乳児

ルールの理解

自園のこども園の理念は「自由と規律」という理念の下、保育を行っています。それは生きていく中でただ能力が高くてもそれを生かさせる力がないと社会にとって活躍できる人間にはならないということが基本理念にあり、「自由」といってもなんでもしてもいいというわけではなく、そこには必ず「規律」というルールがある。それは大きいものは「法律」や「ルール」、小さいもので言うと「相手との空気感」というものも一種の規律であると思っています。そういったある種の制約が社会には存在し、その中でいかに自己発揮できるか、つまりは社会性が重要になってくると考えています。

 

では、この「ルール」ということに対して赤ちゃんはどのように獲得していくのでしょうか。ゴプニックは「ルールを守る」ことと「道徳」との関係を話しています。赤ちゃんは「自分が身に付けた理論をもとに世界のさまざまな可能性を思い描き、世界を変えるために働きかけてます」とこれまでにも話されていました。その中で共感をもとに母親を中心に利他的な行動を行い、そこに道徳的な判断の輪を広げていくと言います。

 

赤ちゃんは自分の世界を広げていく中で、理解と変革を行います。その中で、自分が身に付けた理論をもとに世界の様々な可能性を思い描き、世界を変えるために働きかけます。その変革のために反実仮想では様々な選択が迫られます。自分が何をしたいのか、どんな世界を実現したいのか。どんな人になりたいのか。そういった選択の中で、「より良い選択とは何か?」「悪い選択とはなにか?」と考えることは、ある意味で自分は何をすべきかという道徳的判断、道徳的推論と似ている推論を行います。このような推論は「規範的」推論というものです。つまり「ルール」というものを捉えるための推論です。

 

この規範的推論には重い道徳的義務(子どもの幸せのためには自分を規制にしなければならない)、簡単な損得判断(クレジットカードは利子が一番安いものを選ぶべし)、周りの人を不快にさせないエチケット(フォークは左側に置くこと)といったところまで、さまざまなレベルがあります。因果的推論がこれをしたら「どうなるか」を考えるものに対し、規範的推論は何を「しなくてはならないか」を判断するものであると言います。つまり、規範的推論はルールを中心に考えられます。

 

これがこれまでの因果的推論とは大きく違うところです。因果的推論では反実仮想をもとに、未来を予測し、それに合わせた複雑な選択肢の中から、行動を選択します。それに比べると、規範的推論には従うべきルールがあるので判断はずっと楽になります。これには様々な利点があり、たとえば、現在の判断と、過去や未来の判断との矛盾も避けられます。ルールに従うので、何をしようかと悩むことは無くなるからです。また、ルールがあることで自分のすることを他人に合わせることも簡単になります。みんなに共通のルールがあると、お互いのすることの予測がつき、自分もそれに合わせていれば安心につながるからです。他にも、皆が同じことをすること事態に大きな意味がある場合もあります。たとえば、交通ルールです。道は本質的にどこを通ってもいいはずですが、信号や車が通るのがどちら側かを決めることで危険は減りますし、安心して道を歩くこともできます。

 

このように規範的推論は因果的推論とは違い、人が様々な選択をすることを容易にすることができます。そして、社会においてこういったルールを理解することは非常に重要なスキルでもありますし、今の社会においてもこういった規律規範というものは重視されます。では、なぜ、人はこういったルールを守るのでしょうか。

道徳観を持つ

次にゴプニックは「人との共通点を持つ人だけに配慮するというのは、道徳的にどうなのでしょう?」と問題提起をしています。戦争時代においても、たとえば、ゲルマン民族であったり、十字軍であったり、ナチスであったり、今ではウィグル問題などでも同様に、歴史的に見ると異民族の虐殺や宗教の違いによる戦争はやはり共通点を持つ人への配慮の裏にある意識から出てきたものであるように思います。つまり、自分とは違うアイデンティティがあることで道徳的配慮がその内集団の中で行われ、それが相手を弾圧する理由になってしまうのです。勧善懲悪はないと人はわかっているのに、どこかで「自分たちは正義」と当てはめようとしています。これは道徳的といえるのでしょうか。

