教育

正しい叱り方

「怒る」から「叱る」ためには相手を承認することが必要になってくると言っています。そして、実際「怒る」というときは意外と少ないというのも前回紹介しました。では、次に「叱る」ときにはどうすればいいのでしょうか。武神氏は相手を承認したうえで怒るためには、次の「守ってほしい項目」、「し・か・り・ぐ・せ」を守っていただきたい言っています。

 

まず、「し」は身体的接触は絶対禁止。多くの会社でパワハラかどうかの認定するときに最初の基準となるのが、身体的接触があったかどうかだからです。もちろん、ペンでたたくということや物を投げるというのは分かりやすいのですが、単純に肩を軽くたたくのも普段は問題にならなくとも、関係が悪くなると「小突かれた」や「触れられた」などとなってしまう可能性があります。

 

つぎに「か」過去は責めずに、隔離し2人で。過去は責めても変えられないのです。それよりも大切なのは今後です。過去を変えることはできなくても、そこに与える意味づけを変えることはできます。過去を学びや教訓にすることに目を向けるのです。また、部下を叱るときは人前ではなく、2人でというは基本だと言われていますが、これができていない会社は少なくないと言います。というのも、こういったことが起きる裏側には「叱る時にはほかのみんなにも聞こえるように言うことで、周りにも何がいけないかを伝えるため」という理由があることがあります。しかし、相手にもメンツやプライドがあります。特に大人になればなるほど、こういった意識は外資系に比べ、日本企業はできていない現状があるそうです。

 

つぎは「り」理論的に。感情的にならないようにすることです。この「り」にならないためには、次の「ぐ」具体的に。を守ることで可能になると言います。その「ぐ」具体的にですが、これは「何に対して叱るのか、ほめるとき以上に叱るときは具体性大事」なのです。そうでなければ、何に対して叱られているのかわからないということになりかねないのです。そして、これはほめるとき同様できるだけ早くすることも大切だそうです。最後に「せ」性格を責めない。事実に対して叱るべきであって、性格を責めるのはNGなのです。

 

ここで武神氏は一つの例を紹介しています。これは30代半ばの女性管理職が20代後半の女性職員に対して起こった内容です。あるときこの女性職員は遅刻が多く、また、短いスカートに胸元の開いたトップスといった格好が多かったのですが、管理職の女性は職場のみんなのまえでこう怒りました。「いつも遅刻してきて、どういうつもり!やる気あるの?ないの?恰好からしてだらしないのよ、その性格から治しなさい!」と怒鳴ったそうです。

 

では、これまでの「し・か・り・ぐ・せ」からみて解説してみましょう。このとき身体的接触はなかったので、「し」はOKです。しかし、遅刻してきたその場ではなく、過去の積み重ねを問題し、隔離もしていないので「か」はできていません。感情的に叱り飛ばしているので「り」もできていません。「ぐ」は遅刻のことは具体的ですが、服装のことは言わずにそれも含めて「だらしがない」と決めつけているので、これもダメです。そして、「せ」は性格を治しなさいなどと言っても効き目があるはずがありません。

 

このことを見ても、「しかりぐせ」ができていない、よくない叱り方だというのがわかります。この事例をみると「叱る」というよりは感情的に「怒っている」ように見えます。実際、これに似た事例によって自殺事件があったようです。まずは、相手を承認している気持ちがあることを大切にしてほしいと武神氏は言います。

 

これは親子においてもいえることで感情的に怒っている親をよく見ます。子どもにおいても「承認」されることは非常に重要な意味を持ちます。そこに存在意義を持つことは安心基地を持つことにもつながるのです。大人においても、子どもにおいても、「承認される」という環境にいることは情緒の安定において必要なことなのだとわかります。

ストレス反応

産業医として年間1000人以上のビジネスパーソンの産業医面談を行う武神氏はストレスについて、あることを指摘しています。多くの人は仕事質や量、職場の人間関係を原因としたストレス、不安、悩みで面談に来るが、多くの場合はこれらのことを改善するために来るわけではないというのです。それらはあくまで「原因」で、落ち込んだり、眠れなくなったり、集中できなくなったりと様々なストレス症状を呈して、その症状の相談に来るというのです。つまり、「原因の改善」の相談ではなく「ストレス症状」の相談に来るのです。しかし、その一方で、同じような職場環境で、同様のストレス原因にさらされていながらも、ストレス症状が出ない人もいます。その違いはどこにあるのでしょうか。

