乳幼児教育

育児不安

昨今、赤ちゃんの親の虐待や悲惨なニュースは多く見ます。また、産後うつや育児ノイローゼなども最近では多いということをよく聞きます。そして、その多くは「育児不安」が根底の問題にあるということを小西氏は言っています。それほど、今の親は育児に不安や不満を抱えているのだと言います。では、どういった育児が大切であり、幸せな育児を実現するためにはどういったことをしていけばいいのでしょうか。

 

日本労働研究機構が実施したアンケートには約40%の女性が「育児ノイローゼや産後うつではないかと思った経験がある」と言っているそうです。このアンケートの結果が出たからと言って、全員が育児ノイローゼのような神経障害やうつ病のような精神病の症状が出ているというわけではないですが、そうはいっても出産が女性の身体や心に負担をかけているというのは事実です。こういったことは産後赤ちゃんの発育もよく、周囲も協力的で、落ち込む理由がない場合で起きる人はいます。では、そうなってしまう原因というのはどういったところにあるのでしょうか。

 

こういった体調の変化においては、生活リズムの乱れが原因で起こると考えられているようです。1ヶ月検診にきた母親の多くは「自分の時間が取れない」というものが多くあるそうです。赤ちゃんの世話には息つく暇がないうえに、育児の専門家によっては「授乳や抱っこは、赤ちゃんの要求にできるだけ応えましょう」と言われることがよくあります。しかし、赤ちゃんの要求に応え続けると、今度はお母さん側に拘束感が生まれてしまうのです。

 

小西氏は「赤ちゃんとの生活は、互いのリズムやペースの違いにどう折り合いをつけていくかの繰り返しでもある。ですから、疲れているのに無理をして抱っこすることはありませんし、授乳も時には待たせて、赤ちゃんに親の気持ちを読ませるくらいでいいのだと思います」と言っています。

 

「赤ちゃんに対して、愛着関係は大切だから、お母さんはできるだけ応えてあげてほしい」このことはよく聞きますし、実際に愛着関係というものは非常に重要なものです。しかし、母親にとっても、赤ちゃんにとっても、こういったものが拘束感があり、その考えが重荷になるのであれば、もう少しおおらかに育児をしてもいいのかもしれません。小西氏がいう「赤ちゃんに親の気持ちを読ませるくらいでいい」という視点は今の親からすると安心する言葉ではないのでしょうか。完璧で真面目な保護者で、赤ちゃんのためにと思う気持ちが強ければ強いほど、自分で自分を追い詰めてしまうようなことになってしまうのでしょうね。

 

最近では核家族化が進み、祖父母と暮らす親も少なくなっています。こういった育児に対して「大丈夫」と言ってくれる人が今少なく、「こうしなければいけない」といった情報ばかりが多くあるから、保護者にとっても育児が負担になったり、不安になることがあるのかもしれません。情報をどう取り入れるのか、この情報過多の時代において、もう少しおおらかな育児というのも今は必要なのかもしれません。

英語の早期教育の必要性

赤ちゃんの早期教育について、京都大学霊長類研究所の正高信男さんは「ヒトの脳をつかさどる中枢は、最初に習得する言語を基にして第二言語を学習していく仕組みになっている。母国語すらおぼつかない段階で他の言語を同時並行で教えても脳を混乱させるだけ。どちらも中途半端になる」と言っています(2004年7月19日「産経新聞」)

 

やはり、乳児期における英語の早期教育の必要性はどの人においても、あまり重要視されていないどころかデメリットすら起きているという見解が多くあるということが分かります。実際、2歳で園に入園してきた子どもがいました。その子は親の仕事の都合で一年間のうち、半年くらいは海外にいるような子どもでした。2か月ほど海外にいて、また、数カ月日本にいて、また海外へ行くということが繰り返し一年間の中で起きるのです。やはり、その子どもの様子を見ても、日本語は拙い様子でした。日本語での会話においては、感情を表現するときにうまくいかず、癇癪のような形で表現することが多かったのを覚えています。決して、知能的には遅れているわけではなかったのですが、正高氏がいう言葉を使うことに「混乱」という表現が当てはまるような感じであったのを覚えています。

