乳幼児教育

人の心の理解

空想の友だちを子どもたちが持っているということが、これまでのゴプニックの話でありました。これにおいて、ゴプニックは「空想の友だちは心の世界の反実仮想です。」と言っています。「こうなったら、こうなる」という可能性を子どもたちは心の中で行っているのです。空想の世界で、クマちゃんが水をこぼせば、空想の床が濡れるといったように、空想の友だちにも現実世界の因果関係が反映されます。それは空想の友だちが最もよく出現する年代の発達が2~6歳にかけてであり、これはちょうど子どもが素朴心理学、心の因果関係についての理論を学ぶ時期にあたります。

 

そして、この時期、子どもは自分と他人の心について基本的な事実を学ぶのです。そして、分かった事実をもとに心の因果マップを書き始めます。このことで、願望、信念、感情といった心の働きと人の行動の間にも因果関係があることを理解し、「心の理論」を身につけていくのです。その最も大事な原則の一つは「人は誰もが同じような信念、知覚、感情、願望を持つわけではなくて、これらが違えば行動も違ってくる」ということでした。

 

言葉を話す前の赤ちゃんにも、人の心はそれぞれだということが多少わかるらしく、その理解をもとに予測を立てることもあるようです。ゴプニックらによる実験では、生後14カ月と18カ月の赤ちゃんの前に、一方はブロッコリー、もう一方はクラッカーをいれた二つの器を差し出しました。予想通り、赤ちゃんたちはクラッカーを大喜びで食べましたが、ブロッコリーには口をつけませんでした。次に実験者自ら、赤ちゃんの前で両方の味見をして見せます。その時に、クラッカーはまずい、ブロッコリーはおいしいことを表情で示し、それと同時に「うわ、まずい、クラッカーね」「まあおいしい、ブロッコリーだわ」と言います。つまり、赤ちゃんとは好みが別であることを示したのです。その後で、赤ちゃんの前に手を出して「ちょうだい」と言います。すると、赤ちゃんは自分の好きなクラッカーを差し出します。しかし、18か月の子においては、相手の反応を正しく予測し、ブロッコリーの方を差し出します。つまり、自分とは好みが違うということを理解していることが分かる内容です。

 

以前、赤ちゃんが熊手を使って物の理解をしていることを紹介していましたが、18カ月児においては、相手の気持ちの理解もでき、その人を喜ばせる方法を正しく予測判断ができるということが分かります。

 

この後、もう少し年長になってくると、願望、知覚、感情の複雑な因果関係も理解できるようになり、様々な心の状態の組み合わせに応じた行動を予測できるようになるようです。そのことを研究したのが、ヘンリー・ウェルマンの実験です。

空想世界と空想の友

心理学者マージョリー・テイラーは空想の友だちをもつ幼児期の子どもたちの現象を研究しました。彼女によると空想の友だちがいる子といない子は、わずかな差でしかないようです。まずは、一番上の子と一人っ子は、下の子より空想の友を持ちやすい傾向があります。外交的な子は内気な子より空想の友を持ちやすいことも分かったそうです。また、テレビをよく見る子は空想の友を持ちにくく、本をよく読む子も同じであったそうです。どうやら他人の空想世界に浸っていると自分の空想世界をつくりにくいのかもしれません。しかし、ある特定の子どもが空想の友を持つようになるかどうかを予測するのはほぼ不可能であると言います。空想の友だちは、特殊な才能があったり、頭が混乱していたり、飛び切り想像豊かな子に見られるものではなく、子ども一般にみられる現象というのが正しいのだそうです。

 

この空想の友を持つことは他のごっこ遊びと同様、空想の友だちも子どもにとっては実感があるもので、子どもは明らかに情緒的な反応を示します。これまでこういった子どもたちは精神分析の面から言うと現実認識に問題を抱えていると考えられていました。フロイト流の精神分析でいうと、空想の友だちのいる子どもはセラピーの必要な神経症患者であったのです。しかし、レイラ―の研究が示したのは空想の友だちがいる子とは、天才の証でもなければ、病気の兆候でもないということを示しています。そういった子どもたちは並外れて賢いわけでもなく、創造性豊かだとか、内気すぎるとか、心に問題を抱えているということでもないのです。空想の友だちは悩みやトラウマの産物ではなく、ほとんどの子どもたちにとっては単なるごっこ遊びの一つでしかないのだと言っています。事実、空想の友だちをもつ子にも現実と作り話は違うということが分かっており、空想の友だちは実在しなことも理解しています。そのことを面接法という方法で明らかにしました。

 

面接法では子どもたちに実際、様々な質問を投げかけます。空想の友だちについて、「なまえは?」「尻尾はどれくらいあるの?」といったようにです。そのうち、子どもたちは途中で質問をさえぎるように、彼女を心配するようなそぶりで「本当はそんなのいないよ」「いるふりをしているだけだよ」と答えたそうです。つまり、逆に質問者の質問に子どもたちが付き合ってくれていたのです。

 