 

一方で、自分たちの道徳生活においては特定の対象としたものであることを指摘する人もいるようです。それは、例えば家族等がそれにあたります。確かに家族などを考えると、いくら見ず知らずの人であっても、自分の子どもや親を優先に守り、幸せにすることに特別に重い責任を感じます。社会構造における民主主義も国における義務としてありますが、マクロに見ていくとそれは結果として自分のためであったり、自分の家族のためであったりもします。結局のところ国家というのはそういった、個々の道徳観念から起きているのではないかというのです。

 

しかし、道徳的配慮の対象が着実に拡大されてきているのも確かです。日本ではまだまだ進んでいるとはいえませんが、たとえば、ゲイやレズビアンにも、完全な道徳的な地位を認める方向への発展が世界的にも進んでいますし、人種への差別の撤廃など、国際的に人権運動というのは進んでいます。さらに、動物にも道徳的地位を認めるべきだという運動もあるほどです。これは自分とは共通点もないものにまで道徳的配慮がされていると言えます。

 

なかなか、道徳的配慮といっても、難しいものです。最近ではSNSの問題が日常的になり、「炎上」という言葉もいたるところで目にします。それも「自分の考えとは違う」ということや「自分の価値観とは違っている」というやはり共通点における排他的な考えが道徳的配慮を狂わせているように思います。行き過ぎたお節介の先に正にこういったネガティブな要素を起こっているように思います。元を正すととくに宗教戦争においては「浄化」といった考えが根底にありこれはある意味で「お節介」な大義名分なように感じます。

 

なにをもって道徳といえるのでしょうか。道徳的な配慮とは誰を対象にしているのか。

古典的な道徳哲学では、功利主義か義務論かを以前紹介しましたが、ここで出てくる道徳的配慮は普遍的でなければならないと考えられてきました。つまり、どちらもすべての人が対象になります。

 

共通点といった特定の人ではない道徳的な配慮と家族などの特定の人への道徳的な配慮。「親子が互いを思いやるのに特別な努力入りませんですが、隣人を思いやるのは時に難しく、知らない人を思いやるのはもっと難しく、自分と違うグループの青シャツの子を思いやるのは一番難しいことなのです。」とゴプニックは言っています。道徳の輪を広げていくというのはとても難しいことです。最近ではポピュリズムという言葉にもあるように特定方向の道徳がまかり通っている時代になっているように思います。そんな時代に、どういった保育をしていく必要があるのか、そのために赤ちゃんが道徳観を得るメカニズムを知ることは大切なことであるように思います。

共通点

「子どもたちは、最初に親に抱いた共感を、他の人たちに広げ、一般化することで『人間』というカテゴリーを確立する」とゴプニックは言っています。また、同時に「自分と似ていると思った相手を道徳的配慮の対象に加えていく」というのです。しかし、このことには逆に言うと「自分に似ていなければ排除する」という可能性も示唆しています。つまり、条件によって相手を選別するのです。

 

人は多数の人間を任意の集団に分けるだけで、自分の属する集団を「内集団」、それ以外の集団を「外集団」とわけ、「外集団」の人たちの人間性を否定したり、嫌悪するようになることが社会心理学の「最小条件集団」の研究からわかってきました。そして、この内容は私たちも少なからず実感する内容です。実験では大学生に赤い羽根か青い羽根のどちらかをつけさせます。すると彼らは、赤い羽根同士で仲間を作り、青い羽根を付けた人から距離を取るようになりました。このような心理的な影響はもっと残酷な結果も起こします。

 

