教育

花と生活

昔の日本家屋の環境では、床の間に季節の花が生けられていました。また、柱には花器が掛けられ、生けた花が飾られていました。その花は栽培された派手な花ではなく、質素な野の花が生けられていることが多く、室内に居ながら野の道を歩いているような気分になるといいます。では、一方でドイツミュンヘンの保育室はどうなのかというと保育室の中には緑が多く、街の中、家庭の中にも緑が豊富であるということにつながります。ミュンヘン市内をバスで走っていても、街には壁面緑化された建物や緑の豊富な街並みが広がっています。それは生活の中でも緑が多い環境で、自然を大切にする国民性がそうさせているのかもしれません。そういった意味では日本人も本来は自然を大切にし、里山のような、自然と共生する生活をしてきたはずではないかと藤森氏は言います。

 

モースの『日本人の住まい』の訳者 斎藤正二さんは、解説に「モースは1887年8月~12日まで試みた2度目のヨーロッパ旅行の途上で、いかに『日本の家屋』がミュンヘンやオランダの学者たちの間で大評判をかち得ていたか、ということを知り、それについての無邪気な喜びを自らの日記にしたためている」と書いています。その中で特にドイツ人は感銘を受けたようで、モースが1887年9月、ハンブルク博物館長のブリンクマンのもとを訪れたところ、《彼は「日本家屋」を非常に熱心に褒め、この課題に関する素晴らしい著作であり、自分はしばしばその本から引用しているといった。私は彼が私をよく知らないのだとわかり、話を中断し、その本は私が書いたのだといった。彼が目を見開き、それから私の手を握り、私に会えたことの喜びを表現しようとしているのがうれしかった》と記しています。そして、モースは日本家屋について《室内装飾品、およびこれら装飾品を作り出すのにさいして、日本人のうちにはたらいている制作原理について、さらに数ページを割いて触れておかなければと考える。上層階級から下層階級にいたるまでもっとも普遍的な室内装飾は花を使うので、まずこれから取り上げようと思う》といっています。日本人は上層階級のお金持ちだけではなく、下層階級の生活が貧しい人々も室内に花を飾ることをしていたのですね。非常に生活の中にも花が身近にあったということが伺えます。

 

そして、モースはこういった日本人が花を装飾することについて「花を愛する心が一般化している国はないというほうが適切かもしれない。また、絵を描こうとする場合にもっとも一般的な画題の一つは花ということになる。そして、装飾芸術としては、その自然のままの、あるいは伝統的な形態からして、つねに主要な動議付けとして選ばれる」と書いています。またモースが日本を訪れた明治当初の日本では、すべての層の人たちが花をめでていることに気が付いのです。簡易な手作り品である刺繍、陶器、漆器、壁紙、扇、また金属ないし青銅製品のいても花が描かれ、また造形の対象になっていることに驚いています。モースは「社会生活においても、これらの花をあしらった物品が絶えず顔を出す。誕生から死ぬまで、花はなんらかのかたちで日本人の日常生活にかかわりを持っている。日本人は死ぬと、そののち何年ものあいだ、墓前に新鮮な花を供えてもらえる」

 

確かにお葬式にも多くの花を飾りますし、棺の中にも花を入れます。海外の映画などで葬儀のシーンなどを見ることがありますが、そこに花はあまり見ることはないように思います。私たちはドイツに緑が多いことに驚いていますが、日本人は明治期にはドイツ人にも驚かれるほど、日常の中に花をあしらったものや室内装飾においても、花は身近にあったのですね。しかし、最近では花柄というものをあまり見なくなっていますし、家庭に花を生けることや集合住宅になり花壇を持つことも少なくなってきました。時代の移り変わりやライフスタイルの変化によって、花や緑との関わり方も今の時代は変わってきているのかもしれません。もしかしたら、海外から学んでいることは、日本の逆輸入になっているものも少ないのかもしれません。