 

英会話教育において、これまでの内容を整理していくと、それほど早期教育を行うことの意味があるのかと考えてしまいます。まず、英語教育にするにあたって、重要な観点として①第一言語を習得した後であること ②本人のやる気が大切であり、意欲のない状態で進めても難しい ③バイリンガルにするように早期教育をするには親にも根気や覚悟が必要になる ④大切なのは「しゃべること」ではなく「しゃべる内容」 であることが分かってきました。小西氏は早期教育の怖さは「効果を求めること」にあると言っています。母国語は日本語で、あくまで英語は第2言語なのです。そのため、あまり興亜を求めずに英語を通して親子の関係を深めることの方が大切なのではないかと言います。

 

あまり、早期教育として英語を施すことはそれほどいいことばかりではないのですね。こういったデメリット部分もあることをよく考えなければいけませんね。大人としては、親心で子どもたちにとってできるだけ「良い教育」や「良い環境」の中で暮らしてほしいものだと思います。しかし、それはあくまで「大人が思ういい環境」であって、「子どもにとってはどうなのかは子どもにしかわからないのです」小西氏はこのことに対して「教育に哲学が無くなったと言われる時代になった」と言っています。

 

「教育とは何のためにあるのか」こういった考えを今改めて考えることが必要なのだろうと思います。「学ぶことは何のためなのか」を見つめなおす必要があるのだろうと思います。それは成績を上げるためなのか。それはいい会社に入るだけなのか。いい会社に入った後が大事です。いい成績を活かすことが重要なのです。「教育を哲学する」することは本来の教育の形を改めて考えることになります。早期教育も本来の意味としてそれはどうあるべきなのかをしっかりと捉えていく必要があります。

何のための英語

小西氏は大学卒業後、アメリカに留学し、現在は日本で中学校の英語の教師をしているEさんの言葉を紹介しています。彼女は英語を学ぶことに対して「人生をより豊かにするものとして英語を学んでほしい」ということを彼女の英語の教師から教わったと言っています。こういった教えから、Eさんは言葉の刷り込みでしかない乳幼児への英語ブームは理解できないと言っています。そんな彼女は英語を学ぶにあたって、生徒に「日本語を大切にする気持ち」を伝えているそうです。

 

Eさんは第二言語を学ぶにあたって、日本を大切にする気持ちが重要であると言っていますが、そこには2つの理由があると言っています。一つ目の理由は言語はコミュニケーションの手段というだけではなく、その国の文化そのものであるということです。そのため、外国語を学ぶためにはその国の文化に触れるという謙虚な気持ちが必要であると言っています。しかし、幼いころから発音を身につけさせたとて、子どもは文化に関してはさっぱりわからないと言います。次に2つ目の理由は、母国語で意志を伝えられないのに、様々な価値観を持つ世界の人たちと話すことはできないと言っています。これはEさんの留学体験を通じて痛感したことでもあるようです。

 

では、語学力とはどういったものを指すのでしょうか。厚生労働省では、「英語によるコムにケーションの能力の向上が強く求められている」「過度に細部にこだわらずコミュニケーションの能力を高める」「コミュニケーションの技術としての英語力を育成する」と、英語力と人と関わる力の同時育成に重点が置かれていると言われています。しかし、Eさんの留学の経験から見ると、語学力とコミュニケーションは必ずしもイコールではないというのです。

 

「英語が身についたら、外国人と対等に話ができると思っている人は多いけど、言葉は話したいことがあるから、自然と口から出てくるもの」と言っています。このことはよく考えなければいけません。特に母国語でさえ社会性の低下が問題になっている日本人のコミュニケーション能力を見るとなおのこと、この言葉の意味合いは考えさせられます。語学力を磨くこととコミュニケーション能力を磨くことどちらの方が社会で使うときに必要になってくる能力なのかをよく考えなければいけないのです。

