教育

足りないもの

KIPPアカデミーのディビット・レヴィンは抜群の成績でミドル・スクールを卒業し、名だたる一流の高校に進学していった最初の生徒を見て、強く手ごたえを感じたようです。その時はニューヨーク市で5番目の成績であったことや90%の生徒を私立か教区立の高校に入れたことで、「これで問題は何もないはずだ」と思ったそうです。しかし、ここである問題が出てきたのです。2003年のクラスのほぼ全員が高校を卒業し、ほとんどが大学に進学しました。しかし、そこから山は急に険しくなってきます。高校卒業の6年後、4年制大学の過程を修了したものは21%(8人)にとどまったのです。

 

タフ氏はその頃のことをティレル・ヴァンスから聞いています。彼は最初のKIPPのクラスの一人で、多くの点で典型的な生徒でした。最初に学校についたときには、独特の儀式やエネルギーに圧倒されます。なにより宿題はやってもやらなくてもいいものだとヴァンスは思っていたのですが、KIPPでは強制でした。この件に関してはヴァンスとKIPPの教員との間で長い闘いが繰り広げられたのですが、KIPPの教員の熱意によって、ヴァンスも熱意で応えるようになりました。彼は最後にはクラスメートや教員を「家族」といった感じにまでなっていたそうです。

 

ヴァンスはクラスのほかの多くの生徒と同じように数学が得意で、全市統一テストでは高得点を取り、8年生の時に9年制の過程を終えるほどでした。しかし、高校にあがると向上心の溶鉱炉のようなKIPPのクラスから離れると熱意を失ってしまったのです。成績はミドル・スクールの頃にはAやBが並んでいたのですが、Cで埋まるようになっていきます。このことについてヴァンスは「KIPPのおかげで学業への準備はよくできたけれど、感情面、心理面の準備ができていなかったのだと思う」と言っています。そして、「自分がやっていることをみんなが知っているような、家族みたいに密な集団から、放っておかれることの多い高校に行きました。宿題をやっていても、誰もチェックしません。となると、高校生活のことは自分でやれるように成長するしかなかった。おれたちにはその準備ができていなかったのです」というのです。

 

高校を出た後、ヴァンスは4年制の大学にいくが、そこでの科目も退屈に感じるようになります。専攻を変えてみても、学部長とそりが合わず、結局退学することになります。その後、靴屋で働いたり、別の州立大学に入学したが、学費が底をつき、やめることになります。ここ数年はコールセンターで顧客サービス窓口として質問に答える仕事についているが、かれはそれを楽しんでいるそうです。彼は今までに成し遂げたことには満足はしているけれど、振り返れば後悔もあると言っています。「たくさんの可能性があった。それをもっとなんとかするべきだったかもしれません」

 

この内容を受けて、真っ先に出てくるのが一時期問題になった「燃え尽き症候群」です。大学に入ってから、結局やる気にならず退学する生徒が多かったことから言われるこのもんだですが、ここで出てくるヴァンスと同じことが起きていたのだと思います。ここでヴァンスはとても特徴的なことを言っていました。それは「自分でやれるように成長するしかなかった。おれたちにはその準備ができていなかった」ということです。大学に行ったら、自分のやりたいことは自分で見つけていかなければいけないのです。それは社会に出ても同じです。だれもその先を照らしてはくれないのです。つまり「他律」になっていたのですね。結局、素晴らしい成績を残したとしても、それが指示されなければできないのであれば、宝の持ち腐れです。使うことができないのです。これは最近の若者にとっても同じことが言えるそうです。

 

以前リクルートの方と話す機会があったのですが、そこでも「有名大学を出たからと言って会社で優秀な人材かというとそうではない」と言われていました。そこには学ぶべき目的を持っていなければいけないのでしょう。「何をまなんでいるか」ではなく、「なんのために学んでいるのか」ということを考える必要があるのだと思います。