海外の保育環境

見守る保育において、藤森平司氏がいる新宿せいが保育園では、部屋は0・1歳児室、3・4・5歳児室では大きな一つの空間を作り、家具や可動式間仕切りで空間を仕切っていることで保育環境を作っており、それは日本家屋における柔軟性のある住居環境に近しくなっています。これに対し、海外ではどういった保育環境になっているのでしょうか。著書ではドイツ ミュンヘンの保育環境が紹介されていました。

 

ミュンヘン市の保育施設では制作、絵本、パズル・ゲーム、ごっこ遊びなど用途ごとに部屋が分かれ、各部屋は堅牢な壁で仕切られ廊下に面して並んでいます。そのため、部屋同士の行き来にはドアを開け閉めし廊下を移動しなくてはなりません。その作りは、保育士室だけではなく、生活住居においても、キッチン、ダイニング、リビングなど各部屋が用途ごとに分かれているのが欧米的な居住空間の特徴です。こういった住居空間づくりに関して、日本人は、かなり自由に空間を多用途に使ってきたということがわかります。

 

そして、ミュンヘンで見学した、3~6歳児、75名の園では、保育室が大きく3つのコンセプトに分かれていました。1つ目は「自然観察・積み木」。2つ目の部屋は「工作・お絵描き」などのクリエイティブな活動をする部屋、3つ目の部屋は「ごっこ遊び」をする部屋で、それぞれの部屋は内部で広い部屋と狭い部屋の2パーツに分かれいました。そして、玄関ホールは運動をする部屋になっていました。そして、子どもたちは登園すると好きな部屋で好きな遊びをします。各部屋には保育者は2名ずつ配置されています。

 

しかし、一応は所属する部屋があり、お集りや昼食のときには自分が属している部屋に行きます。ただ、保育者の許可を得れば他の部屋に行っても構わないそうです。こういった保育を「オープン保育」と名付けていますが、「遊びは子どもの職業」ということで、子どもに対し、「遊びへの自主的参加」を促すことを意味しています。そして、その部屋の装飾や作り込みは、その部屋の担当の個性が出ています。「空間は第3の保育者」がモットーだということでした。

 

子どもが空間の使い方やあり方によって受ける影響というのはとても大きいと考えられているのですね。日本では私の感覚ですが、どちらかというと「先生対子ども」といった人的環境に関しての話が多いように感じます。物的環境や空間へのアプローチというのはそれほど話の中でもそれほど重要視される内容としてはまだ少ないように感じます。しかし、その空間のあり方、人的環境においても「大人対子ども」だけではなく、「子ども対子ども」といった発達過程から影響を受けることなどは、まだまだこれから研究や考えていかなければいけない内容ではないでしょうか。子どもに与える環境と言っても様々ですし、子どもの様子をとらえ、環境を整えていく必要がありますね。

運動って?

人間は、他者を通して自分を理解すると言われています。そして、自分を評価する他者が多様であればあるほど、自分というものが見えてきます。母親からだけの評価では、社会に出てから他者から違う評価を受けたときに、心に打撃を受けてしまい、自分のうちに閉じこもってしまうことになりかねないと言います。そのため、異年齢の中での育ちはとても重要なようです。そして、人は人とコミュニケーションするときには必ずしも言語によらないことがわかっています。しかし、言語によるコミュニケーションにしても、非言語によるコミュニケーションにしても、人間は五感を使って外からの刺激を感じ、その情報を脳に送り、その刺激を理解し、判断するという行為を行っています。そして、その情報を整理し保存しておくことで、お互いの意味の合意ができ、次回の会話が成り立っていくと藤森氏は言います。

 

そのため5つの感覚で構成されている五感はあくまで入り口であり、刺激を受けることで外界にある事物や事象を意味あるものとして対象になったときに、五感で感じたものが「知覚」になります。つまり、発達は「自分から環境に働きかけること」が必要になってきます。「脳の地図は体との関連でできてくる」と言われることがあり、生まれ持った体や環境に応じて、また体の使い方の習熟・開発に応じて脳は「自己組織的」に体を作り上げていくということと言えます。そして、この体の使い方を「運動」と言うと言っています。

