教育

ただやらさせる学習

麴町中学校では現在宿題の全廃が行われているのですが、そのプロセスは工藤氏が純粋の子どもたちの様子を見て感じたところから始まります。そもそも宿題の目的は多くの学校関係者や保護者にとって「子どもの学力を高めること」「学習習慣をつけるもの」と答える人が多いと思われますが、ではその目的は達成されているでしょうか。というのです。そして、生徒の実態を思い浮かべてみると、勉強ができる子はすでに解ける問題から、あっという間に片づけてしまい。勉強が苦手やわからない子は解ける問題だけ解き、解けない問題はそのままにして翌日、提出することが多くなります。

 

本来の「学力を高めること」や「学習習慣(自ら学習に向かう力)」をつけるためには、自分が「分からない」問題を「分かる」ようにするプロセスが必要ですが、宿題にはそれが欠けているのです。わかる子どもには無駄な作業で、分からない子には重荷になっているというのです。そして、教師は宿題を出すのであれば「分からないところをやっておいで」と声を掛けなければそもそもの宿題の目的は達成できないのです。

 

工藤氏は「分からない」ことが「分かる」ようになるためには2つの作業が必要と言っています。一つは分からないことを聞いたり、調べたりすること。二つ目はそれを繰り返すことで定着させることです。そして、定着させるためには書き写したり、読んだり、集中して聞いたり、何かと何かを関連付けて覚えたりなどの方法があります。何より大切なのは自分の特性に合った方法を見つけることであると言います。

 

保育の中での活動で考えてみると、同じような状況はよくあります。子どもが作品を作っている中、やりたくなかったり、苦手な子どもがいたときにその子にどう介入するかはとても難しい問題です。以前、私が実習生だったころ、責任実習の折り紙でどうしてもやりたくない子がいました。泣き叫びながら嫌がるのですが、先生は何とか声を掛けるように言われたので、その子につきながら、ほとんど私が作り、その子は折り紙に触る程度でした。結果、全員折り紙は作ったのですが、その後その活動はやりたかった子はいいが、その泣いていた子に対しては一体どういった学びになったのだろうかと疑問に思いました。ともすれば、もしかしたら、得意な子はつまらなかったかもしれません。結果、その活動は苦手な子には重荷になってしまっていました。しかし、その活動はその子にとってはあまり意味のなさないものになっていたように思います。そして、その時に、同じクラスでも「やりたい子」と「そうではない子」がいたり、「得意な子」「苦手な子」がいるということを感じましたし、1本道の活動はこういった子どもが出てくるということを感じました。

 

現在、「選択制」で制作をするようになりましたが、それは麴町中学校の宿題の取り組みと同じような発想だと改めて感じます。そして、自由遊びは活動の中で行ったことをよりふかく遊び込める瞬間じゃないかと思っています。そして、それが意欲につながっていくのではないかと感じます。制作活動をすることだけではなく、その後の自由遊びも同時に大切であるということが分かります。そのための環境であり、幼児は特に幅が広い保育や環境を作ることが求められるということがよくわかりますし、乳幼児においても、中学生においても人が学ぶことのプロセスはそれほど大きく変わらないということを感じます。

手段が目的化

保育を行っていても、いつの間にか始めは子どもたちがやりたいものややってみたいものから始まった活動や作品作りでも、それがいつのまにか「去年やっていたから」とかいつしかそれが「伝統」という形をなしていくことがあります。そうなってくるとそのもの自体が「やらなければいけないこと」になってきます。

 

こういったことに対して工藤氏は著書「学校の当たり前をやめた」の中で現在の教育において「手とり足取り丁寧に教え、壁に当たれば過ぎに手を差し伸べる。喧嘩や対立がおきれば、担任が仲裁にはいり、仲直りまで仲介する。そうして手厚く育て挙げられた子どもたちは、自ら考え、判断、決定、行動できず、「自律」できないまま、大人になっていきます。」と言っています。

 

それは結果として大人になってから、何か壁にぶつかると「会社がわるい」「国が悪い」と誰かのせいにするような大人になると言っています。そして、それは学校教育の根本に問題があり、それが「手段が目的化」してしまっているからだと言っています。

 

