教育
藤森平司氏の著書「保育の起源」では様々な視点から保育を考察されています。人がホモサピエンスとして進化していく過程から現在に至るまでの教育や保育の起源を見ていくと人というものの「学び」というものが見えてきます。しかし、本来の「学び」は今行われている学校教育のような「学習」とは違っているのではないかと読み進みていくうちに感じます。その根拠のうちの一つに「脳科学」の視点が紹介されています。以前、ブログの中で工藤勇一氏の著書の中にも脳科学に触れる内容が少しありましたが、最近では脳科学の発展が目覚ましく、様々なことがわかるようになってきました。その中でダニエル・ゴールマンの「EQ~こころの知能指数~」の内容を藤森氏は紹介しています。
はじめにゴールマンは何百万年という脳の進化の過程から脳の3つの主要部分から構成されているようになった経緯から概説しています。まずは脊髄の上部に位置し、脳の一番下にある「脳幹」です。これは脳の中でも最も古い部分であり、身体機能や生存本能っをコントロールする部分で、考えたり学習機能はなく、生体を維持し、命を守るのに必要な機能は、あらかじめ決められたプログラムに従って調整していくようになっています。次に「大脳辺縁系」です。この部分は何百万年という進化の中で情動を支配する部分が発生し、思考する脳として発達します。つまり、情動を持つ機能が先に生まれ、その後、思考する脳が生まれていくのがわかります。そして、原始哺乳類の登場とともに、情動を支配する脳に進化が生まれ、大脳辺縁系によって脳は独自の感情機能を持つようになります。そして、その脳の部分は進化に連れて、学習と記憶の能力を向上させていきます。この機能が生まれてきたことで哺乳類は過酷な環境下の中、状況に対応するための選択ができるようになってくるようになったのです。
そして、その後1億年前、哺乳類の脳は一気に大きく成長します。計画し、知覚したことを理解し、身体の運動を調整する働きを担っていた皮質の上に何層もの脳細胞が付け加わって「大脳新皮質」ができたのです。大脳新皮質は人間が人間らしさを持つのはこの大脳新皮質に由来しているというようにかなり重要な役目を担っていると言われています。
この部分では感覚器官を通じて得た情報を統合し理解することや自分が抱いている感情について考えること、思考や芸術や記号や空想に対して様々な感情を抱くものなどがこの大脳新皮質に備わっていると言います。これらの機能を見ていても、この力は個人が生きていくためではなく、社会を維持していくために必要な力がそこにあるということがわかります。ここで藤森氏は「人間にとってもっとも縦横な働きともいえる母子間の愛情をうむことができるのも、この(人間ならではの)大脳新皮質によるものだろう」といっており、「親子の愛情は家族生活の基盤である、長い時間をかけて子どもを一人前の人間に育てていく点に必要な感情です。」と言っています。事実、爬虫類のように大脳新皮質をもたない動物は、母性愛はないそうです。
一見、関係ないように見える脳科学の世界ですが、その起こりを見ていくと人が生涯を生きていく上で、どういったものが人本来の生き方なのかと考えてしまいます。それは今の社会がダメで、太古の時代が良いとかそういったことではなく、社会で幸せに豊かに生きるために、人とはどういった生き方が元々としてあったのかを知ることはとても重要なことだと思います。進化やヒトの誕生といったものはシンプルなヒトを見せてくれますし、そこに様々な本来の「人を育てる」という育児であり、保育が見えてくるように感じます。
2019年9月11日 5:00 PM |
カテゴリー:教育, 進化 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
前代の児童文化の特徴で二つ目が「小児の自治」です。「子どもたちが自分で思いつき考え出した遊び方、物の名や歌ことばや慣行のなかには、なんとも言えないほど面白いものがいろいろあって、それを味わうと浮世を忘れさせる。」とあります。次の「小児の役割」の章では「子どもが大きいヒトから引き継がれた行事と、単なる遊戯との境目は目に立たない。ただ月日が経って一方がもうその重要性を認めず、おいおいに起こりを忘れてしまうだけである」
つまりは、子どもたちの思い付きや考えた遊びはその時の年長者と年少者によって伝承され、語り継がれており、そこに大人の介入は少ないということなのでしょう。もちろん、その頃の大人の生活は農耕などを行っており、子どもたちに手を相手する時間がなかったこともあるのでしょう。介入したくてもできない環境であったのでしょうが、だからこそ、子どもたちの関係性は異年齢であり、年長者が年少者の世話をすることや遊びを教えることで自治が出来上がっていたということがわかります。大人は図らずとも見守ることができなのですね。
第三には「大人の真似」今日はあまり喜ばれぬと柳田氏も言っていますが、「小児はその盛んな成長力から、ことのほか、これをすることに熱心であった」と言っています。ままごと遊びを見ていると大人の真似を子どもたちはしていますし、手伝うということにとても積極的で意欲的です。柳田氏は当時の様子を「昔の大人は自分も単純で隠し事が少なく、じっと周囲に立って見つめていると、自然に心持の小児にもわかるようなことばかりをしていた。それに遠からず彼らにもやらせることだから、見せておこうという気もなかったとはいえない」と言っています。仕事だけではなく、盆踊りなどの行事も意味合いはお盆に返ってくるご先祖に対する神事であるのですが、子どもたちにとっては遊びと思い、後にその頃の成人は代替わりをして退いていくのだと言います。
