教育

対立と向き合う

保育の方法を変えることや何か新しいことを変えるときには必ず対立が生まれます。それは麴町中学校の教育改革においても、無縁ではありませんでした。当然のこと反対者がいたのですが、工藤氏はそういった反対意見がでることは当たり前と思い、「対立はあってあたりまえ、それを対話で乗り越えていかなければいけない」という考えのもと改革を続けていきます。

 

そして、その中でも中心となる考えは「トラブルを学びに変える」ということです。これは生徒に対して工藤氏が言っていることだそうです。トラブルが起きることはありますが、そのトラブルを子ども自身の自律的な学びにどう転換するのかということが最上の目的であると言います。さらにこのことを大人の信頼を増すきっかけにもしたいと言っています。そして、解決する家庭において、保護者の信頼を得ることができ、そのことが子どもの成長にも良い影響をもたらす。そうしたうえで、教員が保護者とともに子育ての難しさと大切さを共有できれば、そうした大人の話合いなどを見ている子ども自身が当事者として「可決するのは自分自身」と気づいて変わっていくのだと言っています。

 

よく保育をしていく上で、「子どもが変わると保護者も変わる」というのは私の持論なのですが、子どもが自律をする過程を念頭において子どもたちと関わることはとても重要な意味を持つと思います。大人がすべてを解決することは子どもたちにとって、せっかくの問題解決の場面を奪ってしまいかねません。自分で解決することで自信をもち、それを繰り返すことで、自律につながっていくと考えています。そして、その姿を見ることで保護者も安心して子どもを見守ることや信じることができるようになっていくことにつながると考えています。

 

工藤氏は「考え方に違いがあるのは『当たり前』のことと捉えたうえで、上位目的を見据えながら、合意形成を図ることが重要」と言います。そして、麴町中学校の「目指す生徒像」には「感情のコントロールする」ことも掲げられているのです。

 

大きな対立があっても、上位目的を見据えて対話を図れば、必ず合意形成に至ると工藤氏は言います。逆に対話を行わないまま状況を悪化させると、例えば、組織内に派閥が作られることがあるのです。そういったときに工藤氏は「声の大きな教員たちのグループにも私は主張するべきことは主張し、同時に反発する教員グループに対しても一定の距離を保ち、どちらかのグループに属さないことを心掛けました。どちらかのグループに入ると感情的にもなりやすいですし、何が適切なのかを考えるというよりも、「相手の意見をつぶす」ことになりがちだからと言います。

 

これはあくまでも、管理職という立場を鑑みて、教員自体に自律的に当事者意識を持たすためにはあまり介入しないようにする必要があるのだと思います。自分たちで考え、行動に移すようにするためにはその距離感は重要になってくると思います。なによりも対立がないことはかえって健全なものでもないのかもしれません。ポジティブとネガティブもバランスを持たさなければいけない。孔子のいう「中庸」の考えなのでしょうね。こういったことを乗り越えることで風通しのいい組織が出来上がってくるのでしょうし、そういった仲間意識は子どもたちにとっても影響してくることだと思います。

先入観から作られる「問題」

教育の中で言われる「小1プロブレム」や「中一ショック」など、子どもたちが教育を受けていく中で起こっている問題をよく聞きます。私は常々、保育をしてく中で、こういった子どもたちが小学校や中学校に上がっていく中で起きる問題において、幼児教育ではどう対応していったらいいのかと考えることがあります。そして、この問題に私は保育は大きく関わっていると思っています。そして、学校教育に向けて、どう意欲を引き出すのかということが就学前教育には重要なのだと考えています。そして、それは「我慢させる」ことでもなければ「文字指導や学習指導」をすることでもありません。「自分だったらできる」という自信をつけることが「粘り強く頑張る」ことや「やってみようと前向きになる」姿勢につなげるのであって、それを土台に「学習意欲」につながるのだと考えています。

 

では、こういった問題に対して、麴町中学校の工藤勇一氏はどのように考えているかというと、そもそもの子どもに対する教育に対する先入観に対して疑問を投げかけています。というのも、最近出てきた「小1プロブレム」という言葉は「小1はこうあるべきだ」といった専門家が一定の理想を掲げ、その理想から外れている子どもたちがいると使っている言葉だというのです。大人たちが「問題」と捉えることで「問題行動」になる。個々の子どもたちの発達の特性に視点を置けば問題行動ではなくなるというのです。

 

例えば、「不登校」においても、そもそも「学校に行かなければいけない」という固定概念があるから「問題行動」になり、「小1プロブレム」においても、その子どもの発達の一部の場面であって、環境を変えることで解決することが多くあるというのです。むしろ、大人が「~~しなさい」と叱りつけることで自己肯定感が失われてしまうことや守らせようとする大人の疲弊のほうが問題であるとしています。また、大人が取るに足らない問題を取り上げ、言葉にすることで、問題になることもあるというのです。このことは大人の関わり方から起きる様子を見ることがありますね。大した問題ではないことなのですが、「~こういうことがあった?」と聞くと「そういえば、あったかも」というように少しのきっかけが大きな問題に変わることはよくあることです。「忙しいでしょ、大丈夫?」と声を掛けることで元気がなくなる子どももいれば、「受験勉強、大変だね」と声を掛けられることでかえってプレッシャーに感じてしまう子どももいます。大人が良かれと思ってかけた言葉で、子どもは救われることもあれば、追い込まれることもあります。何かと子どもに手をかけてしまいがちな現代社会において、特に意識しておくべきだと工藤氏は言います。