それは「スタンフォード監獄実験」です。これはスタンフォード大学のごく普通の学生を募り、刑務所の看守と囚人を演じさせたもので、看守役の学生たちは驚くほど短期間のうちに囚人役を荒っぽく罰するようになったそうです。それは実験者が看守役のあまりに残酷な罰し方に怖くなるほどで、実際に実験の中止を訴えました。

 

このような身近な人間を分類したがる性向は、ごく幼いうちから見られるものであるとゴプニックは言っています。しかも、それは3歳か早い子はもっと前からで、周りの人たちは人種、性別、言語によって違う集団に分けられることに気づくのです。そして、それは自分に似ているかどうかを基にした好き嫌いが始まるのです。これも最近の研究で行われたことですが、3歳児の子どもにTシャツの色を同じ色と違う色のものを着せました。すると、大学生の羽のときのように、同じ色のTシャツと髪の色が自分と同じ子どもと遊びたがったのです。これとは別の実験でも、子どもに任意で赤か青のTシャツを着てもらい、写真に写った赤のTシャツを着た子ども、青のTシャツを着た子どもを見せると自分と同じ色のTシャツを着た子どもと遊びたがったのです。

 

「このように子どもたちは早い段階で、自分と違う概観、服装、言葉、行動を見ると、それがジグなるとなって、そのような属性を持つ相手が、自分とは別の集団の人間だと判断する」とゴプニックは言っています。確かにそういったことは多々ありますね。制服でも、宗教でも、相手に何らかの共通点があることで仲間と捉えようとすることは起きてきます。こういった他者との共感を広げるにあたって、人をグループ分けるすることで、配慮の対象を自分のグループ全体に拡大するというのは、一つのやり方だとゴプニックは言います。確かにあったこともの無い人であっても特徴が似ているという共通点を見つけることで共感をする人が増えていくわけですから、世界を広げていく一つの足がかかりとしてとても大きな指標でもあります。きっと人は共通する何かを持っていることで安心感を得ているのでしょう。

道徳観の広まり

人は功利主義と義務論を使い分けながら道徳的判断を行っており、その判断の大元にあるのは「他者への共感」だであるとゴプニックは言います。他者への共感があるからこそ道徳観が生まれます。ただ、道徳観があるだけでは、道徳的判断ができるとは言えません。そこには自分を抑制する理性も必要とされます。乳児期の共感は相手の顔に悲しみや喜びが浮かぶところをまじかに見ることができる赤ちゃんと養育者の間に典型的な密接な触れ合いから生まれます。つまり、直接的な共感です。しかし、これは150人くらいが人間の限界であり、そうであっても、全員を愛することはできないとゴプニックは言っています。ところが人間はその枠を越えて、数多くの人々、例に挙げているのは地球温暖化のように、認識できる人以上の社会全体にわたる道徳的判断をすると、相手への共感というのは、直接的なものではなくなってきます。見ず知らずのあったこともない、しかも、地球規模での大きな社会に向けての判断を問われます。

 

こういった不特定多数の人にまで拡大された道徳的配慮はどのようなメカニズムでできるようになるのでしょうか。そのメカニズムで重要になってくるのが何度も出てきた「反実仮想」という仮定に基づく思考法なのです。スメタナの研究では子どもたちは現実のものではない、下層の運動場で遊ぶ仮想の子どもたちに配慮し、道徳的な判断をしたそうです。

 

共感対象を広げるもう一つの方法はグループの利用です。以前、赤ちゃんが単なる音のなる物体と、赤ちゃんが話しかけると音が鳴る物体とで、外観が異様であっても、どこか人間らしい特徴を備えたものであれば、真似をしたり、人間のように扱ったりすることを紹介しました。カルフォルニア工科大学で人型ロボットの開発をしている技術者にゴプニックがあったとき、こういった人間のように反応するロボットを幼稚園に預けたことがあったそうです。その時、幼稚園の園児たちは、ロボットにつまづいて転ぶたびに、園児の誰かが転んだときと同じような反応、そっと起き上がらせたり、埃をはたいてやったり、慰めのキスをしたりしたそうです。