 

ある外資系のビジネスマンは、中国人の同僚が、自分よりもはるかに拙い英語力ながら積極的にコミュニケーションをとって好成績を上げていることに衝撃を受けたと言っています。これを逆の立場で考えてみましょう。日本で暮らす外国人の拙い日本語を思い出してみてほしいと小西氏は言っています。彼らは一生懸命言葉を紡いで話をしてくれますが、それを馬鹿にすることはありません。それは日本を知ろう、日本になじもうと努力する賢明さが伝わるからです。むしろ、海外の人からすると、自分の国の文化も満足に知らず、乱れた日本語を使う私たちの方が滑稽に感じられるのです。

 

言語を獲得し始める時期の子どもは、、自我の芽生えによる強い「衝動」や「感情」に伴って発語が見られる場合が多くあります。こういった他人への欲求や拒否を、自分が知っている限りの言葉を使って周囲に伝えるのです。言語はあくまでコミュニケーションのツールとしてではなく、「思考の基盤」でもあります。使おうと思わなければ意味がないのです。大切なことは単語を教えることではなく子どもの自発的な発語を促すことではないかと小西氏は言っています。このことは何も語学だけに言えることだけではないかもしれません。

「ただ、学ぶ」ことの危険

小西氏は早期教育について最もよくあげられる「英会話」や「英語」教育についても警鐘を鳴らしています。まず、日本において、バイリンガルのような英会話を育てることの困難さです。これは以前にも名前が出てきた脳科学者の澤口俊之さんの著書にもあるように、「真のマルチリンガル」にするためには「幼少期に母国語の他に外国語の環境」「ネイティブ英語を話す人が身近にいる状況」が必要だと言いますが、そういった環境を作ることの困難さです。アメリカの言語学者 B・ハートとT・リスレーの研究では、11ヶ月から38カ月までの幼児は、平均して1時間に700~800の単語を聞いていると言っています。また、三歳児は1時間に平均1400梧、232種類の言葉を話すそうです。このような環境でなければネイティブ英語が身につかないというのですが、こういった環境を作るのはなかなかに困難です。

 

では、インターナショナルスクールにおいてはどうでしょうか。ある中学で英語の講師をしているEさんの話を小西氏は例に挙げています。Eさんはアメリカの大学に留学したときのことです。そこには日本のインターナショナルスクールを卒業した学生がいたのですが、そこである違和感を感じたと言っています。その違和感というのが彼らの使う英語が、英語でもなく、日本語でもない独特の言語形態を使っているというのです。それはどういったものかというと文法は英語、語彙は日本語の混じった英語だったというのです。そして、結果的に特別な言語しかもたない彼らは外国人となかなか溶け込めず、インターナショナルスクール出身者だけで一年ほど、グループを作っていたそうです。もちろんこういったことがインターナショナルスクールに通うすべての人がそうというわけではないが、外国語の環境においても複数の言語に適応できない場合もあると小西氏は言っています。

 

これは子どもが言語を獲得し始めた時期に、英会話教室に通わせた母親の後悔としてあるそうです。つまり、インターナショナルスクールに通っていた人と同じように、日本語と英語のちゃんぽんのような言葉を話すようになったのです。結局のところ、ただ通わせるだけでは意味がなく、英語を教える目的やどのように英語を学ばせるかという指導方法を確立し、教育し続けなければいけないと小西氏は言っています。かえって、その環境にあることが結果的に言語獲得において、足を引っ張ることもあるのですね。

 

また、実際に帰国子女であったある子どもについても小西氏は紹介しています。彼は帰国子女であったことについてよかったことはあったかというと「別にない」と答えたそうです。それどころか帰国子女であることで日本では「人格が全く消され『英語が喋れる』『アメリカ人の友だちが多い』『入試で優遇される』と僕の人生のすべてが環境で決まったと言わんばかりだ」とすら言っていたそうです。むしろ、彼の場合、入試などでうまく入試や就職などがうまくいったので良かったのですが、このような帰国子女の子どもの中には、かえって日本の教育になじめない子どもの多くいたそうです。

