教育

学校と寺子屋

工藤氏は著書「学校の当たり前をやめた」という本の中で再三、学校と社会をつなげて考えていくようにしています。実際保育においても、社会は無関係ではないですし、教育において社会を意識せず成績ばかりがすべての価値としてあるのは教育の本質としてはまさしく「目的」(社会)のために「手段」(勉強や学校)があるのではなく、手段(勉強)が目的になっているのだと思います。

 

では、社会の中ではどういった力が必要なのでしょうか。麴町中学校の工藤勇一氏は社会には「コミュニケーション能力」と「経済活動」を行うためのスキルが必要だと言っています。そのうえで、江戸時代の寺子屋の文化は非常に優秀な教育の形態だと言っています。①のカリキュラムについては「読み」「書き」「そろばん」です。これ自体は経済活動に非常に重要な知識や技能であり、武士の子どもだけではなく、商人から農民に至るまでの子どもたちが今よりも若い年齢で習得し、家計をさせていました。➁「教え方・学び方」については基本的には「自学と学び合い」です。子どもたちは学問を進めていく中で分からないところは友だちに聞いたり、教えたりしながら主体的に取り組みます。今の教育のように教師による一斉保育の形で教えられることはありません。こういった学び方は世の中の営みそのものだと工藤氏は言います。大人においても子どもにおいても本質として学ぶという過程は同じなのです。こういった主体的で対話的な学びの形態というのを中心と目指しているのが現在小学校や中学校で求められるアクティブラーニングの考え方なのです。「一方的な講義的なスタイルで座って、誰かの話を聞く」というのは当たり前ではなく、対話し、発信し、受け取り、合意形成を行うことで、物事を解決するというのが社会の形であるのだから学校においても社会の当たり前を学べなければいけないというのです。

 

こういった教育を行っていくことで江戸時代の寺子屋は私設の教育機関でしたが、就学率が高く、江戸末期は日本の識字率は高かった言われています。そして、そこで培われた技能や知識によって明治期の奇跡的な産業的発展ができたと言われています。しかし、明治以降西洋の教育制度をモデルにした一斉講義形式の授業が行われ、今の学校教育と同じような形になりましたが、その反面、実生活の営みと離れてしまい、学校に通う子どもたちの生活実態や学ぶ内容と意義を家族が認められないことがあり、就学率が低迷することになります。その要因は明治期の学校が「社会の中でよりよく生きていける」ための手段として、適切と感じられなかったからかもしれません。近年の不登校の子どもたちはもしかすると学校に行く意義を見出せなくなっている子どもがいるからかもしれないと工藤氏は言っています。

 

保育の勉強をしていくなかで、「乳幼児教育」ということはなんなのかと考えることがありました。結果として、それは社会につながる力というように思っています。事実、教育基本法には「平和的で民主的な社会の一員となる資質を備えた人材を育てる」とあります。それは「言われたことをする子ども」ではなく、「自律した子ども」を育てることでもあるのです。子どもが豊かに育ってくために教育とはどうあるべきなのか、保育とはどうなるべきなのか、手段が目的になるのではなく、しっかりと目的のために手段を考えていきたいと思います。

学校って何のためにある?

工藤氏は何度も「手段が目的化」していることにおいて廃止や見直しをする必要性を話しています。そして、現在の学校教育を見渡すと、目的の手段の不一致はもちろんのこと、手段自体が目的化されているようなケースがたくさんあることも話しています。加えて、そうした矛盾に多くの人が気付いていないか、あるいは「見て見ぬふり」をして、何らアクションを行っていないことに疑問を感じています。そして、その検証のスタート地点として「学校とは何のためにあるのか」という問いから始めます。

 

そもそも学校とは人が「社会の中でよりよく生きていける」ようになるために学ぶ場所です。そして、その結果として、学校で学んだ子どもたちが将来、「より良い社会を作る」ことにつながっていくと考えています。勘違いしてはいけないのは「学校に来る」こと自体は、社会の中でよりよく生きていけるようにするための「手段」に過ぎないということであると考えています。そのため、学校に行けなくても、学校以外にも学びの場はありますし、社会とつながることだってできるというのです。学校に来て、学習指導要領に定められたカリキュラムをこなしても、知識を丸暗記しても社会でよりよく生きていけるとは限らないのです。

 

麴町中学校でも不登校になる生徒はいるそうですが、不登校についてこう話しています。

「今、不登校に苦しんでいる子どもたちやその保護者の方々の中には、誰かを恨んでいる人がいるかもしれません。その一方で、自分自身を強く攻め続けてもいます。そうした人たちに『とにかくもう自分を責めないでほしい』『あなたは何も変わらなくていい』と伝えたいと思います。」そして、一般的に不登校になった子どもの母親は特に苦しい思いをしていると言っています。それは母親が「こうなってしまったのは自分のせい」と自分を責めているからで、その苦しみは夫や家族、他の誰かに向けられるがその影響は子どもたちに大きく影響すると言っています。子どもたちはさらに自分を責め、母親を責めることによって、自分自身を安定させようとしているかのように見えると工藤氏は言います。このような自分を責めるような状態では自律にはつながらないというのです。そして、学校の役割は子どもに学びたいという気持ちをいかに持たせるか、一人一人の学びをどのように保障するのかを考えなければいけないのであり、それができないのであれば他の方法を考えればいいというのです。

