稔幸氏は、乳児期を人間の認知システムの内的な構成という視点から考えると、①世界がどうなっているか、②世界を把握するにはどうすればいいかという2つのことが作られている時期だと言っています。そのため、「乳幼児期が能動的に5官と身体を駆使して対象に働きかけ、対象からの反応を受け取りながら、対象を認識していくということが不可欠である」と述べています。

 

これをうけ、小西氏は人間は他人との相互作用によって何かを学び、成長する生き物ですから、自分から積極的に触ることも大切な発達過程の一つといえるのではないかと言っています。

 

この「相互作用」というのはよく乳児においては母親が中心になることが多くあります。確かに愛着関係というのは赤ちゃんにとっては非常に重要な関わりであり、この愛着関係があることで、安心基地となり、外の世界に向かうようになります。つまり、何かあったときに戻ってこれる場所が必要になります。そのため、親の愛着というのは非常に重要です。しかし、愛着を中心として、外に働きかけるときに他の人的環境も重要な気がします。それは祖父母といった大人でもありますし、兄弟といった子ども関係もあります。特に最近の少子高齢化社会においては子どもが少なくなり、家庭でも兄弟関係がない子どもが多くいます。

 

赤ちゃんにおいても、人との相互作用があることが見えるのを考えると、愛着関係に目を向けるのではなく、赤ちゃん同士の関係性にも大きな影響があるように思います。

赤ちゃんの能動性

現代においては環境要因による学習や体験といったものが大きな影響が出ると考えられることが多く、そのため早期教育においてもこの考えが強く反映されているのだろうということが分かります。しかし、生得的な要因も決して影響がないとは言えなく、赤ちゃん全員が同じ環境にあったからといって、必ず同じ結果が約束されるというわけでないのです。つまり、これは環境を中心とした体験や知識によって起きることではなく、生まれもった能力というものも影響があるということが見えてきます。

 

例えば、言語においてはどうでしょうか。よく言語は後天的な要素、つまり環境によって獲得されると考えられていますが、生後2か月、3ヶ月から1歳くらいまでの赤ちゃんに共通する「クーイング」(「アーアー」「ウーウー」などの発語)や「パパ」「ママ」といった最初の言語は、生得的なものといわれているそうです。確かに、こういった言葉は日本だけに限らず、海外においても全世界で共通する「言語」といえます。そして、これは「言葉の始まり」であるだけではなく、親を喜ばせ、庇護を受けるための赤ちゃんの戦略であると小西氏は言っています。つまり、こういった戦略が遺伝的にあるということを考えるとこういった言語の始まりはどの時代においても、皆同様に通る発達であるのかもしれません。

 

このこととは別に重要な生得的能力があると言います。それが「能動性」です。生後1ヶ月から3か月頃の赤ちゃんは、自分の顔を手で触ったり、指しゃぶりをしたりします。4か月頃になると手と手を合わせる仕草が、5,6か月になると自分の手を足にもっていく仕草や、グーにした手を口に無理やり入れようとする仕草が見られます。さらに、手で足を触ったり、足を口に入れたりするようになります。このような仕草は胎児期から始まってます。生後と同様、胎児は自分の顔(頭)、身体、手、そして足の順番で自分の体を触り、指しゃぶりをするのです。

 

この行動は何を意味しているのでしょうか。これは「口」や「足」を触覚器官となり、「自分の存在」を確かめているのだと小西氏は言っています。それと同じ頃、聴覚や視覚も発展させていきます。「舐める」「触る」行為は、赤ちゃんが身体で感じ取るものですが、「見る」「聞く」は赤ちゃんが自分から離れたものを認識する行為です。つまり、赤ちゃんは手や足を使って「自分の存在を確認」しているのと同時に、「目」や「耳」を使って他者や周囲の世界に興味を持ち、認識し、積極的に関わろうとしているのです。そして、発達とともに歩行が加わってくることによって、近くのものから遠くのものを認識するようになるのです。

 

このように、赤ちゃんは「自分がどのようなものか、周囲にはどんな世界が広がっているのか」を確認していきます。これが人間が社会的生き物といわれる所以であり、人間が社会性を獲得するための生得的な知恵ということになると小西氏は言っています。

 

赤ちゃんを見ていると周りをジッと見つめていたり、キョロキョロと顔を動かしている様子をよく見ます。これは赤ちゃんが外の世界を理解しようとしているからこそ起きる行動なのですね。いかに赤ちゃんが受け身である存在ではなく、能動的に世界に働きかけているのかということが観察していくとよくわかります。

英才教育の盲点

子どもの能力というものはそもそもどこから来るのでしょうか。この議論は様々言われています。遺伝的に受け継がれてきたものとして捉える「生得説」と後天的な環境因子によって培われる「学習説」といった議論は科学者の間でも長年議論の対象になっています。このことにおいて、狼に育てられた子どもを育てる経験をしたシング牧師は人間の「遺伝」と「環境」の重要さを認識する体験となりました。もし、人間が「遺伝」によって人生のすべてが決まるというのであれば、社会的向上のための努力への意義は薄れるだろうと言っています。

 

今日においては「生得説」の強調は人間の可能性に限界を加えるという側面を持つからか、「学習説」が優位に語られているように小西氏は感じると言っています。イギリスの哲学者、ジョン・ロックは、タブラ・ラサと呼ばれる「人間は生まれたときは白紙の状態である。G学習や体験によって知識は得られる」という人間観を提唱し、早期教育はこの考えを全面的に支持しています。しかし、小西氏はこのことについて「これは、人間発達の一つの側面を示しているにすぎません」と言っています。