今の時代は柳田氏がいうほど単純な世界ではなくなっているのは間違いないでしょう。親の仕事を子どもたちが日ごろから見る機会というは無くなってきています。中学校の職場体験で様々な問題が出ているという話を聞きますが、まず子どもたちには仕事に就くということが遠い先のように感じており、自分事というように受け入れてはいないのかもしれません。今を振り返ってみても、学生時代に自分が社会に向けての勉強をしているという意識は少なかったと思います。この時代のように日ごろから大人になったときの見通しがつくような社会であるのであれば別なのでしょうが、今の時代はなかなかそれが難しいですね。
ではそういった時代において、教育現場や保育現場はどのようなアプローチをとるべきなのでしょうか。少なくとも、社会に向き合わすことよりも、非認知的能力やコミュニケーション能力といった社会に向き合う力をつけておくことは重要なものといえるように思います。
2019年9月10日 5:00 PM |
カテゴリー:教育, 遊び |
投稿者名:Tomoki Murahashi
柳田国男氏の「こども風土記」には昔の子どもたちの生き生きとした様子が書かれています。本の中には子どもたちの遊びの様子から、子どもたちが大人から見てどのように育てられたのか、面白い視点で書かれています。
その中で、子どもたちの遊戯の考案や伝承について書かれているのですが、昔の親たちは子どもたちに遊戯の考案や伝承はまるで行っていなかったと言います。しかし、それが子どもたちを寂しくさせることもなく、元気に精いっぱい遊んで大きくなっていたことは、不審に思うことがないと言われ、前代の児童文化は今とよっぽど違うと言っています。そして、その特徴は三つあると言います。
一つは小学校などの年齢別制度と比べて、年上の子どもが世話を焼く場合が多かった。
子どもたちは年上の子どもとの関りによって自分たちの成長を意識し、悦んでその任務に服したのみならず、一方小さい方でも早くその仲間に加わろうととして意気込んでいたといいます。そして、この心理は今日ではもう衰えかけているが、これが古い日本の遊戯法を引き継ぎやすく、また忘れがたくした一つの力であって、おかげでいろいろの珍しものの伝わっていることを大人も感謝していると柳田氏は言います。
今の子どもたちも異年齢で過ごしていると様々なやりとりを見せてくれます。世話をする子どもたちもいれば、対等に話す子ども同士の関係性もあります。しかし、そこにはしっかりと子どもたちの社会があり、やり取りを学んでいます。なによりも、自信がない子どもほど、世話を焼くのが上手であるのを見ていると、異年齢での関りの中で、自分なりに自分を生かす場所を見つけているように見えます。そして、それだけではなく、年長児のこどもの遊びを見ている子どもたちが自然と真似をしている様子を見ることがあります。
人が学ぶといったプロセスにおいて「模倣」というものはとても重要なものです。「教育」というとどうしても「大人からこどもにむけて」を想像しますが、それ以上に子ども同士のやりとりにこそ、学びが多くあります。柳田氏は「衰えかけている」と表現していますが、そうではなく「そういった環境が無くなってきている」というのが適しているように思います。元々持っている力を引き出せない環境があるのかもしれません。大人が教えるよりも、子ども同士が刺激しながら学び合う姿にこそ、これからの社会の力を感じます。
2019年9月9日 5:00 PM |
カテゴリー:教育, 遊び |
投稿者名:Tomoki Murahashi
ジャレド・ダイアモンド氏は著者の中で伝統的社会の紹介をしていき、その中伝統的社会で行われて育児方法を取り入れるように提案していました。では、日本の子ども観というものはどういったものがあったのでしょうか。
藤森平司氏の著書「保育の起源」の中に、日本の子どもに関する民族学的研究者の宮本常一氏の著書「日本の子どもたち」を紹介しています。そして、この本の「はしがき」には「古い時代から日本の国民は貧しかった。中背の終わり頃、日本を訪れたキリシタンのパードレたちもそのことを書いている。しかし、人々はその貧しさによごれまいとして、心だけは高く清いものにしようと努力した。戦国騒乱の世の中でありつつ庶民はうそをつかず、ものを盗まないと異邦人たちは感嘆して書いてある」と日本のすばらしさを書いています。この表現はおそらく近代まで日本を訪れた外国人の日本人観の要約といっていいでしょうと藤森氏は言います。
