教育

反証

アルフレッド・ビネやアドリアン・デ・グロートがチェスの名人の研究において、映像記憶に優れているわけでもなければ、駒の動きの結果を予測するスピードが早いわけでもないということが分かってきました。では、実際のところはどういったことが必要な能力だったのでしょうか。その答えは、ある特定の精神作業を行う能力と関係がありそうということが分かってきます。それは認知的スキルと同程度に精神面の強さも必要とする、「反証」として知られるものです。

 

この「反証」とは20世紀のはじめにオーストリア人の哲学者、サー・カール・ポパーが書いたところによれば、「本来、科学的な理論とは決して実証できるものではない。ある理論の妥当性を調べる唯一の方法は、それが間違っていると証明することである。」と言っており、このプロセスを「反証」と呼びました。つまりは何かの理論を実証しようとしたとき、人はその理論に反する証拠を探そうとはせずに、どうしても自分が正しいことを証明するデータを探してしまうというのです。そして、その自分が正しいことを証明しようとすることを「確証バイアス」といいます。そして、「反証」はチェスの上達においては極めて重要な要素だったのです。

 

イギリス人心理学者ピーター・キャスカート・ウェイソンは、人にはもともと反証よりも確証を好む傾向があることを証明しようとして独創的な実験を思いつきます。被験者は、実験者しか知らない法則でつながった3つの数字を渡されます。例えば「2-4-6」といった数字です。被験者の課題はその法則を見破ることであり、自分で考えた3つの数字を実験者に見せて法則に当てはまるかどうかを確認することによって行われます。たとえば、多くの人が思いつくのが先ほどの数字から「増えていく偶数」や「2ずつ増える数字」でしょう。であれば答えは「8-10-12」となります。実験者は「その数字も法則にあてはまります」となります。被験者はグッと自信をもち、他の可能性を試みます。次の答えが「20-22-24」といいます。すると実験者は「あてはまります!」またもやドーパミンの波が起こり、被験者は誇らしげに自分の推測を口にします。「法則は二つずつ増える数字であること。偶数」しかし、「違います」と実験者。

 

正解は「増える数字であること」なのです。つまり、「8-10-12」でも「1-2-3」でも「4-23-512」でもなんでもいいのです。このゲームに勝つには自分のお気に入りの仮説が間違っていることを証明する数列を考えるしかないのです。しかし、実際のところ私たちは、あっている「確証」を得ようとしてしまい、それを避けようとする衝動があるのです。

 

この実験ですがウェイソンの研究では、法則を正確に推測することができたのは被験者の5人に1人でした。こういった答えの導き方が苦手なのは確証バイアスのせいなのです。本当だと思うことを裏付ける証拠を見つけるほうが、間違っている証拠を見つけるよりもずっと気分が良く、わざわざ失望の種をさがさなければいけないのかという心理が働くのです。

 

このことはよくあることですね。もしかすると、私たちは保育をしていく中で、子どもたちに「この子はこういった子」という目線で見た時に「悪いところ」や「そう思うところ」ばかりを見てしまうのもそういった確証バイアスによるものなのかもしれません。よく保育の中で「無いとこねだりではなく、あるもの探しをしよう」と言われました。つまり、「悪いところばかり見るのではなく、良いとこ探しをしよう」ということなのですが、それはつねに「反証」をする作業なのかもしれません。先入観を持たないで冷静で見るということは難しいことですが、それくらいの余裕を持って保育したいものです。

チェスの知能

これまで、チェスを通して、子どものフロー体験や問題をどう乗り越える力、一つのことに向き合うことなどの話をしてきました。以前、スコットランドのチェスのグランドマスター、ジョナサン・ローソンがチェスにおいて最も大事な才能は知能ではなく、心理と感情にかかわるものだという主張を紹介しました。多くの心理学者たちも、長いあいだ、チェスの上達に必要なのは知能だけではないのではないかと予測しています。では、他にどのようなスキルが重要なのかと思いますが1世紀以上研究されていてもわからないままなのです。

