教育

アプローチ

一口に「規律」といっても、それは場所や環境によって違うものです。たとえば、日本では箸を使ってご飯を食べます。そのため、幼稚園や保育園からでも箸の使い方を教えますし、手づかみ食べなどは「赤ちゃんがするもの」として捉えられます。しかし、例えば欧米ではどうでしょうか。箸は使わず、スプーンやフォークで食べます。インドなどではどうでしょうか。カレーなどは手で食べます。また、それにおいてテーブルマナーも違っています。その国では常識であっても、他の国では非常識になることもあるのです。KIPPにおける規律では「罰則が厳しい。そのため、生徒は先生の前では常識的な行動をするが、先生が背を向けたとたんに、できる限りさぼろうとする」ということがありました。そのため、KIPPにおいてはより深い内省と成長の可能性を生むものになるための変革を行っていました。

 

KIPPの変革を進めていく中でブランゼル自身も批判の手を緩めるようになりました。かつては、あまりにも高圧的であると思えたKIPPの行動変容システムも、いくつかの要素については高く評価するようになったのです。たとえば、SLANTです。これは生徒がKIPPでの最初の年に初めに教え込まれる教室での習慣で、正しい姿勢で座ること(Sit up)、よく聞くこと(Listen)、質問をすること(Ask questions)、うなずくこと(Nod)、話して目を向けること(Track the speaker with your eyes)の頭文字をとったもので、ブランゼルにとってはこれはTPOを教えるのに便利な方法だったのです。状況に応じて適切な行動を取れるというのは、KIPPや都市部の他の多くの低所得地域の学校で特に大事な能力であるからです。TPOのセオリーに従うなら、街角にたむろしているときには粗野な様子でも構わないのですが、博物館や大学の面接や高級レストランに行くときにはそれなりの行動をとらなければいけなくなります。そうでなければ大切なチャンスを逃すことにもなるからです。そのため、こういった行動様式を覚えさせなければいけないのです。

 

では、リバーデールではどうなのでしょうか。リバーデールではKIPPのこういった変革についてはっきりと意見が分かれると言います。リバーデールのK・C・コーエンは、性格の通知表の特定の項目に関して、この一年の間に2校間で意見の合わないことが増えてきたように思うと言っていた。「たとえば、KIPPでは自制心を示そうと思ったら、姿勢を正して座って脅威氏の方を見ればいいのです。しかし、うちでは椅子の上で膝を抱えようが、床に寝そべろうが、誰も気にも留めません」というのです。ほかにも「たとえば、“この生徒は大人や同級生に対して礼儀正しい”という項目」があるが、コーエンは(自制心にかんする項目の一つとして)「これは素晴らしい」といったうえで「リバーデールでは子どもたちは私のところにやってきてポンポンと肩をたたきながら“やぁ、K・C”なんて挨拶をするんです。でも、KIPPでは教員はつねにミスター・誰々。ミセス・誰々でしょう。ちょっと堅苦しいくらいに」

 

こういったところがTPOの難しいところです。特権階級の文化の中にいる子どもたちは必ずしも学校で形式的な態度を保たなくてもいいのです。もっと正確にいうのであれば、リバーデールのような学校では背筋を伸ばさずにいたり、シャツの裾を出してきたり、教員とふざけ合ったりすることの方が普通の行動なのです。

 

本来規律とはどういったものなのでしょうか。コーエンは言います。ガムをかむ生徒について「うちの学校では異常に活発でガムをかまずにいられない子どもたちがいます。しかし、KIPPでは絶対に許されないことでしょう。ここでは、子どもたちはすでにマナーくらいは心得ているという前提があります。だからおかしな姿勢でいすに腰掛けたいならそうすればいい。ところがKIPPでは、ダメダメ、みんなが決まりに従わなければ、といわれるんです。なぜなら、規律を遵守することが成功への助けになるとされるから」

 

このことから見ていくといかに自分の行動に責任を持って行動することが大切なのかということが言えます。その答えは生徒自身が持っているというのがリバーデールでの教員の言いたいところなのだろうと思います。しかし、KIPPではその環境からかネガティブであったり自滅的だったりする思考や解釈を自覚することから始めなければいけません。そのうえであえてよりよい見方を口にだすようにするようです。これはポジティブ心理学全体の根幹をなす臨床心理学の認知行動療法(CBT)というテクニックの一つです。つまり、仮に最悪の時期があったとしても、それを乗り越えることができる子どもは「こんな小さなことは乗り越えられる。私は大丈夫。明日は新しい一日だから」と言える子どもです。

 

