教育

固定担任制から全員担任制①

工藤氏の麴町中学校の変革は今自園で行っている実践にもつながることや共通することが多くあります。そして、工藤氏の変革の一つ「全員担任制」は自園での「チーム保育」と共通することが多々あります。

 

まず、工藤氏は現在の固定担任制に疑問を持つところから始まります。固定担任制において一番の問題になるのは良くも悪くも、「先生の裁量」がとても重要になるところです。ここでは「保護者の学級の良し悪しは担任に紐づけられる」と言います。そのため、担任は子どもたちに対して学習面から生活面に関して手厚く面倒を見るということが「丁寧な指導」「面倒見の良さ」という評価を受けるため、学校や教育委員会がそれをセールスポイントにすることが少なくないそうです。教員自体も学級の生徒の人生を背負っている気負いになり、加えて「生徒に好かれたい」という気持ちが強くなるほど、指導は手厚くなります。しかし、その面倒見の良さは子どもたちにとっては自分で解決できない問題に直面した時にうまくいかない原因を自分以外のまわりに求め、安易に人のせいにしてしまう傾向があるように思うと工藤氏は言います。自律をまなばないと物事がうまくいかないと担任教員に責任を転嫁するのです。たとえば、勉強が分からないと「授業が分かりにくい」、忘れ物をすると「聞いてない」というように丁寧に指導した結果がこうなったのだというと皮肉です。

 

また、全員担任制には子どもたちの中にある「勝ち組」「負け組」の意識を少なくするねらいもあります。教員集団は様々な年齢やキャリアで構成されていますが、力量に差が出るため、良くまとまるクラス・そうではないクラスができてしまうことや定期考査でクラス平均を出すことでクラスの対抗意識を助長し、優劣観や劣等感を生む側面もあると言います。学級崩壊にしてもまとまっているクラスとそうではないクラスとの格差が大きいときに起こることが多く、他と比べることで不平不満が高まり、反感が生まれるのだと言います。

 

実際、工藤氏も教員時代は自分の学級を「勝ち組」にすべく取り組み、まとまってくることに喜びを感じていたそうです。そのため、他のクラスよりも自分のクラスを優先することになっていたのを今思えば感じているそうです。

 

しかし、その後年上の教員の先生と同じ学年を持つことになり心境の変化が起きたそうです。それは「このクラスの先生に勝ってもうれしくない」と思ったことであり、その後「両方のクラスをよくしていこう」という気持ちに変化したそうです。では、全員担任制にしてどうのようにかわってきたのでしょうか。

 

 

定期考査の評価

工藤氏は定期考査を無くしたことで一つの大きな問題に直面したと言っています。それが「生徒の評価」です。本題であれば2000年ごろから評価方法が「相対評価」から「絶対評価」に変わっているので、点数の序列ではなく、一人一人の到達度に応じて評価する方向に舵が切られています。そのため、生徒全体に「5」の評価をつけることができます。しかし、全員に「5」の評価を与える学校はないというのです。その理由は教育委員会から「不適切だ」として指導が入るだろうというのです。その理由があるとすると、高校受験の内申点とそれに伴う推薦入試があるからだというのです。この内申点の基準となるのが通知表で、ここで順位がつかなければ、推薦入試が成り立たないというのが主たる理由として考えられるのです。しかし、この方針は国の方針と矛盾しています。ここでも、「これまでの教育」というマイナスのベクトルが働いていますね。

 

しかし、結果として麴町中学校では定期考査を廃止し、単元テストに切り替えたことで、生徒たちはこれまで以上に自分で考え、よく勉強するようになりました。勉強時間が増えた子もいます。「自宅で机に向かっている時間が増えた」という声も保護者から聞こえてきました。そのうえで、効率的に学習できるようになった結果として、勉強時間が減って場合もありますが、それでもいいのです。子どもたちが自分の意志で主体的に学ぶことが大切なのです。単元テストの回数は定期考査を実施していた時よりも多くなりました。しかし、その点で生徒たちが同じ時期に複数の単元テストが集中すると、部活動も両立しては負担が大きくなりパンクしかねません。教員同士が連絡を取り合う形で単元テストのスケジュールを調整します。

 

