教育
ロックフェラー大学の神経内分泌学者のブルース・マキューエンは1990年代のはじめに提唱したストレス反応についての理論を提唱し、今も広く受け入れられています。マキューエンによると、ストレスを管理するプロセス(彼はこれを「アロスタシス」と名付けた)こそが体を損なう要因になっていると言っています。人体のストレス対応システムは、酷使すればやがて壊れてしまうのです。そして、このストレス対応システムによって徐々に進行する人体への負担をマキューエンはアロスタシスによる負荷(アロスタティック)と呼び、負荷による有害な影響は体を観察していればわかると言います。たとえば、急激なストレスによって一時的に血圧が上がるのは、危機的な状況に対応するために必要なだけの血液を筋肉や内臓に送り込むためなのだが、この血圧の上昇が繰り返されると動脈内に隆起が生じ、心臓発作の原因となる。継続してかかるストレスにより、結果として心臓発作になりかねないということが見えてきます。ACEの数値が高い人が虚血性心疾患になる危険性をはらんでいるということとつながります。
しかし、本来、人間のストレス対応システムは受けたストレスの種類によって適切な防衛機制がひとつだけ引き出されるのがよいのです。たとえば、もし何かで軽傷を負ったなら、免疫システムが働いて大量に抗体を作り出せばよいのですし、もし、攻撃者から逃げる必要があるのなら、心拍数や血圧が上がればいいのです。しかし、HPA軸(視床下部・下垂体・副腎系)は脅威の種類を見分けることができないため、どんな脅威に対してもすべての防衛機制をいっぺんに活性化させるのです。つまり、一つの脅威に対して全く助けにならないストレス反応もしばしば起こるというのです。たとえば、聴衆に向かって話をしなければならないときに突然口が渇いてしまうといったことなどです。これはストレスによって危険と察知したHPA軸が襲撃に備えて水分を保存しているのです。そうなると必死で水の入ったグラスを探し、中身をごくごくと飲み干すことになります。
現在、これらのアロスタティック負荷を測定する数値も現在では研究され、ある程度数値化する指標が見えてきているそうです。そのため、医師が例えば20代の患者に出してみせるたった一つの数字に、当の患者がそれまでに受けてきたストレスと、そのストレスの結果として現在直面している健康上のリスクとの両方が反映されてしまうというのです。そして、それは厳然たる医療データを反映したものとして出てくるのです。そのため、現在では子ども時代の逆境が実際に体に及ぼした影響は皮膚の下、体の奥深くに刻みこまれたものとして見えてくるようになってきたのです。
このようにストレスは体に影響が出てくるだけではなく、数値化できてくることが分かってきました。そして、それは体だけではなく脳においても影響が出てくるということも分かってきました。
2020年1月16日 5:00 PM |
カテゴリー:教育, 社会 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
アンダとフェリッティは逆境によるストレスが、発達段階の体や脳にダメージを与えると言っています。
私たちの体はHPA軸と呼ばれるシステムを使ってストレスに対応している。HPA軸は「視床下部・下垂体・副腎系」の略で、これは困難な状況への反応として脳から体へと化学信号が流れる様子を表している。視床下部、つまり体温や空腹感、渇きなどの無意識に起こる反応をつかさどる脳の領域は、なんらかの危険を感じとったときに最初に防衛にあたる。まず、視床下部が化学物質を放出して下垂体を刺激し、それを受けた下垂体がシグナルを伝達するホルモンを放出する。そのホルモンにより副腎が刺激を受け、グルココルチコイドと呼ばれるストレスホルモンを送り出して特定の防衛反応のスイッチを押す。こうした反応のなかには自覚できるものもある。恐怖や不安といった感情や、心拍数の上昇、発汗、口内の渇きといった体の反応がそうです。しかし、HPA軸の影響には、自分の体内で起っていることなのに直に感知できないものが多いのです。神経伝達物質の活性化、血糖値の上昇、心臓血管系から筋肉への血液の流れ、血中の炎症性たんぱく質の増加などがその例です。
「なぜシマウマは胃潰瘍にならないのか」(シュプリンガー・フェアラーク東京、1998年)の中で、神経科学者のロバート・M・サポルスキーはこう言っています。「わたしたちのストレス対応システムは、他のすべての哺乳動物と同じように、急性のストレスに反応できるように進化してきた。人類がサバンナに暮らし、捕食者から逃げ回っている分にはそれでよかった。しかし、現代の人類はめったにライオンと戦ったりしない。今日のストレスの大半は、さまざまなものごとについて心配するという精神機能からくる。だがHPA軸はその種のストレスに対応するようにはできていない。」と言っています。そして、「人間の生理システムは急を要する身体的な非常事態に反応するよう進化してきたものである。しかしわたしたちは住宅ローンや人間関係や昇進について心配することで、そのシステムを何カ月ものあいだ使い続ける」というのです。