こういった言葉の力というのは日本では「言霊」と言いますね。ポジティブな言動を心がければ自然とポジティブな考えになってくると言います。KIPPでもうまくやれる子どもはこういったことができる子どもだそうです。つまり、子どもを取り囲む大人というのも子どもたちにとってネガティブな言動ではなく、ポジティブな言動を心掛けたほうが子どもたちにとっても良い環境になっていくのでしょうね。

規律を守る

私の働いている園の理念において自由と規律というのは大切にされています。それは社会に出た時には様々なルールがあり、法律やヒトとの約束、文化においても、様々なルールがあります。そういったルールのある中で、自己発揮し、社会で活躍できるような人になってくれることが園の理念になっています。しかし、こういったルールや規律をまもるためには自制心が必要になってきます。自分自身がルールを知り、時には我慢していく力が必要になってきます。性格の強みにおいても、どう規律を守らせるかということは議論されています。

 

KIPPインフィニティ・ミドル・スクールのトム・ブランゼルは同行の管理体制へ批判を論文の中で書いています。それはどういったことかというと、「インフィニティの遵守を基本とするシステムは罰則に依存する雰囲気を出している」とブランゼルは言っています。というのも、KIPPアカデミーの初期はかなり規律に関してはきびしくしていたのです。そこでブランゼルは罰則が厳しいことについて「これは結局生徒の意思決定を否定するものだ」といったのです。そして、結果としてKIPPインフィニティの生徒はしばしば最も浅はかな類の「よいおこない」をしてみせるようになったのです。それはみずから行動の結果を深く考えるのではなく、教員がいているときにはこれ見よがしに行儀よく振る舞い、教員が背を向けたとたんにできるかぎりさぼろうとするという様子が見えるようになったのです。

 

罰則がきつくなればなるほど、その本来の意味を理解するよりも、「罰則を受けないようにどうするのか」という思考になるのはよくあることです。よくあるのが「スピード違反」など交通ルールはよくこういったことが起きているようにも思います。結局のところ、罰則だけが重くなるが「罰則がおきる事件」自体が無くならないのです。では、KIPPではこういった問題に対してどういった対応を取ったのでしょうか?

 

先のブランゼルの主張でKIPPインフィニティは変わってきます。罰則はそれほど厳しくなくなり、罰をあたえる期間も短くなったのです。そして、生徒指導においては現在でもたびたび真剣に話をすることはあるものの、大勢の前ではなく個別に指導を行うようになり、生徒が言い分を聞いてもらえる、尊重されていると感じらえるよう配慮するようになったのです。この考えに至るためにこれまでレヴィンとランドルフがセリグマンとピーターソンの考えを基にした「性格の通知表」はブランゼルにとっても変革の重大な一部となっていたのです。そして、それは行動について話し合う上で今までとちがう仕組みを提供するものであり、より深い内省とさらなる成長の可能性を生むものだったのです。

 

罰則というものは分かりやすく、相手を判断するものです。罰則とは違いますが、結果として、簡単に物事を判断させるものとして「ごめんなさい」も似ているようにも思います。つい大人は「ごめんなさい」を言わせようとしてしまいます。しかし、当の子どもたちはそんな言葉ではなく、相手がもうしわけないと思っているかどうかだろうと思うのですが、大人は白黒はっきりさせようとします。そして、その話の主体を子どもたちから大人の判断に移行させてしまっているのです。そのため、子どもたちを見ていると何かあるとすぐに「ごめんなさい」と言って切り抜けようとする子どももいます。人とのルールを理解していくためには、あくまでその当人自体に考えさせる環境が必要なのです。社会でにおいて起きている様々な問題の裏には乳幼児期のこういった自分で考える環境の有無に問題があるのかもしれません。

失敗の大切さ

一時期、「モンスターペアレンツ」という言葉がはやった時期がありました。今でも、幼稚園や保育園に保育だけではなく「躾」まで求めるような保護者もたくさんいます。日本の場合、特に小学校以上では「学校指導」だけではなく「生活指導」まで行っています。以前、東進ハイスクールの林修先生がこのことが日本の「学校指導の質を下げる要因」であると言っていました。そして、モンスターペアレンツが生活指導まで学校に求めるので質を下げているという話をしていました。海外やトップクラスの学校ではこの生活指導にかかる時間は少なく、その分、教員は余暇活動などが保障され、より魅力的な先生になることで、学習指導にもいい影響が出るというのです。また、最近では園での様子をすべて知っていたいというステレオタイプの保護者が増えてきているようです。

 

