乳幼児教育

進化的意味

子どもの注意は、脳の前頭葉の発達につれて変化していくと言われることがあります。これは子どもの身長のように子ども自身が成長しようとして成長するのではなく、遺伝のプログラムによって心も変化しているのではないかという「発育」といった考えです。しかし、この反対に、子どもが新しい物事を覚え、色々な体験し馴染んでいくにつれ、脳が変化していくといった「発達」というように考えることもできるとゴプニックは言います。

 

実際脳を変化させるプロセスは互いに補い合う2通りの仕組みがあるのですが、それらは体験に左右されます。1つはニューロン同士をつなぐ回路をどんどん増やしていくこと、もう一つはほとんど使われていない回路を刈り込んでいくことです。この2つの発達の課程が並行して起こります。どちらも外部の出来事の影響を受けますが、両者のバランスは成長とともに変わり、幼いときは回路の増加が顕著ですがその後、刈り込まれる回路の方が多くなってきます。ゴプニックはこれは私たちの気持ちを反映しているような気もするといっています。それは幼いときにはあらゆる可能性に敏感に反応するのに、年をとるにつれて、自分にとって有意義なことにばかり注意を向けるようになってくるからです。このように心理学的な面と神経学的な面、両方を突き合わせることで、注意というものの全体像に近づいていくことができるのです。

 

さらに進化的な役割として赤ちゃんと大人の役割分担を重ねてみると、よりいろんなことが説明できるようになると言います。効果的に外界に働きかけるようと思ったら、限られた出来事に注意を集中するほうが得策です。赤ちゃんのように自分の目標や計画と関係ないことまで学習するのは非効率なのです。そのため、大人は自分に有益な情報とそうでない情報をあらかじめ見分けます。そして、脳は有益な情報は取り入れ、無駄な情報は抑制してしまいます。同じように行動しようと思ったら、脳の方も変える必要のある部分をちょっと変えるだけにとどめ、残りの部分はしっかり安定させておいた方がいいからです。

 

このことに対し、赤ちゃんにとって喫緊の課題は、できるだけ多く、早く学ぶ必要があるのです。世界の正確なマップを早く作らなければいけないのです。学んでは推論し、マップを描いては反実仮想をし、特定の計画や目的にとらわれずに情報を取り込み続けるのです。すぐに役立ったり、直接自分と関係あることにこだわるより、あらゆること、とりわけ新しかったり、面白かったり、情報量の多い出来事に片っ端から注意を向けることが赤ちゃんにとっては楽しいことでもあるのです。

 

進化的な視点から見るとなおのこと、赤ちゃんがなぜ推論をするのか、因果関係を積極的にしろうとするのかがより鮮明に見えてきますね。社会に出たときに、それは大人のような思考として、効率よく選択を行うためにはそのケースをたくさん知る必要があるのです。そのため、赤ちゃんは自ら能動的に外界に働きかけ、そのケースを増やしていきます。そうすることで、後の社会でのやりとりが円滑になることにつながるのです。そう考えると保育の形態も考えなければいけませんね。赤ちゃんを守るということが言われますが、何を守るのでしょうか。「丁寧に」というのは何をもって丁寧なのでしょうか。赤ちゃんの解明が進むことを知るたびにどういった環境を用意する必要があるのかを考えます。

注意と脳の反応

赤ちゃんは大人とは違い、意識が強くあり、可塑性があることで、脳に出来事すべてを取り込もうとするような様子が認められます。その時、脳はどのような作用を起こしているのでしょううか。

 

脳は、部位ごとに違った種類の注意に対応していることが分かっています。頭のてっぺんのほうにある頭頂葉は、視覚世界への持続的注意に関係しています。つまり、頭頂葉は新奇なものを見張り、後頭葉はそれが何かを理解する、という役割分担をしているのです。そして、このどちらの領域も、乳児期のごく初期に盛んに活動します。前頭葉は内因性注意と、余分な反応を抑制する能力に深く関わっています。ここは乳児期のごく初期から潜在的に活動はしているのですが、他の部分との連携が強化されるのは、もっと後になります。この連携は年齢とともに強まっていき青年期も続きます。私たちが邪魔な情報を抑制し、注意をコントロールするための基礎を作っているのです。

 

脳は当然注意や意識をするときに活動をしますが、では、様々な注意とそれに対応する脳の部位はどこにあるのでしょうか。それについてラファエル・マラハたちが一連の研究をおこなっています。この研究では機能的磁気共鳴画像装置(fMRI)をつかったもので、この装置を使い、問題を解いたり、何らかの課題を行っているときに、脳の各部にどれだけの血液が流れているか、問題や課題が脳のどの部分を活性化させるかを画像で見ることができます。