 

チャンピオンと平凡な選手を分けるのは、IQではないとしたらどこにあるのでしょうか。この疑問を最初に研究したのがフランス人心理学者のアルフレッド・ビネです。かれは知能検査の創案者のひとりでもあります。このビネ式知能検査の説明にはこう書かれています。

 

ビネははじめ「知能」を生得的素質によって規定される「判断力」と同義な能力と考えていましたが、実証的な知能研究を進めていく中で知能を判断力のみで定義することは不可能であると気付いた。そこで、知能を構成する要素として「判断力・理解力・方向づけ・工夫する力」を想定するようになった。現在では、知能とは何であるかについて一義的にズバリ定義することは困難であると考えられるようになっているが、あえて知能を定義するならば「学習能力・記憶能力としての結晶性知能」と「問題解決能力・環境適応能力としての流動性知能」の複合体を知能の一般的理解として定義できるだろう。結晶性知能とは、意識的な学習行動の結果としての知識・技術を蓄えるストックとしての知能であり、流動性知能とは、変動する環境や所与の課題にその場その場で対応して問題解決するフローとしての知能である。ここで「フロー」という言葉が使われています。ここでは柔軟に物事を解決していくという知能として使われています。

 

ビネは、目隠しをして、一度に複数のプレーヤーを相手にチェスをする「目隠しチェス」の並外れた能力の奥にある認知的スキルについて究明しようとしました。彼が立てた仮説は

「目隠しチェスのできる名人たちには直観像記憶(フォトグラフィック・メモリー)の能力があるのではないか」というものだったのです。つまり、盤上の様子を正確な映像として捉え、その映像のまま記憶する能力があるに違いないということです。しかし、実際のプレーヤーたちの取材の中で、その仮説が間違っていたことが判明します。プレーヤーたちの記憶は特に映像と結びついているわけではなかったのです。彼らが覚えていたのはパターンであり、ベクトルであり、雰囲気だったのです。ビネは「雰囲気」を「感情、イメージ、動き、情念、変化し続ける心象風景などによって沸き立つ空気」と説明しました。

 

その後、オランダ人心理学者のアドリアン・デ・グローとがビネの調査を引き継ぎ、チェスの名人を集めて知能検査を実施します。その結果もまた、チェスのスキルについて長いあいだ信じられてきたことを覆すものでした。それまで、チェスの上達に不可欠な要素は素早い計算であるとされてきました。それぞれの動きがどんな結果を生むかについて、最強のプレーヤーは初心者よりも多くの可能性を考えることができると思われてきたのです。しかし、実際のところはあまり変わらなかったのです。

フロー体験

ミハイ・チクセントミハイは「最適経験」の研究において、高度な集中状態を表す「フロー」という言葉を考え出しました。フロー体験は「困難でやりがいのある何かを達成しようとする自発的な努力によって心や体が限界まで引き伸ばされたとき」に起こることが多いと書かれています。初期での研究ではチェスの名人、クラシックのダンサー、登山家に取材し、この三者が一様にフロー体験を「高度な多幸感と支配力」のような言葉で表現するのを聞いたと言います。ピーク状態にあるあいだは「集中することは息をするようなもので、考えなくてもできる。たとえ屋根が落ちてきても当たらなければ気づきもしないだろう。」とチェスのプレーヤーはチクセントミハイに言ったそうです。ある研究によると、試合中のチェスプレーヤーの体の変化は競技中のスポーツ選手のそれと酷似していたそうで、筋肉の収縮、血圧の上昇が起こり、呼吸数は平常時の三倍になるそうです。

 

しかし、このフロー状態というのは何か熟達しているものがない限り、フローを体験することはなく、普通の人がチェス盤に向かってもフロー体験は決して起こらないだろうというのです。しかし、スピーゲルの生徒のジェスタスやジェームスはいつもこれを体験しているようです。

 