コーエンは現場の様子を見て「なんでもかんでも与えようとする保護者はそれが愛と思おうとして、子どもを甘やかしすぎる。でも結局犠牲になっているのは子どもの性格であり、そういうケースがここでは非常に多いんです。リバーデールの最大の問題の一つだと思います」と言っています。

 

このことは何も裕福な家庭だけの問題ではなく、すべての親の問題です。日本でも例外ではありません。わたしたちは子どものためにできるかぎりのものを差し出したい、子どもがほしがるもの、必要とするものはすべて与えたい、ほんの少しでも不快な思いをさせたくない、大小さまざまの危険から子どもを守りたいという、本能ともいえる切実な願望があるのは当然でしょう。それでいて、子どもに何より必要なのはいくらかの困難であるともわかっているのです。自分で乗り越えられると子ども自身が納得するためにも、少々の難題や損失は必要で、親としては、毎日のようにこうした厄介な問題と格闘し、半分でも正しい決断ができれば幸運であると考えています。しかし、本来はこのジレンマはプライベートな問題として家の中だけで認められることですが、高い授業料を払って子どもを通わせている学校のような公の場で指摘されるのは別問題なのです。

 

そもそもリバーデールの学校の目的は子どもたちの人生における可能性の「天井」を高くすることではなく、「床」を堅持することであり、子どもが上流階級から転げ落ちることのないようなつながりや保障を与えることです。リバーデールが親たちに提供するのは他の何よりも、失敗のない人生への保険なのです。そのためにはどうしたらいいのでしょうか。リバーデールの保護者が問題とするところはどこなのでしょうか。問題はそこです。そして、これまでの様子から見て、ランドルフも気づきます。ここで若者の気質を育てる最良の方法は、深刻に本当に失敗する可能性のある物事をやらせてみることであるということです。

 

ビジネスの場合であれ、スポーツや芸術の分野であれ、リスこの高い場所で努力をすれば、リスクの低い場所にいるよりも大きな挫折を経験する可能性が高くなります。しかし、独創的な本物の成功を達成する可能性も高くなるのです。ランドルフは「やり抜く力や自制心は、失敗を通して手に入れるしかない。しかし、アメリカ国内の高度にアカデミックな環境では、たいてい誰も何の失敗もない」と言っています。

 

KIPPの生徒がリバーデールの生徒よりも有利な点はここだと思うとディビット・レヴィンは言います。「うちの子どもたちが教育を通じて日々経験している課題は、リバーデールの子どもたちとは全く違います。結果として、うちの生徒のやり抜く力は多くの点でリバーデールの生徒のそれよりもはるかに大きい」と言っています。

 

子どもたちは日々の中で様ざまな遊びを行っています。その中では試行錯誤をして遊んでいます。そして、保育者はその様子を見ていますが、時に手を出したくなる時があったり、先回りして教えたくなったりします。しかし、それこそ子どもたちにとっては大きなお世話なのでしょうね。

裕福の現実

スニヤ・ルーサーはコロンビア大学教育大学院の心理学の教授で、富裕な環境で育つ子どもの精神的困難の研究を専門としていました。研究をはじめた当初の関心事は、低所得者における思春期の問題だった。そして、その問題をはっきりとさせていくためには比較対象となるグループを探す必要が出てきます。そこで都市部の貧しい地区で見られるパターンを、困難の少ない人口層と比べることでより深く理解しようとしたのです。

 

ルーサーは研究において郊外の裕福な白人の10年生が大部分を占める200人ほどのグループと、都市部の貧しい黒人の10年生が大部分を占めるほぼ同数のグループを比較する研究をはじめました。ルーサーが驚いたことにはアルコールやタバコ、マリファナやそれよりも強い違法ドラッグを常用しているティーンエイジャーは貧しい地区よりも裕福な地区に多かったということです。上にあげた4つをすべて試したことのある女子生徒は郊外では全体の35%、都心では15%だった。ルーサーの調査によれば、豊かな家の少女の間では鬱にかかる割合も増えており、22%が臨床上重大な症状を訴えていました。

 

ルーサーはすぐに他の高級住宅地の学校でも助言を求められ、そこの生徒たちを数年のあいだ追跡しました。ここでも生徒の5分の1が薬物の使用、重度の鬱や不安、慢性的な学業不振などを含む複数の持続する問題を抱えていました。今回は悩みや非行に関する情報に加え、親との関係も調査に含めました。その結果、社会経済の両端のどちらでも親が重要な役割を担うことが分かったのです。豊かであっても、貧しくても、子どもの不適応を予測できる材料となる家庭の特質は共通していました。

 