 

このことを考えると「運動」は走ることやボールを投げること、野球やサッカーといった競技をすること、健康や身体を鍛えることを指すことが多いですが、「運動」は「体が動く」こと自体を指すとするならば、少し違ってきます。たとえば、赤ちゃんが音のする方に目を向けたり、動くものを目で追う行為は、視覚、聴覚を使って感じた知覚を、運動によって認知しているのです。この一連の動作を運動と言い、身体が高機能でないと脳機能も高機能にならないのです。しかし、実際のところ、人間は脳のほんの一部しか使っていないといわれています。しかし、それは将来予期せぬ環境に出会った時に、スムーズに対応できるための一種の「余裕」ともいわれ、また、使いこなされている脳の能力のリミッターは脳ではなく、体にあると言われています。人は感覚によって得られた情報を知覚し、身体運動との相互のやり取りによって認知能力が増していくというのです。

 

つまり、「運動」には一般的な運動と五感や知覚をもとに運動によって知覚していくといった運動があるということです。そして、この後者の運動には大きく2通りあると言われているそうです。

自己と他者

心理学において、人はどのようにして自己の心にアクセスし、他者の心を読み取り、社会的コミュニケーションを行うかということは難問でした。その中で、「心の理論」と呼ばれているものがあります。それは心理学でいうところの「相手の心を推察する」「他者が自分とは異なる意識を持つと考えることができる」能力のことです。いわゆる他者の心を推測・想定する能力です。こういった他人からは見えない心の動きを、行動として見える物理的なものと関連付けて研究するのが「心の哲学」と呼ばれる分野です。そして、「心の理論」において重要な切り口になっているのが「ミラーニューロン」の存在です。ミラーニューロンの働きは前回にも話したように「裏の道」の働きをするもので、他者の感情や動き、感覚、情動を自分の内部で起こっているかのように感知する能力です。

 

そして、この能力を通して、人はどのように自分自身の心にアクセスし、他者の心を読み取り、社会的コミュニケーションを行うかというのが研究されてきました。「模倣」「共感」「心の理論」「マインドリーディング」「自己・他者関連単語」「ミラーニューロン」などの研究は、「自己と他者」の問題を正面切って取り上げるものであり、その研究は大いに進展しました。哲学の基本問題である「自己と他者」が哲学の分野から科学的研究の対象になったのは、近年の認知心理学と脳科学の発展によるところが大きいと『ミラーニューロンと〈心の理論〉』(子安増夫・大平英樹編)に書かれています。そして、「自己と他者」について論ずる際にはミラーニューロンと「心の理論」が重要かつ代表的な視点として取り上げられています。

 

藤森氏はこれまでの研究を踏まえてこう話しています。「元々「心の理論」としての研究が始まったころは、子どもにおいて、このような行動がはじまるのは4歳と考えられていました。特に心理的な世界の理解については3歳から4歳に欠けて変化することが、他者が誤った信念(belief)を持っていることが理解できるかどうかという「誤信念課題」と呼ばれる実験でわかっています。そこで、集団における保育が必要とされているのが4歳児からということで3歳児クラスからの保育が行われているのかもしれません。しかし、最近の研究では「自己と他者」との関係において「模倣」や「共感」という心の動きや行動から考えると、0歳児から他者が重要な役目を持ってくることがわかってきました。」そう考えると「幼児」と「乳児」との区分もこういったところがあるから、そこで区切られているのでしょうか。

 

「ただ、この時期における他者は、子どものまわりに自然な社会の中にいる存在するものでした。家庭内においてもきょうだい間での関係です。しかし、現在の家庭事情は少子化により、地域に子どもがいなくなり、自宅内には母子だけが存在することが多くなっています。しかも、母親は家事をしなければならず、子ども一人でテレビやゲーム、スマホで動画を見るといったものを相手に過ごすことが多くなっています。いくら子どもが小さいうちは母親の下で育てるべきだといっても、自宅内に母親たった一人で育てるとなると、このような育児になる可能性は多くなる気がする」と藤森氏は言います。