日本の学校には「ある時点で評価する」仕組みが浸透しています。基本的な理由は生徒の「評価」のためです。しかし、こんなことを続けているようでは、学生が社会で役立つ本物の専門性を高められないのではないかといいます。まずは大学が前期・後期のテストを廃止し、日々の授業の中で、プレゼンテーションやディスカッションする様子を適切に評価するなどの仕組みを整え、学生の本質的な学びを促すべきだとおもいます。

 

よく保育の中で、自由遊びが多いと子どもたちは小学校に行ったときに勉強ができるのでしょうか。と言われることがあります。そして、45分座れることにとても心配される保護者がたくさんいます。しかし、45分座れるから勉強ができるようになるのでしょうか。それよりも学びたいという「意欲や好奇心」があるほうが学びにつながるのではないかと思います。そのために、いろいろと遊び込むことや試すことで知る楽しみや試す楽しみを得ることにこそ、学びの始まりはあるように思います。「やらせる」ことは簡単ですが「やりたいこと」を見つけることは子どもが主体的に動かなければできません。いかにその意欲を持てるようにできるのか、それは乳幼児教育だろうと中学校教育だろうと変わらないのが分かります。

定期考査

麴町中学校の工藤勇一氏は宿題だけではなく、定期考査自体も無くしていきます。それは定期考査、つまり、期末試験や中間試験において、一夜漬けをしてテストに挑むことが多いことに疑問を感じています。一夜漬けでの学習は「テストの点数を取る」という目的においては有効ですが、学習成果を持続的に維持するうえでは効果的とは言えない。テストが終わったらかなりの部分が忘れてしまうからです。そして、さらにいえば、一夜漬けで片付ける「悪癖」がつくことの弊害も少なくないと思います。工藤氏の経験で直前になってから「やっつけ仕事」で片付ける傾向があったのだが、こうした習慣も中高生時代の定期考査対策を通じて身に付いたものではないかと思うことがある。つまり、物事のギリギリまでやらず、切羽詰まった状態であわてて行う習慣をつけたのは定期考査でついた癖になってしまっているというのです。

 

そして、何よりも定期考査が法律や教育委員会規則等で決められているものではないが、全国どの中学校にも共通しているのは「通知表をつけるため」であって、定期考査の点数で生徒を序列化し評価をつけるというのです。そして、そのことについて「そもそも学力をある時点で切り取って評価することに意味はあるのだろうか」と考えたそうです。テストを実施する目的は何かと考えたとき「学力の定着を図る」ためのものと考えると「目的と手段」のねじれが見えてきました。そして、すべての生徒が効率的に学力を高められるよう学習システムの再構築を図ります。具体的には定期考査を無くし、単元テストを行う。たとえば「比例と反比例」の単元が終ればテスト、社会科なら「中背の日本と世界」の単元が終ればテストといたようにまとまり事に小テストを実施します。そして、単元テストは再チャレンジできるようにし、理解できない部分を一つずつわかるように授業を重ね、着実に学力を高めていけるようにしたそうです。そして、年に3回だった実力テストを5回に増やしました。それは実力テストは出題範囲が事前にしめされないため、生徒たちの本当の学力を測ることができるからです。

 

これらの手法は日本では非常に珍しいですね。しかし、理解できるまで付き合ってくれる枠組みというのは生徒の確実な理解につながることだと思います。海外では日本でいう「落第」を「stay」というそうです。「落ちこぼれる」という意味ではなく、「分かるまで留まる」という意味ですが、非常にポジティブなとらえ方ですね。分からないを分からないまま続けてしまうと次第とやる気も意欲もなくなってきてしまいます。しかし、自分で理解すると次の意欲につながっていきます。工藤氏は定期考査を無くすことは生徒たちに楽な思いをさせるわけではない、と言っています。ここでの工夫は「しなければいけない」ものではなく、自分の今の実力を見つめなおすものとしてのテストのあり方に見えます。つまり、それは自己評価に近いのではないでしょうか。一夜漬けでごまかすことのできない、自分の今の理解度を認める機会としてテストのあり方を変えているのだと思います。そして、もう一度やり直すチャンスもあるというのも大事なところですね。わかるのが目的であれば、一回のテストがすべてではないのでしょう。一つ一つのあり方が自分の自信につながるような工夫を感じます。

 

