教育

褒める教育?

非行少年に共通することが「勉強する」ことと「人と関わる」ことが苦手ということでした。そして、学校で軽度知的障害や境界知能が気付かれないことに一つの問題があるということも言われています。では、そんな少年たちは学校を出た後はどうなるのでしょうか。学校にいる間は教師が目をかけてくれる可能性があります。しかし、社会に出るとそうはいきません。社会では学校とは違いより要求度の高い仕事が与えられます。それで失敗すると責められ、嫌になって仕事をやめ、職を転々としたり、対人関係がうまくいかずひきこもりになったりします。

 

しかし、問題なのは彼らは、自分を「普通」であると思っているので支援を求めようとしません。そして、次第に社会から離れてしまい忘れられてしまうのです。最悪、刑務所にはいることもあります。刑務所に入っている人たちの中には、学校で気づかれず、社会で忘れ去られた人々がいることは事実であると宮口氏は言います。こういった子どもたちを作らないためにはどうしたらいいのでしょうか。宮口氏は早期からの発見と支援が必要だと言っています。そして、それはだいたい小学校の低学年からサインを出し始めると言います。そのサインを見逃さず支援していかなければいけません。

 

しかし、ここでまた新たな問題が出てきます。それは最近の支援のスタイルにあると宮口氏は言います。最近の支援スタイルは「良いところを見つけほめる」「自信をつけさせる」といったものです。子どもの能力に凸凹があると、苦手なことはそれ以上させると自信を無くすので、得意なところを見つけて伸ばしてあげる、いいところを見つけて褒めてあげるという方向に行きがちだと宮崎氏は言います。しかし、「苦手なことをそれ以上させない」というのは非常に恐ろしいことで、支援者は「そこは伸びる可能性が少ない」としっかり確かめているのでしょうか。もし、確かめずに「本人が苦痛だから」という理由で苦手なことに向かわせていないとしたら、子どもの可能性をつぶしていることになります。ある意味、支援者が障害を作り出していることにもなりかねません。

 

例えば、週に1回忘れ物をしてくる子どもがいます。これを「いつも忘れ物をしてくる」と見るか「週のうち4日は忘れ物をしてこない」と見るかで子どもの対応は変わってきます。現代の「褒める教育」は忘れ物を注意するのではなく、ほとんど忘れていない点に注意してそこを褒めて強化するスタイルだと宮口氏は言っています。しかし、それでも週に一回の忘れ物をするという状況が何も変わらないとしたら、褒めることよりも、忘れ物をしないような注意・集中力をつけさせないと問題は根本的に解決しないのです。こうした問題が発生している場合の「褒める教育」は問題の先送りにしかならないのです。

 

確かに、私も昨今の「褒める保育」や「褒める育児」というものに疑問を感じています。しかし、だからといって「怒る」や「叱る」ということが良いのかというのも違います。何が言いたいのかというと「褒めること」においても「叱ること」においても、相手あってのことで、そもそもどちらかをすればいいということではないと思っているのです。つまりは相手の子どもがどういった方がその子にとって響く言葉であって、どういう関わりをしなければいけないのかは、相手を見なければいけないのです。そこには「共感」があってこそだと思っています。「褒めたからいい」「叱ったからいい」ではなく、「その子にとっていい」関わり方をしなければいけないのです。でなければ、相手の子どももこちらのことを見ようとはしなくなります。人との関わりにはマニュアルはないのです。この部分が今の日本において危機的な考え方かもしれません。

 

未だに学校教育の現場はその子ども一人一人にあてたものというよりも、画一的に一斉に教える方針がいまだにあります。そのため、遅れていく子どもはついていくことができず、自信を無くしていきます。これは保育においても同様のことが言えます。活動は基本的に「できる子」に合わされがちです。または、クラスの真ん中くらいの子どもに合わされます。いつも遅れる子どもが決まってきます。いくら応援されても、励まされても、毎回遅れるつらさを感じます。こういった非行少年の話を見ているとこの少年たちはここで障害と言われていますが、これは大人のレールに乗れなかっただけで、もっと違う環境があればもっと違う才能を見いだせたのかもしれないと感じます。「個」を尊重した教育は「個々がなにをしてもいい」のではなく、「個々が輝く」ような環境作りをしなければいけないところで日本はあまりにも狭い価値観しかないのかもしれません。