 

最近の保護者を見ているとすごく子どもに対して、園での様子もすべて知っていたいという保護者がとても多いように思います。しかし。その裏には「こうなってしまったら自分のせい」といった思いがよりすべてを知っておきたいという意識にもつながっているのかもしれません。日本はそういった意味ではとても「親信仰」が強い国だと思います。しかし、その主体は親ではなく、その子自身にあり、親の責任は本来それほどでもないのかもしれません。だからこそ、子ども本来の「生きる力」というものを信じて関わることは大切なことになってくるのだと思います。

Not 心の教育

道徳科とした小学校の授業が始まっています。小学校において道徳とは平成29年に告示化された小学校教育要領において、道徳は「よりよく生きるための基盤となる道徳性を養うため、道徳的諸価値についての理解を基に、自己を見つめ、物事を多面的・多角的に考え、自己の生き方についての考えを深める学習を通して、道徳的な判断力、心情、実践意欲と態度を育てる」と書かれています。「自己を見つめる」ことや「自己の生き方についての考えを深める」ことが大切なのですね。幼稚園においても「思いやり」や「相手の気持ちを知ること」などは話題に上がることが多いですし、先生方もどう子ども同士がうまく関われるかを考えています。

 

麴町中学校では「心の教育」を「社会にとってよい行動を行うことができる人を増やす」という目的のために心の教育はあるとしています。そこで工藤氏は京都の薬師寺の僧侶の話を紹介しています。「心の持ち方、ありようによって行動が変わり、行動を変えると心をかえることができる。『面白くない、つまらない』と思って授業を受けていると、ついつい頭が下がり、居眠りしてしまったりする。それは、自分の中にある、ぐうたらな心が自分の行動をそうさせている。しかし、たとえ、寝不足などで体がひどく疲れ切っていたとしても、姿勢を正し、頭を上げ、顔をしっかり意識して向けていくことによって、元気な心が生まれてくる」。心が行動を決め、行動は心を決めるというのです。「心の底からやさしいことをしたいと思っているのに、人目を気にするあまり、行動できない人」と「決して純粋な理由ではないけれども、よいことを行っている人」どちらの人がより価値があるのかと言っています。人は行動の積み重ねで評価されていくものだと工藤氏は考えていますし、そもそも人の心の中など簡単にわかるものではないと考えています。そして、「心はみんな違っていい」はずであり、人の価値観、考え方はみんな違ってよいとした上で、人は行動こそが大切だという「行動の教育」を伝えていきたいと思っているそうです。

 

そのため、工藤氏は1年生全体の道徳の授業を年度初めに行っていますが、そこで命、人権を大切にすること、差別をしてはいけないことの重要性について話をします。そして、人を差別する心を完全に消し去ることはできないかもしれないが、そのことを意識すれば、差別をしないことはだれでもできる。そうした人間になることこそが大切だと伝えているそうです。そして、小学校や幼稚園で心の教育の象徴としてよく言われる「みんな仲良くしなさい」という言葉に対して、コミュニケーションが苦手な子どもたちは苦しい思いをしているのではないか。良かれと思って多くの教師がつかっていることばで、結果として、子どもが排除されてしまってはいけない。「人は仲良くするのは難しい」ということを伝えていくことのほうが大切だと考えているとしています。

 

全員がコミュニケーションが得意ではなく、そうではない生徒もいるという視点は保育においても大切なことだと思います。全員が同じではなく、いろいろな個性をもった人がうまく折り合いをつけながら、歯車のように補い合いながら社会はあると思います。もしかすると、私たちの教育自体が一つの固定概念を作ってしまい、その価値観にない人を排除するような考え方にしているのかもしれません。「でなければならない」という結果の行動を考えるよりも、「こうであるようにする」といった前向きな行動を求めるような形のほうがいいのかもしれません。

誰もが楽しむ

工藤氏の変革は「宿題の廃止」「クラス担任の廃止」「定期考査の廃止」だけではない部分にも影響していきます。それは「運動会のクラス対抗」でした。このことに関しては工藤氏からではなく、生徒が考え生徒会の中で話し合われた結果、「クラス対抗」であり、工藤氏は「生徒が目的を達成する手段として適切ではないと生徒たちが判断した」ことが理由であると言います。

 