 

ストレス原因とストレス症状の間にあるのは、個々人のストレスへの“反応”だと武神氏は言います。ストレスに反応する中で、「反応自身がストレスになってしまう」というのです。そうなると人はストレス症状がでるようになり、メンタルヘルス不調になっていくのです。この反応は、個人の認識や心がけ次第で、単なる反応で終わらせることができる場合と、ストレスに感じてしまう反応(反応性ストレス)になる場合があるのです。【ストレスの原因→反応→ストレスに感じてしまう反応→ストレス症状】という順序です。メンタルヘルス不調にいたるには反応性ストレスに至るかどうかがネックになってくるのですね。そして、この反応性ストレスには3つのタイプがあると言います。それが①がんばるストレス ②我慢のストレス ③ガス欠ストレス です。

 

一つ目の「頑張るストレス」です。これは優秀な人も知らずのうちにため込みやすいタイプのストレスです。近年、仕事の量は増え、また求められる質も高まっていく上に、社会構造の変化とともに、仕事のスピード化が求められています。そのため、質も量も増えていく中で、優秀な人材ほど仕事が集まりやすい状況になっているのです。結果、優秀な人ほど早く帰れるのではなく、仕事が集まってしまうがゆえに遅くまで残業していくのです。最初のうちは上司や同僚からの信頼や感謝がモチベーションの源になりますが、次第にこの優秀な人の「頑張り」は本人にとって以上に周囲にとって頑張り続けることが普通になってきます。「みんなのために頑張っている。しかし、それが普通になり認められなくなる」それをふと感じた瞬間に報われない感覚が一気に押し寄せてきます。そして、張り詰めた気持ちが切れてしまうことになるのです。肉体的あるいは精神的な疲労の蓄積に気づき、今までの「頑張っていた反応」が“反応性ストレス”に変わるのです。メンタルヘルス不調は、仕事への適性が欠けている人(いわゆる能力不足)だけではなく、チームの頼りになる花形選手のメンタルヘルス不調はこのように生じているパターンが多いそうです。

 

できる人ほど、責任感がある人ほど、こういった張り詰めた仕事をしてしまいがちになるのです。その時に、「弱音や愚痴」をはける場やコミュニケーションをとる場といったようにガス抜きができる場があるとまた違ってくるのでしょうが、「頑張る」人は一人で抱えて頑張ってしまいがちになることが多いようにも思います。風通しのある職場であればこういったことが起きることは少ないのでしょうが、そうではないと、一人で抱え込んでいるうちにメンタルヘルス不調に陥ってしまうのだろうと思います。いい人材がいなくなってしまう職場はこういった「頑張らなければいけないこと」を抱えがちになるからなのかもしれませんね。

雰囲気を作る

自分が一つの組織の中に入っているときに、その集団の雰囲気ということが非常に多くの影響を自分に与えていたのだということを感じます。実際、以前勤めていた職場であったことですが、その職場では様々なことを提案し、発信していた人がいました。その人が他の同業の職場に転職したときに以前の職場では様々なことを提案していたのにも関わらず、「思いつかなくなったんだよね」ということを言っていました。集団において、こういった提案が発しやすい職場とそうではない職場とでは大きくその雰囲気は違っているように思います。発信しやすい職場はやはりそれを受け入れるだけの余裕や楽しむ楽観性やポジティブさがあると思います。その反面、発信しにくい職場はその反対で、リスクヘッジばかりを考えることばかりで、進め方はネガティブな部分を無くしていくという進め方になりがちです。これは先日書いた「ハラスメント研修」においても同様のことが言われていましたね。「ハラスメントをしないようにするには」というように「やってはいけないこと」を学ぶよりも、「うまくやっている人たちが何をしているか」といった「やってほしいこと」といったポジティブな方向にベクトルを向けるということが重要になってくるのだと思います。

 

武神氏はそもそも「人は言っても変わらないという事実」を知ることが必要であると言っています。それは結局のところ人は他人から注意やアドバイスをされただけでは変わらない、本人が変わる必要性を自覚しない限り変わらない、という意味です。何か相談されてアドバイスをして、相手がその通りにやってくれてうまくいけば何も苦労はないのです。なぜそうなるのでしょうか。それは人はそれぞれが自分の正義(価値観)を持っていて、聞きたいことしか聞かない、見たいものしか見ない、話したいことしか話さないからだと武神氏は言います。では、どうしたらいいのでしょうか。

 