子どもと宿題

麴町中学校の工藤氏は宿題の全廃を行っていますが、宿題の意義を見直すと果たして宿題自体が必要なものなのか、教員自体が子どもたちを評価するための尺度というのも珍しくない中でそれでいいのかと言っています。そして、宿題をするために机に座っていることに保護者は安心するが、本当に大切なのは「勉強時間よりも勉強の中身」であり、自律的に学ぶ経験を積まないと決して工夫して仕事ができる人にはならないと言います。そして、「もっといえば、私は学校でしっかりと勉強をして、家では、好きな音楽を聴いたり、本を読んだり、スポーツをしたり、あるいは、ぼんやりと思索する時間のほうがよほど有意義だと思っています。そうした時間の中で、自分自身の内面や思考が整理され、大切なことにきづいたり、思いついたりすることはたくさんあるに違いありません」とあります。

 

宿題を全廃したことに一番喜んだのは受験を控えた3年生だそうです。それは「負担が減った」のではなく、自分には重要ではない非効率な作業から解放されたからであり、自分の時間を自分の考えで使えることの大切さを生徒たちは敏感に感じ取ったのではないかというのです。もしそうなのであれば、教員の望んでやらせようとしていることはまったくもって生徒たちのニーズとはミスマッチしているということになるのでしょう。そのうえで、もしそれでも宿題を出したい教員がいたら、生徒たちに「すでに十分にできる問題はやらせちゃだめだよ。よくわからない問題に頑張ってトライしてくるんだよ」と伝えるべきだというのです。それは学習は「できない問題」を「できるよう」にするプロセスでないと意味がないからなのです。そして、何より重要なのは「学校の中で学習してきたことを理解できるようにすることであり、生徒が主体的に学ぼうとする仕組みを整えることです。そのために自ら自律的に学ぶ姿勢を奪わないようにしなければいけないのです。

 

保育をする上で様々な活動を行っていきますが、そのとき保育者は「今、子どもたちはどんなものに興味があるのだろうか?」「子どもたちにとってこれから提案する活動を楽しんでくれるだろうか?」いつも自問自答しながら子どもたちと向き合っているのですが、それが一本道であると結局「させなければできない子」を産んでしまう危険性があります。しかし、その中でもやはり先生がおしえなければいけないことは多くあります。だからこそ、選択する自由の幅は必要なのだと改めて思います。子どもたちのやってみたいと自分から主体的に思えるように近づける活動が求められていくのだと思います。そして、それは社会につながる力になるのは間違いないように思います。

宿題よりも本質

麴町中学校でははじめ工藤氏が校長で赴任した当時、宿題の多さに驚いたそうです。そして、その後、段階的に宿題を無くしていき、4年を迎えるころに「全廃」に至りました。

 

当初は宿題の全廃には一部疑問を持ち、抵抗感を出す教員もいたそうです。そう言った教員の方に工藤氏は「批判や誤解を恐れずに言えば、教員が宿題を出すのは子どもたちの『関心・意欲・態度』を測り、評価(通知表)の資料とするためではないですか。もっと私たちは専門性を発揮しないといけない」と説明したそうです。そして、この問題には一つの流れがあるといい。そもそも「評価」が、かつての相対評価から絶対評価へと変わっており、その中で「関心・意欲・態度」という観点別評価を行うようになっています。通知表には、学習の理解度・到達度だけではなく、学習に対する「関心・意欲・態度」は目に見えない尺度だけに、評価するのが難しいものです。そのため、宿題の提出量や授業中の挙手回数などをカウントし、それを評価に活用していることは珍しくありません。

 

本来であれば、そうした数字に頼らず、子どもの成長や可能性を読み取るのが専門職たる教師の役割です。と言っています。そして、宿題のために学習机に向かうことで保護者は安心はするが、本当に大切なのは勉強時間よりも勉強内容であり、自律的に学ぶ経験をつけないと、決して工夫して仕事をする人にはならないと言っています。

 

「関心・意欲・態度」は保育においては「心情・意欲・態度」です。その本質を知ると決してその活動そのものに意図はないのです。「その活動で何を意図するか」のほうが大切なのです。中学校でこのことを行うのはとても容易なことではなかったのですが、多様な社会の中で生きていくためには、その中心となる意図をシンプルに考えることはとても必要とされているように感じます。やはり意図や理念、先の見通しといったものを意識することは大切です。