そのことについて工藤氏は生徒たちに一つの条件を出します。それは「生徒全員が楽しませること」を目的にすることです。運動が必ずしも得意でない生徒も、運動会を楽しみにしている生徒にも、全員楽しめるものにしてほしいと生徒に話したそうです。生徒ははじめ「クラス対抗リレー」をしたいかどうかのアンケートを取ります。すると、9割が「やりたい」と言い、1割の生徒が「やりたくない」という結果だったそうです。これまでであれば9割が「やりたい」のだから「クラス対抗」を行うことになるのですが、「全員が楽しませる」ためには1割の生徒の「やりたくない」を無くさなければいけません。何度も話し合いが繰り返される中「全員リレーをしない方が全員のためになる」という考えに至ったのです。

 

そこでそもそも「運動会・体育祭」の目的は何かといった時、「競争力を養うこと」や「運動能力の優劣をつける」ことにあるのであれば「クラス対抗」は適切な手段なのかもしれないが、麴町中学校の体育祭の一番の目標は「生徒全員を楽しませる」ことを最上位目標にしていると言います。生徒の中には運動が得意ではない生徒もおり、運動会や体育祭が憂鬱な生徒もいます。クラス対抗のリレーや大繩跳びで自分のミスによって周囲に迷惑をかけ、責められ人間関係にひびが入る可能性もあります。「全員が楽しむ」ためには運動が苦手な生徒の居場所もつくらなければいけません。クラス対抗の形での勝敗を意識すると勝利したクラス以外の生徒は悔しい思いをし、運動が苦手な生徒は肩身の狭い思いをします。それでは「全員を楽しませる」ことにはならないのです。

 

これまでの学校教育では「規律」や「団結」が尊ばれ、チーム一丸となって何かを達成することが目的とされていました。しかし、個人に自己犠牲を求め、個性を認めないような組織は本質的に強くなれないと考えている。と工藤氏は言います。そのうえで、学校における体育の目的については、技能を高めることや競争心を養うことよりも、運動の楽しさを求めることのほうが大切だと考えている。と言い、スポーツは自分の人生を楽しませる、友だちのようなものであってほしいと思っていると話しています。

 

私自身も「行事」においては、その本質を改めて見直す必要があるということを感じます。

「教育の本質としての運動会・体育祭」、いつの間にかそれが「運動会をする」ことにとって代わられている時代なのかもしれません。そして、何よりもその主体が「子ども」ではなく、それを見ている「大人」になっていたりとなっている場合もあります。規律や団結を否定しているのではなく、その中にも社会があり、それを調整していく力はこれからの社会でとても重要な意味合いを持ってくると思います。こういった本質を見たうえで保育を進めていく必要性をとても考えさせられます。

固定担任制から全員担任制➁

いよいよ麴町中学校の担任制を固定担任制から全員担任制に変えることになるのですが、工藤氏が参考にしたのが、「チーム医療」です。患者にとって最も適した医療を受けることができるように心のケアや専門性の高い処置を行う病院の取り組みは学校に置き換えると子どもたちに最善の手立てを学校全体でとるということになるといいます。

 

具体的に言うと教員一人一人が得意な分野を生かして生徒にとって大きな価値につなげていくという考え方です。教員には生徒のサインを読み取るのが得意な先生、保護者対応が得意な先生、ICTの活用にたけた教員、様々な個性を生かし合うことができる学年運営に変えることを目的にしています。また、学級活動や道徳の授業は2人体制で各クラスへ出向いているそうです。このように幅広い教員とかかわりを持ち、価値観を広げることに大きなメリットができます。また、三者面談は保護者と生徒が教員を指定する形を行っています。このように幅広くクラス運営をすることができるため、クラス意識による「勝ち組」「負け組」といった生徒や保護者の意識が変わります。

 

しかし、その反面、非常に重要になってくるのが教員間の連携です。日ごろから密にコミュニケーションをとらなければいけません。そのため、どの学年も週に1回会議を行っており、日常的にコミュニケーションを取り合いながら情報共有を行っています。そうすることで全体担任制にして、逆にコミュニケーションが劇的によくなったと教員は話しているそうです。

 

これらの全体担任制は自園での「チーム保育」と非常に考え方が似ています。我々の保育において、子どもたちの発達を見通すことがとても重要である中で、多角的に子どもたちを見る目線は非常に重要です。4人一組で子どもたちを見るほうが幼稚園では活動に活発な子とそうではない子の両方をカバーすることができます。そのため、一人一人にあったかかわりができます。そして、保育でも絵が得意な先生、ピアノが得意な先生、積み木が得意な先生と得意なものは様々です。得意な人が得意なことを行い、職員が楽しく保育をすることは子どもたちにとっても非常に影響を与えると考えています。また、職員にとってもお互いの保育を見あうことで刺激にもなります。チームで行うことは非常に利点が多いということがわかりますが、この形になるまでは様ざまな課題も多くあります。しかし、今後の保育において変革を行っていくことは非常に重要な意味を持つと思っています。

 

工藤氏は様々な変革の中で学校の上位目的に照らし合わせて適した手段が行われていないのであれば、100年続いた制度や仕組みであっても変える必要性を話しています。そして、そのうえで校長や教育関係者が変える柔軟性を持つべきだと言っています。