このように子どもたちはごっこの延長で空想の友だちを作りますが、その発想は成長い連れてよりスケールが膨らんでいく子どももいます。それが「パラゴズム」と言われる、独自の言語、地理、歴史をもった空想世界です。これについてもテイラーは面接法によって、検証していきます。それによるとごく平均的な10歳児の中に、空想宇宙を持つ子が少なからずいることを確かめました。ある男の子は空想世界をもって人造人間や凶悪な種族がいる惑星を想像し、9歳のときからその子の生活の中で大きな位置を占めていたそうですが、12歳になると心の中から消えていきました。

 

このように子どもたちは現実世界とは切り離して空想世界や空想の友を持つことがあるそうです。しかし、空想世界をもつといった現象は空想の友を持つことに比べ、注意が向けられるようになったのはここ最近だと言います。しかし、思えば、物語を書く小説家の中には昔から空想して話を作ることが好きだったという人が多くいます。それでも空想世界について目が向かなかったのは、大人に対して秘密にされていたからなのかもしれないとゴプニックは言っています。

心の世界と因果関係

子どもたちは物理的世界や生物学的世界の因果関係をどうやって知り、そこからどんなふうに反実仮想するのか。つまりどのように想像をめぐらし、可能性を思い描くのかということをこれまでアリソン・ゴプニック氏の話をもとに紹介しました。子どもたちは様々な因果関係が分かると、実際に起きたことだけなく、起きていない事態も思い描けるようになるのです。つまり、その予測ができるようになると言います。

 

次にゴプニックは「予測」といったものだけではなく、もう一つ世界の因果関係の知識とそこから生まれる想像について紹介しています。それは「心の世界」です。子どもたちはこの世界では物の理論ではなく心の理論を、素朴物理学ではなく、素朴心理学を学んでます。子どもの生活にはむしろ、これまでの予測といった知識よりもこちらの心の世界の知識の方が大事かもしれないとゴプニックは言います。

 

なぜなら、人間のような社会的な動物にとって、他人の行動を理解し、それを変えようと働きかけることは、物質の仕組みを理解し、それを変える以上に切実なことだからです。人類学者の多くが、「マキャベリ的(権謀術数にたけた)知性」の発達こそ、人間の認知能力を進化させた原動力だと言っています。このことについて、ゴプニックは「人間は弱い生き物でひとりでは生きられません。生き残れるかどうかは、望んだことを他人にしてもらえるかどうか、他人と同盟を結び、連携し、チームを組めるかどうかにかかっています。」と言っています。人は厳しい自然環境の中で生き残っていくために集団を形成して生き残っていくという戦略をとりました。人と協力することで問題を解決してきたのです。そのため、集団を形成するために社会性を持つことが必要になります。このことに人が因果関係の知識とそこから生まれる想像が関係してくるのです。

 

ゴプニックは心の世界の因果関係や他人の行動を理解し想像する能力はフィクションを捜索する大人の作家や詩人、俳優、映画監督に求められる能力と同じと言っています。それは子どもたちの遊びの中でも繰り広げられています。それが「ごっこ遊び」です。そのなかでもゴプニックが注目しているのが「空想の友だち」つまり仮想の存在が出てくるごっこ遊びです。これは人間特有の社会性と情緒がベースにある知的な遊びだと言っています。空想世界に遊ぶ子どもは、世界の仕組みを探求する小さな科学者の別の姿で、その自由奔放な遊びは未熟なままで守られる長い幼児期を持つ人類の進化戦略に組み込まれているものなのだと言っています。

 

確かに、私も小さい頃は何かを想像して遊ぶ、いわゆる「見えない敵と戦う子」でした。しかし、考えてみるとなぜ、そういった遊びをするのでしょうか。幼稚園の子どもたちを見ていても、人形に語りかけ人格あるものとして遊んでいます。歴史的にも、地域的にも、こういった人形遊びというのは幼児期の子どもたちにとっては大体あるものです。当たり前すぎてそのことに疑問を持つことがなかったですが、一体、そういった人形や空想をもって遊ぶということにどういった意味があるのでしょうか。

知識と想像。まなびとは

人の想像力と知識との関係は非常に密接であり、新しい知識が見つかるまでは想像という枠を外れるのは難しいところがあります。たとえば、過去の未来作品などの製作を例にしてゴプニックは説明しています。未来都市を描いた「ブレードランナー」において、主演のハリソンフォードが画面付きの公衆電話を掛けるシーンがあります。脚本家は未来の公衆電話には画面があると思ったのでしょうが、公衆電話そのものがなくなるとは思っていなかったのです。このように未来の知識がないのに未来の可能性を想像するとこういったようにこれまでの知識を持つがゆえに想像性に制約を受けることがあります。しかし、これには逆にいえば、新しい因果関係の知識を得ると、以前なら想像もつかなかった可能性も描けるようになります。人の想像性というのは知識をもとにされているのです。

 