共通する問題

宮口氏は医療少年院での面接の経験から大勢の少年たちが共通して「できないこと」があったということにショックを受けたそうです。それが「簡単な足し算や引き算ができない」「感じが読めない」「簡単な図形を写せない」「短い文章すら復唱できない」ということです。ここから見えることは見る力・聞く力、見えないものを想像する力がとても弱いことが分かります。そして、そのせいで勉強が苦手というだけでなく、話を聞き間違えたり、周りの状況が読めなくて対人関係で失敗したり、いじめにあっていたりしていたのです。それが非行の原因になっていることにつながるのです。その他にも、高校生なのに九九を知らない、不器用で力加減ができない。日本地図を出しても自分の住んでいるところがわからないということもあったそうです。九州を指して「ここは何?」と聞くと「外国です。中国です」と答えた少年もいたそうです。ひどくなると日本地図を見せても「これは何の図形ですか?見たこともない」という少年もいます。こういった少年たちに「苦手なことは?」と聞くと、みんな口をそろえて「勉強」「人と話すこと」と答えたそうです。

 

彼らの生育歴を見ていると、大体小学校2年生くらいから勉強についていけなくなり、友だちから馬鹿にされたり、いじめにあったり、先生からは不真面目だと思われたり、家庭内で虐待を受けていたりするそうです。そして、学校に行かなくなったり、暴力や万引きなど様々な問題行動を起こしたりし始めます。しかし、小学校では「厄介な子」として扱われるだけで、軽度知的障害や境界知能(明らかな知的障害ではないが状況によっては支援が必要)があったとしても、その障害に気づかれることはほとんどないのです。結果、中学生になるともう手が付けられず、犯罪によって被害者を作り、逮捕され、少年鑑別所に入ってそこではじめて「障害があったのだ」と気づかれるのです。このように宮口氏は「非行は突然降ってきません。生まれてから現在の非行まですべてつながっています」と言っています。そして、ある少年の事例を紹介しています。私はそこに日本の教育現場における大きな問題があり、改善しなければいけない視点が隠れているように思います。

 

その少年は小学校2~4年生まで学校によく遅刻していて、万引きまでしていたのですが、小学校5年になってとても熱心な先生に出会います。そこで「勉強が面白い」「学校が楽しい」と感じるまでになりました。万引きしていた子が学校が楽しい、勉強が楽しいと言い出したのです。しかし、彼の人生は中学校に入って急降下していきます。「学校に遅刻」「学校をさぼる」「悪いことをして逮捕される」などして、少年院にはいることになってしまいました。彼が中学校にいって急降下した原因を少年は「中学校に入ったら全く勉強が分からなくなった。でも誰も教えてくれなかった。勉強が分からないので学校が面白くなくなり、さぼるようになった。それから悪いことをし始めた」と答えたそうです。つまり、この少年の場合、中学校の頃に先生が生涯に気づいてくれ、熱心に弁起用への指導をしてくれていたら非行化しなかったでしょうし、被害者も生まれなかったのかもしれません。非行化を防ぐためにも、勉強への支援がとても大切だと感じたケースだったと宮口氏は紹介しています。

 

非行を起こす少年たちが「勉強」と「人と話すこと」に課題をもっていて、そこの改善がないことが結果として非行化を起こしているというのは非常に悲しいことです。私は保育の仕事をし始め、この仕事のことを勉強したり、海外の保育や教育現場を見ていくなかで非常に感じたのは、日本の教育現場は「成績」や「進路」「受験」ということに目が向きすぎているのが問題のようにも思いました。海外では「留年」が小学校の頃からありますし、小学校においても、子どもの様子から進学のタイミングを見ます。日本のように4月時の年齢で進学することはありません。そのため、「留年」も日本のように「落第」といったネガティブなものではなく「Stay(留まる)」というようにわかるまでいることができるのです。もし、こういった教育現場があれば、もしかしたら、ここで出てきた非行少年は生まれず、被害者も出なかったかもしれません。なににしても、子どもたちの教育に携わるということは子どもたちの人生にも、大きな影響を与えているという事実はしっかりと受け止めなければいけないですね。

非行と発達障害

最近、「ケーキの切れない非行少年たち」という本が話題を呼びました。これは立命館大学で臨床心理の教授であり、もと精神科医の宮口幸治氏が著した書籍です。手に負えない犯罪者の子どもたちの様子から日本の発達障害教育における問題、そして、提案を挙げています。もともと彼は大阪の公立精神科病院に児童精神科医として勤務しており、外来や入院病棟で発達障害、被虐待、不登校、思春期の子どもたちなどを診察していました。そして、そこで発達障害を持った子どもと出会います。

 