結局のところ、「動議付け」「環境」、そして、「方法」すべてにおいて劣った状態で幼少期から英語を教えても、英語を嫌いや英語コンプレックスにさせるだけだと英語教育に対する私たちの思い込みの危うさがあることを小西は言うのです。

 

このことは昨今の「勉強嫌い」を量産してる今の教育にも言えることだろうと思います。本人の勉強に対する意欲よりも「しなければならない」ことが多いのです。そこに学ぶ意図や意味を見出せず、詰め込まれていく知識が多いがゆえに「勉強嫌い」が増えていっているように感じます。

「やればできる」の誤解

小西氏は早期教育について「やればできる」という価値観には疑問があると言っています。その理由を3つ挙げています。その一つ目は「やればできる」が誰にでも当てはまるものとは思えないこと。2つ目は「やればできる」という考え方は、親が押し付けるものではなく、私たちが自らの体験で獲得するものと考えるため。そして、最後の3つ目は「できる」「できない」で子どもを振り分けることの影響と言っています。

 

確かに「やればできる」という言葉自体に本人の意図というよりも、人から押し付けられた価値観を感じます。その主語が自分であれば、経験談からの可能性を感じるのですが、他者からの押し付けであれば、これはかなり無責任な言葉であるかもしれません。小西氏はこういった早期教育の価値観について、「早期教育の価値観は、他人よりも少しでも抜きんでることを良しとするものです。人間の幸福を身分獲得やステータス、学歴社会における勝利に価値を置いたものです」と言っています。ある意味で、この早期教育というものは子どもの親が自らの社会に対するコンプレックスを子どもに背負わせている結果なのかもしれません。このことは我々大人はもっと意識しなければいけないことなのかもしれません。

 

小西氏は続けて、こういった早期教育は「できる子」と「できない子」といった悪い偏見を生むことにつながりかねないと言っています。「できない子」を社会から締め出し、子どもの失敗を認めない窮屈な社会を作りだしているだけでないでしょうかというのです。今の時代、学校の成績で人の優劣を見られることが多いです。社会に出るとそうではないことが最近でこそ少なくなってきましたが、特に学生時代では未だ成績というのはかなりのウェイトで、「頭がいい」かどうかを判断する要素であります。結果、学生時代のある意味でのレッテルによって、ドロップアウトしてしまう人や窮屈さを感じる人がいるように思いますし、自分自身も「成績や偏差値による優劣」というものを感じていなかったかというと「No」とは言い切れない部分があります。

 

小西氏はこういったことを踏まえ、「やってもできないボーダーライン」と向き合うことも、大事な教育感だと思うと言っています。そして、「やればできる」と信じて疑ないことだけが、子どもにとっての唯一の幸せかどうか、立ち止まって考えてはどうかと言っています。そして、もともと子どもは自ら積極的に働きかけるという力を持っていると言います。この視点は保育をするものとしても非常に感銘を受ける言葉です。保育をするうえで子どもの「成長や可能性を信じる」ということは大切なことのように思います。その選択肢は大人が主体としてあるのではなく、子どもの人生としてあくまで主体は子どもにあるのです。小西氏は「乳幼児期の習い事や教材は、あくまでも遊び感覚で、親子のコミュニケーションの一つとして、体験を共有するくらいでよいのではないでしょうか」と言っています。そして、「『あなたの得意分野をゆっくりと探そう。これをやってもできなかったけど、他のものがあるよ』とおおらかな気持ちで子どもの成長を見守るほうが良いように思う」とつづっています。それくらいの気持ちで子どもの成長を見ていってあげるほうが、大人や親にとっても、子どもにとっても、幸せになる方法でもあるように感じます。