 

その装置をつかったマラハの被験者たちは映画を見せられます。すると、脳の血流パターンは、どの被験者も映画の中の出来事にほぼ沿ったものでした。もっとすごいのは、脳の前頭前野、計画や思考や自意識に関わる部分が、映画を見ている最中、ものの見事に抑制されてしまったのです。かわりに明るくなった、つまり活発に動いたのは後頭葉、赤ちゃんの時に活発に活動する部分です。これは被験者が意識がはっきりしているのに、自意識が消えてしまったことを意味しています。計画を立ててもいませんし、映画の内容を吟味したり、判断したり、評価したりもしていないのです。この状況は赤ちゃんがモビールを夢中で見ているときに似ています。モビールを見ている状況は大人で言う映画をみて我を忘れている状態と似ているのです。

 

このように大人の状態と赤ちゃんの状態を比べてみると面白いですね。赤ちゃんにとっても大人にとっても、何かに夢中になるときは同じような脳の働きをしているのですね。その後、成長と共に脳の前頭葉も変化していきます。その変化を通して、子どもの注意が変化していきます。

赤ちゃんの強い意識

赤ちゃんが広い範囲に注意を払うことで、様々なことを学習していくということが分かってきました。これは因果マップを作るときも同様で、統計パターンにおいても、ちょっと変わるだけで新しいマップを作っていきます。ゴプニックはこのように赤ちゃんは情報の有益性とか重要性に関係なく、興味深い出来事でさえあれば、その情報をことごとく吸収していくと言っています。そのため、乳幼児は大人よりも早く、楽々と新しいマップを作り、古いマップを修正していけるのです。

 

神経科学の研究からみても、赤ちゃんの脳にはアセチルコリンが豊富に存在する一方、抑制性の神経伝達物質は、もう少し成長しないと見ることができないのです。そして、興味深いのは赤ちゃんに麻酔をかけるときには、大人より高濃度の麻酔薬が必要なことで、これも理由は麻酔が神経伝達物質に作用するものだからなのです。意識を示す定義に「麻酔をかけるとなくなるもの」というのがあります。このことと高濃度の麻酔が必要というのを関連付けて考えると、赤ちゃんは大人よりも意識をなくすための「謎の物質」を持っているということが言えるのです。

 

さらに赤ちゃんの脳には、大人よりもずっと柔軟で可塑性があるという特徴があります。たとえば、子どもは怪我や病気で脳を損傷しても、大人より早く、しかも十分に回復するようです。大人の脳にはそれほどの柔軟性はありません。老犬に新しい芸は教えられないと言いますが、それは老いた脳に新しい芸を覚えさせるのも一苦労になるのです。

 

また、内因性注意の実験でサルにジュースをあげる際、特定の音が鳴るとジュースがもらえ、体に触れるとジュースが貰えない場合、サルは音が鳴ることに注意するという実験がありました。この実験を赤ちゃんサルに行ったところ、この実験で対象となった大人のサルとは違った結果が見られたのです。子どものサルの脳は大人のサルの脳のように、聴覚でとらえた出来事と触覚でとらえた出来事を区別していなかったのです。全体に注意が向いていたのです。これは人間の赤ちゃんが一つのことに集中できないのと似ています。さらにやり方をかえて、決まったパターンで大音響にさらすなど、一部の刺激だけに注意が向かわないように大量の刺激を浴びさえたときも、子ザルの脳細胞には変化が起こりました。報酬が貰えなくても、脳は音に反応して変化したのです。大人のサルでは、こういった脳の一般的可塑性は認められませんでした。

 

これらの実験の結果から見ても、赤ちゃんは大人よりも強い意識を持っており、大人よりも貪欲に様々な出来事を取り入れているということが分かります。

意識と抑制

赤ちゃんと大人の注意の違いは外因性注意の方が優位であるとことだけではありません。赤ちゃんは大人のように抑制できないのです。乳幼児は集中力が弱く、余分な情報にも心を閉ざせません。視野の端に入ったことも、簡単に注意をそらす傾向があるのです。

 

乳幼児は大人のように集中することは苦手ですが、たまたま見つかった情報を拾うのは上手です。たとえば、記憶を試す課題では、カードの束から一度に2枚ずつを見せ、右側のカードはいいから、左側のカードに何と書かれているかだけを覚えるように言い、左側に注目させます。そして全部終わったところで、左右両方のカードの内容を子どもに聞きます。すると年長の子どもは左側のカードの内容を右側のカードよりよく記憶していて、大人のように注意の対象外の情報を抑制していることが分かります。そのうえ、幼い子どもよりも左側のカードの内容を覚えています。ところが、幼い子どものほうは、左右の記憶の差が少なく、注意していなかったはずの右側のカードの内容を年長の子どもよりよく記憶しているのです。