タフ氏はスピーゲルにチェスの上達のために生徒たちが多くのものを犠牲にしていると思ったことはないか、尋ねたそうです。それに対して、彼女は頭がおかしいんじゃないのとでもいうような目つきで「チェスをプレーすることがどんなに・・そう、素晴らしいかわかっていないからそういう発想になるのよ。そこには喜びがある。チェスをしているときが一番幸せで、一番自分らしい自分でいられて、最良の自分を実感できる。“逸失利益”みたいなことも考えてられなくはないけれど、ジャスタスとジェームスだってチェスの代わりにやりたいことなんてないと思う」と言ったのです。

 

よく上手にギターやピアノなどを弾いている人を見ていると、「あれだけ弾けれたら楽しいだろうな」と思うことがあります。実際のところどうなのか分かりませんが、事実たのしいのかもしれませんね。そういった人は練習においても、苦ではなく「フロー」な状況、つまり集中していたり、そこに喜びを感じたりしている状況にいるのかもしれません。つまり、「フロー体験」というのは「熱中している」ということと同じのように思います。

 

現在、私がいる園では遊びのコーナーを「ゾーン」と呼んでいます。それは「ゾーニング」という建築の用語といった意味だけではなく、「ゾーン体験」ができればいいと思っています。ゾーン体験というのはつまり、スポーツ選手などが「ゾーンに入る」といった意味である「集中して周りの音が聞こえない状態」であったり、「熱中している状態」です。子どもたちが遊び込むことや友だちと真剣に遊びに集中しているというのはそれだけで喜びを感じるものです。人間だれしも、時を忘れるくらい何かに集中したり、楽しんだりすることがあると思いますが、そういった体験を子どもたちの普段の遊びから過ごしてほしいという願いを込めています。そのため、そういった環境をどう作るかは非常に問題になってきます。「フロー体験」をするにはそれ自体が好きでなければいけません。タフ氏が言うようにいろんなものに興味を持つことは必要なことです。しかし、好きなことを見つけたときに「やりこめる」ほど子どもたちは遊べているでしょうか。いろんなものに興味をもた「せよう」としているのは大人であって、子どもたちがやり「込みたい」ものを通り過ぎさせてはいないでしょうか。スピーゲルにおいても、タフ氏においても両方の意味や意図は非常に感じますが、こういった「やりこむ」環境というのは今もっと自由にあってもいいように思います。

いろんな興味とひとつの物事

タフ氏はオフィスの参照用においているチェスセットに2歳の息子がいたずらして倒したり、盤上でならべてみたりする姿を見ます。その姿に「もし今から駒の動きを教えて1日1時間プレーすれば、きっと3歳になるころには・・」と思ったそうです。タフ氏はポルガー家のようになるかもしれないことを夢想することは楽しかったのですが、息子にチェスの天才になってほしいわけではないことに気づきます。ふとなぜそう感じたのか、正確な理由を考えようとすると、説明したり根拠を示したりするのは容易ではなかったといいます。

 

もし、息子が毎日4時間チェスの練習をすると、代わりに逃がしてしまうものがあるのではないかと思います。しかし、自分が正しいかどうかはよくわからなかったのです。タフ氏は「子ども時代を、あるいは人生全般にわたって、たくさんのものに少しずつ興味を持って過ごすのがいいのか、それともひとつのことに多くの関心を注ぐ方がいいのか」というのを判断するのが難しく感じたのです。そして、この疑問に対してスピーゲルとたびたび議論してます。そして、スピーゲルの一事に集中することの利益を主張する彼女の言い分には説得力があったことは認めざるを得ないと思ったのです。

 

それはタフ氏が迷った理由にアンジェラ・ダックワースのやり抜く力の定義を思い出したからです。やり抜く力とは一心にひとつのゴールを目指す行動と深く結びついた自制心のことだからです。スピーゲルは「何かに夢中になることで、子どもたちは自由になれると思う。彼らはいま、ずっとあとになっても忘れない、ものすごく大事な経験をしているところなの。子どもの頃を振り返ったときに、退屈しながら教室に座っていたり、家に帰ってテレビを見たりっていうぼんやりしたイメージしか浮かばないのは最悪だと思う。少なくともチームの子どもたちが振り返れば全国大会の思い出があるし、あるいは個人的によかった試合とか、アドレナリン全開で一番の難題に取り組んだ瞬間のことを思い出せる」というのです。