こうした生理システムの使い方は効率が悪いだけではなく、きわめて有害でもある。その証拠にここ15年以上の間に多く発見されている。HPA軸に、特に幼少期に負荷をかけすぎると、長期にわたる深刻な悪影響が体にも、精神にも、神経にも様々に出てくるのです。しかし、このプロセスの難しいのは、わたしたちをかき乱す原因がストレスそのものではないという点です。原因はストレスに対する反応にあるのです。
2020年1月15日 5:00 PM |
カテゴリー:教育, 社会 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
アンダとフェリッティは子ども時代の逆境(ACE)を数値化していく中で驚くべきデータを見つけます。それはACEの数値が高ければ高いほど、成人後も常習行為から慢性疾患にいたるまでほぼすべての項目でより悪い結果が出ていたというのです。この結果を見て、アンダとフェリッティは次々に底辺のX軸にACEの数値を振り、Y軸には肥満、鬱、性行為開始年齢、喫煙歴などの項目を当てはめ、棒グラフを作っていきます。すると、どの表も一貫して、棒グラフは左(ACEの数値がゼロ)から右(とくに7以上)にいくにつれて確実に伸びていったのです。
この表を見ていく中で、ACEの数値が4以上の人々は子ども時代に逆境になかった人々に比べて喫煙率は2倍、アルコール依存症である割合は7倍、15歳未満で最初の性行為を経験した割合も7倍。がんの診断を受けた率は2倍、心臓病は2倍、肝臓病も2倍、肺気腫や慢性気管支炎を患っている率は4倍であった。そして、いくつかの表ではグラフの伸びがことに顕著であった。ACEの数値が6を超える成人は、ゼロの人に比べて自殺を試みたことのある割合が30倍に上ったのです。そして、ACEの数値が5を超える男性は、ゼロの男性に比べて46倍という高率でドラッグを注射したことがわかったのです。
心理学者たちは長い間、子どもの頃の精神の痛手は自己評価の低さや無力感の原因となり、そうした感情が依存症や抑鬱、はては自殺にまでつながる可能性が高いと推定するのは妥当だと信じてきた。そして、ACEの研究でも扱った肝臓病や糖尿病や肺がんのような病気は、部分的には過度の飲酒、過食、喫煙といった自滅型の行動の結果だった。
しかし、フェリッティとアンダの研究によると、そうした自滅型の行動をとらなくともACEの数値の高い人々には成人後の健康に深刻な悪影響がでていた。ACEの数値が7を超える人々を見ると、喫煙や過度の飲酒をせず、太りすぎているわけでもないのに数値ゼロの人々に比べて虚血性心疾患(アメリカ国内の死因第一位)にかかる危険性が3.6倍高いことが分かった。彼らが子どもの頃に経験した逆境は、本人の行動とは関係のない経路で彼らに病気をもたらしていたのである。
子ども時代の逆境の数値(ACE)から見えてくることはたくさんあったのですね。その環境から喫煙や飲酒に目覚めるのが早いというのは想像がつきます。しかし、それ以上に虚血性心疾患など、環境や本人の行動によらない疾病にまで影響が出ているというのは非常に驚くべきことです。それほど幼い頃のストレスのかかる環境というのは非常に深刻な影響を長いスパンの中でもたらす可能性があるのですね。
その後、研究を進めていくことで、アンダとフェリッティは逆境によるストレスが、発達段階の体や脳にダメージを与えるということが分かってきます。
2020年1月14日 5:07 PM |
カテゴリー:教育, 社会 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
バーク・ハリスは子どもたちの貧困と経済格差において、単純な医療行為や社会問題だけの問題ではなく、もっと微細なレベル(ヒューマンバイオロジーの領域の深部)での分析や検討をしたほうが良いということを考えるようになります。そんな時にある医療雑誌の記事に出会います。そのタイトルには「子ども時代の逆境が成人の健康に及ぼす影響―黄金が訛りに変わるとき」とあり、ヴィンセント・フェリッティというカリフォルニアを拠点とする大規模医療保険団体カイザー・パーマネンテの予防医学部門の責任者の記事でした。この記事には「子ども時代の逆境(ACE)の研究」の内容であり、1990年代にフェリッティがロバート・アンダ(アトランタにあるアメリカ疾病予防管理センターの伝染病学者)とともに行ったものでした。
研究の開始は1995年。カイザーの医療保険の登録者で総合健康診断を受けた人に子ども時代の逆境を10のカテゴリーに分けた場合に自分はどこに属すると思うかというアンケート調査を実施した内容です。このカテゴリーには暴力や性的虐待、身体的/感情的ネグレクト、両親が離婚/別居していた、家族の中に刑務所に収監されているものがいた、精神病を患っているものがいた、何らかの依存症だったものがいたなど、様々な種類の家庭の機能不全が含まれる。数年のうちに1万7千人を超える登録者からアンケートの回答が寄せられた。返答率は70%で、回答者はまさに統計学上のマジョリティ、つまり、中流および上位中流階級の人々だった。75%が白人で、75%が大学教育を受けており、平均年齢は57歳でした。