メンタルヘルス不調者を出さない部署の上司に共通しているのは「雰囲気を作ること」だと言います。つまり部下に「自分からやろう」「自分から変わろう」という気を起こさせるのが上手だというのです。上から言って強制的にやらせるのではなく、部下が自発的に主体性を持ってやろうと思うようになる場、雰囲気を作っているというのです。武神氏は再三、リーダーシップには「みる・きく・はなす」のうちどれか一つの能力は必要であると言っています。そして、この雰囲気づくりにおいても、「みる」というアプローチから入る人もいれば、「きく」というアプローチから入る人もいると言っています。つまり、この「みる・きく・はなす」という技術は相手に主体性を持ってもらうためのコミュニケーションのコツとも言い換えられると言っています。

 

私は人との関わりにおいて「傾聴」「共感」「誠実」「真摯」ということが大切であると考えています。要は相手にどのように向き合い、アプローチするのか、その熱意は持っていなければいけないと思います。しかし、「みる・きく・はなす」というのも。ドラッカーが言っていたように相手に期待がなければ聞いてくれませんし、「話したいこと」だけを考えるのではなく、相手が「聞きたいこと」を話さなければいけないのだろうと思います。結局のところは相手を見通したり、共感するといった思いやることが重要になってくるのだと思います。そして、それは大人だけではなく、子どもに対しても同じことが言えることだと思います。

ハラスメントはなぜへらない?

前回は、ハラスメント加害者側の無知、無自覚、想像力の欠如ということが出ていました。ほかにも、その理由はあり、その一つが「ハラスメントを組織が生み出している」ということです。それはつまり「組織におけるストレスが、被害者を助けることができる可能性のある人たちを遠ざけてしまっている」ということだと武神氏は指摘しています。

 

職場の中には自分自身のストレスや、やらなければならない仕事で余裕がなくなり、自分のしていることが見えていなかったり、自分の中の思いやりの心に気づく余裕が無かくなってしまったりするのです。その結果、無意識・無自覚のうちにハラスメントを行っている人たちもいますし、同僚がハラスメント被害を受けていることを見て見ぬふりして、あとになって後悔している人たちも多くいるのです。

 

武神氏は「ハラスメントは受ける側にも問題がある」のは間違いであり、原因があるからハラスメントをするのではなく「ハラスメントをするために原因を探している」ということが多くの場合当てはまるのではないかと考えています。つまり、余裕がないからハラスメントを起こし、そのために原因を探すのではないかというのです。確かに、自分が余裕がなくイライラしているとつい言いすぎてしまったり、相手に求めすぎてしまうことはよくあることだと思います。武神氏はメンタルヘルスにおいて産業医として面接していくなかで、見えてくる「上司のパワハラ」、そして、その傾向などが見つかることはあるのですが、それを人事担当者に「パワハラ部長の上司にそのことを伝えないと」と提案しても、なにも変わらない会社もあるそうです。パワハラを認知していても、対象しない・できないことは会社の責任ではないかと言っています。そのため、こういった問題は組織運営や企業文化の課題として扱われるべきだと指摘しています。

 

パワーハラスメントがなくならない最後の理由は「パワーハラスメント」という言葉の普及であると言っています。この内容は「ハラスメント」というものの定義があいまいで、相手が嫌だと思わなければハラスメントには当たらず、嫌だと思われればハラスメントになるという定義や認定がないといったあいまいなものということです。そのため、なにかあったときに「ハラスメント」だと感じる人が増えてきたということも言葉の定着によって起きることではないかというのです。

 

こういったハラスメントがおきる理由、無くならない理由において、どう対応していくことが必要なのでしょうか。武神氏は一つは「声をあげられる仕組み」をつくることが大切と言っています。そうすることで、メンタルヘルス不調になる前に食い止めることができる対処ができるというのです。そして、もう一つ、様々なハラスメント研修が行われている中で、“やってはいけないことを学ぶ研修”はそれほど効果がでないのではないだろうかというのです。こういった研修をしたからといって、それが「ハラスメント対策をした」といっている企業が多いのではないだろうかというのです。大切なのは「やってはいけないこと」に注目するのではなく、うまくやっている人たちが何をやっているかなど、やってほしいことに注目することが大切になってきます。

 

このことは様々な研修においても言えることだと思います。「やってはいけない」ことばかりが増えていくと、「これもダメなのか?」と意識してしまうあまり、行動に起こすこと自体が難しくなってきます。そうかんがえるのではなく、「こう動くといいのか」といったいいモデルを見ることのほうが「では、こういうのはどうか?」と少なくとも行動をポジティブに考えることができるようになるのではないかと思います。そして、そういった思考は自分の自己肯定感すらも刺激することにつながるのではないかと感じます。ハラスメントというのは非常にあいまいな定義のもとにあるというのは言うまでもありません。そして、その土台には働いている人それぞれの風通しのよさやコミュニケーションの質や職場風土、文化といったものが大きく影響するのだと思います。そして、それにマネジメントする側は非常に大きな影響をもっているということをよく考えなければいけませんね。

社会性は高校から?