「例えば国が示す学習指導要領は、大綱的基準にすぎないのですが、多くの教員はこれを「絶対的基準」と考えがちです。その実、学習指導要領を読み込んでいるわけでもなく、教科書に従って授業をしている教員が大半である。つまり、子どもたちに必要な力をつけるための「手段」であるはずの学習指導要領が「目的」となり、消化してこなす対象となってしまっているのである。」というのです。そして、工藤氏は「目的と手段を見直し、学校をリデザインするといった改革を始めます。それは「目的の本質を見極め、適切な手段を考え抜いてきたことを長い教員生活の中で感じてこられたからであるのです。そして「学校教育は多くの法令等で規定され、廃止することができない部分もあるが、大半の部分は、法令よりも「慣例」によって動いているだけで、校長が覚悟をもって、自らの学校が置かれてた立場で何が必要かを真剣に考え抜くことができればいくらでも工夫できる。」というかんがえのもの教育内容を変化させているそうです。

 

これらの話を聞いていてもすべては生徒が「社会の中でよりよく生きていけるようにする」ことが意識されているのを感じます。私は保育をしているうえで、上記の工藤氏の話は学習指導要領を幼稚園教育要領や保育所保育指針、幼保連携型こども園教育・保育要領に置き換えれると思っています。そして、常々「理念なき教育はない」とも思っていますし、理念は学校ではなく、社会を見据えたものでなければいけないと思っています。そして、目的があるからこそ手段を行使します。手段だけがあって目的がないのは、英語が喋れても、喋る機会がないのと変わらないのではないかと思います。いくら勉強ができてもそれを生かせなければいけません。特に乳幼児教育は成績がないだけによりその本質を見つめなければいけないのではないかと感じています。

当たり前をやめる

工藤勇一 氏の著書「学校の当たり前をやめた。」という本を読んでいますが、そこで言われていることが今注目されています。何が注目されているのかというとそのが1つは取り組みがこれまでにないもので「服装頭髪指導を行わない」「宿題を出さない」「中間、期末テストの廃止」「固定担任制の廃止」と言ったことです。これまでの当たり前に行われていた学校教育の行い方とは真逆であり、むしろ、今まで大事だと言われたことと真逆なことが行われています。しかし、その内容をよく見てみれば、今の保育と共通することがたくさんあり、とても考えさせられます。

 

なによりもその取り組みもさることながら、この取り組みに至るまでの考えが非常に見守る保育に似ているのです。それは「目標と目的を取り違えないこと」「上位目標を忘れない」「自律のための教育を大切にする」ということです。こうしたいくつかの基本的な考え方を大切にして多くの「当たり前」とされてきたことについて見直してきたと千代田区立麴町中学校校長の工藤勇一氏は言います。

 

特に「目的と手段ー学校とはなんのためにあるのか」ということに関しては強く問題提起しています。多くの学校では宿題や定期考査に向けて、学習に励んでいます。そして、教育は学習指導要領に基づき、一人一人の学力を伸ばそうと、手厚い指導を行っています。教室には「みんな仲良く」などの目標が掲げられ、学級担任の指導のもと、「和」を重んじた学級経営が行われています。しかし、この当たり前のような学校のようすでさえ、工藤氏は疑問を持たれています。というのも、工藤氏は「学校はなんのためにあるのか」それは、「学校は子どもたちが社会の中でよりよく生きていけるようにする」ためにあると考えています」というのです。続けて「そのためには子どもたちは「自ら考え、自ら判断し、自ら決定し、自ら行動する資質」すなわち「自律」する力を身につけさせていく必要があります。社会がますます目まぐるしく変化する今だからこそ、私はこの「教育の原点」に立ち返らないといけないと考えています。」と言っています。

 

このことは保育をしていても同じように感じます。保育に置き換えていくと多くの幼稚園や保育園では先生が設定する作品作りや活動を行って、時に自由な遊びをしながら遊んでいます。そして、小学校に向けて5歳児は文字の練習や園によっては英語の始まりなども行っていますが、私は乳幼児も工藤氏が言うことと同じように「社会の中でよりよく生きていけるようにする」ということに関しては同じ目標であると考えています。そして、「自ら考え、自ら判断し、自ら決定し、自ら行動する資質」すなわち「自律」する力を身につける。ということに関しても全く同じであり、学校教育においても乳幼児教育に関しても「教育の原点」とは同じ目標であると感じています。そして、今後の子どもたちが生きていくであろう未来の社会に向かうためには「教育の原点」に返らなければいけないというのは乳幼児教育からなのだと思います。

 

そして、工藤氏は「学校をリ・デザイン」していくと言っていますが、それはどのようなことを言うのでしょうか。