KIPPの実践

1999年サウス・ブロンクスで10代前半の38人がキップ(KIPP)アカデミーのミドル・スクールを卒業しましたが、彼らが8年生だった時のクラスはアメリカの公教育史上最も有名なクラスかもしれないとタフ氏は言います。というのも、このクラスは全員が黒人かヒスパニックで、ほぼ全員が低所得層の家庭の子どもであり、4年前に4年生の教室からディビット・レヴィンに引き抜かれた子どもたちでした。レヴィンは25歳で白人のイェール大学の卒業生でした。そして、「僕の新しい学校に入るなら、君たちを公立学校の典型的な学業不振の生徒から大学進学を目指す学者の卵に変身させて見せる」と約束し、親や子どもを説得したのです。KIPP(「知は力なり」ナレッジ・イズ・パワー プログラムの略)での4年間は新しい学校生活の中で過ごしたのです。

 

これは高エネルギー・高密度の授業が続く長い一日と、入念につくられた態度強制・行動変容プログラムを組み合わせた学校生活であり、レヴィンがそのつど、考えて見えることも度々あるようなものでした。レヴィンのやり方は効果を上げ、しかもそれが過ぎに目に見える形で成果が表れます。1999年の8年生の全市統一学力テストで、KIPPアカデミーの生徒たちはブロンクスでは最高、ニューヨーク全市でも5番目の成績をあげ、これは入学時に成績を問わない貧困地区の学校としては前代未聞の成績でした。このことでニューヨークタイムス紙の一面にKIPPについての記事が載り、CBSのドキュメンタリーでも取り上げられるものでした。その後、GAPの創始者ドリス&ドナルド・フィッシャーの目に留まり多額の寄付を決意させたことにより、KIPPは全国組織へと拡大しました。その結果、各地に100を超えるKIPP方式の特別認可学校(チャーター・スクール)ができ、KIPPはチャータースクールや教員の労働組合、共通テスト、学習への貧困の影響などに関する国内議論の中心であり続けたのです。

 

そのKIPPアカデミーの最初の生徒たちはまるで脅しだと思われるほど、高度な教育の重要性をたたき込まれます。学校の廊下には大学の校旗が並び、どの教師も受け持ちの教室を母校のグッズで飾ります。会談の吹き抜けには大きな看板があり、そこには「大学への山を登り切れ」と書かれ、生徒たちはそれが自分の使命だと信じていました。卒業したときにはまさにその態勢が整っているようでした。彼らは抜群の成績でミドル・スクールを終えただけではなく、ほとんどの生徒が一流の私立高校やカトリック系の高校に進学を決めており、全額給付付きの奨学金を受けられるものも少なくありませんでした。

 

しかし、これだけ抜群の成績を残したにも関わらず、この最初の生徒たちについて、一つの課題が見えてきました。そして、このことは成績や偏差値偏重の今の教育環境や知能至上主義に一つの問題を投げかけているように感じます。KIPPの生徒はどういった様子を見せ始めたのでしょうか。

ターニングポイント➁

キーサはアンジェロの事件のあと決意を固くしていきます。彼女は「最悪のことはもう過ぎた。今はプラスの園を探している。今のままでいるのはもううんざり、だからいろんなことを変えるためにできることは全部するって決めた」その後、彼女は学校に行くようになります。当然勉強は遅れていたのですが、大都市の高校にある制度で、成績が足りない場合に短期間でそれを埋め合わせるシステムがあるのを利用し、卒業します。彼女はこのころ勉強と名のつくものをするようになって以来初めて真剣に課題に取り組みました。夜間学校には週5日間参加し、朝から晩まで学校にいることも度々あったそうです。その後、フェンガー高校を卒業し、公立の短大に入学します。そして、そこで美容に関する学位を取るための勉強を始めます。

 

キーサが高校を卒業する数カ月前、タフ氏はフェンガー高校のカフェテリアでキーサにあい、将来の計画について聞いたそうです。その時彼女は短大を卒業後美容師のライセンスを取ったら、フルタイムでラニータ・リードの美容院に雇ってもらえるといったそうです。そして、「今から5年後には、自分で稼いだお金で自分ひとりのアパートメントに住んでいると思う」といっており、「妹たちも、何かあればあたしのところに来ればいい」とも話していました。タフ氏はこの自分の現状を抜け出す道を探すだけではなく、家族の子とも忘れないということに感心したそうです。そして、「毎日見ているものよりもっといい人生があるって、妹たちに教えたい。」というのです。「そうしないと、あの子たちはどうせたいしたものは手に入らないと思ってしまうかもしれない。だけど、人生にはもっとたくさんのものがある。本当に、はるかにたくさんのものがある」

 