「知識と想像力は全くの別のものとして扱われたり、対立するもののように思われることすらあります。しかし、因果マップに関する最近の研究はそれとは正反対の事実を示している」とゴプニックは言います。世界の因果構造を理解することと、反事実を思い描くことは表裏一体です。ゴプニックは「私たちの想像を羽ばたかせ、想像性を発揮させている力の源は知識です」と言っています。複数の出来事のつながりがわかるから、そのつながりをかえたらどうなるかが想像できる。この世界を知っているから別の世界を創造できるというのです。

 

ここに「学習することの意味」が記されているように思います。ただ、「勉強する」のではなく、多くの知識を得ることで人は社会を大きくし、不可能なことを無くし、可能なことを増やしてきて今があるのです。つまり、過去の記憶や知識、叡智といったものがあるからこそ、今の時代があるのです。学び、勉強することはその先の未来を予想し、よくしていくために必要なのです。そして、そのプロセスにおいて、様々な知識の中にある因果関係を知るということが勉強であり、学ぶということの本当の意味なのだと思います。

 

そして、このような人間特有の知識と想像力の融合は大人にだけ見られるものではなく、幼児の奔放な空想もこういった世界の因果構造を理解することから始まっていると言います。妖精の女王になりきっている3歳の女の子の独創的ですが、それだけではなく、そこには人間特有の高度な知性を存分に発揮しており、時に空想の友だちすら作り出してしまいます。こういった並外れた想像性が大人になった時の物語や演劇にもつながってくるのです。

 

子どもたちが「遊ぶ」というのはその中で、知識を得て、実践し、身につけているのです。繰り返し、起こる遊びの中で、因果関係を理解し、それを形にしている。「遊びは学び」と私もよく言いますが、その本質として、こういった人間特有の学ぶプロセスというものがはいっているのを考えると、遊びの中にも立派な学びがあるということをとても強く感じます。

因果マップと予測

子どもにも因果マップを描くことができることが分かってきました。マップを数値化し、それを使って、正確な予測や介入や反事実を生み出すことができるのです。では、実際因果マップを使用して、可能性を思い描き、世界を変えられることを確かめるために、どういった方法をとったのでしょうか。子どもも最新のコンピューターのようなプログラムを使っているということはどこから見えてきたのでしょうか。ゴプニックは一つの方法を紹介しています。

 

ゴプニックが紹介した方法は、まず、因果的なつながりをもった出来事を3,4歳に教え、その子がその知識をもとに予測を組み立てたり、そこに介入する方法を思いついたり、別の可能性を考えられるかどうかを試してみたのです。このやり方であれば、新たに提供された因果関係の知識つまり、新しい因果マップから組み立てた思考を取り出すことはできるのではないかと考えたのです。ゴプニックは工具店と大学院生の助けを借りて、「ブリケット」と名付けました。この装置は四角い箱で特定のブロックを載せると光がついて音が鳴ります。しかし、決まったもの以外のブロックを載せたときには反応しません。実験では、まず、子どもたちに「これはブリケット・マシンです。ブリケットで動くのよ。どれがブリケットなのか教えてくれる?」と話します。子どもはこの装置に興奮し、どんなふうに反応するのか、どのブロックがブリケットなのか、さっそく、調べます。ブロックを箱にのせ、強弱をつけて押してみたり、ひっかいて中になにがあるのか知ろうとしたりしました。

 

この実験で、どのブロックが装置を動かすブリケットかわかってくると、子どもはその情報をもとに、新しい可能性を思い描いたり、反実仮想におる予測もたてられるようになりました。最初の実験では、子どもたちにブリケットは1つしかないと話してから、そのブリケットを非ブリケットと組み合わせ、2つ一緒に装置に起きました。すると、装置は当然光が付きます。そのとき、4歳児の一人が、どんな哲学者も満足させられるような見事な反実仮想をしたのです。彼はこう言いました「ブリケットじゃなく、こっちのブロックだけ載せたら、悲観なかったよね」

 

この子たちに装置を動かしてちょうだい、というとブリケット1個だけを選びます。装置の止め方を聞けば、ブリケットだけ外すと答えます。誰かがそうやって止めるのを見たことがないにも関わらず、新しく得た因果関係の情報から、反実仮想をしながら正しい結論にたどりつくことができるのです。装置からブリケットを外すとどうなるかも、最初からブリケットがなかったらどうだったかも、正しく推論できます。

 

この実験の内容を見ていると子どもたちは普段の遊びの中で様々な「実験」と言われる「いたずら」をします。「これをこうしたらどうなるのだろうか」「こうなるのか?」といった子どもなりの見通しをもってまるで実験するかのようにいたずらをしています。一見、大人からすると困った行動のように思いますが、そこで行われている子どもたちの脳の発達においては、かなり高度なコンピューターの処理のようなことが子どもたちの頭の中で行われているのでしょう。「いたずら」も考えものですが、そこでの学びもあるのでしょう。子どもたちが遊びの中で行っている遊びにはこういった見通しや因果関係の知識を得ること、反実仮想で物事を予想することといったことを学んでいるのだろうと思います。これは先生が一方的に教えるといった一斉保育や先生が逐一教える保育では養うことができないものであるのでしょう。「遊び」が大切にされるべき大切な部分はこういった育ちの意図にもあるのですね。