 

このことは保育を進めていく中でもよく起きることです。大人が過剰に反応している反面、子どもたちは自分で解決していることもあります。以前、保育をしているときに子どもが「もう知らない!」といって離れた子どもを見て、私の先輩保育士が「仮にここで話が終っていても、喧嘩が完結していない子どもたちがモヤモヤしている気持ちって大事だよね。解決することがすべてではないよね」と言っていたのを思い出しました。大人はどうにか解決しようと思ってしまいます。しかし、子どもたちの心の発達を思うのであれば、解決の終わりも子どもたちに委ねなければいけないのだと思います。大切なのはその時の子どもたちの気持ちにどう共感し、寄り添っていけるのかなのだと思います。大人は子どもが必要な時にこそ手を差し伸べるのであって、すべて「やってあげなければいけない」というのは子どもたちにとっては「大きなお世話」なのでしょうね。

「当たり前」の見直し

「当たり前」を見直すことは生半可なことではありません。そして、一人で変えていくことも無理が出てきます。自分自身、これまでの保育からの転換期というのはよく考えていかなければ難しいものがあります。私が何よりも難しいと感じたのが、自分の考えと同調するような伝え方を周りの人にどう働きかけることです。周りに大きな変化を起こすがゆえにその大きな波に乗ってもらわなければいけません。そのため、本質として目標や目的に賛同してもらわなければいけないのです。

 

工藤氏は麴町中学校の教育形態を変えることにあたって、そこにある「当たり前」の見直しを始めます。その一つが課題のリスト化です。まず初めに「学校だより」や「学校のコラム」で徹底して発信を行い、校長がどのような考えや教育感を持っているのかを保護者に理解してもらうところから始めていったそうです。そのうちに考えに共感してくれる教員や保護者、地域の方々、応援してくれるNPO法人や教育に関心を持っている企業などが増えていくことになります。

 

そして、現状をありのままに受け止めるために課題のリストを作り始めます。その内容は工藤氏と教員とで初めは200項目くらいから始まったようです。その内容は学習指導や生徒指導といったものだけではなく、鍵の管理や個人情報の書類といった事務管理のものなども含められており、リスト完成後教員と改善・解決に向かう話し合いがもたれるようになってきます。また、このリスト作りには教員のための「自律」を高めることも取り組みに入っています。校長一人がリスト作りを行うと教員からするとそのリストのあり方は「やらなければいけないもの」になってしまい、仮に指示通りに行ったとしても大きな成果にはつながらないと言います。成果につなげるには教員が主体的に課題を発見し、解決策を見つけ、取り組んでいかなければいけないというのです。

 

しかし、大変なのは意見が相反したときです。ある人は「なくしたい」と思ったことでも、違う人は「より充実させたい」と思う人もいます。しかし、工藤氏はどちらも「学校をよくしたい」という思いのもとで何か手立てはないかと考えるプロセスはとてもよかったと言います。また、課題を「見える化」することで、学校の課題を誰かに委ねるのではなく、自分たちの問題であると当事者意識が芽生えたと言います。もし、課題の中で相反した場合は「生徒たちのためになるものか?」「学校のためになるものか?」と上位目標に照らし合わせ、話し合いを行い、解決に向けた合意形成を図っていったそうです。

 

こういった活動を進めていったことで、教員の当事者意識は芽生え、工藤氏が教員の仕事を増やそうとするわけでもなく、教員の労働時間削減や本気で学校教育の充実を図ろうとしていることを理解してくれるようになったのを感じたそうです。結果赴任3年で500項目にまで膨れ上がった課題のうち350項目の改善に至ったのです。

 

そして、何より課題の解決で一番教員に意識してもらったことが「目的」に対して最適な「手段」をとることを強調することにしたのです。

 

私の場合は物事の本質をとらえなければ、解決には至らないと思っているので、できるだけ「そもそも」と考えるようにしています。そうすると多くの悩みはとてもシンプルになるような気がします。自分と相反する考えもあるがその考えも踏まえたうえで本当に幼稚園のためになるのかを考えることは常に問い続けなければいけないと思います。そして、そのためには上位目的を明確にし、それを発信し、ブレない道筋を見通していくことが必要だと考えています。

リーダー指導と教員

教育や保育をしていく中で、社会を見据えて進めることはもちろんのことですが、そのうえで社会の中でのリーダーシップを育成することも教育の目的になります。これからの社会はAIや多国籍の人との関係などグローバルな社会であり、多様性を求められる社会になります。そういった社会の中で将来生きていかなければいけない子どもたちに対して、どういたアプローチをしていく必要があるのか。