それは母親のアタッチメントのレベルが低いこと、親が過度に批判的であること、放課後に大人の目が行き届かないことなどである。ルーサーの発見によれば、豊かな子どもたちが抱える悩みの一番の原因は「成果を上げることへの過大なプレッシャーと、精神、感情の両面における孤立」でした。

 

児童心理学の専門であるハーバード大学のダン・キンドロンは全国規模の調査で、裕福な家庭の子どもに特別なプレッシャーがかかっていることのさらなる証拠を見つけました。それはルーサー同様に、裕福な家庭の思春期の子どもについてで、不安や鬱が突出して高い値を示していることに気が付いたのです。そして、彼の発見によると、親と子の間に感情面でのつながりがない場合、親は往々にして子どもの悪い行いにひどく甘かったのです。

 

キンドロンの調査では、年収が100万ドルを超える親の中に、自分は自分の親よりも子どもに甘いと答えた人が圧倒的に多かったと言います。実際、リバーデールで性格に関する学校の取り組みを監督するコーエンとフィアーストはこう言っています。「うちの生徒にはあまり苦痛に耐える力がない。そういう領域に足を踏み込もうとすらしない。がっちり守られていて、何かで不快を感じたときには保護者から連絡が来る。保護者には子どもが難題にぶつかるのはいいことなんだと話すようにしています。そこで初めて学ぶことができるのだから」と言っています。コーエンは「リバーデールでは多くの親が子どもに抜きんでることを強要しながら、まさにそのために必要な気質の成長を知らず知らずのうちに妨げている」とも言っています。

裕福な地域

レヴィンとランドルフが「何が気質を育てるのか」ということを共通項として研究していますが、彼ら二人を取り囲む環境は大きく違います。レヴィンのいるKIPPアカデミーがある環境は全員が黒人かヒスパニックで、ほぼ全員が低所得者層の過程の子どもです。そして、ランドルフがいるリバーデールのミドルスクールがある場所は裕福な土地柄であり、体制の側の人間が子どもにも体制の側の人間になることを学ばせるために送り込むような学校です。しかし、そのどちらにも「気質を育てる」ということに課題を置いているのです。

 

そして、それはその地域柄において受け方は違っていたります。たとえば、レヴィンとランドルフが考えた「24の強みが将来の子どもたちの性格に大きく関わっている」「そして、それは企業に入ることや大学に行くことに役立つ力となる」といった、24の強みは実際に役立つものが含まれていることを生徒や親に納得させることにも違いが生まれます。たとえば、KIPPの子どもたちにとっては、性格の改善が大学に行く助けになるというのは強力な誘因としてあります。そのため、気質について真剣に考える動機ともなります。なぜなら、KIPPの生徒たちにとって、強みを習得するのは他の人々の成功の謎を解く試みでもあるからです。だから“成功する人々がどんなふうか、その秘密を教えてあげる”といえばいいのです。しかし、リバーデールの生徒にとっては大学を卒業することは当たり前なのです。どうしたら成功できるかを知るのに、教師に頼る必要がないのです。自分よりも前の世代の家族もみんなそうであるコミュニティにあっては、気質を伸ばすアイデアというものにピンとこず、なかなか伝えることが難しいと言っています。

 

これほどの、違いが地域によっても大きく違うのですね。これは日本においても、制度や自治体や人口によって同様のことが言えると思います。分かりやすいのは過疎地が都市部下でも、保育や教育のあり方の違いは多くあります。たとえば、待機児の対応一つとっても大きく違います。地域によっては待機児が多いところもありますが、場所によっては過疎で子どもがいないという場所もあります。地域によって、住む人々も違えば、公園の量、道路の道幅、どれも違います。その土地に応じた、保育のあり方があります。そのため、ここで言われていたKIPPアカデミーとリバーデールの受け止め方も違うということが見えてきます。

 

では、リバーデールのような裕福な地域ではどのような家庭の子どもを育てる方法が必要というのでしょうか。それについて、「特権の代償」という本を書いたマデレン・レヴァインは「アメリカの裕福な家庭の子どもを育てる現行のシステムや方法はかえって子どもたちを打ちのめしている」と話しています。そして、著書の中で、「裕福な両親の子どもたちが中学校あたりから精神面の問題を持ち始める率は思いもよらないほど高い」という自らの主張を裏付けるための様々な調査や研究をあげています。それによって「今日の富裕な親たちは子どもと精神的に距離を起きたがり、同時に高いレベルの成果を要求する」と言っています。そして、これが子どもたちにとって有害な影響を与え「強烈な恥辱と無力感」を作り出す可能性があるというのです。このレヴァインの著書はスイヤ・ルーサーの研究を基にしています。それはどういった研究だったのでしょうか。