回答を一覧にまとめたときにアンダとフェリティがまず驚いたのが、低所得者層ではなく、中流及び上位中流階級と言われる層の中にも子ども時代につらい思い出を持つ人が多いということでした。回答者の4分の1以上がアルコール依存症患者やドラッグ常用者のいる家庭で育ったと答えていたのです。そして、子どものころ叩かれたと答えた人数もほぼ同じ割合でした。二人はこのデータを使って、それぞれの子ども時代の逆境(ACE)を数値化します。ひとつのカテゴリーにつき1点を加算していくようにしていきます。するとその結果、3分の2の人に1点以上がつき、8人にひとりが4点以上がついたのです。
さらに二人が驚いたのは、カイザー社が集めた街灯登録者の膨大な医療履歴をACEの数値と比較したときでした。子どもの逆境と成人してからのネガティブな結果の間には非常に深い相関関係が見えてきたのです。そして、この2者関係は非常に直接的なものでした。というのもACEの数値が高ければ高いほど、成人後も常習行為から慢性疾患にいたるまでほぼすべての項目でより悪い結果が出ていたのです。
2020年1月13日 5:00 PM |
カテゴリー:教育, 社会 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
「子どもたち、とくに困難な環境にいる子どもたちを支援すること」というのは様々な国で取り上げられています。ここで紹介するエリザベス・ドージアと後に紹介するナディーン・バーグ・ハリスもその一人です。彼女たちは「困難な環境にいる子どもたちを支援する」ということを共に使命感を持っているだけでなく、似たような根深い不満を抱えていました。二人とも、職務の範囲で最善の手段をもってしても、目の前の問題を解決することができないといった結論に達したばかりで、キャリアにおいても、人生においても、転機を迎えていました。そして、いままでにない新たな戦略の手引きを探していたのです。
2009年にエリザベス・ドージアはシカゴのサウスサイド、ローズランドの中心にあるクリスチャン・フェンガー高校の校長に任命されます。しかし、その学校は危機に直面していました。いやむしろ、その学校は過去20年以上を遡っても危機的状況にない瞬間を探す方が難しいような学校です。このローズランドという土地はいまや市内でもあらゆる尺度から見て(貧困率・失業率・犯罪率・あるいは荒れ果てて閑散とした通りの雰囲気など)をみても最悪の部類に属する場所の一つです。また、ローズランドは辺鄙な土地で、人種隔離に使われているかのような地域です。そして、98%が黒人の土地です。フェンガー高校はこういった貧困地域にある多くの大規模公立高校の例にもれず、惨憺たる記録を保持していた。試験における得点は常に低く、出席率も低い。校内は慢性的に荒れており、退学率が高かった。しかし、こういった「行くところまで行った学校」は町の有力者やワシントンの官僚からも無視され、放置されるものでしたが、このフェンガー高校は無視されてきたわけではないのです。むしろ、ここ20年以上、なんども大掛かりな改革の対象となってきました。予算もたっぷりと割かれ、国内の有名な教育官僚や慈善家が何人も関わってきた。教育困難校に対する改善策としておおよそ思いつく限りのすべての戦略が手をかえ品をかえ試されてきました。その中で校長に任命されたのが、エリザベス・ドージアです。
彼女は着任したとき、事態を好転させるために必要な道具はすべて現代的な教育改革理論の中にそろっていると信じ込んでいた。そして、着任前の一年、彼女はニュー・リーダー・フォー・ニュー・スクールズと呼ばれる最高峰の研修プログラムを受けて過ごしました。研修では、行動力のあるリーダーなら生徒の成績を高いレベルまで引き上げることができる、熱心な教員が指導に当たる限り生徒の経済状況は関係ないとたたき込まれたのです。そこで彼女はフェンガー高校の事務員や教員を入れ替えました。ドージアは求める基準に達しないものを容易に解雇できるのです。そうして学校の環境を思うように作っていきました。
しかし、ドージアはこう言っています。「学校がうまく機能しないのは校長が悪いか、教員が悪いせいだとずっと思っていました。だけど、現実にはフェンガーは地元に根差した公立高校であり、地域社会のありようを反映しているにすぎません。学校の問題を解決しようと思うなら、地域で怒っていることに目を向けないと」
フェンガー高校について知っていく中で、生徒たちが家庭で直面している問題の深刻さに何度も驚かされたと言います。「ここの生徒の大半は経済的に恵まれていません。常にお金に困っています。そして、多くが、ギャングの問題のある地域に住んでいます。深刻な逆行を免れている生徒なんて一人もいないのです。」事実、女子生徒の4分の1は妊娠しているか、10代にしてすでに母親である。実の両親と暮らしている生徒はどれくらいいるのかと聞くと「思いつきません。そういう生徒もいるはずなのですが」とドージアは言います。
そんな中、大きな事件が発生します。
2020年1月10日 5:00 PM |
カテゴリー:乳幼児教育, 教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
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