この少年は性の問題行動をたびたび起こしていました。とにかく年齢関わらず、女性の体を触ってしまうというこだわりがあったのです。そこで宮口氏は彼に認知行動療法を行います。これは前回のポール・タフ氏の著書にも紹介されていましたが、思考のゆがみを修正することで適切な行為・思考・感情を増やし、不適切な行為・思考・感情を減らすことや対人関係スキルの改善などを図る治療法の1つです。一つの見方ではなく、違う見方を伝えることで自分の思考のゆがみに気づき、その後はより適切な行為・思考・感情につながっていくことになるのを目的にしています。こうやって考え方の思考をかえることでより好ましい行動につなげていく認知行動療法は性加害者への治療プログラムの根幹にもなっています。

 

性加害者は性に対して歪んだ思考(実は女性は襲われたがっている など)を持っていたり、対人関係において「社会の人たちは皆敵だ」「自分はみんなから避けられている」「自分には価値がない」といった攻撃的、被害的思考をもっている場合があり、そういった歪んだ思考が性加害行為につながっている可能性があるのです。しかし、この認知行動療法を施している間にも、その時には反省していたのにも関わらず、少年は性の問題行動を起こします。その後、なぜそうなったのかその原因が分かりました。かれは知的なハンディも併せ持っていたために認知機能が弱く、認知行動療法のワークブック自体がしっかりと理解できていないかったのです。

 

認知行動療法は「認知機能という能力に問題がないこと」が前提に考えられています。そのため、認知機能に問題がある場合(発達障害や知的障害の場合)、効果ははっきりとは証明されていません。そのため、認知行動療法がベースとなったプログラムは効果が期待できない可能性があるのです。結局病院ではこういった発達障害や知的障害を持ち問題行動を繰り返す少年に対しては、投薬治療といった対症療法しかなく、根本的に治すことは困難なのです。

 

宮口氏はなぜ彼らが法を犯したのか、犯行に至った背景や問題点はよくわかるのですが、少年たちに対してどう支援をしていけばいいのかに非常に悩んだそうです。投薬以外の個別カウンセリング、認知行動療法、作業療法などで解決するは思えず、その他の手立ても思いつかなかったのです。そこで少年院に来て、驚いたことがあります。それは発達障害の子どもでも病院を主審する児童・青年は比較的恵まれた子どもたちだったのです。もちろん、虐待を受けた子もいたそうですが、基本的には病院には保護者や支援者がいなければい連れてこれないのです。また、非行に走って加害者になり、警察に逮捕され、さらに少年鑑別所に回され、そこで初めて「障害があった」と気づかれるという現状もあったのです。つまり、現在の特別支援教育を含めた学校教育がうまく機能していなかったのです。では、どうしたらこういった少年たちを更生させることができるのでしょうか。そして、その根底にどういった特徴があるのでしょうか。

子どもの未来と大人の姿勢

子どもと不利な状況について新しい考えかたを提唱している人々が自説を主張するとき、経済の話をすることがよくあります。それは国家的な規模で子どもの発達へのアプローチを変えていくべきだ、なぜならそれが資金の節約にも経済の改革にもつながるからだと考えるからです。実際、ハーバード大学内の児童発達研究センターの所長ジャック・ションコフは低所得層の親への効果的な支援プログラムを子どもが小さいうちに実施すれば、あとになってから治療教育や職業訓練を現行のアプローチよりはるかに費用がかからないうえに、効果もずっと高いと主張しています。ジェームス・ヘックマン氏はもう一歩計算を進め、ペリー・プレースクールは1ドルの投資に対して7ドルから12ドル分の利益をアメリカ経済にもたらしたとしています。

 

しかし、タフ氏が共感を覚えたのは、経済の話ではなく、個人的な主張の方だったと言います。彼は逆境に育つ若い人々と一緒に過ごしたとき、二つの感情がこみ上げるのを抑えきれなかったと言います。一つは、彼らがすでに何かを逃してしまったことへの怒りです。たとえば、ケウォーナがミネソタのミドルスクール時代に他の子どもたちが数学や比喩の勉強をしている間にポップコーンを食べながら映画を見て過ごしたという当時の気持ちを語ったときに、タフ氏は彼女のことを思うと怒りすら感じるというのです。なぜなら、彼女は結果として、いまになって倍も懸命に勉強しなければならないからです。

 

しかし、その反面、タフ氏はケウォーナが実際に倍の勉強をしていることに対して、二つ目の感情、賞賛と希望を感じたと言います。それは避けられない運命と見えたものに背を向けてよりよい道を行くという、苦痛を伴うはずの困難な選択をする若い人々を見たときに感じたと言います。ここで登場した彼らや彼女らは自分が10代だったころより自分を作り直すためにはるかに真剣に勉強している。そうやって毎日もう一段、さらに成功に満ちた未来へと梯子をのぼる。

 