 

そもそも、「乳幼児期から頑張れば、優秀な人間に育つ」ということ自体、正しいのでしょうか。小西氏は「学習説」は人間の多くの可能性を期待させてくれるものではあるが、「誰でもそうなのか」というとそれは一種の「幻想」ではないかと思うと言っています。

 

たとえば、前に紹介した澤口氏は、親が子どもを優秀なスポーツ選手に育てたいのなら、イチロー選手の父親の教育方針は非常に参考になると言っています。イチロー選手は乳幼児期から野球の英才教育を受けたことがその後のキャリアに大きな影響を与えたというのです。しかし、この見解は、乳幼児教育でも、教育さえすれば必ず効果が上がるという「臨界期」への誤解を招く恐れがあるのです。

 

この見解は、とても考えさせられます。確かにイチロー選手のように幼いころから子どもに野球の英才教育を施せば、第2のイチローが生まれるかもしれないという可能性は否定できません。ただ、イチロー選手の父親のようなお父さんはほかにもたくさんいたはずです。何もイチローだけが野球の英才教育を行い、イチロー選手が誕生したわけではないのです。日本中に数万人ものイチロー親子のような方はいただろうというのです。つまり、これはイチロー選手の教育子言うか以前に、本人の生得的な素質があったことも無視できないのです。このことを無視して、一つのことに的を絞った極端な教育は、他の知性とのバランスを崩す可能性があるのです。さらに、途中で挫折した場合、其れしかしていない場合、親子共に大きいであることが予想できます。ほとんど一つのことしかやってこなかった子どもは、その後、何を拠り所にして生きていけばいいのかを見失ってしまう可能性があるのです。

 

小西氏は子どもへの期待を捨てるというのではなく、生得的な要素もうまく利用していかなければいけないと言います。そうすることで人間の成長に何かしら恩恵を与えてくれるものというのです。

 

保育をしていても、活動を見ていると「去年もそうしていたから」という言葉を聞くこともあり、それを聞いたときに「今年と去年の子どもは違うのに」と感じるときがあります。なにか意図があるのであればいいのですが、ただ、繰り返すだけの保育にどういった意味があるのかと思うことがあるのです。「こうすればこうなる」というのは幻想であり、子どもたち、それぞれは違うということにあまり視点が置かれていない現状が多々あります。こういった偏った知識に「早期教育の危険」というものはあるのかもしれないですね。いったい、それは誰のためなのかということをもう少し考える必要があるのかもしれません。

大切なもの

「脳機能イメージング」が発達していく中で、ここから導かれるものは何も子どもの脳機能だけではなく、お年寄りの脳機能の老化を防ぐ効果があったということも見えてきました。これはある市と国立大学の共同プロジェクトにおいて、お年寄りに簡単な計算や音読を指せると、物事を判断する役割をもつと言われる脳の前頭前野が活性化するというものでした。そして、これはお年寄りの表情や会話、歩行においても改善されたのです。

 

しかし、これも環境における影響がないとは言い切れないようです。たとえば「見る」ということは「客観性」につながるということもありますが、「誰かから注目されること」でもあります。そして、このことが効用をもたらすこともあると小西氏は言います。たとえば、スポーツ選手においても観客がいるときといないときとではそのポテンシャルが変わるように、お年寄りの読み書き計算プロジェクトにおいても、被験者のお年寄りが普段とは違う周囲の対応や新鮮な学習に感化されることで、表情の改善や歩行の機能向上につながった可能性も否定できないのです。つまり、このことは学習によってのみ、脳機能が上昇したとは言い切れないということを示してます。こういったように「人の脳機能には影響を与える因子が多い」のです。そのため、一つの機能の有効性だけを見るのではなく、総合的に見る必要があることが見えてきます。

 

そして、この研究においては、事実的なものと、もう一つの視点が見えてくると小西氏は言います。そもそも、イメージング研究によって学習効果が見られたからといって、脳機能の老化を防ぐという目的のために、お年寄りに読み書き計算をさせることが、本当にお年寄りの幸せにつながるのかということです。小西氏は「お年寄りの役割は、長い人生で得た経験や知恵を次の世代に引き継ぐことだと私は思います。」と言っています。そのため、大切なことは「人生の先輩であるお年寄りに対し、尊敬や敬愛の念をもって接することが重要ではないでしょうか」と続けています。

 

この視点は私も同様に感じるところであります。単純に学習効果だけに期待を寄せるだけが独り歩きするのは危険なことのように思います。そもそも、そういった活動は何のためにするのか、これは教育活動や保育活動にもつながる考えです。課題や成績を上げることが幸せな人生や豊かな生活につながるのでしょうか。小西氏はこのように脳への「学習効果」に期待を寄せることに対して「学ぶことの意味や生きることへの尊敬の念が抜け落ちている気がする」と言っています。

 

子どもの保育をすることに「子どもの最善の利益」が目標に掲げられています。この「最善の利益」というのは何を指しているのかをしっかりと捉えていかなければいけません。子どもたちはこれからの社会で生きていく存在であり、社会を支えていく人材です。ただ、与えられた課題をするロボットではないのです。できれば、もっと「幸せで豊かな」人生を暮らせるようなフォローができるようなものでありたいですね。