 

 

工藤氏は生徒がリーダーシップをとる際に周りの子どもたちがうまく動いてくれないことに対して、「人はそもそも動いてくれないもの」としたうえで、「動かない人が動いてこそ、本物のリーダー」と言っています。そのために人を知り、自分を知り、言葉を選び、どのタイミングで発するかといった『戦略』が必要であると言います。そして、これからの社会は多様性を認め、イライラすることなく、自分が何をすべきかを考え、適切な手段をとれることが必要になってくると言います。その反面、同質性を求め、異質な人間を排除し、教育や指導によって心を変えようとするリーダーは決して成功しないと言っています。そのためには何より教員が多様性を認め、指導のあり方を変えなければいけないのです。

 

 

というのも、生徒を指導する場において教員は「形」を重視しがちだと言います。その形というのは例えば、生徒を集めた場合「整列しなさい」「静かにしなさい」といった言葉がけです。結果として子どもたちは整列したり、静かにしたりするでしょうが、それは「うるさいから」「怒っているから」といった表面的な部分を見ているに過ぎないのです。「形」として整っていても、その本質の「静かに話を聞く」という意義の部分にはつながらないのです。

 

 

そもそも生徒に注意するにあたり、生徒が話を聞かないのは内容がつまらない場合であったり、自分との関係性が見出せなかったりするなど本質的には話し手の問題なのです。逆に内容が面白かったり、自分との関係性があり興味のあることであれば、生徒は基本的に話を聞くのです。そして、教師が注意しなくても、耳を傾け、騒いでいる生徒がいてもお互いに注意し合うのです。

 

 

大人は子どもたちに対して、「先生」という肩書がつくがゆえに理不尽な要求をしてしまっているときがあります。「子どものため」という前提をつけ、子どもたちを一人の人格者として見るのではなく、目下のように見てしまい、共感を忘れてしまいます。子どもたちは自分で学ぶ力や育つ力を持っているということを信じていれば、本質的には話し手である保育者や教育をする側の人間が子どもたちのニーズに合ったものを提供できていないのかもしれません。子どもたちにも意志があり、主体性があるということから離れてしまうと、まさに「形」を追ったものになってしまうのだと思います。

トラブルを学びに変える

子どもたちの関係の中では様々な問題やトラブルが起きます。その都度私は職員の先生たちに、トラブルを解決してあげるのではなく、トラブルの解決の仕方を伝えてあげてほしいといいます。そして、子どもたちは本来自分で問題を解決する力は持っていると子どもたちの関わりを見ていると感じます。

 

麴町中学校での生徒同士のトラブルはもちろんあるそうですが、工藤氏はそのトラブルについて「トラブルを学びにつなげる」ということを言われています。そして、その目標は「トラブルを主体的に解決させる」ことや「当事者意識を持たせる」ことが重要であると言っています。そのため、トラブルが起きたときにも「目的」の取違いに注意しなければいけないと言います。つまり、トラブルが起きた場合「仲直りさせる」ことを目的にしてしまうと教師が仲立ちに入り、相互に謝罪させるなど、表面的な和解に意識がいきがちになります。しかし、それは実のところ本質的な解決には至っていないことが多くあります。そのため、子どもたちに教師や大人が解決してくれると感じさせてはいけないと言います。周囲の大人や教師が解決してしまうと、自分で考えて解決するせっかくの機会が失われるというのです。

 

実社会では自分と人との間で意見の相違が起きることは当然のことであり、その対立が起きることはごく普通のことです。大切なことは問題を解決する力であり、その力が備わっていなければ、対立そのものを恐れて自分から意見を言えなくなってしまったり、対立が起きた時点で関係性が終ってしまったりします。そして、子どもたちは自分で解決する力を宿していると言います。では、トラブルが起きたときに大人はどうしたらいいというのでしょうか。工藤氏は大人の役割は子どもが一人で越えられないハードルに出会った時にしっかりと越えられるように支えてあげるように支援することであると言います。そして、保護者と教師が同じスタンスで、一緒に考え子どもたちに対して人生の教訓を教えるかのチャンスにすると言います。 保護者と教師が生徒の支援者として、学校を批判したりするのではなく「当事者意識」を持つことが大切だと考えます。

 

大人が表面的に解決や仲直りさせることは結果として、子どもが対立を自力で解決する力を失ってしまい。「環境のせい」だとか「周りのせい」と誰かのせいにしてしまうと言います。せっかく良かれと思って介入してしまうことがかえって「うまくいかないのはあなたのせいだ」というようになってしまうようではいけないと言っていました。

 

これは中学校の例で言われていましたが、乳幼児においても同じことが言えます。初めにも書いた通り、大切なのは解決させることではなく、解決の仕方や自分で解決することを支えてあげることが重要であるということです。そういった関係性の中で人間関係を学び、コミュニケーションの取り方を学んでいくのです。その時の大人のスタンスは介入して解決してあげることではなく、子どもたちが自分で動けるように見守ることがであり、それは中学校だけではなく、乳幼児だけでもなく、大切な距離感なのだと思います。