そして、日本の子ども観については宮本氏は「子どもたちのしつけの中で重要視されたのは、この清潔にして貧乏にまけない意欲であった。だから貧乏さえが魅力だった。」「日本人にとっての未来は子供であった。自らの志がおこなえなければ、子供に具現してもらおうとする意欲があった。子どもたちにも、またけなげな心構えと努力があった」「子どもたちも過去から現在へ一貫して模倣―工夫―創造を、そのあそびやまつりや、仕事の中に繰り返しつつ成長しているのであって、しかしそれが親と子どものつながり、大人と子どものつながり、子ども同士のつながり、学校と子どものつながりなどによって、子ども自身が人格として形成されていく。このような関連を環境と名づけるのであれば、ただ、組織的でなかったために、不幸なものが周囲にはみ出しがちだったし、学校と一般社会の融合に長い年月を要した」と宮崎氏は言っています。
外国人の日本人観においても、日本の子ども観においても、日本人は貧しくとも心だけは高く清いものにしようと努力することや清潔にして貧乏にまけない意欲といったように志高く生きようとした力強い生命力がある民族性がそこにはあったのですね。藤森氏は子ども観の紹介の中で「子どもを思う親の心は今でも変わりません。しかし、未来を見る力、何が子どもにとって必要なのかを見る力が衰えてきた気がします」と言っています。確かに、この頃に比べ、今の時代が「未来はこども」といったような言葉は聞いても、環境が果たして、そうなっているのかと考えてしまいます。
そして、様々な人との関わりのなかで成長し人格が形成されていくといった中で、「模倣―工夫―創造」というプロセスの大切さを宮本氏は言っています。この学びのプロセスが教育現場でどのように実現していかなければいけないのか、それが実現できるような環境や活動とはどういったものであるべきなのか。日本の「そもそも」から学ぶことは多いですね。
2019年9月5日 5:00 PM |
カテゴリー:教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
教育基本法の第一章(教育の目的)の第一条に「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とあります。そして、保育や教育の勉強をしていけばしていくほど、この内容の重要性を感じます。そのため、今行われている保育や教育が果たして「平和で民主的な」ものに向かっているのか、「社会の形成者」を育成する枠組みになっているのかと考えるようにしています。
麴町中学校の工藤勇一氏は著書「学校の『当たり前』をやめた」という本の中で度々、「学校は社会でよりよく生きていくために学ぶ場」と言っています。そして、社会の中で多様な人と生きていくために感情のコントロールをし、対話を重ねながら納得できる目的を探り当てて手段を生み出すことが大切だと言っています。そして、これこそがよりよい民主主義社会に成長させることにつながると考えられています。もちろん、そのなかで対立も起きます。民主主義において、この対立を解決するためにルールや法律がありますが、その法が間違っているならば適切な手続きで変える必要があると言っています。
また、民主主義の定義においても多数決の原理がすべてではないと言っています。「選挙で代表者を選ぶ仕組みは当然必要なものだと思いますが、選挙で多数派となれば、何をやっても許されるという話ではありません。多数決の原理と同時に、少数意見を尊重することが、民主主義社会の真の姿でしょう」と言います。しかし問題なのが、少数派の意見をどのように取り上げ合理形成を図っていくかです。このプロセスに我々が慣れていないがゆえに、無駄に対立したり、議論がこじれて思わぬ方向へ行ってしまったりすることがあるというのです。
対話を通じて上位目的の合意形成を図るには「ルールを踏まえて建設的に主張する」「意見の対立や理解の相違を解決する」「感情をコントロールする」といった力を一人一人がたかめることで健全な市民性が育み、民主主義社会を気付く土台となるのです。そのため同じ目的を目指して話し合いを解決していく経験をすることで、対立を恐れることなく、協働して何かを決めることができるようになります。そして、その経験値を上げていくために学校教育が果たす役割は大きいと言います。
現在、リーダー指向が弱まっている感があると工藤氏は言います。そして、その背景には「責任者」「当事者」として、矢面に立ちたくないという心理が働いているかもしれない。それは学校が児童生徒を「お客様扱い」し、自律する機会を持たせないまま、おとなにしてしまったことこれまでの教育のあり方を考えなおさないといけないのかもしれないと言っています。
「自分自身に自信があるか?」といった問いにどれだけの人が手を上げれるでしょうか。その裏には「自分で決める」「自分で問題を解決する」といった経験値が足りていないからなのかもしれません。以前、私はある人に「頭で考えるよりもまず行動だよ」と言われました。しかし、自分の中では行動している「つもり」だったのです。今の現状は自分が動かざるを得ない状況になったので、その意味が分かるようになってきました。子どもたちも一緒で「自ら」動いているのではなく、大人に「動かされている」ようでは自律はしていかないのだと思います。そして、結果的にそれは民主主義にもつながらないのです。子どもたちにとって必要な距離感を考えることは教育や保育にとって、知識や技能をつけさせるよりも大切なことだと思います。
2019年8月27日 5:30 PM |
カテゴリー:教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
« 古い記事
新しい記事 »