 

確かに最近の子どもたちの様子を見ていても、登園時にスマホでyoutubeを見ている子どもはいますし、ショッピングモールに買い物に行ってもベビーカーに乗ってスマホを見ている子どもたちを多く見ます。子どもを落ち着かせるためにはとてもいいツールであり、都合がいいのはよくわかるのですが、それが育児の中で大きな部分を占めていくというはとても危険なことです。特に社会的コミュニケーションはこういったツールでは経験することができないというのはよく考えなければいけません。「赤ちゃんは白紙で生まれてくる」といった白紙論が出てきたのも家庭内でこういったコミュニケーションが土台としてあったからであって、今の少子化の時代とは子どもを取り囲む環境が変わっているということを踏まえて教育や保育を考えていかなければいけないということを改めて感じます。それは脳が発達していくメカニズムを考えると今の社会のウィークなところも見えてくるように思います。

表の道と裏の道

これまでの社会脳の研究を見ていくと、これまでの教育では「賢明に生きるため、出世するための知識」を身につけることが優先され、学問的な知識や技術、社会の中での適切に行動するために必要なルールや規範、儀礼を読み取る能力など個々の人間の表の道の能力ばかりが論じられ、強調され、その習得のための学習や訓練が行われてきたと言えます。しかし、脳科学の進歩に伴い、人が社会の中で懸命に生きるための社会的知性とは、人と人との関係において感情、情動で働く、脳の「裏の道」の能力が存在することがわかってきたのです。と藤森氏は「保育の起源」で話しています。

 

確かに教育において、知識や技能、学力や偏差値が重視されやすいのは数字としても表れますし、評価がしやすいからではないでしょうか。その反面、「裏の道」とされる社会的知性というものは評価は難しく、その人と関わっていく中でしか、その人となりというものは見えてきません。以前、リクルートの方と話をする機会がありましたが、そこでも「最近は優秀な大学を出たからといって、会社の中で優秀かというとそうではない」ということを話していました。そして、説明会でも全部聞いたり、これまでは「社会人として当たり前」としてあったことでもできないといったことができない人が多い。ということも話していました。ゴールマンは「社会脳における、他人と同調する能力、傾聴する能力、共感的関心など、裏の道のシステムの能力の高さを伴ったうえで、高い知力、学力を持ってこそ、初めて人はより良い社会人として生きることができる」ということを言っています。まさに今リクルートの方が言っていることにもつながっているのではないでしょうか。

 

そして、藤森氏は「社会で生きるということは、脳科学の面で見ると、他者と自分の脳の交流であって、この交流を上手に行う脳の反応経路、社会脳を持っている人は生き方が上手だといえるのです。そして、社会的能力、社会的知性の発達にとって乳幼児期がいかに大切であるかが認識されています。そして、この中心となるのが、他者との愛着形成なのです。乳幼児期に豊かな愛着の経験を持つ人は、ストレスに出会ったときにストレスを和らげ、自分を支えてくれる心の港を持つことができるのです」と言っています。いかに乳幼児から安心した環境の中で多様な人との関わりを通じて、感情のコントロールを知ることや社会脳を育てることが大切なのかということがわかります。

 

最近の子どもたちは少子高齢化の社会でこども集団がそもそも少ないことや核家族化により家庭に多様な人がいない状況、事件や交通事故など環境の難しさ、公園でも自由に遊べない空間の問題と上げていくととても子どもたちが自ら育ちにくい時代のようにかんじます。そして、そういった今まで地域や周辺環境に当たり前にあったことも含めて、教育機関がになっていかなければいけない時代だと感じています。教育に向かうための土台をしっかりと作ることから始めなければいけない時代で、まだまだ「表の道」のような教育が求められている現状ももう一度見直していかなければいけないのだと思います。そういった警鐘を脳科学は示しているように感じます。