 

幼児と「神経衰弱」をした場合、この能力に気づかされます。このゲームのコツは、自分がめくったカードだけでなく、他の人がめくったカードもちゃんと見ておくことです。幼児はこれが驚くほど得意で、大人のほうが負けることも珍しくありません。あるいはまた、そのときは、話を聞いていないように見えたのに、しばらくしてから大人の会話から拾った言葉や考えを突然口にし、周囲を驚かせるといったことがあります。

 

つまり赤ちゃんは、世界の何を見るかを、自分で決めるというより、世界の方が決めているのに任せているのです。また、どこに注意を向け、どの情報を遮断するかを決めてしまわないで、多くのことを同時に意識しているようです。特定の対象についての有益な情報だけを拾うのではなく、赤ちゃんの周囲のものすべて新しい情報を集めまくるのです。

 

まさに広く浅く情報を取り入れるというのが赤ちゃんの意識思考だようです。幼児の「神経衰弱」のゲームでは実際に経験したことがありました。私の記憶にある子どもは木製の神経衰弱のゲームでしたが、気の木目やへこみ、ちょっとしたシミをすべて覚えてしまい、神経衰弱としてのゲームではなく、ほぼ暗記されたカードをひっくり返すような作業になっていました。大人も一度間違えてしまうと、すべてを取られてしまうようになってしまい、大人もあっさり負けてしまうという子どもがいました。確かに、こういった経験はどこにでもあり、心当たりがあることが多々あります。

 

外因性注意の優性と抑制をすることがまだできていないこと、この二つにより乳幼児の子どもたちは集中ができないように「そもそも」なっているのです。乳幼児においてはそれだけ広く、すさまじい情報量を子どもたちは頭の中に入れているのでしょう。

赤ちゃんの観察

赤ちゃんも大人と同様に外因性注意や内因性注意を通して周りを意識しますが、赤ちゃんの場合は内因性注意よりも、外因性注意の方がずっと支配的だとゴプニックは言います。赤ちゃんであっても、自分の注意をコントロールするといった内因性注意をしないことはないのですが、幼くなるほどそのようなことはまれで、注意はもっぱら外の世界の興味深い出来事に注がれ、心の中の計画だとか目的だとかに従うことは少ないと言います。これを以前紹介したボールのやり取りの中にゴリラが横切るといった例でいうと、赤ちゃんはボールを追うのをやめてしまうのです。内因性注意は、幼児期を通じて、時間をかけて発達していくのだと言います。

 

2歳児からお気に入りのおもちゃを取り上げたいときは、言い聞かせたり、鉱物で釣るより、別の注意を引いそうなおもちゃをあげるほうがずっと手っ取り早いです。こうすることで、子どもは自分から古いおもちゃを手放します。赤ちゃんは嫌いなのだけれどつい、興味をひかれてしまうもの、強い光とか大きな音に注意を向けるところもあって、べそをかきながらも、目を話せないところがあるのです。ある意味、人間の「見てはいけないものほど、見たくなる心理」みたいなものは赤ちゃんにも同様にあるのです。

 

しかし、このように馴化のプロセスを逆手にとって古いおもちゃを手放させるこのやり方は、赤ちゃんの成長と共に通用しなくなります。それは年齢が上がるにつれ、外部の出来事よりも、内部の思惑で注意がコントロールされるようになるからです。こうなると、新しいものや珍しいものにいつも注意してくれるとは限りません。そうして大人になったときには、ボールから目を離さないといったん心に決めたら、突然出てきたゴリラにも気づかなくなるのです。

 

確かに、保育の中で見る赤ちゃんは常に目をキョロキョロとさせ、何か音が鳴るたびに、そちらに目を向けます。逆にその音の出どころが分からないと不安になり、泣いてしまう子どももいるくらいです。こういった活動には何か意味があるのだろうといつも見ていました。ゴプニックが言うように周りの環境に目を配らせ、外の要因に目を向けることで、学ぼうとしているのです。ある意味で集中してはいない状態です、その集中しないということ自体が必要な時期なのですね。様々なものを「馴化」が起きるまで観察し、興味のある者や目につくものを分析し、学んでいるのでしょう。

 

つまり、この頃の子どもたちの対応は「あ~しなさい、こ~しなさい」と指示するのではなく、その子どもたちが注意しそうなことや興味のありそうなもの、楽しいことを環境の中に用意する必要があるようです。