 

スピーゲルは話の中でマーティン・セリグマンと共同研究をした心理学者ミハイ・チクセントミハイの「最適経験」について言及しています。これは「人が日常の雑事から開放され、運命を掌握し、完全にひとつのことに没頭する稀有な瞬間」の研究です。

 

その中で高度な集中状態を表すために、彼は「フロー」という言葉を考え出しました。

天才を作る2

前回のポルガー家以外にも同じように子どもたちを天才にしようとする家族がありました。それが、ガータ・カムスキーのケースです。この家庭に関してはタフ氏はポルガー家以上にゾッとするケースだと言っています。カムスキーは1974年、ソ連時代のロシアに生まれ、父親の監督のもとで、8歳の時にチェスの勉強を始めました。父親のルスタムは短気な元ボクサーで、母親はガータが小さいときに家族のもとを去っていました。12歳になるころにはガータ・カムスキーはグランドマスターを何人も破っていました。1989年アメリカに亡命したカムスキーと父親はカムスキーが世界チャンピオンになると信じたベア・スターンズ社の社長からブライントビーチのアパートメントと年間3万5千ドルの生活費の提供をうけました。そして、16歳でグランドマスターになりました。17歳で全米チェス選手権優勝。だが、若くしてこれだけの成功をおさめながら、苛酷な教育環境にあることも有名でした。

 

父親の監視下でカムスキーはアパートメントからほとんど出ずに1日14時間チェスの勉強と練習をしていました。学校には行かず、テレビも見ず、スポーツもせず、友だちもいなかった。父親はチェスの世界では暴力的な気質の持ち主としてよく知られていた。ミスをおかしたり、負けたりしたガータに罵声を浴びせ、ものを投げつけることもよくあった。ある試合では息子の対戦相手から「暴力で脅された」と申し立てられたということもあったのです。しかし、1996年22歳になるとカムスキーはチェスをきっぱりやめてしまったのです。彼は結婚し、ニューヨーク市立大学を卒業し、医学専門学校に通うようになります。その後、ロングアイランドの方か大学院で学位を取るが、司法試験には通りませんでした。

 

このカムスキーの話は、早期教育の強引な親の関わりがいかに裏目に出るかという警告のようにも見えます。しかし、カムスキーは2004年にチェスに復帰します。そして、数年のうちに思春期の頃の成績を越え、2010年には全米選手権で19年ぶりの優勝を果たします。さらに翌年、2011年にもまた優勝します。現在、国内最高レーティングのプレーヤーであり、世界ランキングも10位であった。例の1万時間の法則の効果(カムスキーの場合には子ども時代を通して1日14時間練習していたのでそれ以上かもしれないが)非常に強力で、8年のブランクがあっても続いていたようでした。

 

このことだけを考えると、一見、早期教育的に小さい頃から強制してでも子どもに教え込むことが大切なように思うかもしれません。なぜなら、小さい頃から1万時間チェスに打ち込むことはカムスキーがチェスの世界で活躍するためには非常に有効な時間となったからです。それは8年のブランクがあっても効果があったからです。このことはスピーゲルや他のチェスの選手も、カムスキーやポルガー姉妹の子ども時代については賛否いろいろな感情が入り混じると言っています。こういった一つの目的を追うだけの子ども時代は不健全であるとまではいわないまでもバランスを欠いている。しかし、その反面、幼いころから結果を出している子どもたちを見ていると嫉妬を覚えずにもいられないのです。

 

私は早期教育については否定的ではありません。しかし、その体験が「いったい誰のためなのか」ということはよく考えなければいけません。主体の問題です。親が子どものやりたいことを決めつけるのと、子どもが自分で選択するのとでは大きな違いがあるようにも思います。しかし、スピーゲルはこのことについても言及しています。