2019年11月25日の日本経済新聞に「人間関係築く教育を」という記事が書かれていました。掲載したのは古賀正義中央大学教授であり、「将来の進路を模索し、多様な人間関係を築く場であった高校がその機能を失い、社会を支える「普通の市民」の育成が困難になっている」と指摘していました。

 

ではいったいどういうことが今の日本の高校で起きているのでしょうか。現在、日本の高校において大学進学率は60%に迫る勢いであり、人材養成は高学歴化しています。それ自体は悪いことではないのですが、その反面、高卒者の受け入れが減り、非正規雇用が拡大しています。大学を出たからと言って、正職員になる時代ではなくなってきているのです。これまでは進学と人材の高度化は同義語であり、そのために大学に行くことが重要だったのですが、現在では進路が決定できないという理由での進学が増えてきているのです。そのため、社会にでられないための教育機関の延長、「教育モラトリアム」という問題がうまれてきているようです。

 

また、最近において問題になっているのが、中退者の理由です。東京都内の都立高校中退者を対象に行ったアンケート調査(2013)でもっとも多い退学の理由は、教師への反発や問題行動ではなく「遅刻や欠席などが多く進級できそうになかった」ことが一番多く「友達とうまく関われなかった」「精神的に不安定だった」という理由です。多くは学則や学業勉学ではない理由で退学していくのです。しかも、中退者の2割は誰にも相談することなく退学を決めていたそうです。相談する相手がいても、それは教師や仲間ではなく、母親がほとんどでした。そのため、十分なケアができないまま、多くの生徒が1年生の初めに高校を去っていくという現状が今あるそうです。そして、こういったことは低ランクの高校だけではなく、どの高校でも、常にいじめや日々の中で起きか分からない教室から排除される不安と常に戦っているのです。そして、細やかに気を使い、場の空気に合わせて、いつも話せる安心な仲間を持つことが学校生活において非常に重要になってくるのです。そして、こういった対人関係はその後の人生にも強い影響を与えていくということが分かっているそうです。というのも、内閣府の2016年の若者の居場所調査において、20代後半になっても4割ほどの若者が同居家族以外では、高校・大学時代の友人か中学時代の地元の友だちとしか、日々語り合ったりメールのやりとりしていないということが分かったそうです。

 

つまり、職場や地域における日常の人付き合いは広がりを見せず、極めて狭い範囲の人間関係にある若者が多いようなのです。そして、限定された人間関係しか持たない若者ほど、他者に対する評価が厳しくなるそうです。そのため、閉鎖的に人間関係は閉塞的な対人ネットワークにますます期待し、そして失望するという悪循環を生むことがわかりました。古賀氏はこういった人間関係を構築する高校という場にこれまでの構想や選抜の論理から離れ社会参加のための窓口を構築し、自立を援助できる人間関係を形成しやすい環境を取り戻すことが必要だと言っています。

 

果たして、このことにおいて高校からこういった人間関係を形成する環境というものを用意していくべきなのでしょうか。本来こういった人間関係を作る環境というのはどの時期から作るべきなのでしょうか。こういった問題は何も高校で起きているだけではありません。小学校では「小1プロブレム」中学校では「中一ショック」と、どの時期においても結局は人間関係の形成という部分に今の子どもたちは問題を抱えているようです。そう考えていくと、社会に出る直前にその対策を行っていても、どれほどの効果があるのかわかりません。人のコミュニケーションというのは生まれたときから始まっているのです。ということは、そのころからしっかりと社会性を形成できる環境が重要なのは言うまでもないように思います。そして、こういった能力が土台になければ、学業勉学にも結局はつながらないのだと思います。改めて、今の日本の教育現場を見て起きている問題はその時期だけではなく、継続して連携していく必要が分かります。そして、そもそもの教育とはなんなのかそれを問われている時代に来ているように思うのです。