彼女はまさに幼少期に逆境のある生活をしていました。これまでの話であると幼少期に逆境のある生活をしているとストレス対応システムがうまく働かないという話でした。ではなぜ、キーサはそんな幼少期にあり、それでもストレス対応システムがうまく働くようになったのでしょうか。

 

タフ氏は「幼少期の支援こそが重要であるとする科学的根拠に異を唱えるのは難しい。子どもの健康的な発達において、最初の数年は非常に大切だ。子どもの将来を良いものにするための唯一の機会のようにも見える。しかし、感情的、心理的、そして神経科学的な経路をターゲットとしたプログラムの一番有望なところは、子どもが成長してからでも充分に効果がある点だ」と言っています。そして、この点に目を向けることは学力面のみの支援よりもはるかに効果が高い。知能指数だけを見るなら、8歳を過ぎたあたりからなかなか伸びなくなる。しかし実行機能やストレスに対処したり強い感情を抑制したりする能力は、思春期や成人になってからでも時には劇的に改善できるというのです。

 

10代はどんな子どもにとっても難しい時期です。ましてや、逆境に育った子どもたちの場合、思春期が最悪のターニングポイントにもなりかねません。幼児期の傷が良くない決断をうみ、良くない決断が破壊的な結果を生むこともあります。しかし、キーサのように逆に思春期は逆のターニングポイントにもなりえます。最もは深い変化の時期でもあり、その時期にラニータ・リードとの出会いのような機会があることで軌道修正し、成功へのコースに変化することもあるのです。

 

これまでの内容では幼児期の環境による影響が大きいということが特に言われましたが。、思春期にもう一度、変われるチャンスがあるのですね。よくその時代にグレていた悪たちが良い先生と出会うことで構成するという話を聞きます。ここでのラニータ・リードのように自分を受け入れてくれる「安心基地」との出会いは、子どもたちにとってとても重要な存在であり、将来においてもとても重要な出会いになっていくのだと思います。まさに、人間形成とは保育や教育に携わる期間において起きるのですね。

ターニングポイント①

タフ氏は10代は難しい時期と言っています。ましてや逆境に育った子どもたちの場合、思春期が最悪のターニングポイントになることも少なくないと言っています。しかし、10代の子どもというのは幼児にはできないやり方で人生を考え直したり、つくり直したりする能力を持っていると言います。そして、このことをYAPにいたキーサ・ジョーンズを実例にあげています。彼女はYAPにおいて先の見通しが一番明るい生徒であったが、タフ氏の知る限り一番痛ましい過去の物語を持った生徒だと言っています。

 

彼女はフィンガー高校の3年生で腕にはタトゥーがあり、下唇にはスタッドピアス、不揃いなカットの前髪に赤いメッシュと非常にハードな見かけでありました。そして、住んでいたところはローズランドの特に荒れたところに母親の家でした。そして、その環境はキーサの成長期を通じていつもうるさく、間借り人が大勢いていつももめごとが絶えませんでした。実のきょうだいや半分だけ血のつながったきょうだい、叔父といとこがつねに出入りしていました。父親はキーサの言葉を借りると「遊び人」で近所中に愛人がいる人だった。

 

キーサの母親は80年代にはフェンガー高校の生徒でしたが、3年生の時に酒に酔った状態で登校し退学になった。いまじゃクラック依存症とキーサは言っています。大家族の中にもコカインまで手を出しているものがいて、たびたび警察の手入れがあり、家の中をひっくり返しては銃とドラッグを探し、家の中の一人ふたり手錠を掛けられ連行されているのが常だったのです。キーサも親戚のひとりから性的ないたずらを受けたこともあったが、母親に信じられないのではと黙ることが多かったそうです。そして、彼女はその不満を学校で喧嘩をすることで解消していたのです。

 

2010年にドージアはキーサにYAPの助言者をつけてもらうよう申請しました。それがラータ・リードとの出会いです。彼女は「ギフティド・ハンズ」という美容院を経営しており、そこにキーサをシャンプー係として働かせてみました。彼女は若い女性にとっては外見も大事とキーサの内面と外面を同時に変えようとしました。そして、何時間も一緒に過ごしたり、ボーリングしたりなどを美容院でのセラピーの延長のようなものと捉えて過ごしました。彼女は完璧な姉みたいとキーサは言っています。

 