 

このように、子どもたちは最初に親に抱いた共感を、他の人に広げ、一般化します。今回のロボットの実験でも、人間のように判断するロボットに対して、物体の真似をしたり、ロボットが抱く願望や意図にも、人間と同じように共感しました。つまり、ロボットに対しても、思いやりや利他的行動をとったのです。こうやって人は道徳的配慮をする対象を加えながら、配慮の及ぶ範囲を広げていきます。ただ、これは逆を言えば、配慮する対象を選別していることでもあるとゴプニックは言っています。誰かが「人間」のカテゴリーから排除されることも出てくるのです。ただの機械を人間のように扱うことがあるかと思えば、本物の人間なのに、まるで機械のようにぞんざいに扱ったりすることもあるのです。

 

このことは社会心理学の「最小条件集団」に関する研究において、人間のもつこの皮肉な傾向を示しているとゴプニックは言っています。

功利主義と義務論

乳幼児期の道徳観の原点に功利主義と義務論という倫理学を二分する理論があります。この功利主義というのは手段を問わず、最大多数の最大幸福を達成することです。そして、これに対し、義務論は、ある行為にはそれがどんな結果をもたらすかに関わりなく、本質的な善悪があると主張しています。この二つの立場を対比するため、よく引き合いに出されるのが「トロリー問題」です。

 

この問題では「あなたの目の前でトロリー電車が壁に向かって突進しています。衝突すれば乗っている5人全員が死ぬでしょう。でもあなたには、切り替えスイッチを操作し、電車を別の線路に引き込むことが出来ます。その場合、そちらの線路に居る別の1人がひかれてしまいますが、乗っている5人は救えます。あなたはどうするべきでしょうか」という問題を出題するのです。つまり、最大の幸福を求めるなら一人の犠牲には目をつぶるということになり、ほとんどの人がこの質問に対し、1人の犠牲が出ることを選択するようです。そして、これが功利主義的な考え方です。

 

これとは別のバージョンの問題があります。「あなたは暴走中のトロリーの前方にかかった架線橋に、大柄な男が立っているのに気が付きました。もしあなたがこの男を線路に突き落とせば、男の巨体で電車を止め、乗っている全員を救えます。(あなた自身が橋から飛び降りても、あなたの体では電車は止まらず。男の巨体でならとまる)あなたはどうするべきでしょうか。」こちらの問題では、多くの人が直感に頼り、見ず知らずの人を橋から突き落として殺すのはどんな理由があろうと許されないと判断します。これが義務論的な判断です。

 

こういった功利主義と義務論の論争は歴史が古く、哲学、心理学だけではなく、神経科学の分野でも膨大な論文が書かれているようです。この判断においては哲学者は立場をはっきりとさせたがりますが、一般人はこの問題に関して、ケースバイケースで時に功利主義者となるときもあれば、義務論者になる場合もあるのです。そして、その決定に関わるものはちょっとした要因によって変わります。

 

ただ、子どもの視点からすると、功利主義も義務論も根本的な違いではないようです。というのも、これらの大元にあるのは乳幼児が他人に対して抱くのと同じ、他者への共感だからです。ゴプニックはそもそもなぜ、私たちは他人の利害を気にかけるのか?と問いています。功利主義のスローガン「最大多数の最大幸福」と義務論者の「他人に危害を加えてはならない」というのは根本的に他人を幸せにしたいという思いが中心にあります。それは他者への情緒的共感を大前提に置いているからではないかというのです。そして、つまりはこういった感情の根底にあるのは幼いうちから人間に備わっている共感に基づく道徳観から始まっているのではないかというのです。人がもつ道徳観は乳児期から始まり、この根底は変わらず大人になってもその基軸となるもとは変わっていないのではないかとゴプニックは言っています。