このときにタフ氏はあるたとえをしています。「そのときまわりにいる私たちは、彼らの努力に拍手喝采をおくり、いつかもっと多くの若者が彼らに続いてくれることを望むだけは十分とは言えない。彼らだって一人でそのはしごに身を引き上げたわけではない。彼らがそこにいるのは、誰かが一段を登る後押しをしたからだ」

 

私は教育は導くものではなく、フォローしてあげるべきものではないかと思わなくもありません。本来の教育のあり方は、学習であり、そこには主体性があります。つまり、学びたいものを選ぶのは子どもであり、「学ばせる」というのは子ども主体ではなく、大人主体なのです。そして、「学ぼう」と思うのであれば、そこに「学ぶ目的」がなければ、なかなか学ぶのはつらいものになります。そして、その目標は「夢」であると思います。今の日本でどれほどの子どもたちが夢を持って「まい進」できているのでしょうか。貧困などの経済状態も家庭にはあるでしょう。そういった子どもたちが夢を持てるようにどれだけ支えれているのでしょうか。ポール・タフ氏の話は自制心や実行機能、など今求められている子どもの能力を紹介していますが、その下支えとなる大人のあり方も大いに影響のある内容として描かれています。では、どういった環境を作ることが必要なのか、それが子どもの将来のために役立てるのであろうか。そんなことを考えます。

子どもと周囲の環境

アメリカでは保守派が性格が重要であるという主張が正しいことが科学的に示されたのですが、貧困に関する典型的な保守派の議論が一歩及んでいないことがあるそうです。なぜなら保守派の主張が「性格が重要である・・以上」で止まってしまうからです。彼ら自身の力でそうなってもらうしかない。言って聞かせることはできるし、罰則を設けることもできるが、我々の責任はそこまでだ、というわけなのです。つまり、「性格が重要である」とは言っているものの、それは生まれながらであり、そこに関するアプローチは何もできていないのです。

 

しかし、実際のところ、科学によって、和解人々の成功にとって極めて重要な役割を果たす性格の強みは、生まれながらのものではないということが分かってきました。そのため、幸福や良質な遺伝子の結果として魔法のように現れるものではないのです。脳内の化学反応に根差し、子どもが育つ環境によって形づくられるため、ある程度は計測、予測が可能です。つまり、社会全体としての私たちにも多大な影響力があるというのです。誕生から大学を出るまでのあいだ、どういう種類の支援策が強みやスキルを伸ばすかについてはいまやたくさんのことがわかっています。親は格好の媒体ですが、唯一の媒体ではない。強みの形成を助ける力はソーシャルワーカーからも、教員からも、聖職者からも、小児科医からも、近隣の住人からも発することができる。たすけとなる支援策はどこから提供されるべきか、政府からか、非営利団体からか、またはそのどれもの組み合わせかを議論することができます。どちらにしても、我々にはできることは何もないとはいえないことが分かってきました。

 

このことは日本においてももっと主張されてもいいのではないかと思います。日本においては「母親神話」とでも言われるほど、「母親が子どもを見なければいけない」と言われる風潮があまりにも強いように思います。いまだ、育児休暇の取得率は女性にくらべ、男性の取得率は低いままであったり、まだまだ女性と子どもとの関係が限定されて見られる風潮が残っているように思います。確かに母親との愛着は非常に子どもにとっての影響は少なくはありません。しかし、それだけではなく、父親にしても、社会においても、子どもを取り囲む環境にこそ、影響を受けているのを忘れてはいけません。また、これは保育現場においても、言える内容であり、未だ保護者の目線は子どもに影響を及ぼすのは先生や教職員であるという意見も多くあります。そのため、親からしても「あの先生は当たり」と言われてあり、逆に「あの先生ははずれ」というように見られることが多くあります。確かに一人の先生に限定した保育で行われるのであれば、一人の先生の影響は大きいのかもしれません。しかし、子どもたちが様々な環境のなかで性格の強みを持っていくのであれば、その環境はもっと多様性があったほうが良いのかもしれません。

 

現在私の園では職員が複数で保育をするようにしています。それは子どもたちが社会の中で生きていくという意味合いも多くあります。いろいろな人と関わる中で、自分を知り、自分をコントロールする力を見つけてほしいと思っています。今は「子どもたちを大切にする。」「丁寧な保育」という見方がかえって過保護な環境になっているのかもしれません。そして、その目線はすべて子どもたちにばかり目がいきがちです。それよりも子どもを取り囲む環境こそ本来目を向けるべきで、それは家庭や教育現場だけではなく、地域や社会においても子どもを中心に見ていく必要があるのだと思います。