その後、キーサは6歳だった一番下の妹がいとこのアンジェロから性的虐待を受けたことを打ち明けられ、アンジェロが刑務所に入ることになったことが大きな転機になります。母親は彼の告発をあまり歓迎しなかったそうです。というのも、いたずらをされた娘よりも家賃収入の一部が無くなるのが痛手になるのでそちらに気が言ったり、アンジェロが刑務所でやっていけるかを心配したりしたのです。しかし、これがきっかけとなり、キーサは自分の人生を変える決意をし、アンジェロの事件があったために決意はますます固まります。

アタッチメントと世代間の連鎖

子どもとの良好な愛着関係があることで、逆境な環境においても、子どもたちがストレス対応システムに改善が見られるということが分かってきました。そして、それは子どもたちの将来においても影響があるということが見えてきたのです。タフ氏はシカゴに拠点を置く慈善団体「1オンスの予防基金」の自宅訪問プログラムを20年以上監督した幼児の専門家ニック・ウィクスラーとの話し合いのなかで彼はこれまでの経験の中で、新しく親になった人々との従来の話題(禁煙や乳幼児の栄養、言葉の発達など)に対応する内に、子どもの後々の成果をより良いものにするためにはアタッチメントの改善が最も強力な手段であるという研究に納得いったと言っています。

 

しかし、実際にはアタッチメントの改善に向かう訪問のスタッフが本分を思い出さなければいけないことがたびたびあったそうです。というのも、本来はあくまで愛着関係の改善が目的であって、若い親たちが抱える問題のすべてを解決することが仕事ではないのです。その様子をニック・ウィクスラーはこう言っています。「訪問スタッフにとってはかなりの難題なんですね。もっと何かしたいと本能的に思ってしまうんです。しかし、住環境の悪さや学校環境の悪さは、いつも解決できるとは限らない。我々にできるのは、親に心の強さやレジリエンスを持たせることです。可能な最良の親になれるように」

 

この言葉を受け、「1オンスの予防基金」の運営するプログラムで、「カトリック・チャリティーズ」のスタッフ スチュワート・モンゴメリーをタフ氏が見たときです。そこではジャッキーという16歳の少女と8カ月になる彼女の子どものマケイラを訪ねたときでした。その時のスチュワート・モンゴメリーの対応にさすがと思ったそうです。タフ氏はジャッキーたちの様子を見ていた時にまさに住環境や様々なことを思ったのですが、彼女はジャッキーに集中していたのです。まるで、彼女はマケイラに対して同じことをしてくれればいいと願うかのように、ジャッキーがマケイラを見る様子を見守り、励ましの言葉をかけ、温かく育むようなサポートを実践していたのです。

 

ひと世代まえの支援技法は、幼少期の言語スキルが重要だとしたハートとリズリーの研究の影響のもとに展開され、おもに子どもの語彙をふやすことを親に勧めていました。しかしこの方法には無理があったのです。それは低所得層の親の多くがそうであるが親自身に限られた語彙しかない場合、子どもに豊富な語彙を持たせようとするのは至難の業なのです。読み聞かせをたくさんするのも確かに一つの手ではあるのですが、幼児は親が語彙の増強に専念しているときだけではなく、あらゆる瞬間に言葉を吸収していくのです。そのため語彙不足は次の世代へと引き継がれる。英才教育の幼稚園にでも通い始めれれば世代間の連鎖を断ち切るのに役立つかもしれないが、親のみに重点を置いた支援では無理なのです。

 

しかし、これまでのフィッシャーやドージア、リーバーマンらの主張によれば、愛着関係を育むほうが、子どもの成長や改善に寄与する可能性がはるかに大きいというのです。そして、それは語彙の不足と違い、不安を生む親子関係は比較的小さな支援で対処できるというのです。つまり、不安定な愛着関係の連鎖は完全に断ち切ることができる。アタッチメントに問題を抱えた低所得層の母親が、適切な支援を受けることができることで子どもと安定した関係を築けるようになるのです。そして、それが子どもの人生に極めて大きな違いを生む可能性があるというのです。スチュワート・モンゴメリーの助けでジャッキーとマケイラが安定した信頼関係を築くことができれば、マケイラはいまよりは幸せな子ども時代を過ごせるだろうとこれまでの様々な実践の内容をうけてタフ氏は言っています。